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第5話 閉めてはいけない店

第5話です。


篠原が残した言葉。


「この店は、閉めてはいけない」

「最後の客が来るまでは」


その言葉をきっかけに、店主は少しずつ喫茶店の奥へ踏み込んでいきます。


この店は何なのか。

店主はなぜ記憶を失っているのか。

そして、喫茶ミオという名前に込められた意味とは。


第1章の締めとなるお話です。


お付き合いいただけると嬉しいです。


 その朝、店主は扉の札を裏返す前に、少しだけ立ち止まった。

 手の中には、木製の札がある。

 片面には「閉店」。

 もう片面には「開店中」。

 どちらも、誰かが丁寧に彫った文字だった。黒い塗料はところどころ剥げているが、指でなぞると、文字のくぼみがはっきり分かる。

 ――閉店。

 その二文字を見ていると、胸の奥が静かにざわついた。

 昨日、幽霊になった常連客が来た。

 篠原宗一郎。

 かつてこの店に通っていた老人。教師だった人。窓際の奥の席を好み、青い線の入ったカップで出す深煎りのコーヒーを飲んでいた人。

 彼はもう死んでいた。

 それでも、この店に来た。

 最後にもう一度、いつもの席で、いつものコーヒーを飲むために。

 そして、消える前にこう言った。

 ――この店は、閉めてはいけない。

 ――最後の客が来るまでは。

 その言葉が、店主の中でずっと残っている。

 最後の客。

 誰のことなのか分からない。

 いつ来るのかも分からない。

 そもそも、なぜこの店を閉めてはいけないのかも分からない。

 けれど、店主はその言葉を否定できなかった。

 なぜなら、同じような感覚を、ずっと前から持っていたからだ。

 毎朝、理由もなく店を開けていた。

 誰も来ないかもしれないのに、湯を沸かし、豆を挽き、カップを磨いていた。

 閉めてはいけない。

 その命令のような感覚は、篠原に言われる前から、店主の身体の奥にあった。

 ただ、言葉になっていなかっただけだ。

 店主は札を裏返した。

 ――開店中。

 その瞬間、店内の空気がゆっくりと動いた。

 照明が灯る。厨房の奥で小さな機械が低く唸る。蛇口から水が一滴落ち、金属のシンクに澄んだ音を立てる。

 店が目を覚ます。

 それは毎朝のことだった。

 けれど今日は、その変化がいつもよりはっきり感じられた。

 まるで店そのものが、店主を見ているようだった。

「……今日も、開けます」

 店主は誰にともなく言った。

 返事はない。

 だが、壁の奥で何かが微かに軋んだ気がした。

 店主はカウンターへ入り、いつもの一杯目のコーヒーを淹れた。

 豆を挽く。

 湯を落とす。

 白いカップに注ぐ。

 そして、カウンターの端の席に置く。

 誰のためなのか分からない一杯。

 けれど、今朝はその一杯を見つめる目が変わっていた。

 これは、ただの習慣なのだろうか。

 それとも、誰かを待つためのものなのだろうか。

 最後の客。

 その客のための一杯なのかもしれない。

 店主はそう考えて、すぐに首を振った。

 分からないことを考えても、答えは出ない。

