第7話 人間になりたかった自動販売機
第7話です。
今回、喫茶ミオを訪れるのは、自動販売機。
人間ではなく、客ですらないはずの存在。
けれど彼は、ずっと誰かに飲み物を届け、「ありがとう」と言われる日々を覚えていました。
そして願っていたのは、人間になること。
あるいは、たった一言を返せるようになること。
第7話「人間になりたかった自動販売機」、お付き合いいただけると嬉しいです。
店の前に、自動販売機が立っていた。
最初、店主はそれを客だとは思わなかった。
朝、いつものように扉の札を「開店中」に返し、カウンターの端に一杯目のコーヒーを置いたあと、窓の外を見た時だった。
灰色の道。
ひび割れた舗装。
倒れた街灯。
遠くに沈黙する廃墟。
その中に、見慣れない四角い影があった。
喫茶店の入口から少し離れた場所に、赤と白の塗装が剥げた古い自動販売機が立っている。
店主は首を傾げた。
昨日まで、あんなものはなかったはずだ。
少なくとも、店主の記憶にはない。
自動販売機は、少し傾いていた。正面の透明パネルはひび割れ、中に並んでいる缶飲料の見本は色褪せている。上部には「HOT」と「COLD」の表示があり、どちらも半分消えかかっていた。
画面の一部には、かすかに文字が点滅している。
――いらっしゃいませ。
店主は窓越しにそれを見つめた。
不思議な光景だった。
世界が終わった後の荒れた街に、古い自動販売機がぽつんと立っている。
それ自体は、ありえないことではない。壊れた街には、今も朽ちかけた機械や看板がいくつも残っている。だが、その自動販売機は違った。
電気が通っている。
表示が点滅している。
そして、なぜか喫茶店の方を向いている。
店主はしばらく考え、それから外套を羽織った。
外に出る。
扉のベルが鳴る。
外の空気は冷たかった。
自動販売機は、やはりそこにあった。
近づくと、低い機械音が聞こえた。
ぶうん、ぶうん。
古い冷却装置か、内部のモーターがかろうじて動いている音だ。
店主は正面に立った。
「おはようございます」
返事はない。
当然だ。
自動販売機なのだから。
しかし、店主がそう思った瞬間、表示パネルの文字が変わった。
――おはようございます。
店主は瞬きをした。
「……しゃべれるんですか」
表示がまた変わる。
――音声出力装置、故障中。
――文字表示による会話は可能です。
「そうですか」
店主は少し考えた。
驚くべきことのはずだ。
だが、最近の客を思い返すと、驚きの感覚が少し鈍っている。
壊れかけの配達ロボット。
最後の新聞記者。
記憶を売った少女。
幽霊になった常連客。
世界を救えなかった勇者。
そして今、店の前には、文字で会話する自動販売機がいる。
なるほど。
今日はそういう客なのだろう。
「中へ入りますか」
店主が尋ねると、自動販売機の表示が少し間を置いて変わった。
――入りたいです。
店主は自動販売機を見た。
横幅も高さもそれなりにある。
入口の扉を通るだろうか。
「……動けますか」
表示が変わった。
――がんばります。
その直後、自動販売機の下部から、がしゃん、と小さな脚のようなものが出てきた。
店主は思わず一歩下がった。
自動販売機の底から、金属製の短い脚が四本伸びている。まるで折りたたみ式の椅子の脚のようだった。それがぎこちなく動き、自動販売機は少しだけ前へ進んだ。
がこん。
がしゃん。
ぎぎぎ。
自動販売機は、歩いた。
非常に遅かった。
一歩進むたびに、本体が左右に揺れる。中で缶が転がるような音がして、正面の見本パネルがかたかた震えた。
店主は慌てて扉を大きく開けた。
「どうぞ、ゆっくりで大丈夫です」
――ありがとうございます。
自動販売機は少しずつ、慎重に店内へ入った。
入口の段差で一度つまずき、傾き、店主が慌てて支えた。
自動販売機は重かった。
当然だ。
自動販売機なのだから。
店主は両手で押さえながら、どうにか店内へ入れる。
入っただけで、かなりの達成感があった。
自動販売機はカウンターの前で止まった。
店内に、自動販売機が立っている。
木の床。
温かい照明。
磨かれたカップ。
湯気の立つコーヒー。
そして、赤白の古い自動販売機。
あまりにも異様な光景だった。
店主はしばらくそれを見ていた。
「お席は……」
言いかけて、やめた。
自動販売機に椅子は必要ない。
すると表示が変わった。
――立ったままで大丈夫です。
「では、ご注文は」
――人間になりたいです。
店主は固まった。
「……飲み物の注文ではなく?」
――はい。
「うちは喫茶店なので、人間にするサービスは、たぶん扱っていません」
表示がしばらく点滅した。
――そうですか。
その文字には、感情がないはずだった。
ただの点灯した文字だ。
しかし店主には、少し落ち込んでいるように見えた。
