真田昌幸 現る
信長が語ったことは、歴史で習ったこととはまったく違っていた。信長は本能寺で死んでなどいなかったのだ。ついに信長の亡骸が発見されなかったという言い伝えが大いに頷けるものだ。しかし、だとしたら彼はどこにいて、何をしていたのだろうか。
「それは我々が習う歴史とまったく違います。どういうことでしょうね。それと、信長さんはどこで何をしていたのですか?」
思わず口走っていた。すると信長は湯呑みに手をやり、すっかり空になっていることを訴えた。ついでに瓜を刻んでほしいとも言った。どうするのか訊ねると、瓜に味噌をなすりつけて食べるのが好物だと答えた。
絹がよく冷えた緑茶を持ってきた。瓜などはなかったらしく、薄切りにしたタクアンを盛った鉢を茶請けに考えたようだ。
一枚つまんだ信長はタクアンが気に入ったようで、もう一枚口に配び、しきりとその指を舐めた。
「お女中、これはなかなか美味い」
満足そうに絹に労いの声をかけた。
「実は、秀吉には前もって文を遣わしておいた。勝手に和睦をするな。勝手に陣払いをするなとな。他の諸将には、京に異変があればすぐに集まれと。事と次第によっては、秀吉を誅殺するつもりであった」
そう言って茶を飲んだ。その茶が十分に冷えているのに驚き、私達を黙って見回すと、其の方らはよくよく贅沢だと呟いて首をふった。
「秀吉の出方を探ったのよ。動くなと命じた文は届いておるはずだ。その一方で、間者が儂の死を伝えたであろう。とすればどう動くかだ。頑なに命を守ればよし、死人に口なしとするならば捨ておけぬ。いずれにせよ、勝家やら利家が駆けつけるのに日がかかる。一益とてすぐには帰れまいが、信忠もおり光秀がおる。長秀も加われば持ちこたえることができるはずだ」
信長は畳の上に地図でも描いているのだろうか、武将の居場所を指で押さえていた。きっと京までの日数を数えているのだろう。
ところが、あ奴め、幾日もたたずに返してきおったわ。勝手に和睦をするなと命じたことを無視し、陣払いしてはならぬという命も無視しおった。儂はあ奴にそのような勝手を許してはおらん。ましてや、儂が世を去ったとしても、信忠という跡継ぎがおる。あ奴は織田の家臣にすぎぬのだぞ、しかも家格でいえば末席だ。信忠の下知に従うのが筋ではないか。だというのに、愚かなのは長秀よ。あ奴の口車にのって京へ攻め上ってきおった。
せめて利家がおれば、成政がおれば、藤高がおれば、存分に討ち果たしてやれたであろうに、口惜しいことよ。
長秀とは、丹羽長秀のことだろう。織田家二番家老でありながら、秀吉に懐柔された不甲斐なさを厳しく咎めているようだ。と同時に、三男信孝を盛り立てなかったことにも失望したようだ。利家とは前田利家のこと、成政とは、柴田勝家の補佐につけた佐々成政のこと、藤高は、おそらく細川藤高のことだろう。
形勢が不利になったのでは仕方ない。坂本へ逃れて、船で木之本へ渡ろうとしたのだが、叡山を越えるときに猪の牙にかけられてしまった。そんな体裁の悪い死に方は誰にも知られずに葬ったと、そのときばかりは情けない表情をした。
そうだったのか。そういう下準備があったから、清須会議で実質的に秀吉が実権を握ってしまったのだ。その際、信長は光秀の謀反によって殺されたと事実を捻じ曲げてしまったのだろう。
兎にも角にも、それで信長が光秀を信頼していることが理解できた。
「すっかり話が反れてしまったが、本題は真田よ。あの者も知恵が回ると評判であった。一度会うてみたいと思っていたのだが、かの欲深者の倅と縁を結ばれたそうな。したが、あの小倅……は、もうおらぬのであったな。だが、この世との縁を授かったのだ、なんぞ手立てはないか」
信長は百合を窺った。一方の百合は、じっと目をそらさずに信長を見つめていた。だが、悪びれた様子をみせず、ころころと表情を変えて話す信長を信用することにしたようで、百合の表情がふぅーっと崩れていった。
「わかりました。あんさんは嘘をついてないようや。それやったらお手伝いさへてもらいまひょ。しやけど、あの子がいやへんさかい、上手くいくやらわかりまへんえ」
