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第9話 死ぬことを忘れた老人

第9話です。


今回、喫茶ミオを訪れるのは、死ぬことを忘れた老人。


長く生きすぎた彼は、多くの人を見送り、多くの記憶を失い、ついには自分の本当の名前さえ分からなくなっていました。


終わること。

名前を呼ばれること。

そして、誰かに覚えてもらうこと。


第9話「死ぬことを忘れた老人」、お付き合いいただけると嬉しいです。


 店主は、その朝も客席に座っていた。

 いつもなら、開店前の支度を終えるとカウンターの内側に立つ。豆を挽き、湯を沸かし、カップを磨き、窓の外を見ながら、次の客が来るのを待つ。

 けれど、その日は少しだけ違った。

 窓際の奥の席。

 篠原が最後の一杯を飲んだ席。

 休暇中の魔王ヴァルグランが、魔王用ではない甘いカフェオレを飲み、庭師への手紙を書いた席。

 店主はそこに座り、冷める前のコーヒーを飲んでいた。

 湯気がまだ立っている。

 それだけのことが、少し珍しかった。

 いつもカウンターの端に置く一杯目のコーヒーは、気づけば冷めていることが多い。客の対応をして、話を聞いて、見送って、戻ってきた頃には、黒い液体は静かに温度を失っている。

 けれど今日は、店主はその一杯を客席で飲んでいた。

 ヴァルグランが言ったからだ。

 ――店を閉められぬなら、せめて座って飲め。

 休暇中の魔王からの助言。

 思い返すと妙な言葉だった。

 だが、妙な客の言葉ほど、妙に胸に残る。

 店主はカップを両手で包み、窓の外を見た。

 灰色の街は、今日も壊れたままだった。

 遠くのビルは傾き、道路は割れ、街路樹は枝だけになっている。信号機は消え、バス停には誰も並ばず、風だけが古い紙くずを転がしている。

 世界は終わった。

 それでも、喫茶店だけは営業している。

 店主はカウンター横に立つ古い自動販売機を見た。

 AVM-0321。

 人間になりたかった自動販売機。

 今は店の一部として、カウンターの横に静かに立っている。正面には店主の書いた紙が貼られている。

 ――夜明けのブレンド 価格:ありがとう一つ

 ――店内専用。どういたしまして付き。

 表示は消えている。

 だが時々、店主はそこから返事が聞こえたような気がする。

 AVMの隣には、棚に並ぶカップがある。

 その中の一つ、青い線の入ったカップは、篠原のためのものだ。

 倉庫の木箱には、レオンの折れた聖剣と、ヴァルグランの黒焔城の紋章が並んでいる。

 黒瀬の原稿もある。

 アメが飲んだ蜂蜜入りホットミルクの記憶も、この店のどこかに甘く残っている。

 店は、客を覚えている。

 店主も、少しずつ覚えている。

 自分自身のことはまだ分からない。名前も、過去も、ミオという人の顔も、思い出しきれない。

 けれど、この店に来た客のことなら覚えている。

 それは不思議なことだった。

 自分の過去より、客の未練の方がはっきりしている。

 店主はカップに口をつけた。

 温かい。

 苦みの奥に、少しだけ甘さがある。

 今朝は砂糖を入れていない。

 それでも、客席で飲むコーヒーは、いつもより少し柔らかく感じた。

「休む、か」

 店主は小さく呟いた。

 その時だった。

 扉のベルが鳴った。

 からん。

 店主はカップを置き、立ち上がった。

 今日の客だ。

 入り口に立っていたのは、老人だった。

 篠原とは違う。

 篠原は、幽霊になってもどこか背筋が伸びていて、教師らしい静けさをまとっていた。

 今度の老人は、もっとずっと古びて見えた。

 年齢が分からない。

 七十代にも、九十代にも、百歳を越えているようにも見える。皮膚は紙のように薄く、顔には無数のしわが刻まれている。白い髪は肩のあたりまで伸び、風に吹かれた枯れ草のようだった。