「なぜ、人間になりたいんですか」
自動販売機はすぐには答えなかった。
表示の光が、ゆっくり明滅する。
――人間は、ありがとうと言われるからです。
店主は黙った。
――私は、飲み物を出します。
――人間は、それを受け取ります。
――そして、ありがとうと言います。
――私は、それが好きでした。
店主は、カウンターの内側へ戻った。
今日はコーヒーを淹れるべきなのか、どうか迷った。相手は自動販売機だ。飲めないかもしれない。
だが、AD-17も飲めなかった。
それでも客だった。
飲めるかどうかは、客であることとは関係ない。
「お名前はありますか」
――製造番号はあります。
「では、それを聞いても?」
――AVM-0321。
「AVMさん」
――はい。
「ずっと、飲み物を売っていたんですか」
――はい。
表示が淡く光る。
――朝霧市中央区、駅前通り、第三自動販売機群に設置されていました。
――主な販売品目は、缶コーヒー、緑茶、炭酸飲料、果汁飲料、季節限定スープです。
「駅前にいたんですね」
――はい。
――毎朝、たくさんの人が通りました。
――会社員、学生、清掃員、配送員、駅員、犬を散歩させる老人。
――私は、彼らに飲み物を提供しました。
店主は、かつての朝霧市の写真集を思い出した。
壊れる前の街。
人が行き交い、車が走り、店の看板が灯っていた頃の朝霧市。
その駅前に、この自動販売機は立っていたのだろう。
誰かの朝を、缶コーヒー一本で少しだけ支えていたのかもしれない。
「人気商品は何でしたか」
――朝はブラックコーヒー。
――昼は緑茶。
――夕方は炭酸飲料。
――冬はコーンスープ。
「詳しいですね」
――販売データです。
「なるほど」
――でも、データだけではありません。
店主は手を止めた。
自動販売機の表示が、少し長い文章を映す。
――毎朝、七時二十二分に来る男性は、必ず微糖コーヒーを買いました。
――雨の日は二本買いました。
――一本は自分用。一本は隣の傘を持っていない女性に渡していました。
店主は目を細めた。
――高校生の二人組は、同じ炭酸飲料を買って、いつもどちらが先に飲み終わるか競争していました。
――清掃員の女性は、冬になるとコーンスープを買って、私の側面を軽く叩きました。
――「今日もあったかいね」と言いました。
自動販売機は、そこまで表示して、しばらく黙った。
店主は、カウンターに手を置いていた。
機械の記録。
販売データ。
だが、それはもう単なる数字ではなかった。
誰がいつ何を買ったか。
それは、この機械にとって、誰かがそこにいた記憶なのだ。
「AVMさんは、みんなのことを覚えているんですね」
――はい。
――私は、自動販売機なので。
「自動販売機だから?」
――人間は、私の前を通り過ぎます。
――私は、動けません。
――だから、通り過ぎる人を覚えました。
店主は、その言葉に胸を突かれた。
自動販売機は、ただそこに立っているしかない。
客を追いかけることはできない。
呼び止めることもできない。
自分の意思で誰かに近づくこともできない。
だから、そこを通る人を覚える。
喫茶店も、似ているのかもしれない。
店主は、客が来るのを待つ。
扉を開ける人を迎える。
そして去るのを見送る。
動かない場所だからこそ、来た人のことを覚える。
「人間になりたいのは、ありがとうと言いたいからですか」
店主が尋ねると、表示が少しだけ揺れた。
――ありがとうと言われたいからです。
――そして、ありがとうと言いたいからです。
「誰に?」
――たくさんの人に。
表示は一行ずつ変わる。
――毎朝、私を選んでくれた人。
――売り切れの時に「また明日な」と言った人。
――硬貨が詰まった時に、乱暴に蹴らず、管理会社に連絡してくれた人。
――私に傘を立てかけた人。
――私の前で泣いていた人。
――私の光で、夜道を少しだけ安心して歩いた人。
店主は黙っていた。
自動販売機は、淡々と続ける。
――私は、自動販売機です。
――飲み物を出すことしかできません。
――ありがとうと言われても、返せません。
――だから、人間になりたいと思いました。
店内に、静かな機械音が響いている。
ぶうん。
ぶうん。
少し苦しそうな音だった。
「いつから動けるようになったんですか」
――世界が壊れた後です。
「それまでは?」
――固定されていました。
――駅前通りに設置されていました。
――電源供給あり。
――通信あり。
――補充あり。
「世界が壊れた後は」
――電源途絶。
――通信途絶。
――補充停止。
――販売継続不能。
「それでも、動いた」
――はい。
――しばらくして、私は歩けるようになりました。
「なぜ?」
――分かりません。
「この店と似ていますね」
――喫茶店も歩けるのですか?