九条彦子はもう後に下がってしまったのか、いつもの百合に戻っている。
「できるのであろう? 勿体をつけるでないわ、けしからんぞ」
荒くれ者だとか、情け容赦ない男だとか伝わっている人物がこうして拗ねた表情をみせると、戸惑うとともに親しみが湧いてくる。
「信勝、父が困っておるのをただ眺めておるとはどういう了見だ。とりなしをせぬか、気が利かぬ奴だ」
なにやらクツクツと笑みがこぼれそうになるのを堪えるのに懸命な私に、信長が不満げにこぼし、更に百合に詰め寄った。
「たのむ、是非たのむ。今のところ真田が頼りのような気がする」
信長がひと膝乗り出すような場面を想像した者など、どこにもいないだろう。でも、現実にこうしてねだっている。これが笑わずにいられようか。
ところで、信長にしても甲斐姫にしても、子となった者が鏡を覗いたから出現したということを忘れてはいけない。あの少年がいない状態で真田を出現させることができるのだろうか。なにやら含みをもたせるような百合の発言が気になった。
「幸いなことに、真田さんからの贈り物がおますよって、それで試してみまひょ」
そう言った百合は、あまり自信がありそうではないが、静かに立ち上がって、その場を離れた。
やがて三方に引き出物を載せるた百合が戻ってきた。小判の大山と、小判の小山が三つ。そこに小さな皮袋も副えられてあった。が、どうなのだろう。そこには真田昌幸の思念の残滓くらいしか残っていないのではないだろうか。
案の定だ。三方を鏡にかざしたら、それらしき人物が出現はした。しかし色が薄く、むこうが透けて見える。ましてや何を言っているのか、途切れ途切れの声のようなものが聞こえるだけだった。
「あかんなぁ。こんなん、幽霊みたいやわ」
きっと百合にも自信があったわけではあるまいが、もしかしたらと考えたことが上手くいかなかったのでがっかりしたようだ。
「このような亡霊では糞の役にも立つまいが。できると申したではないか」
確かに信長の言うとおり、口でこそ自信なさげをよそおっていたが、表情には余裕があったことは事実であり、皆にしっかりと見られている。
秘かな自信をもってためしたことがこのような結果になり、百合はうろたえているようだ。そこへ信長が不満をあからさまにしたものだから、ますます混乱した。
「まっ、まあまあ、言い合っていては知恵など湧かないでしょう。だいたいから、こんなことは土台無茶なことなんですから。かといって、真田さんが加わってくれるのはありがたいので、こんな方法はどうですか?」
絹にのり移ってもらって、念のために三方を持たせたらどうだろうと提案してみたところ、早速試してみようということになった。
が、結論からいうとそれも不完全だった。なるほど人物の姿がくっきりし、色もついた。透けることもないのだが、勝手気儘に歩き回ると、そこいらに物があってもすり抜けてしまう。これでは幽霊の完成品だ。なるほど話がしっかりできるのだから、それで満足しなければいけないのかもしれない。しかし、やはり生身の人間のほうが気分的に安心できるというものだ。
「あのう……」
「ちょっと待ってて、今とりこんでますの」
遠慮がちな実乃莉を百合はにべもなく遮った。
「あのう……、お話が……」
「待ってて言うたやろ、今取り込んでますの」
むっとしたように百合が言い返す。そのたびに実乃莉はビクッと首をすくめた。
「あのう……、だからお話が……」
「実乃莉ちゃん、あんた何べん言うたらわかるの? お寿司食べたんやったら、習字のお稽古しなはい!」
キッとなった百合が声を荒げた。しかし実乃莉は後を続けた。
「要は、真田さんの念が籠っている物のほうが良いのでしょう? そういうことですよね」「それが無いから困ってるんやないか。もう、横でごちゃごちゃ言わんと、黙っててんか」
「だから、それなら誓紙があるじゃないですか。あれ、絹さんが書いたのではないのでしょう?」
「あっ……」
みるみる百合の顔が赤くなった。ちょっとした失敗に動転し、一点しか見られなくなっていることを高校生に指摘されたのだ。しかも、現存するもので一番念を込めたものを見落としていたのだ。わけもなく酷い言葉を浴びせたことが恥ずかしくてたまらないのだ、きっと。