 服は、時代の分からない長い外套だった。

 古い旅人のようでもあり、病院から抜け出した老人のようでもあり、百年前の写真から出てきた人のようでもある。

 老人は、杖をついていた。

 杖の先が床に触れるたび、こつ、と乾いた音がした。

 生きている。

 少なくとも幽霊ではない。

 店主はそう感じた。

 だが、その老人の存在は、普通の生者ともどこか違っていた。

 まるで、長く長く生きすぎて、時間から置いていかれた人のようだった。

「いらっしゃいませ」

 店主は頭を下げた。

 老人は店内を見回した。

 濁ったような、それでいて妙に澄んだ目だった。

「……ここは、まだ、開いておるのか」

「はい。営業しています」

「そうか」

 老人は、ほっとしたように息を吐いた。

「よかった。まだ、間に合った」

「どうぞ、お席へ」

 店主が言うと、老人はゆっくり歩き出した。

 一歩ごとに杖が鳴る。

 こつ。

 こつ。

 こつ。

 その音は、時計の針のようにも聞こえた。

 老人は店内を見回しながら進んだ。

 カウンター横のAVMの前で足を止める。

「自動販売機か」

「はい」

「懐かしいのう」

「ご存じなんですか」

「昔は、道の端にたくさん立っておった」

 老人はAVMの正面に貼られた紙を読んだ。

「夜明けのブレンド。価格、ありがとう一つ。……ふむ」

 老人は少しだけ目を細めた。

「よい値段だ」

「そうでしょうか」

「ありがとう一つは、高くも安くもない。ちょうどよい」

 老人はそう言い、カウンター近くの席に座った。

 店主はカウンターへ戻る。

「ご注文はございますか」

 老人は少し考えた。

 とても長く考えた。

 まるで、何を飲むかではなく、飲み物というものが何だったかを思い出そうとしているようだった。

「……温かいものを」

「コーヒーでよろしいですか」

「こーひー」

 老人はその言葉を口の中で転がした。

「懐かしい響きだ。だが、味を思い出せん」

「では、飲んでみますか」

「そうしよう」

 店主は豆の缶を開けた。

 老人には、どんな一杯が必要なのか。

 苦すぎるものではない。

 甘すぎるものでもない。

 長い時間を通ってきた人には、派手な味はきっと必要ない。

 静かで、深く、ゆっくり冷めていく一杯。

 店主は中煎りの豆を選んだ。

 香りは穏やかで、酸味も苦みも強すぎない。湯を少しずつ落とす。粉が膨らみ、香りが立つ。

 老人はその様子を、じっと見ていた。

「手慣れておるな」

「それだけは、覚えています」

「それだけ?」

「はい。自分の名前も過去も覚えていませんが、コーヒーの淹れ方は覚えています」

 老人は、ふむ、と小さく頷いた。

「それは幸いだ」

「幸いでしょうか」

「何か一つでも覚えておるなら、人はまだ迷子になりきらん」

 店主の手が少しだけ止まった。

 老人の言葉は、静かに胸に落ちた。

 何か一つでも覚えているなら、人はまだ迷子になりきらない。

 店主はカップにコーヒーを注ぎ、老人の前へ置いた。

「お待たせしました」

 老人は両手でカップを包んだ。

 指が細い。

 骨の形が透けて見えるようだった。

 老人はまず香りを嗅いだ。

 それから、ゆっくり一口飲んだ。

 長い沈黙。

「……ああ」

 その声は、篠原が最後の一杯を飲んだ時の「ああ」と少し似ていた。

 だが、篠原のそれが懐かしさの声だったのに対し、この老人の「ああ」は、何かをようやく思い出したような声だった。

「苦い」

「はい」

「温かい」

「はい」

「人間は、こんなものを飲んでおったな」

 店主は老人を見た。

