第5話 閉めてはいけない店
第5話です。
篠原が残した言葉。
「この店は、閉めてはいけない」
「最後の客が来るまでは」
その言葉をきっかけに、店主は少しずつ喫茶店の奥へ踏み込んでいきます。
この店は何なのか。
店主はなぜ記憶を失っているのか。
そして、喫茶ミオという名前に込められた意味とは。
第1章の締めとなるお話です。
お付き合いいただけると嬉しいです。
その朝、店主は扉の札を裏返す前に、少しだけ立ち止まった。
手の中には、木製の札がある。
片面には「閉店」。
もう片面には「開店中」。
どちらも、誰かが丁寧に彫った文字だった。黒い塗料はところどころ剥げているが、指でなぞると、文字のくぼみがはっきり分かる。
――閉店。
その二文字を見ていると、胸の奥が静かにざわついた。
昨日、幽霊になった常連客が来た。
篠原宗一郎。
かつてこの店に通っていた老人。教師だった人。窓際の奥の席を好み、青い線の入ったカップで出す深煎りのコーヒーを飲んでいた人。
彼はもう死んでいた。
それでも、この店に来た。
最後にもう一度、いつもの席で、いつものコーヒーを飲むために。
そして、消える前にこう言った。
――この店は、閉めてはいけない。
――最後の客が来るまでは。
その言葉が、店主の中でずっと残っている。
最後の客。
誰のことなのか分からない。
いつ来るのかも分からない。
そもそも、なぜこの店を閉めてはいけないのかも分からない。
けれど、店主はその言葉を否定できなかった。
なぜなら、同じような感覚を、ずっと前から持っていたからだ。
毎朝、理由もなく店を開けていた。
誰も来ないかもしれないのに、湯を沸かし、豆を挽き、カップを磨いていた。
閉めてはいけない。
その命令のような感覚は、篠原に言われる前から、店主の身体の奥にあった。
ただ、言葉になっていなかっただけだ。
店主は札を裏返した。
――開店中。
その瞬間、店内の空気がゆっくりと動いた。
照明が灯る。厨房の奥で小さな機械が低く唸る。蛇口から水が一滴落ち、金属のシンクに澄んだ音を立てる。
店が目を覚ます。
それは毎朝のことだった。
けれど今日は、その変化がいつもよりはっきり感じられた。
まるで店そのものが、店主を見ているようだった。
「……今日も、開けます」
店主は誰にともなく言った。
返事はない。
だが、壁の奥で何かが微かに軋んだ気がした。
店主はカウンターへ入り、いつもの一杯目のコーヒーを淹れた。
豆を挽く。
湯を落とす。
白いカップに注ぐ。
そして、カウンターの端の席に置く。
誰のためなのか分からない一杯。
けれど、今朝はその一杯を見つめる目が変わっていた。
これは、ただの習慣なのだろうか。
それとも、誰かを待つためのものなのだろうか。
最後の客。
その客のための一杯なのかもしれない。
店主はそう考えて、すぐに首を振った。
分からないことを考えても、答えは出ない。
ならば、できることをするしかない。
カップを整え、カウンターを拭く。
それから店主は、茶色いノートを取り出した。
これまでの客の記録が、そこに残っている。
――一人目の客。AD-17。配送完了。
――二人目の客。黒瀬真悟。最後の新聞記者。
――三人目の客。アメ。
――四人目の客。篠原宗一郎。
名前を読み返すたびに、それぞれの気配が店内に戻ってくるような気がした。
AD-17のぎこちない足音。
黒瀬のペンが紙を走る音。
アメが蜂蜜入りのホットミルクを両手で包んだ時の小さな息。
篠原が最後の一口を飲んだ時の、満たされたような「ああ」という声。
この店は、客の気配を覚えている。
篠原はそう言った。
店主も、少しずつそう思い始めていた。
ここに来た客は、完全には消えない。
何かを終わらせて去っていく。
けれど、その人がここにいたという事実だけは、店の中に残る。
店主はノートを閉じようとして、ふと気づいた。
最後のページではない。
ノートの後ろの方に、紙が少しだけ膨らんでいる箇所があった。
昨日までは気づかなかった。
店主は指でその部分を開いた。
ページとページの間に、薄い紙片が挟まっていた。
古いメモのようだった。
端は黄ばみ、折り目がついている。
そこには、見覚えのある筆跡で短い言葉が書かれていた。