 ならば、できることをするしかない。

 カップを整え、カウンターを拭く。

 それから店主は、茶色いノートを取り出した。

 これまでの客の記録が、そこに残っている。

 ――一人目の客。AD-17。配送完了。

 ――二人目の客。黒瀬真悟。最後の新聞記者。

 ――三人目の客。アメ。

 ――四人目の客。篠原宗一郎。

 名前を読み返すたびに、それぞれの気配が店内に戻ってくるような気がした。

 AD-17のぎこちない足音。

 黒瀬のペンが紙を走る音。

 アメが蜂蜜入りのホットミルクを両手で包んだ時の小さな息。

 篠原が最後の一口を飲んだ時の、満たされたような「ああ」という声。

 この店は、客の気配を覚えている。

 篠原はそう言った。

 店主も、少しずつそう思い始めていた。

 ここに来た客は、完全には消えない。

 何かを終わらせて去っていく。

 けれど、その人がここにいたという事実だけは、店の中に残る。

 店主はノートを閉じようとして、ふと気づいた。

 最後のページではない。

 ノートの後ろの方に、紙が少しだけ膨らんでいる箇所があった。

 昨日までは気づかなかった。

 店主は指でその部分を開いた。

 ページとページの間に、薄い紙片が挟まっていた。

 古いメモのようだった。

 端は黄ばみ、折り目がついている。

 そこには、見覚えのある筆跡で短い言葉が書かれていた。

 ――店の奥を調べて。

 店主の手が止まった。

 筆跡に見覚えがある。

 けれど、それが誰の字なのか分からない。

 自分の字か。

 それとも、あの写真に写っていた女性の字か。

 柔らかく、少し丸みのある文字だった。黒瀬の力強い字でも、店主がノートに書くぎこちない字でもない。

 店主は、昨日見つけた写真集のことを思い出した。

 昔の朝霧市。

 その中に写っていた、この喫茶店。

 扉の前に立つ、自分らしき男。

 そして、看板を直していた髪の長い女性。

 篠原は、彼女の名前を言わなかった。

 君自身が思い出すべきだと言った。

 大切なものほど、他人の言葉で渡されると軽くなってしまうことがある、と。

 店主は紙片を見つめた。

 ――店の奥を調べて。

 それは、命令ではなかった。

 お願いに近かった。

 誰かが、店主に残した言葉。

 店主はゆっくり息を吐いた。

 今まで、店の奥をきちんと調べたことはなかった。

 事務室、厨房、倉庫、裏口。

 見たことはある。

 使ってもいる。

 けれど、詳しく調べようとすると、なぜかいつも途中でやめてしまっていた。

 思い出そうとすると頭が痛くなるように。

 店の奥へ踏み込もうとすると、胸の奥がざわついて、手が止まってしまう。

 しかし今日は違った。

 篠原が言った。

 君はもう、始めている。

 店を開け続けなさい。

 最後の客が来るまでは。

 店主はメモをノートに戻さず、カウンターの上に置いた。

「調べます」

 小さくそう言うと、店主は厨房の奥へ向かった。

 まず、いつも使っている厨房。

 清潔に保たれているが、どこか古い。壁には小さなタイルが並び、コンロの横には鍋やフライパンが吊るされている。棚には砂糖、塩、小麦粉、茶葉、ココア、蜂蜜、乾燥ハーブなどが整然と並んでいる。