「人間は、という言い方をされるんですね」

 老人は少し笑った。

「長く生きすぎると、自分が人間だったことを時々忘れる」

「失礼ですが、おいくつなんですか」

 老人はカップを見つめた。

「忘れた」

「忘れた?」

「数えるのをやめたのではない。忘れたのだ」

 老人は静かに言った。

「百までは覚えておった。二百までは、たぶん覚えておった。三百を越えたあたりで、年というものがあまり意味を持たなくなった」

 店主は言葉を失った。

 三百。

 冗談のような数字だった。

 けれど、老人の声に冗談の響きはなかった。

「それほど長く、生きているんですか」

「生きておる、という言い方が正しいのかは分からん」

 老人は自分の手を見た。

「死に損なっている、と言った方が近いかもしれん」

「死に損なっている」

「わしは、死ぬことを忘れた」

 その言葉が店内に落ちた。

 死ぬことを忘れた老人。

 店主は、静かに老人を見つめた。

「どういう意味ですか」

「そのままの意味だ」

 老人はコーヒーをもう一口飲んだ。

「ある日、死ねなくなった。病にもかかった。飢えもした。戦にも巻き込まれた。崖から落ちたこともある。海で溺れたこともある。雪山で凍えたこともある」

「それでも」

「目が覚める」

 老人は言った。

「必ず、どこかで目が覚める。身体は傷つく。痛みもある。苦しみもある。だが、終わらない」

 店主は背筋に冷たいものを感じた。

 永遠に近い時間。

 それは、多くの物語では祝福のように語られることがある。

 不老不死。

 永遠の命。

 だが、目の前の老人は、それを祝福とは思っていない。

 むしろ、長すぎる時間の中で擦り切れた人だった。

「なぜ、そうなったのですか」

「願ったからだ」

「願った?」

「昔、死にたくないと願った」

 老人は遠くを見るような目をした。

「若い頃のことだ。わしは病に倒れた。まだ二十にもならぬ頃だった。好きな人がおった。行きたい場所もあった。読みたい本も、見たい景色も、食べたいものも、言えなかった言葉も、たくさんあった」

「はい」

「だから願った。まだ死にたくない、と。何でもするから、生きたい、と」

「その願いが叶ったんですか」

「たぶん、そうなのだろう」

 老人は苦く笑った。

「誰が叶えたのかは覚えておらん。神だったのか、悪魔だったのか、ただの偶然だったのか。目が覚めた時、わしは生きていた。病は消えていた。そして、死ねなくなっていた」

 店主は黙っていた。

「最初は、喜んだ」

 老人は続けた。

「当たり前だ。死ななくて済んだのだから。好きな人にも会えた。行きたい場所にも行けた。本も読めた。景色も見た。食べ物も食べた。言いたかった言葉も言った」

「幸せだったんですね」

「幸せだった」

 老人は素直に頷いた。

「だからこそ、後がつらかった」

 店主はカウンターに手を置いた。

「好きな人は、老いた。友は死んだ。子も、孫も、そのまた子も、みんな死んだ。国は滅び、町は変わり、言葉も変わり、服も変わり、食べ物の味も変わった」

 老人の声は淡々としていた。

 だが、その淡々とした声の奥に、あまりに多くの別れが積もっていた。

「最初の百年は、覚えておこうと思った。誰がいたか。どんな顔だったか。どんな声だったか。何を笑い、何を怒り、何を恐れ、何を愛したのか。全部、覚えておこうと思った」

「はい」

「だが、無理だった」

 老人の指がカップを撫でた。

「人の記憶には、器がある。わしの器は、少し大きくなったかもしれん。だが、無限ではなかった。新しい顔を覚えるたびに、古い顔がぼやけた。新しい名前を呼ぶたびに、昔の名前がこぼれ落ちた」