「……そうやんか、すっかり忘れてたわ。実乃莉ちゃん、あんた良ぇとこに気ぃついたなぁ」
照れ隠しだろうか、満面の笑みを浮かべて実乃莉を褒めた。
と、甲斐が姿勢を正して実乃莉に向き直った。
「実乃莉、良いことに気付きました。実乃莉の手柄は母の手柄、母の手柄は実乃莉の誉れ。嬉しく思いますぞ」
時代がかったことを真面目くさって言うものだから、その場がそれだけで和やかになった。
再び昌幸を呼び込んだ絹が誓紙をかざすと、こんどは生身の昌幸が出現した。
「真田安房守にござる」
空いたところに座を占め、かるく会釈をした。
「とんだ無様なお招きをしてしまいまして、どうか堪忍しておくれやす」
百合が代表して頭を下げると、縁を取り持ってくれたお女中と昌幸が会釈を返した。そして、絹には柔和な笑みをうかべて礼を言う。そして、少年との縁組みの場にはいなかった二人に、怪訝な視線を向けた。明らかに余の者とは違う身なり、鋭さを感じているようだ。
「真田殿、初の目通りにござる。尾張の織田でござる」
廊下の柱に凭れていた信長だったが、いつの間にか背筋をぴしっと伸ばしていた。
ほう、と、昌幸が信長に向き直った。そして上から下、下から上へと粘つくような視線を這わせて、ご冗談をと高笑いをした。
「いや、愉快な冗談ではござるが、よりにもよって織田様を騙るとはのう。真田を田舎者と侮ってはなりませぬぞ。どこの誰だとて侮るようなことはせぬゆえ、実のことを言われるがよい。さっ、名乗られよ」
「耳が遠いようだな。織田だ、信長だ」
ひくりと眉をひそめた信長が、こんどは大きな声であらためて名乗ると、昌幸が怪しむような目をした。
「織田様なれば飛ぶ鳥を落とす勢いのお方。お主のような若造ではなく、もっと猛々しいお方のはず。そのような御仁が、斯様な場におられるわけがなかろう」
昌幸は、頭から信長の言ったことを否定してみせた。織田信長という人物に対する印象は、昌幸も我々もたいして違わないようだ。
「ならば問う。お主はかくしゃくとして見えるが、その歳で死んだわけではあるまい。老いぼれて死んだのではないのか? 儂は、この頃が一番気儘であったゆえ、若い頃に戻っておるだけだ」
信長の逆襲に昌幸がうっと言葉を詰まらせた。昌幸自身、頭髪が抜け、歯が抜け、羽化登仙の境をさまよいながら死んだ、その当時の姿ではないからだ。
「……ならば、どうすればお主が織田様であると信じられるかだが……」
鼻の下に髭をたくわえた昌幸が途方にくれたのか、しきりと首筋を擦った。
「……お主と誼を結びたく、滝川一益を使いに立てたが、覚えておるであろう、人質を寄越したではないか、よもや知らぬとは言わせぬ。その折、書状をことづけた。儂の名とともに花押もあったはずだが、それを覚えておるかな?」
なにを思ったか信長が花押のことをもちだした。うろ覚えだがと昌幸が返すと、信長はついっと立って文机の前に座った。実乃莉が稽古していた紙の左半分が余白になっているので、そこに自分の名前を書き、花押を書き足す。
まだ濡れたままの紙を昌幸に押しやった。
「なるほど花押にござるが、これが織田様のものとは判じがたい。どうしたものでござろうか」
用心深い性格なのか、昌幸はまたしても困り顔をした。
「実乃莉ちゃん、スマホで信長さんの花押を検索できないかな。それを見てもらったらどうだろうか」
どうにも手詰まりな様子なので、画像を見てもらおうと私は思った。
「あかん、ここには電波がきてへん。別世界どすから」
即座に百合が無理だと言い、絹に資料を持ってくるよう言いつけた。
こうして長話をしていても、実際にはほとんど時間が進んでいないのはありがたいが、電波が届かないではしかたがない。もっとも、電波が届いたとして、時間の進み方が違う世界とまともに交信できるのだろうか。
絹が持ってきたのは、戦国武将の自署した名前と花押の写しだった。ペラペラとめくって昌幸の署名と花押が載っているページを開いて見せると、間違いなく自分のものだと昌幸が頷いた。