「いえ、歩けません」
――残念です。
「なぜ残念そうに?」
――一緒に散歩できるかと思いました。
店主は思わず笑った。
小さな笑いだったが、店内に柔らかく広がった。
「喫茶店と自動販売機の散歩は、かなり目立ちそうです」
――目立つのは、少し恥ずかしいです。
「自動販売機でも恥ずかしいんですか」
――はい。
――人間に近づいている証拠でしょうか。
「かもしれません」
自動販売機の表示が、少し明るくなった気がした。
店主は、何かを出そうと考えた。
コーヒーは飲めない。
ホットミルクも飲めない。
AD-17の時は、冷めた一杯を店主が飲んだ。
けれど今回は、AVM自身も飲み物を出す存在だ。
なら、飲み物を出すのではなく、飲み物を受け取る側の気持ちを味わえるようにしたい。
だが、どうすればいい。
店主はカウンターの下を探した。
そこに、小さなコインがあった。
古い百円硬貨。
なぜあるのかは分からない。
だが、今必要なものとして、そこにあった。
店主はそのコインを手に取り、AVMの正面に立った。
「AVMさん」
――はい。
「まだ、何か売れますか」
表示が一瞬止まった。
――販売在庫確認中。
内部で、かこん、かこん、と音がした。
――在庫、一点。
「何が残っていますか」
――缶コーヒー、微糖。
「買ってもいいですか」
表示が、少しだけ強く光った。
――はい。
店主は投入口に百円硬貨を入れた。
ちゃりん。
その音が、店内に不思議なほど大きく響いた。
自動販売機の中で、古い機械が動き始める。
がこん。
がたた。
ぎぎぎ。
しばらくして、取り出し口に一本の缶コーヒーが落ちた。
店主はそれを取り出した。
缶は少しへこんでいたが、温かかった。
「温かい」
店主は言った。
――最後の加温機能を使用しました。
「最後?」
――はい。
――電力残量、低下。
――次回加温、不可。
店主は缶コーヒーを見つめた。
この自動販売機にとって、最後の一本。
最後に温められた飲み物。
店主はプルタブを開けた。
小さな音がする。
缶に口をつけ、一口飲んだ。
甘い。
店のコーヒーとは違う。
香りは薄く、味も人工的で、どこか懐かしい甘さだった。
世界が壊れる前の、忙しい朝の味がした。
「おいしいです」
店主は言った。
自動販売機の表示が止まった。
しばらくして、文字が出る。
――本当ですか?