 店主は、アメのことを思い出した。

 記憶を売った少女。

 売ったから忘れた。

 老人は売ったわけではない。

 ただ、長すぎる時間の重みで、こぼれ落ちていった。

「忘れたくなかったんですね」

「忘れたくなかった」

 老人は言った。

「だが、忘れていく。忘れたくなかった人から、忘れていく。顔がぼやける。声が遠くなる。名前だけが残る。やがて、その名前も何のための名前だったか分からなくなる」

 老人は静かに目を閉じた。

「わしは、たくさんの墓を作った。だが、墓に刻んだ名前を見ても、その人が誰だったか思い出せないことが増えた」

「つらいですね」

「つらい」

 老人は素直に言った。

「だが、それよりも怖いことがあった」

「何ですか」

「わしの名前を呼ぶ者が、いなくなった」

 店内の空気が静かに沈んだ。

「昔は、親が呼んだ。友が呼んだ。妻が呼んだ。子が呼んだ。弟子が呼んだ。隣人が呼んだ。敵でさえ、わしの名を呼んだ」

「はい」

「だが、皆いなくなった。長く生きるほど、わしを知る者がいなくなる。新しい町へ行けば、別の名を名乗った。古い名を名乗っても、誰も知らないからだ」

「本当のお名前は」

 店主が尋ねると、老人は口を開いた。

 そして、止まった。

 長い沈黙。

 老人の顔に、初めてはっきりとした怯えが浮かんだ。

「……分からん」

 声が震えていた。

「自分の名が、分からん」

 店主は息を呑んだ。

 自分と同じだ。

 店主も名前を思い出せない。

 だが、老人のそれは、また違う。

 店主は過去ごと失っている。

 老人は、あまりに多くの過去を抱えた果てに、自分の名を見失った。

「いくつもの名を名乗った」

 老人は震える声で言った。

「旅人の名。商人の名。薬師の名。学者の名。死人の名を借りたこともある。捨てた名もある。忘れた名もある。だが、最初の名が、もう分からない」

 店主は何も言えなかった。

「名を失った時、わしは思った」

 老人はカップを見つめた。

「だから死ねないのではないか、と」

「名前を失ったから?」

「死は、名を呼んで迎えに来るのかもしれん。だが、わしの名が分からないから、死はわしを見つけられない」

 それは迷信のようでもあり、真実のようでもあった。

 この店に来る客たちは、いつもそうだ。

 言葉にすれば奇妙なのに、その人にとっては確かな真実。

 AD-17にとって、配送完了が必要だったように。

 アメにとって、蜂蜜入りのホットミルクが記憶の扉だったように。

 ヴァルグランにとって、ありがとうの手紙が休暇の終わりだったように。

 この老人にとっては、名前が死への道しるべなのかもしれない。

「この店へは、どうして来たんですか」

 店主は尋ねた。

 老人は少しだけ目を細めた。

「夢を見た」

「夢」

「ずっと、死んだ者たちの夢を見る。顔のない者たちが、遠くからわしを見ている。誰も名を呼んでくれない。わしが近づくと、皆、霧のように消える」

「はい」

「だが、昨夜は違った」

 老人はカップを包む手に力を込めた。

「遠くに灯りが見えた。小さな店だった。扉に札が掛かっていた。開店中、と書いてあった」

 店主は扉の方を見た。

 ――開店中。

「店の前に、誰かが立っておった。顔は見えなかった。だが、その人は言った」

「何と」

「名前を思い出せないなら、覚えてもらいなさい、と」

 店主の胸が、かすかに震えた。

 それは誰の声だったのか。

 ミオか。

 それとも、この店そのものか。

「だから来た」

 老人は言った。

「わしは、死に方を忘れた。名も忘れた。だが、もしかすると、誰かに覚えてもらえれば、終われるかもしれない」

 店主は茶色いノートを見た。

 客の記録。

 AD-17。

 黒瀬。

 アメ。

 篠原宗一郎。

 レオン。

 AVM-0321。

 ヴァルグラン。

 そこに、この老人のことを書くのだろうか。

 だが、本当の名前が分からない。

 何と書けばいい。

 店主は少し考え、尋ねた。

「今、名乗っているお名前はありますか」

 老人は苦笑した。