そこでこんどは信長のページを開いてみせる。それと、今しがた書いたばかりのものを見較べていた昌幸の顔色が変った。
「とんだご無礼をいたしました。見るからに若造のなりをされておるゆえ、たちの悪い戯言とばかり思っており申した。どうかお赦しを」
ダダダッと廊下へ出て、そこで這いつくばってしまった。
「なんの、それほどの用心はあってしかるべきもの。手を上げられよ」
しかし昌幸は平伏したまま微動だにしない。
「真田殿、この者らを見習え。身分もなにも、遠慮のかけらもない者どもだが、案外気楽で良いものだ。それと、織田様はやめてくれ。儂もこれからは昌幸と呼び捨てにするゆえ、織田なり、信長なり、好きなように呼ばってくれ」
「お言葉ではござりまするが、そればかりはお赦しを」
「……では、これならどうだ。儂はお主を安房と呼ぶ。お主は儂を上総と呼べ。それならばよかろうが」
「……畏れ多いことにござりまするが、そうせよと申されるのであれば」
昌幸はようやく顔を信長に向け、小さく会釈をした。そして甲斐のことを訊ねた。
「ときに、見目麗しき女将にござるが、お方様にございますか?」
「なんの、帰蝶ではない。武蔵の姫武将で、名を甲斐という」
ようやく自分のことを認めてもらえた信長は、上機嫌で甲斐の名を口にした。しかし昌幸は心当たりがなさそうに甲斐を見るばかりだ。
「真田様、忍城では世話になりました。その折、お手向いした成田甲斐にございます」
甲斐の言葉は涼しくさえある。大群に囲まれた小城を守りきった自負がそうさせているのだろう。手痛い攻めを受けたことへのわだかまりなど、きれいさっぱり消えている。
「忍城といえば北条攻めの折にござったが、はて、甲斐殿などという名は覚えておりませぬが」
「城は、私が守っておりました。僅かな手勢と農民、合わせて三千ばかりで」
「あれはたしか……、石田三成が総大将でござったな。その数一万三千。その後どれだけ加勢が集められたやら。……左様か、そのような寡勢でござったか。……そうそう、北条が下ってなお篭城しておった。三成めの面目を丸つぶしにした戦でござった」
と、昌幸は愉快そうに言い、意外なことに腹を抱えて笑った。
「左様か、守っておったは姫武将であったか、これはけっさくだ」
「なんと申される。女の私が相手では不都合にございますか」
今の言葉を侮蔑ととらえたのであろうか、甲斐が気色ばんだ。
「とんでもござらぬ。所詮、三成めは戦の素人。そのくせ巧を焦るゆえ、愚かなことをしてしまう。それを笑ったまでのことにござる」
昌幸はしゃあしゃあと言ってのけた。
「なればお訊ねいたしますが、真田殿が総大将であったなら、どのように攻めなさりまするか」
いい加減なことで逃げようなど、赦さぬとばかりに甲斐が詰め寄ると、昌幸は意外なことを言った。
「某が総大将であったなら、丸腰で城へ赴きましょう。降参を勧めはしますが、それは叶わぬこと。なれば、小田原が片付くまで酒でも呑み続けておりましょう。そちらにとってみれば、総大将を人質に取ったと同じ。寄せ手も迂闊なことはできぬであろうし、そうこうするうちに北条が下るであろうから、双方とも無駄な怪我人を出さずにすむ。違うておりますかな。よしんば某が殺されたとしても、死人が一人増えるだけのことでござる」
遠くで戦をしているというのに、酒盛りをしながら時をすごそうという、とんでもない考えであった。が、それを聞いた甲斐は、おもわずプッと噴き出していた。
「忍城など捨て置けと申されますか」
「いかにも」と、昌幸が首を大きく頷いた。
「小田原の大勢が決すれば、ほどなく開城の使者が参るはず。田畑を荒らしてなんの徳がござろうや。と存ずるが、いかがでござるかな」
涼しい顔で言ってのけた。それは、聞きようによっては秀吉の考えすら否定しているのに、平気な顔をしている。このもの言いや考え方が甲斐にも信長にも共感を得たようで、座は一気に和やかになった。
「いや、実際に会うて話してみるというのは大事なことにござるなあ。上総様がこのように穏やかなお方だとは、思うてもみなかったことにござる。それにまた、このように麗しい姫武将とお近づきになれるとは」