 店主は棚を一つずつ開けた。

 必要なものは、いつもそこにある。

 だが、量が減った気配はない。

 パンを焼けばパンがある。卵を使えば卵がある。アメに蜂蜜を渡しても、瓶はまた棚に戻っている。

 補充している人間はいない。

 店主自身もしていない。

 この店は、客に必要なものを用意している。

 そう考えるのが一番自然だった。

 自然というには、あまりに不自然だが。

 冷蔵庫を開ける。

 牛乳。卵。バター。少しの野菜。チーズ。

 すべて新鮮だった。

 奥の小さな仕切りには、布に包まれた何かが置いてあった。店主はそれを取り出す。

 中身は、小さなケーキだった。

 丸いスポンジに白いクリーム。上には苺が一つ。

 店主は息を呑んだ。

 苺。

 誕生日。

 AD-17が届けた、五十年前の誕生日プレゼント。

 桜庭ユイの日記。

 ――ちゃんと届いたら、ありがとうって言いたい。

 このケーキは誰のためのものなのか。

 AD-17の客としての一杯がコーヒーだったように。

 もしかすると、店は客に渡せなかったもの、必要だったもの、思い出させるものを、形にするのかもしれない。

 店主はケーキをじっと見つめた。

 だが、それはすぐに淡く揺らぎ、次の瞬間には消えていた。

 布だけが手元に残る。

 幻だったのか。

 それとも、店が一瞬だけ見せた記憶だったのか。

 店主は冷蔵庫を閉めた。

 心臓が少し早くなっている。

「……奥を調べる」

 自分に言い聞かせるように呟き、店主はさらに奥へ進んだ。

 厨房の奥には、小さな倉庫がある。

 普段はあまり入らない。

 重い木の扉を開けると、乾いた木と古い紙の匂いがした。

 中は思ったより広かった。

 壁一面に棚があり、そこには空き瓶、古いメニュー表、予備の皿、布巾、季節飾り、使われなくなった器具、紙袋、木箱などが並んでいた。

 埃は少ない。

 ずっと使われていない場所のはずなのに、誰かが定期的に手入れしているように整っている。

 店主は棚の端から一つずつ見ていった。

 最初に見つけたのは、古いメニュー表だった。

 表紙には手書きでこう書かれている。

 ――喫茶ミオ。

 店主の呼吸が止まりかけた。

 喫茶ミオ。

 この店の名前。

 以前、どこかで聞いた気がする。

 いや、まだ聞いていない。

 だが、その名前は店主の胸に強く響いた。

 ミオ。

 声に出そうとして、喉が詰まった。

 名前には力がある。

 篠原の言葉が蘇る。

 忘れた名前を急に外から渡されると、心がそれを受け取れないことがある。

 ミオ。

 それは店名なのか。

 人名なのか。

 それとも、その両方なのか。

 店主はメニュー表を開いた。

 中には、丁寧な字で飲み物と軽食の名前が並んでいる。

 ブレンドコーヒー。

 深煎りコーヒー。

 カフェオレ。

 ミルクコーヒー。

 蜂蜜入りホットミルク。

 ココア。

 紅茶。

 トースト。

 卵サンド。

 季節の小さなケーキ。

 いくつかのメニューの横に、鉛筆で小さな書き込みがあった。

 ――篠原先生、深煎り。砂糖一つ。混ぜない。

 店主は指先でその文字をなぞった。

 篠原の注文。

 昨日、店主の手が自然に淹れた一杯。

 やはり、記録が残っていた。

 このメニュー表に。

 この店に。

 その下には、別の書き込みもある。

 ――黒瀬さん、濃いめ。締め切り前は二杯目薄め。

 店主は思わず目を見開いた。

 黒瀬。

 最後の新聞記者。

 彼も、昔この店に来ていたのか。

 いや、黒瀬は店に初めて来たような様子だった。

 だが、この書き込みはどういうことなのか。

 もしかすると、別の黒瀬なのか。

 それとも、店主が忘れているだけで、黒瀬は昔の常連だったのか。

 店主はページをめくった。

 ――ユイちゃん、甘めのミルクコーヒー。熱いの苦手。

 胸が強く痛んだ。

 ユイ。

 桜庭ユイ。

 AD-17が誕生日プレゼントを届けた少女。

 彼女も、この店に来たことがあったのだろうか。

 それとも、未来の記憶なのか。

 過去の記録なのか。

 客の心残りが店に記録されているのか。

 分からない。

 ページの端には、さらに別の文字があった。

 ――名前を忘れた子には、無理に聞かない。先に温かいもの。

 これは、アメのことだろうか。

 だが、アメは昨日初めて店に来た。

 このメニュー表は古い。

 古いはずだ。

 時間が、ここでは一方向に流れていないのかもしれない。

 店主は思わず倉庫の壁にもたれた。

 店の中にいると、時々感じる違和感。

 過去のようなもの。

 未来のようなもの。

 客が来るたびに店の奥で鳴る、かちりという音。

 この店は、単なる建物ではない。

 それはもう分かっていた。

 だが、ここまで明確に見せられると、さすがに足元が揺らぐ。

 店主はメニュー表を閉じた。

 表紙の文字をもう一度見る。

 ――喫茶ミオ。

 ミオ。

 その名前を見ていると、耳の奥に声が蘇りそうになる。

 明るい声。

 少し笑いを含んだ声。

 ――この店、名前どうする?