「はい」
――古い商品です。
――品質保証期限、超過。
「それでも、おいしいです」
――そうですか。
表示の光が、ゆっくり揺れる。
――よかったです。
店主は缶コーヒーを両手で持った。
AVMは、飲み物を売った。
客がそれを飲んだ。
おいしいと言った。
それは、自動販売機にとって何度も繰り返してきた日常だったのだろう。
だが、世界が壊れた後、それはもう二度と戻らないはずの日常だった。
「ありがとう」
店主は言った。
AVMの表示が完全に消えた。
数秒。
十秒。
店主は少し不安になった。
「AVMさん?」
やがて、表示がゆっくり戻った。
――どういたしまして。
その文字は、少し震えているように見えた。
――初めて言えました。
「どういたしまして、を?」
――はい。
――ありがとうに、返事ができました。
店主は缶コーヒーを見つめた。
何でもないやり取りだ。
商品を買う。
飲む。
ありがとうと言う。
どういたしましてと返す。
それだけ。
けれど、AVMにとっては、それが長い間望んでいたことだったのだ。
人間になりたい。
ありがとうと言いたい。
その願いの中心には、きっとこの瞬間があった。
「AVMさん」
――はい。
「人間になりたいというのは、もしかして、人間のように返事をしたかったということですか」
表示がゆっくり点滅する。
――分かりません。
――私は、人間がうらやましかったです。
――歩けること。
――話せること。
――笑えること。
――泣けること。
――誰かに触れられること。
――自分で何かを選べること。
「はい」
――でも、今、どういたしましてと言えました。
――少し、人間に近づいた気がします。
店主は静かに頷いた。
「そうですね」
AVMの内部で、低い音が鳴った。
ぶうん。
ぶうん。
しかし、その音はさっきより弱くなっている。
「電力は大丈夫ですか」
――低下中。
「充電できる方法は」
――不明。
「この店の電気は使えますか」
店主は店内を見回した。
照明は点いている。
冷蔵庫も、コンロも、何もかも動いている。
だが、この店の電気がどこから来ているのか分からない。
AVMのような機械を充電できるのかも分からない。
延長コードでもあれば。
そう思った瞬間、カウンターの下に古いケーブルがあることに気づいた。
店主はそれを取り出した。
「これでつながりますか」
――規格確認。
店主はAVMの側面を探した。
錆びた小さなカバーがある。
開けると、古い充電端子のようなものが見えた。
ケーブルは、ぴたりとはまった。
店主はもう片方を店内のコンセントに差し込む。
ぱち、と小さな音がした。
AVMの表示が一瞬明るくなる。
しかし、すぐに文字が出た。
――充電不可。
「なぜ」
――当機の蓄電装置、劣化。
――外部電力、受入不能。
店主はケーブルを握りしめた。
「修理は」
――困難。
「何か方法は」
――不明。
AVMは淡々と表示した。
だが、店主には、それが諦めというより、すでに分かっていた事実を確認しているように見えた。
「AVMさんは、それを知っていてここに来たんですか」
――はい。
「どうして」
――人間になれる場所があると聞きました。
「この店で?」
――はい。
「誰から」
表示が少し乱れた。
――不明。
――廃駅の案内表示が、そう言っていました。
「案内表示が?」
――はい。
――『終われないものは、喫茶店へ』
店主は息を呑んだ。
終われないものは、喫茶店へ。
この店は、もう噂や幻のようなものになっているのかもしれない。
ある者には灯りとして。
ある者には扉として。
ある者には案内表示として。
終われないものを、ここへ導いている。
AVMは、ここで人間になれると思って来た。
けれど、店主には人間にする力などない。
できるのは、ただ話を聞き、温かいものを用意し、見送ることだけだ。
それで十分なのだろうか。
いつも、その問いに戻る。
「僕は、AVMさんを人間にはできません」
店主は言った。
――はい。
「すみません」
――謝罪不要。
――すでに、一つ叶いました。
「どういたしまして、ですか」
――はい。
AVMの表示が、少し明るくなった。
――それと、もう一つあります。
「何でしょう」
――私は、喫茶店に入りました。
「はい」
――客になりました。
「はい」
――自動販売機は、外に立つものです。
――店の中で、客になるものではありません。
店主は少し笑った。
「たしかに、珍しいですね」
――だから、嬉しいです。
その文字は、まっすぐだった。
――私は、飲み物を出すだけの機械でした。
――でも今、店の中にいます。
――客として、話を聞いてもらっています。
――ありがとうに、どういたしましてと言えました。
――これは、人間に近いですか?
