十五年ぶりの聴き取り
「付き添います」
十一月十日の夕方、教習所の門を出たところで、槙さんにそう言われた。
所長から聞いたらしい。協会の聴き取りには、教習所の職員が一人付き添える決まりがある、と槙さんは言った。赤苔の件の報告書を書いたのは自分だから、自分が行くのが筋だ、とも。
「それと、協会の技術課に、知っている人がいます。自衛隊にいたころ、赤苔の試料の採取を手伝ったことがあるので」
「……技術課、ですか」
「教本を作った部署とは、別の部署です」
槙さんは、それ以上は説明しなかった。
◇
十一月十一日、水曜。午後二時。
日本探索者協会の本部は、九段の坂の途中にある、ガラス張りの十二階建てのビルだった。受付で名前を言うと、首から下げる入館証を渡された。「来訪者」と書いてある。
第三会議室は、八階の奥にあった。
扉を開けた瞬間、足が止まった。
長い机が一つ。その向こうに、三つの椅子。こちら側に、椅子が二つ。机の上には、水の入ったコップと、録音用の小さな機械。
十五年前と、同じ形だった。
違うのは、窓があることだけだ。九段の街並みと、灰色の空が見えた。二〇一一年の十二月、俺が座らされたのは、窓のない部屋だった。暖房が効きすぎていて、出されたお茶がすぐにぬるくなった。
「どうぞ、お掛けなさい」
真ん中の椅子で、御子柴が言った。両脇に、若い職員が二人。一人はノートパソコンを開いている。
俺と槙さんは、こちら側の椅子に座った。
「それでは、聴き取りを始めます。荒川第一ダンジョン第三層における、教習中の事故について」
御子柴は、手元の書類に目を落とした。
「真壁恭二君。君は事故の現場で、教習生の身でありながら、教官の指示に反して赤苔の通路を走り、そのあと配信のカメラの前で、教本が間違っていると発言した。間違いないね」
「はい」
「では聞こう。赤苔の通路は走るべきだ、という根拠は」
「赤苔は、人がそばに十秒ほど留まると、胞子を出します。走って抜ければ、三秒ほどで、胞子は立ちません」
「それは、どの記録に基づいている」
「昔、そうだったので」
御子柴は、穏やかに笑った。両脇の職員が、少しだけ口元を緩めた。
「真壁君。協会は、確かめられた事実だけを記録する。免許もなく、記録もない時代の、個人の経験は、記録にない。記録にないものは、事実ではない」
ノートパソコンを打つ音がした。
十五年前も、こうだった。俺が何を言っても、机の向こうの男は穏やかにうなずいて、それから隣の職員に言った。錯乱、と書いておきなさい。
今日の御子柴は、まだそれを言っていない。
「よろしいですか」
槙さんが、鞄から一枚の紙を出して、机の上に置いた。
「陸上自衛隊の、ダンジョン災害対処の部隊の内規の写しです。私は八年、そこにいました。第三項。赤苔の通路は、速やかに通過すること。停止を禁ずる」
御子柴の目が、紙の上を一度だけ動いた。
「部隊の内規は、教本ではないね」
「はい。教本ではありません。部隊では、教本の四十一項は使っていませんでした。中層に下りる隊員は、全員、先輩から口で教わります。苔の上では止まるな、と」
「口伝えか」
「はい。記録にはありません」
槙さんは、表情を変えなかった。
「ですので、記録を作ってもらうことにしました」
会議室の扉が、ノックもなしに開いた。
入ってきたのは、白衣の上に紺のジャンパーを羽織った、五十くらいの痩せた男だった。両手で、ガラスの箱を抱えている。電子レンジほどの大きさで、中に、湿った石が一つ入っていた。石の表面は、錆のような赤い苔で覆われている。
「技術課の片桐です。遅れました。研究所から運ぶのに、温度を保つのが面倒でして」
片桐と名乗った男は、早口でそう言うと、御子柴の許可も待たずに、机の端に箱を置いた。
「御子柴部長。聴き取りの資料として、試験を一つお見せします。五分で済みます」
「片桐君。これは教育部の聴き取りだ」
「赤苔は技術課の所管です。三分で済ませます」
片桐は、箱の上の小さな扉を開けて、ストップウォッチを槙さんに渡した。それから、自分の右手を、苔の上、十センチほどのところに差し入れた。