 誰かがそう言っている。

 ――君の好きな名前でいいよ。

 もう一人が答える。

 ――それ、一番困る答えだよ。

 笑い声。

 カップが触れ合う音。

 春の風。

 桜の花びら。

 店主は額を押さえた。

 痛い。

 だが、今度は完全には逃げなかった。

 痛みの奥に、温かさがあった。

 アメが言った通りだ。

 思い出すのは痛い。

 でも、温かい。

 店主はゆっくり息を整え、メニュー表を抱えて倉庫の奥へ進んだ。

 奥には、古い木箱が積まれていた。

 一つには「季節飾り」と書かれている。

 開けると、桜の造花、小さな風鈴、秋の落ち葉を模した飾り、クリスマス用の小さな星、正月の小さな置物が入っていた。

 そのどれもに、店の記憶が染み込んでいるようだった。

 桜の造花を手に取る。

 一瞬、店内に淡い桃色の花びらが舞った気がした。

 風鈴を指でつつく。

 ちりん、と鳴る。

 すると、夏の夕方のような気配がした。

 窓が開いていて、蝉の声が遠くから聞こえ、誰かが「暑いね」と笑っている。

 店主は風鈴をそっと戻した。

 次の木箱には、「預かりもの」と書かれていた。

 店主は少し迷ってから、蓋を開けた。

 中には、いくつかの品物が入っていた。

 錆びた小さな鍵。

 古い万年筆。

 子ども用の髪留め。

 折れた眼鏡。

 写真の入っていない写真立て。

 金属製の名札。

 それぞれに、誰かの気配があった。

 店主が万年筆に触れると、黒瀬の声が聞こえた気がした。

 ――インクが切れても、書く癖は抜けないもんだ。

 髪留めに触れると、子どもの笑い声がした。

 鍵に触れると、誰かが扉を閉める音がした。

 名札に触れようとした時、店主は手を止めた。

 金属製の名札は、裏返しになっている。

 表を見れば、誰のものか分かるかもしれない。

 自分の名前が書かれているかもしれない。

 あるいは、あの女性の名前が。

 店主は喉を鳴らした。

 手を伸ばす。

 しかし、指先が名札に触れる直前、店の表からベルの音がした。

 からん。

 店主は驚いて顔を上げた。

 客か。

 慌てて倉庫を出ようとした。

 だが、店内に戻っても、誰もいなかった。

 扉は閉まっている。

 札は「開店中」のまま。

 客席は空っぽ。

 ただ、カウンターの端の一杯目のコーヒーから、まだ湯気が立っていた。

 朝淹れてからかなり時間が経っているはずなのに。

 店主は扉へ向かった。

 外には誰もいない。

 灰色の道が続いているだけだ。

 だが、扉の前に、一枚の花びらが落ちていた。

 桜の花びらだった。

 この季節に桜が咲いているはずはない。

 そもそも、店の前に桜の木はもう残っていない。

 店主は花びらを拾い上げた。

 淡い桃色。

 指先に乗せると、すぐに透けるように消えた。

 店主はしばらくその場に立っていた。

 店は、何かを見せようとしている。

 あるいは、思い出させようとしている。

 しかし一度にすべては渡さない。

 少しずつ。

 順番に。

 篠原が言った通りだ。

 思い出すには、順番がある。

 店主は厨房へ戻り、倉庫から持ち出したメニュー表をカウンターに置いた。

 そして、次に事務室を調べることにした。

 事務室は、店主が眠っているソファのある部屋だ。

 小さな机。

 古い椅子。

 壁掛け時計。

 書類棚。

 ソファ。

 普段はただ寝起きする場所として使っているだけで、机の引き出しや棚の中をしっかり見たことはなかった。

 まず机の上を見る。

 古い電気スタンド。インクの乾いたペン立て。空の写真立て。小さなカレンダー。

 カレンダーの日付は、四月十四日で止まっていた。

 店主は息を呑んだ。

 AD-17の配送予定日。

 桜庭ユイの誕生日。

 世界が壊れた日。