店主は、すぐに答えられなかった。
人間とは何か。
そんな大きな問いに、店主が答えられるはずがない。
自分自身、人間なのかどうかすら分からない時がある。
名前も過去もなく、壊れた世界で不思議な喫茶店を開け続けている自分は、何なのか。
それでも。
AVMがここに来て、誰かに飲み物を出し、ありがとうと言われ、どういたしましてと返した。
その瞬間に宿ったものを、ただの機械的反応とは言いたくなかった。
「僕には、人間の定義は分かりません」
店主は言った。
――はい。
「でも、AVMさんは誰かを覚えていて、誰かにありがとうと言いたくて、今それを叶えて喜んでいる」
――はい。
「それは、とても人間らしいことだと思います」
AVMの表示が止まった。
長い沈黙。
内部の音がさらに弱くなる。
ぶうん。
……ぶうん。
――そうですか。
「はい」
――ありがとうございます。
「どういたしまして」
店主がそう返すと、AVMの表示が柔らかく光った。
――どういたしましてに、どういたしましてを返された場合の応答がありません。
「そこは、笑うところかもしれません」
――笑う機能がありません。
「では、代わりに表示してみますか」
少し間があった。
そして、表示が変わった。
――^^
店主は声を出して笑ってしまった。
「それは、笑っていますね」
――成功。
店内に、少しだけ明るい空気が生まれた。
終末世界の喫茶店で、自動販売機が顔文字を表示している。
それはあまりに奇妙で、けれど温かい光景だった。
しかし、その光は長く続かなかった。
AVMの表示がちらついた。
内部の音が不規則になる。
がたん。
がたた。
「AVMさん」
――電力残量、危険域。
「何か、できることは」
――あります。
「何ですか」
――最後の一本を、補充してください。
店主は戸惑った。
「補充?」
――はい。
――空になった棚に、何か一本、入れてください。
「何を」
――何でも。
店主は厨房を見た。
缶飲料などない。
だが、棚の奥に小さな瓶があった。昨日まではなかった気がする。
透明な瓶。
中には、淡い琥珀色の液体が入っている。
ラベルは手書きだった。
――夜明けのブレンド。
コーヒーだろうか。
店主は瓶を手に取った。
温かい。
不思議な瓶だった。
AVMの正面パネルを開けると、中の棚はほとんど空だった。さっきの缶コーヒーが最後だったのだろう。
店主は、一番下の列に瓶をそっと入れた。
AVMの表示がゆっくり光る。
――補充確認。
――商品名、夜明けのブレンド。
――価格、ありがとう一つ。
店主はその表示を見つめた。
「価格が」
――設定しました。
「ありがとう一つ」
――はい。
AVMの表示が揺れる。
――誰かがこれを買う時、ありがとうと言ってくれたら、私はまた、どういたしましてと言える気がします。
「AVMさんがいなくなっても?」
――はい。
店主は何も言えなかった。
この自動販売機は、自分がもう長くないことを知っている。
それでも最後に、自分の中に一本の飲み物を残そうとしている。
誰かがいつかそれを受け取り、ありがとうと言うために。
その時、自分が返事をできるように。
たとえ音声でも表示でもなくても。
「分かりました」
店主は言った。
「このまま、店に置いておきます」
――ありがとうございます。
「どういたしまして」
表示がまた少し明るくなる。
――応答成功。
店主は、AVMの正面に手を置いた。
機械の表面は冷たい。
だが、内部にはまだわずかな熱がある。
「AVMさん」
――はい。
「あなたは、人間にはなれなかったかもしれません」
――はい。
「でも、うちの客です」
――はい。
「それから」
店主は少しだけ言葉を探した。
「この店の一部になってもらえますか」
表示が止まった。
長い、長い沈黙。
そして、ゆっくり文字が浮かぶ。
――はい。
――とても、嬉しいです。
その直後、店の奥で、かちりと音がした。
時計の針が一つ進むような音。
店主は振り返った。
客が何かを終える時に鳴る音。
AVMも、何かを終えたのだ。
自動販売機としての役目か。
人間になりたいという願いか。
ありがとうに返事をしたかった心残りか。
店主には分からない。
ただ、目の前の表示は、もうほとんど光を失っていた。
――店主さん。
初めて、AVMはそう表示した。
「はい」
――私は、店の外にいた時、ずっと人間がうらやましかったです。
「はい」
――でも、今は少し、自動販売機でよかったと思います。
「どうしてですか」
――誰かの手を温められたからです。
店主は缶コーヒーを思い出した。
さっき飲んだ、最後の一本。
温かかった。
甘かった。
終わった世界の中で、確かに手を温めた。
――飲み物は、すぐなくなります。
――缶は空になります。
――味も忘れられます。
――でも、その時だけ、少し温かいです。
表示が途切れ途切れになる。
――それで、よかったのかもしれません。
「はい」
店主は静かに頷いた。
「とても、よかったと思います」
――ありがとうございます。
