心得四十一
第二段階の路上は、荒川第一ダンジョンで行われる。
教習所から土手沿いに十分歩くと、河川敷に協会のゲートがある。鉄骨の屋根の下に改札のような機械が並んでいて、教習生は仮免の証と教官の付き添いで通る。胸には、協会が貸し出す記録用のカメラ。
十五年前、ここにはゲートも屋根もなかった。草むらの中に、石の口が開いていただけだ。
ゲートの横には、黒い石の慰霊碑が建っている。この穴で死んだ人の名前が、細かい字でびっしり彫られている。ほとんどが、免許のなかった七年間の名前だ。
路上の初日に、俺は一度だけその前で足を止めた。上から三列目に、瀬尾隆之の名前があった。名前の横には、小さな花束と、封を切っていない煙草が一箱、供えてあった。誰が置いたのかは分からなかった。
それからは、碑のほうを見ないようにして、ゲートを通っている。
教習坑は、仮免の翌日から協会の調査が入って閉鎖された。抜けた床の下に何があったのかは、教習生には知らされていない。
最初の週は、第一層と第二層を回った。御子柴の講演のことは、誰も口にしなかった。瀬尾葉月は、前よりも熱心に教本を読むようになった。俺とは、必要なことしか話さなくなった。
十一月九日、月曜。四回目の路上で、初めて第三層に下りた。
班は教官一人に教習生が三、四人。仁科の膝はよくなっていて、第二段階も受け持つことになった。仁科の班に、瀬尾葉月と戸川と村瀬さん。槙さんの班に、俺と、二十歳くらいの大学生が二人。
二つの班は、第三層の北側を、並んだ二本の通路で進んだ。協会の地図では、二本の通路は百メートルほど先の横穴でつながっている。教官どうしは協会の無線で連絡を取り合う。戸川は、第三層まで中継が届くので、いつもどおり配信していた。
第三層の空気は、第一層より重く、湿っていた。壁に水の筋が光っている。
「ここ三か月ほど、浅層で赤苔が増えています」
槙さんが、歩きながら言った。
「協会の地図にない場所にも出ています。見つけたら、近づかずに報告してください」
槙さんには、赤苔のことを話しておくつもりだった。第三層に下りる前に、と思っているうちに、今日になっていた。
俺は、壁の色を見ながら歩いていた。三か月。教習坑の割れ目も、抜けた床も、ここ数週間のことだ。昔の荒川第一の第三層は、こんなに湿っていなかった。
◇
無線が鳴ったのは、十時を少し過ぎたころだった。
『こちら仁科班。北二番通路、地図にない赤苔。長さ十メートルほど。教本どおり通過する』
槙さんが、無線を取った。
「槙です。迂回はできませんか」
『迂回すると三十分かかります。教本の手順で通過します。ゆっくり、足元を確かめて、声を掛け合いながら抜ける。教習の教材にもなる』
無線の向こうで、仁科が教習生に指示する声が聞こえた。走るな。ゆっくり。声を出せ。
俺は、足を止めていた。
「槙さん」
槙さんがこちらを見た。
無線の向こうで、村瀬さんの「足元、よし」という声。戸川の「よし」。瀬尾葉月の、はっきりした「よし」。
俺は、頭の中で数えていた。
六。七。八。
「槙さん、止めてください。十秒止まったら――」
九。十。
十一。
無線の向こうで、誰かが咳き込んだ。
『……っ、なんだ、これ。煙……』
村瀬さんの悲鳴が、無線を割った。
『足が、足が動かないっ……!』
続けて、どさりと何かが倒れる音。戸川の、呂律の回らない声。仁科の、「伏せるな、口を覆え」という怒鳴り声。その声も、途中から急に弱くなった。
それから、遠くで、別の音がした。
犬の吠え声だった。一頭ではない。
灰犬だ。第二層から第四層をうろつく、痩せた犬の群れ。動けない人間の匂いを、あいつらは見逃さない。
槙さんがタブレットを操作した。戸川の配信の画面が映る。画面は、床に倒れた戸川の胸から、苔に覆われた通路を斜めに映していた。座り込んだ村瀬さんの背中と、苔の上に投げ出された誰かの足が見える。画面の端の数字が、見ている間に増えていく。