 カレンダーの十四日には、赤い丸がついている。

 その横に、小さな文字。

 ――夜、閉店後に話す。

 誰と何を話すつもりだったのか。

 店主はカレンダーに触れた。

 その瞬間、強いノイズのような音が頭の奥に響いた。

 警報。

 遠くの爆発音。

 割れるカップ。

 誰かの叫び声。

 ――今日は閉めない。

 ――でも、外が。

 ――来る人がいるかもしれない。

 ――じゃあ、せめて灯りだけは。

 店主は机に手をついた。

 呼吸が乱れる。

 記憶の断片が、波のように押し寄せては引いていく。

 世界が壊れた日。

 この店は営業していた。

 閉めなかった。

 誰かが、閉めないと決めた。

 それは自分なのか。

 あの女性なのか。

 あるいは、二人で決めたのか。

 店主は震える手で机の引き出しを開けた。

 一段目には、伝票や古いレシートが入っていた。

 二段目には、手紙の束が入っていた。

 三段目は、鍵がかかっていた。

 店主は鍵を持っていない。

 そう思った瞬間、倉庫の木箱にあった錆びた鍵を思い出した。

 あれだ。

 店主は急いで倉庫へ戻り、預かりものの箱から鍵を取った。

 事務室に戻り、三段目の鍵穴に差し込む。

 少し固い。

 力を入れると、かちりと音がした。

 引き出しが開く。

 中には、一冊の日記が入っていた。

 黒い表紙。

 角は擦り切れ、ページの端は少し黄ばんでいる。

 表紙には何も書かれていない。

 店主はそれを両手で持ち上げた。

 重い。

 紙の重さだけではない。

 そこに詰まっている何かが、ずしりと手に伝わる。

 開くのが怖かった。

 だが、開かなければならない気がした。

 店主は最初のページを開いた。

 そこには、自分の字によく似た筆跡で日付と文章が書かれていた。

 ――四月十四日。

 ――外では朝から妙な警報が鳴っている。

 ――ミオは「今日は早めに閉めた方がいいかも」と言った。

 店主の視界が揺れた。

 ミオ。

 やはり、それは名前だった。

 店名でもあり、人名でもある。

 喫茶ミオ。

 ミオという人。

 店主は次の行を読んだ。

 ――でも、篠原先生はいつもの席に来た。

 ――黒瀬さんは締め切りが近いと言いながら二杯目を飲んでいた。

 ――ユイちゃんは、誕生日だからと少しだけおしゃれをしていた。

 店主は息を止めた。

 全員、つながっている。

 AD-17の受取人であるユイ。

 最後の新聞記者、黒瀬。

 幽霊になった常連、篠原。

 彼らは、世界が壊れる前から、この店に来ていた。

 店主が忘れているだけで。

 この店は、ただ偶然彼らを迎えているのではない。

 かつてここにいた人たち。

 この店に関わった人たち。

 あるいは、この店に心残りを持つ人たちが、終わった世界の中で再び扉を開けているのだ。

 店主はページをめくった。

 ――十時三十五分頃、遠くで大きな音がした。

 ――通信が切れた。

 ――窓の外を走る人が増えた。

 ――ミオが非常用の水と毛布を出した。

 ――店を閉めようかと言ったら、彼女は首を振った。

 次の行は、少し文字が乱れていた。

 ――「ここは開けておこう。誰かが帰ってこられる場所が必要だから」

 店主は目を閉じた。

 声が聞こえた。

 はっきりと。

 優しく、けれど強い声。

 ――ここは開けておこう。

 ミオ。

 その名前を胸の中で呼んだ瞬間、頭が割れるように痛んだ。

 店主は椅子に座り込んだ。

 息が詰まる。

 視界が白くなる。

 断片が押し寄せる。

 店内に人がいる。

 外では警報が鳴っている。

 黒瀬が外へ取材に出ようとしている。

 篠原が子どもたちに落ち着くよう声をかけている。

 ユイが誕生日のリボンを握りしめている。

 AD-17が店の前を通り過ぎる。