「最近は、ただ老人と呼ばれておった」

「それでは寂しいですね」

「そうだな」

「では、ここにいる間の呼び名を決めてもいいでしょうか」

 老人は目を開いた。

「呼び名?」

「以前、名前を売った少女にもそうしました。雨の日に来たので、アメと」

「アメ」

「はい」

「よい名だ」

「その子は、僕をテンチョーと呼びました」

「それもよい名だ」

「そうでしょうか」

「名は、誰かが呼んだ時に少し温かくなるものだ」

 老人は静かに言った。

 店主は、その言葉を胸に受け止めた。

「では、あなたの呼び名を」

 店主は老人を見た。

 長すぎる時間を生きた人。

 死ぬことを忘れた人。

 誰にも名前を呼ばれなくなった人。

 何と呼べばいい。

 店主は窓の外を見た。

 灰色の街。

 終わった世界。

 それでも、喫茶店には灯りがある。

 老人は、長い夜を歩いてきたような人だった。

 けれど今、彼は一杯のコーヒーを前に座っている。

「ヨル、はどうでしょう」

 店主は言った。

「夜?」

「はい。長い夜を歩いてきたように見えたので」

 老人はしばらく黙っていた。

 それから、小さく笑った。

「ヨルか」

「嫌でしたか」

「いや」

 老人は首を振った。

「長く生きたわしには、少し若い名のような気もするが」

「では別の名に」

「いや、ヨルでよい」

 老人は、その名を自分の中で確かめるように繰り返した。

「ヨル」

 そして、ほんの少し表情を緩めた。

「久しぶりに、自分を呼ぶ音を聞いた気がする」

「ヨルさん」

 店主は静かに呼んだ。

 老人の肩が小さく震えた。

 たったそれだけで、彼の目に涙が滲んだ。

「もう一度、呼んでくれるか」

「ヨルさん」

 老人は目を閉じた。

 涙が一筋、深いしわを伝って落ちた。

「……ああ」

 それは、安堵の声だった。

「名を呼ばれるとは、こんなに重いものだったか」

「重いですか」

「温かくて、重い」

 老人は笑った。

「死ぬには、ちょうどよい重さかもしれん」

 店主は胸が詰まった。

「本当に、死にたいのですか」

 老人は少しだけ考えた。

「死にたい、とは違う」

「違う」

「終わりたいのだ」

 ヨルは言った。

「生きたくないわけではない。世界を嫌いになったわけでもない。コーヒーは温かい。人の声も、まだ悪くない。こうして誰かに名を呼ばれると、胸が震える」

「はい」

「だが、十分なのだ」

 ヨルはカップの中を見つめた。

「十分、生きた。十分、忘れた。十分、見送った。そろそろ、わしも見送られる側になりたい」

 店主は、その言葉を聞いて、篠原を思い出した。

 彼もまた、最後の一杯を飲んで消えた。

 ヨルも、同じように終わりを求めている。

 だが、篠原はすでに死んでいた。

 ヨルはまだ生きている。

 店主に、人の死を手伝うことはできない。

 してはいけない。

 しかし、ここに来る客に必要なのは、死そのものではないこともある。

 終わりを受け入れる準備。

 自分がいたことを誰かに覚えてもらうこと。

 死が迎えに来られるように、名前を灯すこと。

「ヨルさん」

「なんだね」

「あなたのことを、記録してもいいですか」

 ヨルは店主を見た。

「記録」

「はい。この店に来た客のことを、ノートに書いています」

「わしのことも?」

「はい」

「本当の名も分からぬのに」

「今は、ヨルさんです」

 老人はしばらく黙っていた。

「それでよいのか」

「はい」

「わしが、それでよいと思えば?」

「それで十分だと思います」

 ヨルはゆっくり頷いた。

「では、書いてくれ」

 店主は茶色いノートを開いた。

 しかし、その瞬間、カウンターの下で何かが落ちる音がした。

 ことり。

 店主は足元を見た。

 そこに、一冊の古い帳面が落ちていた。

 今まで見たことのないものだった。

 茶色いノートとは違う。

 もっと古く、厚く、表紙は黒っぽい革でできている。角には金具がついており、長い時間を経たもの特有の重みがあった。