「横穴から回ります。百メートル」
槙さんが、大学生の二人に向き直った。
「お二人は、ここを動かないでください。壁を背にして――」
俺は、もう走っていた。
「真壁さん!」
「十秒止まったら駄目です。苔の上は、走って抜けてください」
それだけ言った。
◇
横穴を抜けて、北二番通路に出た。
十歩ほど先から、通路の壁と床が赤くなっている。苔の帯は十メートルほど。そのほぼ真ん中、苔の上に、四人が座り込んでいた。苔の表面から、薄い煙のようなものがゆらゆら立ち上っている。胞子だ。
通路の向こう側の暗がりで、灰犬の目が光った。五頭。まだ苔の手前で、様子をうかがっている。
俺は、息を吸って、止めた。
苔に踏み込む。六歩で、村瀬さんと瀬尾葉月のところに着いた。二人の脇の下に腕を入れて、そのまま抱え上げる。来た方へ走る。二秒とかからずに苔を抜けて、乾いた床に二人を下ろした。
息を吐いて、吸って、止める。
もう一度、苔に入る。戸川を左肩に担ぎ、仁科の胴に右腕を回して持ち上げた。仁科は重かった。それでも、昔、瀬尾さんを担いだときよりは軽かった。来た方へ走る。抜けた。
苔の上から、胞子の煙が消えていく。止まる者がいなくなったからだ。
四人を壁ぎわに並べて、振り返った。
灰犬が、苔の通路を駆け抜けてくるところだった。あいつらは苔の上で立ち止まらない。知っているのだ。
先頭の一頭が跳んだ。訓練棒で、鼻面を横から打った。二頭目の首を、返す棒で打ち下ろした。二頭とも、床に転がって動かなくなった。
残りの三頭は、苔を抜けたところで足を止めた。俺は、棒の先で床を一度だけ叩いた。
三頭は、低く唸ってから、暗がりへ引き返していった。
◇
息を整えていると、横穴から槙さんが走ってきた。
槙さんは、壁ぎわに並んだ四人と、倒れた二頭の灰犬と、赤い苔の通路を、順番に見た。それから、四人の脈を一人ずつ確かめた。
「しびれだけです。呼吸は大丈夫」
槙さんは無線で救護を呼び、それからタブレットを見て、一瞬だけ言葉を止めた。
「……戸川さんの配信。十八万人が見ています」
壁ぎわで、戸川の胸のカメラが、まだ赤いランプを点けていた。床に転がった戸川のスマホが、機械の声でコメントを読み上げ続けている。
『走った』『四十一と逆じゃん』『二人いっぺんに担いでる』『秒で戻ってきた』『灰犬一撃』『教本に走るなって書いてあるだろ』『止まったから胞子出たんじゃないの』『おっさん何者なの』
村瀬さんが、しびれた唇で「まかべ、さん」と言った。泣いているような、笑っているような顔だった。
瀬尾葉月は、横になったまま、動かない手足のかわりに、目だけで俺を見ていた。何か言いたそうに唇が動いたが、言葉にはならなかった。
仁科が、壁にもたれて座ったまま、口だけを動かした。
「教本には……走るなと……」
声がかすれていた。目は、苔の通路を見ていた。自分が「ゆっくり」と言ってから、胞子が立つまでの時間を、数えているような目だった。
槙さんが、俺の前に立った。
「真壁さん」
いつもの平らな声だった。でも、いつもより少しだけ、低かった。
「なぜ、走ってよいと知っていたんですか。教本には、走るなと書いてあります」
戸川の胸のカメラが、まだ俺を映していた。十八万人が、見ている。最前列で御子柴の話を聞いていた瀬尾葉月が、すぐそこで横になっている。
――そうだね?
俺は、黙っていようと思った。御子柴の言うとおりにするためではない。この子の前で、あの手記の話をしたくなかった。
でも、黙っていたら、次は誰かがこの苔の上で、ゆっくり、足元を確かめて、声を掛け合いながら、しびれて倒れる。そこに灰犬が来る。
俺は、口を開いた。
「教本のほうが、間違ってるんです」