 ミオがカウンターの向こうで、湯を沸かしている。

 店主が叫ぶ。

 ――危ないから奥へ。

 誰かが泣いている。

 カップが割れる。

 窓が震える。

 ミオが振り返る。

 笑っている。

 ――大丈夫。まだ、淹れられるよ。

 そこで記憶は途切れた。

 店主は机に突っ伏すようにして呼吸した。

 痛い。

 だが、今度は逃げなかった。

 逃げたくなかった。

 日記を読む手は震えていたが、閉じなかった。

 次のページ。

 そこから先は、途中で文字が乱れていた。

 ――避難所に行けない人たちが来る。

 ――ミオは全員に温かいものを出している。

 ――水が足りないはずなのに、なぜかまだ出る。

 ――電気も消えない。

 ――この店は、何かおかしい。

 店主は眉をひそめた。

 この店の異常は、世界が壊れた後に始まったのか。

 いや、壊れ始めたその日に、もう起きていた。

 次の行。

 ――ミオは、前から何か知っていたのかもしれない。

 ――問い詰める時間がない。

 その次のページは破れていた。

 何枚か、意図的に抜かれている。

 店主は焦るようにページをめくった。

 残っている次のページには、日付がなかった。

 文字はさらに乱れている。

 ――この店を閉めてはいけない。

 ――最後の客が来るまでは。

 店主は動けなくなった。

 篠原が言った言葉。

 そして、日記に書かれている言葉。

 これは、篠原が知っていたのではない。

 この言葉は、元からここにあった。

 店主自身が書いたのか。

 ミオが言ったのか。

 あるいは、二人で決めたのか。

 次の行には、こう書かれていた。

 ――もし僕が忘れていたら、この日記を読め。

 ――ただし、一度に全部読むな。

 ――心が壊れる。

 店主はページをめくろうとして、手を止めた。

 一度に全部読むな。

 心が壊れる。

 それは自分への警告だった。

 店主は日記を閉じた。

 読みたい。

 続きを知りたい。

 ミオのことを知りたい。

 この店が何なのか知りたい。

 最後の客が誰なのか知りたい。

 だが、今の自分では受け止めきれない。

 それも分かった。

 店主は日記を机の上に置き、ゆっくり立ち上がった。

 店内へ戻ると、空気が少し変わっていた。

 何かが近づいている。

 そう感じた。

 客ではない。

 いや、客かもしれない。

 だが、まだ扉の外にはいない。

 店主はカウンターに戻り、冷めた一杯目のコーヒーを見た。

 湯気はない。

 けれど、表面がわずかに揺れていた。

 風は入っていない。

 店主はカップを手に取った。

 その瞬間、店の奥で音がした。

 かちり。

 時計の針が進む音。

 だが今回は、一度では終わらなかった。

 かちり。

 かちり。

 かちり。

 三度、続いた。

 店主は振り返った。

 厨房の奥。

 倉庫でも事務室でもない、さらに奥。

 そこに、見慣れない扉が現れていた。

 今までそんな扉はなかった。

 少なくとも、店主の記憶にはない。

 古い木の扉。

 表面には細かな傷があり、中央に小さな真鍮のプレートがついている。

 プレートには、何も書かれていない。

 店主はゆっくり近づいた。

 扉の前に立つと、冷たい空気が足元に流れてきた。

 地下へ続いている。

 そう直感した。

 この店には地下がある。

 今まで知らなかった。

 あるいは、知らないことにしていた。

 扉の取っ手に手をかける。

 冷たい。

 開けようとした瞬間、頭の中に声が響いた。

 ――まだ。

 店主は手を離した。

 声はミオのものだったのか。

 それとも、自分自身の記憶なのか。

 まだ。

 まだ早い。

 そう言われた気がした。

 店主は扉の前で立ち尽くした。

 開けたい。

 だが、開けてはいけない。