 表紙には、かすれた文字でこう書かれていた。

 ――常連帳。

 店主は息を呑んだ。

 常連帳。

 篠原が言っていた。

 この店には昔、たくさんの人が来ていた。

 通勤前の会社員。

 商店街の人。

 学生。

 老人。

 帰る前に少しだけ息をつきたい人。

 その名が、ここに残っているのかもしれない。

 店主は帳面をカウンターに置いた。

 ヨルもそれを見つめている。

「古い帳面だな」

「僕も初めて見ました」

「開けてみるかね」

 店主は頷き、表紙を開いた。

 最初のページには、たくさんの名前が書かれていた。

 文字はさまざまだ。

 きれいな字。

 乱暴な字。

 小さな字。

 大きな字。

 子どものような丸い字。

 年配の人が書いたような震える字。

 その横に、短いメモが添えられている。

 ――佐伯さん。朝は必ずトースト。

 ――野村さん。雨の日だけ紅茶。

 ――篠原先生。深煎り、砂糖一つ。

 ――黒瀬さん。締め切り前は話しかけない。

 ――ユイちゃん。熱いものは苦手。ふーふー必須。

 店主の手が止まった。

 篠原。

 黒瀬。

 ユイ。

 やはり彼らは、この店の客だった。

 常連帳に名がある。

 この店は、彼らを覚えていた。

 店主はさらにページをめくる。

 名前。

 名前。

 名前。

 無数の名前。

 この店に来た人たち。

 世界が終わる前に、ここでコーヒーを飲んだ人たち。

 話をした人たち。

 黙って座った人たち。

 泣いた人。

 笑った人。

 怒った人。

 ただ時間を過ごした人。

 そのすべてが、ここに記されている。

 店主は胸が熱くなった。

 この店は、本当に誰かの帰る場所だったのだ。

 そして、帳面をめくっているうちに、あることに気づいた。

 店主自身の名前がない。

 どのページにも。

 店主らしきメモもない。

 喫茶ミオの店主。

 マスター。

 テンチョー。

 それに当たる名前がない。

 店主の胸が冷たくなった。

 自分はこの店にいたはずだ。

 写真にも写っていた。

 篠原は昔の自分を知っていた。

 それなのに、常連帳に自分の名前はない。

 店主だから書かれていないだけかもしれない。

 そう思おうとした。

 しかし、胸の奥がざわついた。

 なぜか、それだけではない気がした。

 店主は帳面の最後の方を開いた。

 空白のページがいくつもある。

 その一番新しい白紙のページに、薄い文字が浮かんでいた。

 まるで、今まさにインクが滲み出すように。

 ――ここに、名を書く。

 店主は息を止めた。

 ヨルが、静かに言った。

「わしの名を、書いてくれるか」

 店主はペンを取った。

 茶色いノートではなく、常連帳。

 この店が長く客を覚えてきた帳面。

 そこに、新しい客の名を書く。

 店主は、ページの左上にゆっくり書いた。

 ――ヨル。

 その文字を書いた瞬間、店内の灯りが少しだけ揺れた。

 ヨルが、目を閉じた。

「……ああ」

 彼の声が震える。

「そこに、わしがいる」

 店主はその横に、短く書き添えた。

 ――死ぬことを忘れた老人。

 ――長い夜を歩いてきた人。

 ――温かいコーヒーを飲んだ。

 ――名を呼ばれた。

 書き終えた時、ヨルの肩から力が抜けた。

 まるで、何百年も背負っていた荷物を、ようやく下ろしたようだった。

「店主」

「はい」

「もう一度だけ、呼んでくれ」

 店主は静かに言った。

「ヨルさん」

 老人は微笑んだ。

「ありがとう」

 その言葉は、とても小さかった。

 しかし、店内の奥深くまで届いた。

 カウンター横のAVMが、一瞬だけ淡く光ったように見えた。

 ――どういたしまして。

 そんな声が聞こえた気がした。

 ヨルはコーヒーを最後まで飲んだ。

 カップを置く。

「うまかった」

「ありがとうございます」

「苦くて、温かくて、少し懐かしかった」

「よかったです」

「わしは、ここに来られてよかった」

 ヨルの声は、だんだん穏やかになっていた。

 顔のしわは深いままだ。

