教本が間違っている、と言った男
しびれは、昼過ぎには抜けた。
荒川第一のゲートの横に、協会の救護室がある。プレハブの細長い建物で、簡易ベッドが六つ並んでいる。四人はそこに運ばれて、点滴もなしに、ただ横になって手足が戻るのを待った。赤苔の胞子に効く薬は、今もないらしい。救護の職員は「三、四時間で抜けます。抜けなかった人は見たことがありません」と言って、あとは書類を書いていた。
俺は、槙さんと一緒に、壁ぎわのパイプ椅子に座っていた。
最初に起き上がったのは、村瀬さんだった。指を一本ずつ曲げて、伸ばして、それから大きく息を吐いた。
「あー、動く。動くわ。……やだもう、しびれてる間、真壁さんの腕しか覚えてないんだけど」
「腕ですか」
「抱えられてる間、目の前がずっと真壁さんの腕だったのよ。太いわね、あれ。うちの大根より太い」
隣のベッドで、戸川が笑おうとして、むせた。
戸川は起き上がれるようになるとすぐ、枕元のスマホを手に取った。画面を見て、しばらく固まって、それから青くなった。
「……十八万人」
「見てる人の数ですか」
「最大で十八万っす。アーカイブ、もう二百万回回ってる。俺、しびれて倒れてる間に、人生で一番バズってたんすけど」
戸川は両手で顔を覆った。
「倒れてる俺のカメラが、ずっと真壁さん映してたんすよ。俺、何もしてないのに」
「カメラを胸に付けてたのは、戸川さんですから」
「そういう慰め、いらないっす……いや、ちょっとうれしいっす」
仁科は、いちばん奥のベッドにいた。
起き上がれるようになってからも、しばらく天井を見ていた。それから、誰とも目を合わせずに靴を履いた。救護の職員に頭を下げ、槙さんにだけ「班の報告書は、明日出します」と言って、杖もない足で出ていった。左膝を、少しかばっていた。
俺のほうは、一度も見なかった。
◇
瀬尾葉月は、最後まで横になっていた。
しびれが抜けても、しばらく起き上がらなかった。天井を見たまま、何か考えているようだった。救護の職員に「もう大丈夫ですよ」と言われて、ようやく体を起こした。
ベッドを下りて、俺の前に来た。
「ありがとうございました」
深く頭を下げた。それから顔を上げて、まっすぐ俺を見た。
何か言われると思った。教本のほうが間違っている、と俺は言った。この子の目の前で、この子が父の声だと思って読んできた本を、間違っていると言った。
瀬尾葉月は、そのことには何も触れなかった。
「助けていただいたのは、二度目です」
「……はい」
「失礼します」
もう一度頭を下げて、彼女は救護室を出ていった。付箋だらけの教本を、胸の前で両手で抱えていた。
閉まった扉を見ていると、隣で槙さんが言った。
「協会への報告書には、真壁さんの言葉も書きます」
「……はい」
「書かないと、報告書になりませんので」
槙さんはそれだけ言って、タブレットに何かを打ち込み始めた。
◇
その夜、梅島のアパートで、戸川からメッセージが来た。
『真壁さん、これ見ました? ヤバいっす』
貼り付けてあったのは、掲示板のURLだった。俺はスマホで、そういうものを開いたことがほとんどない。トラックの休憩で天気を見るくらいだ。指で何度か押し間違えて、ようやく開いた。
【教習生】「教本のほうが間違ってるんです」【赤苔】
1:名無しの探索者
トガワの配信の切り抜き。第三層で教官の班が赤苔の真ん中で全滅、例のおっさんが走って二人ずつ運び出して、最後に「教本のほうが、間違ってるんです」
2:名無しの探索者
教習所のおっさん、またお前か
3:名無しの探索者
赤苔は走るのが常識だけど?教本読んだことないけど深層組はみんな走るぞ
4:名無しの探索者
>>3
うちの会社の内規も「速やかに通過」。教本のあの項、昔からおかしいと思ってた
5:名無しの探索者
無免許の野良が教本を否定とか草。教習生だろ
6:名無しの探索者
>>5
その教本どおりに歩いた教官が倒れてんだけど
7:名無しの探索者
英雄の手記を汚すなよ。瀬尾さんが命がけで残したもんだぞ
8:名無しの探索者
>>7
英雄の手記に「走るな」って書いてあったのか、編纂した協会が書いたのか、どっちなんだろうな