――店の奥を調べて。
店主の手が止まった。
筆跡に見覚えがある。
けれど、それが誰の字なのか分からない。
自分の字か。
それとも、あの写真に写っていた女性の字か。
柔らかく、少し丸みのある文字だった。黒瀬の力強い字でも、店主がノートに書くぎこちない字でもない。
店主は、昨日見つけた写真集のことを思い出した。
昔の朝霧市。
その中に写っていた、この喫茶店。
扉の前に立つ、自分らしき男。
そして、看板を直していた髪の長い女性。
篠原は、彼女の名前を言わなかった。
君自身が思い出すべきだと言った。
大切なものほど、他人の言葉で渡されると軽くなってしまうことがある、と。
店主は紙片を見つめた。
――店の奥を調べて。
それは、命令ではなかった。
お願いに近かった。
誰かが、店主に残した言葉。
店主はゆっくり息を吐いた。
今まで、店の奥をきちんと調べたことはなかった。
事務室、厨房、倉庫、裏口。
見たことはある。
使ってもいる。
けれど、詳しく調べようとすると、なぜかいつも途中でやめてしまっていた。
思い出そうとすると頭が痛くなるように。
店の奥へ踏み込もうとすると、胸の奥がざわついて、手が止まってしまう。
しかし今日は違った。
篠原が言った。
君はもう、始めている。
店を開け続けなさい。
最後の客が来るまでは。
店主はメモをノートに戻さず、カウンターの上に置いた。
「調べます」
小さくそう言うと、店主は厨房の奥へ向かった。
まず、いつも使っている厨房。
清潔に保たれているが、どこか古い。壁には小さなタイルが並び、コンロの横には鍋やフライパンが吊るされている。棚には砂糖、塩、小麦粉、茶葉、ココア、蜂蜜、乾燥ハーブなどが整然と並んでいる。
店主は棚を一つずつ開けた。
必要なものは、いつもそこにある。
だが、量が減った気配はない。
パンを焼けばパンがある。卵を使えば卵がある。アメに蜂蜜を渡しても、瓶はまた棚に戻っている。
補充している人間はいない。
店主自身もしていない。
この店は、客に必要なものを用意している。
そう考えるのが一番自然だった。
自然というには、あまりに不自然だが。
冷蔵庫を開ける。
牛乳。卵。バター。少しの野菜。チーズ。
すべて新鮮だった。
奥の小さな仕切りには、布に包まれた何かが置いてあった。店主はそれを取り出す。
中身は、小さなケーキだった。
丸いスポンジに白いクリーム。上には苺が一つ。
店主は息を呑んだ。
苺。
誕生日。
AD-17が届けた、五十年前の誕生日プレゼント。
桜庭ユイの日記。
――ちゃんと届いたら、ありがとうって言いたい。
このケーキは誰のためのものなのか。
AD-17の客としての一杯がコーヒーだったように。
もしかすると、店は客に渡せなかったもの、必要だったもの、思い出させるものを、形にするのかもしれない。
店主はケーキをじっと見つめた。
だが、それはすぐに淡く揺らぎ、次の瞬間には消えていた。
布だけが手元に残る。
幻だったのか。
それとも、店が一瞬だけ見せた記憶だったのか。
店主は冷蔵庫を閉めた。
心臓が少し早くなっている。
「……奥を調べる」
自分に言い聞かせるように呟き、店主はさらに奥へ進んだ。
厨房の奥には、小さな倉庫がある。
普段はあまり入らない。
重い木の扉を開けると、乾いた木と古い紙の匂いがした。
中は思ったより広かった。
壁一面に棚があり、そこには空き瓶、古いメニュー表、予備の皿、布巾、季節飾り、使われなくなった器具、紙袋、木箱などが並んでいた。
埃は少ない。
ずっと使われていない場所のはずなのに、誰かが定期的に手入れしているように整っている。
店主は棚の端から一つずつ見ていった。
最初に見つけたのは、古いメニュー表だった。
表紙には手書きでこう書かれている。
――喫茶ミオ。
店主の呼吸が止まりかけた。
喫茶ミオ。
この店の名前。
以前、どこかで聞いた気がする。
いや、まだ聞いていない。
だが、その名前は店主の胸に強く響いた。
ミオ。
声に出そうとして、喉が詰まった。
名前には力がある。
篠原の言葉が蘇る。
忘れた名前を急に外から渡されると、心がそれを受け取れないことがある。
ミオ。
それは店名なのか。
人名なのか。
それとも、その両方なのか。