 身体も痩せている。

 けれど、来た時よりもずっと静かで、柔らかい表情をしている。

「少し、眠ってもよいか」

 店主は一瞬、言葉に詰まった。

 眠る。

 それが、ただの眠りではないことは分かった。

 けれど、止める言葉は出てこなかった。

「はい」

 店主は言った。

「毛布をお持ちします」

「すまんな」

 店主は奥から毛布を持ってきた。

 ヨルはカウンター近くの席に座ったまま、静かに目を閉じた。

 店主はその肩に毛布をかける。

 ヨルの身体は軽かった。

 まるで、すでに半分ほど風になっているようだった。

「店主」

「はい」

「おぬしも、いつか名を呼ばれるとよいな」

 店主は息を呑んだ。

「僕の名を」

「そうだ」

 ヨルは目を閉じたまま言った。

「名は、誰かが呼ぶためにある。自分で思い出すだけでは足りん。誰かに呼ばれて、初めて戻ってくる名もある」

 店主は何も言えなかった。

 ミオ。

 その名が胸の奥で響く。

 自分の名は、誰が呼んでくれるのだろう。

 ミオなのか。

 最後の客なのか。

 それとも、もうこの世界にはいない誰かなのか。

「怖がらんでよい」

 ヨルは言った。

「名を呼ばれるのは、少し重い。だが、温かい」

 その言葉を最後に、老人は黙った。

 呼吸が、ゆっくりになる。

 一度。

 二度。

 三度。

 やがて、その呼吸は静かに止まった。

 店主は、しばらく動かなかった。

 ヨルは眠っているように見えた。

 だが、その表情には、苦しみはなかった。

 何百年も死ぬことを忘れていた老人が、ようやく眠り方を思い出したような顔だった。

 店の奥で、かちり、と音がした。

 時計の針が一つ進むような音。

 だが、今回はそれだけではなかった。

 常連帳のページが、ひとりでに少しだけ光った。

 ヨル、と書かれた文字が、ゆっくりと馴染むように紙の中へ沈んでいく。

 まるで、その名がこの店に受け入れられたようだった。

 店主は目を閉じた。

「おやすみなさい、ヨルさん」

 そう言った瞬間、毛布の下の老人の姿が、淡くほどけ始めた。

 驚きはなかった。

 篠原の時と似ている。

 ただ、篠原が朝霧のように消えたのに対し、ヨルは夜が明けるように薄れていった。

 長い夜の終わり。

 暗かった空が、ほんの少しだけ明るくなる時のように。

 老人の身体は光の粒になり、ゆっくりと店内に溶けていった。

 最後に、椅子の上には毛布だけが残った。

 その毛布も、少し温かかった。

 店主はしばらく椅子の前に立っていた。

 悲しい。

 だが、不思議と苦しくはなかった。

 見送るというのは、こういうことなのだろうか。

 失うのではなく、終わりを受け入れる。

 誰かがそこにいたことを、覚えておく。

 店主は毛布を丁寧に畳んだ。

 カップを下げる。

 ヨルが飲んだカップの底には、ほんの少しコーヒーの跡が残っていた。

 それを洗う前に、店主はもう一度常連帳を開いた。

 ページには、確かに名前がある。

 ――ヨル。

 死ぬことを忘れた老人。

 長い夜を歩いてきた人。

 温かいコーヒーを飲んだ。

 名を呼ばれた。

 そこに、彼はいる。

 店主は指先で文字のそばをなぞった。

 そして、ふと思った。

 自分の名前も、このどこかにあるのではないか。

 店主は常連帳を最初から最後まで、もう一度めくった。

 何百もの名前。

 何千もの名前。

 この店に来た人たち。

 だが、やはり自分の名前はない。

 店主。

 マスター。

 テンチョー。

 それらの呼び名ではなく、本当の名。

 どこにも見つからない。

 代わりに、最後の白紙のページのさらに奥に、一枚だけ奇妙なページがあった。

 真っ白なページ。

 そこには、名前を書くための線だけが引かれている。

 何も書かれていない。

 しかし、ページの端に、小さな文字があった。

 ――最後の客。

 店主の手が止まった。

 心臓が大きく鳴る。

 最後の客。

 篠原が言った言葉。

 日記に書かれていた言葉。