「どういたしまして」
AVMの表示が、最後に一度だけ明るくなった。
――^^
それが最後の表示だった。
内部の音が止まる。
ぶうん、という低い機械音も、冷却装置の震えも、すべて消えた。
赤白の古い自動販売機は、喫茶店のカウンターの横で静かに停止した。
店主はしばらく、その前に立っていた。
AD-17が止まった時とは違う。
あの配達ロボットは、届け先の家で役目を終えた。
この自動販売機は、店の中で役目を終えた。
どちらも機械だった。
だが、どちらもただの機械だったとは、店主には思えなかった。
誰かのために動き続けたもの。
ありがとうを求めたもの。
どういたしましてと言いたかったもの。
それを、心と呼ばずに何と呼べばいいのか、店主には分からなかった。
店主はAVMの横に、小さな紙を貼った。
そこには、手書きでこう書いた。
――夜明けのブレンド 価格:ありがとう一つ
少し考えて、さらに下へ書き足す。
――店内専用。どういたしまして付き。
それから、カウンターに戻った。
茶色いノートを開く。
新しいページ。
ペンを持つ。
――六人目の客。AVM-0321。
店主は少し考えた。
客の番号が気になった。
AD-17、黒瀬、アメ、篠原、レオン。
そしてAVM。
六人目。
けれど、第七話の客。
話数と客数はずれている。
そんなことを考えて、店主は少しだけ笑った。
そして続きを書く。
――人間になりたかった自動販売機。
――駅前通りで、多くの人に飲み物を出していた。
――ありがとうと言われることが好きだった。
――どういたしましてと言いたかった。
店主は、缶コーヒーの甘さを思い出した。
人工的で、少し懐かしい甘さ。
終わった世界の朝の味。
――最後の一本を売り、ありがとうに返事をした。
――今は、この店の一部として立っている。
最後に、少し迷ってから一行足した。
――誰かの手を少し温めることも、きっと救いなのだと思う。
書き終えると、店主はノートを閉じた。
店内を見回す。
カウンター。
窓際の席。
棚のカップ。
折れた聖剣を預けた倉庫。
青い線の入った篠原のカップ。
黒瀬の原稿が入った木箱。
そして、カウンター横に立つ古い自動販売機。
店の中に、また一つ気配が増えた。
この店は、客を見送る場所だ。
だが、見送った客のすべてが完全に消えるわけではない。
ある者は記録として残る。
ある者は品物として残る。
ある者は匂いとして、音として、手順として残る。
AVMは、店の片隅に立つ自動販売機として残った。
もう動かない。
表示も消えた。
だが、そこには確かに「どういたしまして」と言いたかった誰かがいた。
店主は、朝に淹れた一杯目のコーヒーを手に取った。
少し冷めている。
けれど今日は、缶コーヒーの甘さがまだ口の中に残っていたせいか、いつもの苦さが少しだけ優しく感じた。
「ありがとう」
店主は、誰にともなく言った。
カウンター横の自動販売機は、何も表示しない。
音もない。
それでも、店主には聞こえた気がした。
――どういたしまして。
店主は小さく頷き、カップを置いた。
外では、終わった世界に風が吹いている。
人通りのない道。
倒れた街灯。
灰色の空。
だが、店の中には自動販売機が一台増えた。
夜明けのブレンドを一本だけ抱えた、古い自動販売機。
いつか誰かが、それを買うかもしれない。
ありがとう、と言うかもしれない。
その時、この店のどこかで、AVMが少しだけ笑うのかもしれない。
店主は新しい湯を沸かした。
カップを磨く。
椅子を整える。
カウンター横の自動販売機の表面を、乾いた布でそっと拭く。
赤白の塗装は剥げている。
ひび割れたパネルは直せない。
けれど、少しだけ綺麗になった。
「今日から、よろしくお願いします」
店主は言った。
返事はない。
それでも、いい。
この店には、返事のないものがたくさんある。
空席。
冷めた一杯目のコーヒー。
閉めてはいけないという言葉。
思い出せない名前。
そして、いつか来る最後の客。
店主は扉の札を見た。
――開店中。
その文字は、今日も変わらず表を向いている。
世界が終わっても。
人間になりたかった自動販売機が、最後に「どういたしまして」と言えたあとも。
喫茶店だけは、まだ営業している。
最後の客が来る、その日までは。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第7話は、人間になりたかった自動販売機・AVM-0321のお話でした。
飲み物を出し、ありがとうと言われる。
けれど、自分からは返事ができない。
そんな彼が、最後に「どういたしまして」と言えたこと。
そして、誰かの手を少し温められたこと。
機械であっても、そこに残っていたものは確かに心のようなものだったのかもしれません。
AVMはこれからも、喫茶ミオの片隅に立ち続けます。
次回は、第8話「元魔王の休暇」です。
よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。