「止めた手です。体温が苔に届く距離。槙さん、計ってください」
会議室が、静かになった。
ノートパソコンを打つ音も、止まっていた。
五秒。苔の表面は、何も変わらない。八秒。赤い苔の、ほんのわずかな毛のようなものが、片桐の手のほうへ向きを変えた気がした。
九秒を過ぎたところで、苔の表面から、薄い煙が立ち上った。
「止めて」
「九・八秒です」
槙さんが読み上げた。
片桐は手を引き、箱の横の換気の口を開けた。煙は、細い管に吸い込まれていった。
「次。動かしている手です」
片桐は、もう一度手を差し入れた。今度は、苔の上で、ゆっくり左右に振り続けた。人が歩くくらいの速さで。
十秒。二十秒。三十秒。
苔は、何も吐かなかった。
「止めて。……ゼロです。三十秒、胞子は一度も立っていません」
片桐は手を引いて、ハンカチで拭いた。
「研究所で、同じ試験を四十回やりました。浅層で赤苔が増えた件で、半年前から続けている試験です。止めた手は、平均九・六秒で胞子が立つ。動かしている手は、四十回とも立たなかった。苔は、止まった体温にだけ反応します。走って抜けるのが正しい。速く歩くだけでも、止まるよりずっといい」
片桐は、そこで一度だけ御子柴を見た。
「この結果の公表は、八月に申請しています。教本の記述と食い違うので、教育部の確認待ちのまま、止まっていますが」
誰も、何も言わなかった。
御子柴の右の職員が、ノートパソコンの画面を見たまま、指を宙に浮かせていた。左の職員は、御子柴の横顔を見ていた。
御子柴は、笑顔のままだった。ただ、さっきまでの穏やかな笑みとは、どこか違っていた。口元だけが笑っていて、目が、ガラスの箱から動かなかった。
「……興味深い試験だ」
御子柴は、ゆっくり言った。
「だが、研究所の箱の中と、実際のダンジョンは違う。検証が要る。教本の改訂は、十分な検証を経てから行うものだ」
御子柴は書類を閉じた。
「今日の聴き取りは、ここまでとする」
◇
会議室を出て、エレベーターを待っていると、ガラスの箱を抱えた片桐が追いついてきた。
「真壁さん、でしたね」
「はい」
「あの十秒を、どこで覚えましたか」
「……昔、潜ってたので」
「昔、潜っていた人は大勢いる。でも、十秒と三秒を数字で言える人は、ほとんどいない」
片桐は、箱を抱え直した。
「手記の原本は、協会の書庫にあります。編纂委員会のほかは、閲覧の許可が下りない。私は一度、申請して断られました」
片桐の目が、俺の顔をまっすぐ見ていた。数字しか信じない人の目だ、と思った。
「走れ、と書いたのは、誰ですか」
俺は、答えなかった。エレベーターの扉が開いて、槙さんが先に乗った。片桐は、それ以上は聞かなかった。
「私は階段で行きます。この箱、エレベーターの揺れが苦手でして」
扉が閉まった。
八階から一階まで、エレベーターの中は槙さんと二人だった。槙さんは、階数の表示を見上げたまま言った。
「真壁さん。さっき、試験の間、少し笑っていましたね」
「……笑ってましたか」
「九秒を過ぎたあたりで」
自分では気づかなかった。
十五年前の会議室で、俺の隣の椅子は空いていた。机の向こうの男に何を言っても、うなずかれて、書き換えられて、それで終わった。誰かが横から紙を一枚出してくれることも、ガラスの箱を抱えて飛び込んでくる人がいることも、なかった。
「十五年前は、一人だったんで」
槙さんは、表示を見上げたまま、「そうですか」とだけ言った。それから少しして、「饅頭、帰りに買っていきます」と付け足した。
◇
一階のロビーで入館証を返そうとしたとき、後ろから声がした。
「真壁君」
御子柴だった。職員は連れていない。ロビーの隅、観葉植物の陰で、御子柴は俺の横に並んだ。槙さんが少し離れたところで足を止め、こちらを見ている。
御子柴は、受付のほうを向いたまま、声を落とした。
「君の卒業検定は、二十日だったね」
「……はい」
「教本は、教習所の検定の基準だ。教本を守らない者に、免許は出せない」
御子柴は、そこで初めて俺を見た。笑っていた。
「卒業検定は、私が立ち会う」