 今日は、日記を見つけた。

 店名を知った。

 ミオという名前を知った。

 この店が世界の崩壊の日にも開いていたことを知った。

 それだけで、心は十分に揺れている。

 今、地下へ降りれば、本当に何かが壊れるかもしれない。

 店主は一歩下がった。

「……まだ、ですね」

 小さくそう言うと、扉の冷気が少し和らいだ気がした。

 次の瞬間、表の扉のベルが鳴った。

 からん。

 店主は弾かれるように振り返った。

 客だ。

 今度は本当に。

 店主は急いで店内へ戻った。

 扉の前に、誰かが立っていた。

 最初、店主はその人物を人間だと思った。

 背が高い。

 肩幅が広い。

 旅装束のようなものを着ている。

 ぼろぼろの外套。泥のついたブーツ。腰には剣の鞘。

 しかし、その剣は折れていた。

 鞘に収まりきらないほど不格好に欠け、柄には乾いた血のような黒ずみが残っている。

 男の顔は疲れきっていた。

 年齢は三十代半ばほどに見えるが、目だけは何十年も戦い続けた老人のようだった。

 髪は乱れ、頬には古い傷があり、右腕には包帯が巻かれている。

 男は店内を見回した。

 そして、かすれた声で言った。

「……ここは」

 店主は息を整え、いつもの言葉を口にした。

「いらっしゃいませ」

 男はその言葉を聞いて、信じられないものを見るような顔をした。

「店なのか」

「はい。喫茶店です」

「世界は、もう終わったはずだ」

「そうですね」

「なのに、店が開いているのか」

「はい」

 男は扉の前に立ったまま、しばらく動かなかった。

 濡れてもいないのに、全身から疲労が滴っているように見えた。

 店主は一歩近づいた。

「お席へどうぞ」

「……金はない」

「構いません」

「剣も折れた」

「それも構いません」

「俺は」

 男は何かを言いかけて、唇を噛んだ。

 そして、絞り出すように言った。

「俺は、世界を救えなかった」

 店主は黙って男を見た。

 この人も、何かを終わらせに来たのだ。

 そう分かった。

 男は折れた剣に手を置き、震える声で続けた。

「魔王を倒した。仲間も失った。国も燃えた。それでも、最後には救えると思っていた」

 店内は静まり返っていた。

 男の声だけが響く。

「なのに、世界は終わった」

 その言葉には、怒りも、悲しみも、疲れも、絶望も混ざっていた。

 店主はゆっくり頭を下げた。

「まずは、座ってください」

「……俺に、座る資格があるのか」

「ここでは、あります」

 男は店主を見た。

「なぜ」

「客ですから」

 店主はそう答えた。

 男は一瞬、泣きそうな顔をした。

 だが、涙は出なかった。

 もう枯れているのかもしれない。

 店主は窓際ではなく、カウンターに近い席を示した。

 男は重い足取りで歩き、椅子に腰を下ろした。

 椅子がぎしりと鳴る。

 その音が、妙に現実的だった。

 店主はカウンターに入った。

 豆の缶を開ける。

 今日の客には、どんな一杯が必要なのだろう。

 濃く、苦いコーヒー。

 砂糖もミルクもいらない。

 飲んだ瞬間に、目を背けていた苦さを思い出すような一杯。

 しかし、その奥に少しだけ熱が残るような一杯。

 店主の手は自然に動いた。

 男はカウンター越しに、店主を見ていた。

「お前は、何者だ」

「分かりません」

「分からない?」

「名前も、過去も、覚えていません」

「それでも店をやっているのか」

「はい」

「なぜ」

 店主は湯を注ぎながら、少しだけ考えた。

 篠原の言葉。

 日記の言葉。

 ミオの声。

 閉めてはいけない店。

 最後の客が来るまでは。

「閉めてはいけないからです」

 店主は言った。

 男は眉を寄せた。

「誰に言われた」

「たぶん、僕自身に」