店主はメニュー表を開いた。
中には、丁寧な字で飲み物と軽食の名前が並んでいる。
ブレンドコーヒー。
深煎りコーヒー。
カフェオレ。
ミルクコーヒー。
蜂蜜入りホットミルク。
ココア。
紅茶。
トースト。
卵サンド。
季節の小さなケーキ。
いくつかのメニューの横に、鉛筆で小さな書き込みがあった。
――篠原先生、深煎り。砂糖一つ。混ぜない。
店主は指先でその文字をなぞった。
篠原の注文。
昨日、店主の手が自然に淹れた一杯。
やはり、記録が残っていた。
このメニュー表に。
この店に。
その下には、別の書き込みもある。
――黒瀬さん、濃いめ。締め切り前は二杯目薄め。
店主は思わず目を見開いた。
黒瀬。
最後の新聞記者。
彼も、昔この店に来ていたのか。
いや、黒瀬は店に初めて来たような様子だった。
だが、この書き込みはどういうことなのか。
もしかすると、別の黒瀬なのか。
それとも、店主が忘れているだけで、黒瀬は昔の常連だったのか。
店主はページをめくった。
――ユイちゃん、甘めのミルクコーヒー。熱いの苦手。
胸が強く痛んだ。
ユイ。
桜庭ユイ。
AD-17が誕生日プレゼントを届けた少女。
彼女も、この店に来たことがあったのだろうか。
それとも、未来の記憶なのか。
過去の記録なのか。
客の心残りが店に記録されているのか。
分からない。
ページの端には、さらに別の文字があった。
――名前を忘れた子には、無理に聞かない。先に温かいもの。
これは、アメのことだろうか。
だが、アメは昨日初めて店に来た。
このメニュー表は古い。
古いはずだ。
時間が、ここでは一方向に流れていないのかもしれない。
店主は思わず倉庫の壁にもたれた。
店の中にいると、時々感じる違和感。
過去のようなもの。
未来のようなもの。
客が来るたびに店の奥で鳴る、かちりという音。
この店は、単なる建物ではない。
それはもう分かっていた。
だが、ここまで明確に見せられると、さすがに足元が揺らぐ。
店主はメニュー表を閉じた。
表紙の文字をもう一度見る。
――喫茶ミオ。
ミオ。
その名前を見ていると、耳の奥に声が蘇りそうになる。
明るい声。
少し笑いを含んだ声。
――この店、名前どうする?
誰かがそう言っている。
――君の好きな名前でいいよ。
もう一人が答える。
――それ、一番困る答えだよ。
笑い声。
カップが触れ合う音。
春の風。
桜の花びら。
店主は額を押さえた。
痛い。
だが、今度は完全には逃げなかった。
痛みの奥に、温かさがあった。
アメが言った通りだ。
思い出すのは痛い。
でも、温かい。
店主はゆっくり息を整え、メニュー表を抱えて倉庫の奥へ進んだ。
奥には、古い木箱が積まれていた。
一つには「季節飾り」と書かれている。
開けると、桜の造花、小さな風鈴、秋の落ち葉を模した飾り、クリスマス用の小さな星、正月の小さな置物が入っていた。
そのどれもに、店の記憶が染み込んでいるようだった。
桜の造花を手に取る。
一瞬、店内に淡い桃色の花びらが舞った気がした。
風鈴を指でつつく。
ちりん、と鳴る。
すると、夏の夕方のような気配がした。
窓が開いていて、蝉の声が遠くから聞こえ、誰かが「暑いね」と笑っている。
店主は風鈴をそっと戻した。
次の木箱には、「預かりもの」と書かれていた。
店主は少し迷ってから、蓋を開けた。
中には、いくつかの品物が入っていた。
錆びた小さな鍵。
古い万年筆。
子ども用の髪留め。
折れた眼鏡。
写真の入っていない写真立て。
金属製の名札。
それぞれに、誰かの気配があった。
店主が万年筆に触れると、黒瀬の声が聞こえた気がした。
――インクが切れても、書く癖は抜けないもんだ。
髪留めに触れると、子どもの笑い声がした。
鍵に触れると、誰かが扉を閉める音がした。
名札に触れようとした時、店主は手を止めた。
金属製の名札は、裏返しになっている。
表を見れば、誰のものか分かるかもしれない。
自分の名前が書かれているかもしれない。
あるいは、あの女性の名前が。
店主は喉を鳴らした。
手を伸ばす。
しかし、指先が名札に触れる直前、店の表からベルの音がした。
からん。
店主は驚いて顔を上げた。
客か。
慌てて倉庫を出ようとした。
だが、店内に戻っても、誰もいなかった。