9:名無しの探索者
動画見ると、教官が「ゆっくり」って言ってから十一秒で煙出てる。おっさんは苔の上で一回も止まってない
10:名無しの探索者
編纂委員長の講演アーカイブに「深層の実態を踏まえて私が判断した」ってあったぞ。同じトガワのチャンネル
11:名無しの探索者
>>10
判断した結果がこれか
12:名無しの探索者
協会がどう出るか見もの
そこまで読んで、俺はスマホを伏せた。
八番の書き込みが、目に残っていた。
英雄の手記に書いてあったのか、編纂した協会が書いたのか。
どちらでもない。手記に書いてあったのは「走って抜けろ」で、書いたのは英雄ではなく、十九歳の俺だ。
◇
翌朝、十一月十日。
教習所の一階の休憩室には、古いテレビが一台ある。朝の学科の前、教習生が何人か、自販機のコーヒーを手にその前に集まっていた。
報道番組の画面に、銀色の髪の男が映っていた。
テロップに「日本探索者協会 教育部長 御子柴宗一郎氏」。
「――大変、残念な発言だと思っています」
御子柴は、講演のときと同じ、柔らかい声で話していた。
「教本は、協会が十五年かけて積み上げた事故の記録と、英雄・瀬尾隆之君の手記から作られています。それを、まだ免許も持たない教習生が、ご自分の古い経験だけを頼りに否定される。若い教習生の皆さんが真似をされたらと思うと、胸が痛みます」
司会者が、配信の映像を指して何か聞いた。教官の指示どおりに歩いた班が倒れている、という意味のことだった。
「ええ。その件については、現場の教官の指導に不備があったと聞いています。教本の手順は、正しく指導されて初めて意味を持つものですから」
御子柴は、少しも表情を変えなかった。
「心得四十一の理由は、胞子を巻き上げ、転倒の危険もある、です。走れば、転びます。転べば、苔の上に倒れることになる。私たちは、そういう事故を防ぐために教本を作っているのです」
休憩室の誰かが、小さく「へえ」と言った。誰かが「やっぱ教官のせいか」と言った。
俺は、紙コップのコーヒーを持ったまま立っていた。
御子柴は、俺の名前を一度も出さなかった。教習所の名前も、教官の名前も出さなかった。教本は正しく、悪いのは指導の不備と、教習生の古い経験。それだけを、柔らかい声で、何度も繰り返した。
名前を出さないのは、名前を出すと、俺が何か言うかもしれないからだ。そうだね、と肩を叩かれた感触を、俺は思い出していた。
「真壁さん」
隣に、村瀬さんが来ていた。
「これ、教官が悪いって言ってるの?」
「……そう聞こえますね」
「あの人、教本どおりにやったんでしょ。教本どおりにやらせといて、倒れたら指導の不備って、それはないわよ」
村瀬さんの声は、珍しく笑っていなかった。
◇
その日の昼、所長の坂東さんが第一教室に来て、短く告げた。
「仁科くんは、今日から一週間、停職になりました。協会からの指導です。第二段階の路上の仁科くんの班は、その間、ほかの先生が受け持ちます」
教室がざわついた。
前の席の若い男が、振り返って俺を見た。入校の三日目に、俺に舌打ちした男だった。今日は何も言わずに、また前を向いた。
瀬尾葉月の席は、俺の右隣のままだった。彼女は、所長の話の間、一度もこちらを向かなかった。教本を開いて、第三部のページの上に手を置いていた。
所長は、教室を出ていく前に、俺の机の横で足を止めた。
「真壁さん。ちょっと、いいかな」
廊下に出ると、坂東さんは、いつもの愛想笑いを少しだけ崩した顔で、封筒を一通差し出した。
協会の名前の入った、白い封筒だった。
「協会から、真壁さん宛てに届いてね。教習所気付で。いやあ、私も中身までは聞いてないんだけど」
坂東さんは、俺が封を切るのを、横で待っていた。聞いていないと言いながら、気にはなっているらしい。中から、一枚の紙を引き出す。
聴き取りへの出頭のお願い。
十一月十一日、午後二時。日本探索者協会本部、第三会議室。件名、荒川第一ダンジョン第三層における教習中の事故について。
一番下の、担当者の欄に、名前が一つあった。
御子柴宗一郎。