 この店を閉めてはいけない。

 最後の客が来るまでは。

 店主はそのページを見つめた。

 そこにはまだ、誰の名前もない。

 だが、なぜか店主は、その空白が自分を見ているように感じた。

 ページを閉じる。

 呼吸が少し乱れていた。

 焦らなくていい。

 そう自分に言い聞かせる。

 思い出すには順番がある。

 一度に全部読むな。

 心が壊れる。

 日記にはそう書かれていた。

 店主は常連帳をカウンターの下へしまった。

 今は、ヨルを記録した。

 それでいい。

 店主は茶色いノートも開き、新しいページに改めて書く。

 ――八人目の客。ヨル。

 少し迷ってから、次の行へ進む。

 ――本当の名前を忘れてしまった老人。

 ――長く生きすぎて、死ぬことを忘れていた。

 ――名を呼ばれるために、この店へ来た。

 ――常連帳に「ヨル」と書いた。

 ――最後に眠るように消えた。

 店主はペンを止めた。

 最後に、ヨルの言葉を書き残す。

 ――名は、誰かが呼ぶためにある。

 書き終えた瞬間、店主の胸に小さな痛みが走った。

 自分の名前を呼ぶ誰か。

 ミオ。

 その人が自分の名を呼ぶ声を、いつか思い出せるのだろうか。

 店主はカウンターの端に置かれている一杯目のコーヒーを見た。

 今日はまだ少し残っている。

 もう冷めていた。

 店主はそれを手に取り、客席に座った。

 ヨルがいた席ではなく、いつものカウンター端の席でもなく、少し離れたテーブル。

 店の中を見渡せる席。

 AVM。

 カウンター。

 窓際。

 常連帳をしまった場所。

 空いた椅子。

 そこに、今はもういない老人の気配が少しだけ残っている。

 店主は冷めたコーヒーを飲んだ。

 苦い。

 けれど、今日はその苦さが、長い夜の終わりに似ている気がした。

「ヨルさん」

 店主は小さく呼んだ。

 返事はない。

 だが、それでいい。

 彼の名は、もうこの店に残っている。

 誰かが呼んだ。

 誰かが書いた。

 誰かが見送った。

 それだけで、長い夜は終われたのかもしれない。

 外を見ると、灰色の雲の隙間が少しだけ明るくなっていた。

 朝なのか、夕方なのか分からない。

 けれど、店主にはそれが夜明けのように見えた。

 世界は終わっている。

 人々は消え、街は壊れ、時間は曖昧になった。

 それでも、誰かの名前を呼ぶことはできる。

 誰かがいたことを書き残すことはできる。

 温かい一杯を出すことはできる。

 店主は立ち上がった。

 カップを洗い、布巾で拭き、棚に戻す。

 そして、常連帳をしまったカウンターの下にそっと手を当てた。

 そこには、たくさんの名前がある。

 その中に、自分の名前はまだない。

 だが、いつか。

 誰かが呼んでくれるかもしれない。

 そう思うと、怖かった。

 けれど、少しだけ温かかった。

 店主は扉の札を見た。

 ――開店中。

 今日も、その札は表を向いている。

 死ぬことを忘れた老人が、ようやく眠り方を思い出したあとも。

 名前を失った店主が、自分の名をまだ知らないままでも。

 喫茶店だけは営業している。

 最後の客が来る、その日までは。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第9話は、死ぬことを忘れた老人・ヨルのお話でした。


長すぎる時間を生き、たくさんの別れを重ね、ついには自分の名前さえ見失ってしまった老人。

そんな彼が喫茶ミオで「ヨル」と呼ばれ、ようやく長い夜を終える回でした。


名前は、誰かが呼ぶためにある。

そして、誰かがいたことを覚えておくことは、見送ることでもあるのかもしれません。


店主自身の名前にも、少しずつ物語が近づいています。


次回は、第10話「未来から来た配達員」です。

よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。


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