あらためて皆のことを紹介するうちに、昌幸も打ち解けてきた。
「ところで安房、折り入って助勢を願いたく呼びたてたのだが」
タクアンを一切れつまんだ信長が小気味の良い音をたてて食べてみせ、鉢を昌幸に押しやった。つられて昌幸が口にするのを待って、事の次第を語りだした。
ほう、ほうと相槌を打ちながら、昌幸は何度もタクアンに手を伸ばしす。
「お女中、すまぬが、あれを所望したい。それと、冷たい茶も所望だ」
信長が絹に目配せをする。指差しているのは海苔巻きの入っていた桶だ。
「承知しました。辛うないのんがお好みどしたなぁ」
愛想よく立ち上がりざま、絹は実乃莉を連れて出た。
「左様でござるか。これといって手向いせぬ者の命を奪うとは、なんとも乱暴なことにござるな。……それで、某に何をせよと申されるのかな?」
「されば、無用の犠牲者を出さぬ手立てを講じてもらいたい」
映画やドラマなら、さしづめ酒を勧める場面だろう。生憎なことに冷えた緑茶しかないが、塩気をじゅうぶんに摂った口には、甘さを感じる緑茶が案外合うようだ。
「防ぐ手立てにござるか。これはまた厄介なことにござるな」
ふぅむと深く溜息をついて考え込む昌幸。時折り目蓋をピクピクさせているだけで、声すら発しようとしない。
ずいぶん長い沈黙だった。
「相手が何者とも知れないのであれば、誘いをかけるしかないだろう」
昌幸がそう呟いたのと、絹が寿司桶を持ってきたのとがほぼ同時だった。
いくら巻き寿司のような安物でも、作ってもらうには二十分や三十分はかかるものだ。しかもここは現実の世界よりゆっくりと時が流れている。そう考えると、寿司屋が超人的な速さで作ったか、おそろしいほどの間沈黙していたことになるのだが、やはり二十分か、せいぜい三十分くらいの沈黙だった。それとも、時間の経過を感じさせないために誰かが編集したがだが、映画でもあるまいし、不要な部分を切り取るなどということは不可能だろう。ふっとそれに気付いた私は、不変と信じていた時の流れが、実は一定の速さではないではないかと疑いをもった。そして、この世界と同様に、現実の世界の時も勝手に速さを変えている。そんな考えにとらわれた。
そんなつまらないことに気をとられている間に、昌幸は、こうしてみたらどうだと一つの提案をしていた。それは、商店街の夏祭りである。
それならば恒例の夏祭りを利用するしかないと祖父が言った。何をするにせよ、商店街の企画は客寄せだ。そのためには準備もいる。既に予定が決まっている企画に便乗するのが一番早道だろうと言った。ところで昌幸がどんなことをしようとしているのかで、場所の確保が必要になるはずだ。しかしそれを訊ねると、彼ははぐらかすように寿司に手を伸ばした。
「これも美味いものにござるな。なにやら腐っておるように思うたが……酢に漬けた魚?田舎者ゆえ、川魚しか食うたことがござらん。しかも焼いたものばかりだ。このような喰い方があるとは知らなんだ」
巻き寿司を食べて目を丸くした彼が次に食べたのは、鯖寿司だった。酢が強かったのか最初は妙な顔をしたが、一口食べると目尻を下げた。
肝心なことを話し始めたのは、甲斐の桶から稲荷寿司を貰ってからだった。
「いかがであろ……これはとんだご無礼を。いかがでござりましょうか、その商店街とやらの真ん中で手習いを稽古させては。甲斐殿がおられるし、そのお女中もなかなか良い手をしておるゆえ、二人が指南すればよかろうと存じまするが」
気をゆるして、ついくだけた言葉を使っていることに気付いた昌幸が照れくさそうに首に手をやった。
要は、商店街の祭りに我々が飛び入り参加して、商店街への出入り口を清めてしまうことと、魔除けをさりげなく配るということだ。魔除けなどと正面きって言うのではなく、記念品にみせかけて持ち帰らせれば良いのではないかという案だ。信長がくれた永楽銭なら記念に持ち帰るのではないかとも言った。