 店主はカップにコーヒーを注いだ。

 黒い液体から、強い香りが立ち上る。

「お待たせしました」

 男の前にカップを置く。

 男はしばらくそれを見つめた。

「毒ではないだろうな」

「少なくとも、僕はそう思っています」

「変な答えだ」

「よく言われます」

「誰に」

「最近は、名前を売った少女に」

 男は意味が分からないという顔をした。

 それでも、カップを手に取った。

 ひと口飲む。

 顔をしかめる。

「苦い」

「はい」

「ひどく苦い」

「必要かと思いまして」

「客に苦いものを出すのか」

「たぶん、この店では」

 男はもう一口飲んだ。

 今度は顔をしかめなかった。

 ただ、目を伏せた。

「……温かいな」

「はい」

「まだ、温かいものがあるのか」

「あります」

 男はカップを両手で包むように持った。

 その手は大きく、傷だらけだった。

 剣を握り続けた手。

 誰かを守ろうとして、何かを失い続けた手。

 店主はその手を見ながら、ふと自分の手を思い出した。

 コーヒーを淹れる手。

 篠原の注文を覚えていた手。

 ミオのことを、まだどこかで覚えているかもしれない手。

 男はゆっくり息を吐いた。

「俺は勇者だった」

 その言葉は、少しも誇らしげではなかった。

 むしろ、呪いのようだった。

「そう呼ばれていた。剣を抜いた時から。魔王を倒せる唯一の人間だと。世界を救う者だと」

「お名前を聞いても?」

 男は少し黙った。

「レオン」

「レオンさん」

「勇者レオン。そう呼ばれていた」

 店主はノートのことを思い出した。

 五人目の客。

 勇者レオン。

 世界を救えなかった人。

「話してもらえますか」

 店主は言った。

「何を」

「ここへ来るまでのことを」

 レオンは苦く笑った。

「長いぞ」

「店は開いています」

「閉めなくていいのか」

「閉めてはいけないので」

 レオンはその答えを聞いて、少しだけ目を伏せた。

「奇妙な店だ」

「はい」

「だが」

 レオンはカップを見つめた。

「今は、ありがたい」

 店主は何も言わなかった。

 ただ、カウンターの内側で静かに立っていた。

 店の奥には、まだ開けていない地下への扉がある。

 机の上には、途中まで読んだ日記がある。

 倉庫には、喫茶ミオのメニュー表がある。

 自分の過去は、少しずつ近づいている。

 だが今は、目の前の客がいる。

 折れた剣を持った、世界を救えなかった勇者。

 彼が何を終わらせに来たのか。

 それを見届けることが、今の店主の仕事だった。

 レオンは、苦いコーヒーをもう一口飲んだ。

 そして、遠い戦場を見るような目で語り始めた。

「最初に仲間が死んだのは、北の砦だった」

 その言葉とともに、第5話の夜が静かに深まっていった。

 外では、灰色の風が吹いている。

 世界は終わった。

 それでも喫茶店だけは、明かりを消さずに営業していた。

 最後の客が来る、その日までは。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第5話は、店主が喫茶店そのものの謎に触れ始める回でした。


「喫茶ミオ」という店名。

世界が壊れた日にも、この店が開いていたこと。

そして、日記に残されていた「この店を閉めてはいけない。最後の客が来るまでは」という言葉。


これまで訪れた客たちも、偶然この店に来ていたわけではなさそうです。


第1章はここで一区切りとなります。

次回からは第2章に入り、第6話「世界を救えなかった勇者」へ続きます。


よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。


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