なるほど、考え自体は悪くないとは思う。しかし、お宮での行事でないのなら、はたして甲斐に手伝ってもらうことができるのだろうか。甲斐にせよ信長にせよ、お宮という特殊な場所だから出現できたのではないのか。それとも、商店街のようなお宮と縁のない場所に連れて行くことができるのだろうかと疑問が湧いた。
「其の方、浮かぬ顔をしておるが、なんぞ不服か」
そこのところを解決しなければ絵に描いた餅と、まとまらない考えに堂々巡りしていた私は、不意に信長に声をかけられて、ドキッとした。
どうしよう。せっかく皆が納得しているところに水を注していいものだろうか。
「別な思案があるなら申してみよ。陰気な顔をするでないわ」
信長に誘われたかのように、皆が私に注目している。
「それでは言わせてもらうけど、信長さんも甲斐さんも人前に出られるのかなと思ってね。真田さんが姿を現すのに苦労しましたよね。その催しをするのは商店街ですよね。ここみたいに特別な場所ではないのですよ。さっきみたいにすり抜けでもしてしまったら、それこそ大騒ぎになりますよ」
座がシーンとなった。きっと誰も彼もが具体的な提案に現実味を感じていたのだろう。そこに無粋な現実を突きつけることになってしまったようだ。
「さすれば、このようなものがあっても喰えぬということか」
そうだと答えて、私はあることに気がついた。それは、信長も催しに出るつもりでいるということだ。
「ちょっとお訊ねしますが、信長さんも出るつもりですか?」
「当たり前であろうが。どのようなことでもかまわぬ。愉快そうなことなら尚よい。儂も助けてつかわすぞ」
むっとしたように私を見たが、それは一瞬のことで、機嫌よさそうに続けた。が、ちょっと待て。習字を教えるのは甲斐と絹ではないのか。あの二人なら着物を着ているというだけのことだから違和感はないが、信長や昌幸までとなると話は違う。だいいち、頭に載っている髷をどうするというのだ。よしんば髷を解いたにしても、青々とした月代をどうするつもりだろう。そこのところを訊ねてみると、明らかに不満そうな表情になった。
「其の方はものを知らぬゆえ、そのような夜叉がごときことを口にできるのだ。考えてもみよ。いかに過ごし易い日であっても、くる日もくる日も同じであったらどうだ。雲が垂れ込めることもなく、雨が降るでもなく、大風も吹かねば雷も光らぬのが儂の暮らすところだ。気が狂うほど退屈なのだ。其の方とて、毎度このようなものを食うておれば飽きあきするであろう。儂はそれを耐えてきた。其の方の依り親となったのも、退屈なことから逃れるためだ。そこになにやら愉快なことが持ち上がるというに、黙って見ておるわけにゆくまいが。是非はともかく、少しくらいは儂の気持ちをわかっても良いではないか。なにも儂ばかりではないぞ。安房も同じであろうし、甲斐も同じように思うておるに違いない。其の方とてひとかどの男であれば、惻隠の情を持ち合わせておらぬではなかろうが」
これが信長かと首を捻りたくなるような、言い訳めいた物言いであり、子供のおねだりにも聞こえる。しかし彼が語った変化のない暮らしというものは考えるだに恐ろしく、同情せざるをえない。とはいえ、信長ともあろう男がみせた拗ねた表情は、彼に対する固定概念をあっさりと砕いてしまった。事実彼は猛々しい気性であっただろうが、平穏な時にあってはいたって平凡な性格ではなかっただろうか。そう思わせるほど、素直な若者の表情にみえた。
信長が参加するかどうかはさておき、そういうことが可能なのかどうかは百合にかかっている。自然と一同の視線は百合に集中した。
「ちょっと、みんな、なにしてんの。こっち見んといて、見るのやめなはい」
あたふたした返事で、百合にはまるきり自信のないことがわかってしまった。だからといって他の誰なら代役が務まるのか。そんな者などいやしない。鍵を握っているのは百合ただ一人だ。
「あかんて、そんなんしたことないし」
百合は慌てて手を振り回し、別な催しを考えようと言ったのだが、それに納得しないのが信長だった。表立って口をはさんでいないだけで、甲斐も昌幸もうらめしそうな表情をうかべていて、けしかけるように信長を窺っていた。