扉は閉まっている。
札は「開店中」のまま。
客席は空っぽ。
ただ、カウンターの端の一杯目のコーヒーから、まだ湯気が立っていた。
朝淹れてからかなり時間が経っているはずなのに。
店主は扉へ向かった。
外には誰もいない。
灰色の道が続いているだけだ。
だが、扉の前に、一枚の花びらが落ちていた。
桜の花びらだった。
この季節に桜が咲いているはずはない。
そもそも、店の前に桜の木はもう残っていない。
店主は花びらを拾い上げた。
淡い桃色。
指先に乗せると、すぐに透けるように消えた。
店主はしばらくその場に立っていた。
店は、何かを見せようとしている。
あるいは、思い出させようとしている。
しかし一度にすべては渡さない。
少しずつ。
順番に。
篠原が言った通りだ。
思い出すには、順番がある。
店主は厨房へ戻り、倉庫から持ち出したメニュー表をカウンターに置いた。
そして、次に事務室を調べることにした。
事務室は、店主が眠っているソファのある部屋だ。
小さな机。
古い椅子。
壁掛け時計。
書類棚。
ソファ。
普段はただ寝起きする場所として使っているだけで、机の引き出しや棚の中をしっかり見たことはなかった。
まず机の上を見る。
古い電気スタンド。インクの乾いたペン立て。空の写真立て。小さなカレンダー。
カレンダーの日付は、四月十四日で止まっていた。
店主は息を呑んだ。
AD-17の配送予定日。
桜庭ユイの誕生日。
世界が壊れた日。
カレンダーの十四日には、赤い丸がついている。
その横に、小さな文字。
――夜、閉店後に話す。
誰と何を話すつもりだったのか。
店主はカレンダーに触れた。
その瞬間、強いノイズのような音が頭の奥に響いた。
警報。
遠くの爆発音。
割れるカップ。
誰かの叫び声。
――今日は閉めない。
――でも、外が。
――来る人がいるかもしれない。
――じゃあ、せめて灯りだけは。
店主は机に手をついた。
呼吸が乱れる。
記憶の断片が、波のように押し寄せては引いていく。
世界が壊れた日。
この店は営業していた。
閉めなかった。
誰かが、閉めないと決めた。
それは自分なのか。
あの女性なのか。
あるいは、二人で決めたのか。
店主は震える手で机の引き出しを開けた。
一段目には、伝票や古いレシートが入っていた。
二段目には、手紙の束が入っていた。
三段目は、鍵がかかっていた。
店主は鍵を持っていない。
そう思った瞬間、倉庫の木箱にあった錆びた鍵を思い出した。
あれだ。
店主は急いで倉庫へ戻り、預かりものの箱から鍵を取った。
事務室に戻り、三段目の鍵穴に差し込む。
少し固い。
力を入れると、かちりと音がした。
引き出しが開く。
中には、一冊の日記が入っていた。
黒い表紙。
角は擦り切れ、ページの端は少し黄ばんでいる。
表紙には何も書かれていない。
店主はそれを両手で持ち上げた。
重い。
紙の重さだけではない。
そこに詰まっている何かが、ずしりと手に伝わる。
開くのが怖かった。
だが、開かなければならない気がした。
店主は最初のページを開いた。
そこには、自分の字によく似た筆跡で日付と文章が書かれていた。
――四月十四日。
――外では朝から妙な警報が鳴っている。
――ミオは「今日は早めに閉めた方がいいかも」と言った。
店主の視界が揺れた。
ミオ。
やはり、それは名前だった。
店名でもあり、人名でもある。
喫茶ミオ。
ミオという人。
店主は次の行を読んだ。
――でも、篠原先生はいつもの席に来た。
――黒瀬さんは締め切りが近いと言いながら二杯目を飲んでいた。
――ユイちゃんは、誕生日だからと少しだけおしゃれをしていた。
店主は息を止めた。
全員、つながっている。
AD-17の受取人であるユイ。
最後の新聞記者、黒瀬。
幽霊になった常連、篠原。
彼らは、世界が壊れる前から、この店に来ていた。
店主が忘れているだけで。
この店は、ただ偶然彼らを迎えているのではない。
かつてここにいた人たち。
この店に関わった人たち。
あるいは、この店に心残りを持つ人たちが、終わった世界の中で再び扉を開けているのだ。
店主はページをめくった。
――十時三十五分頃、遠くで大きな音がした。
――通信が切れた。
――窓の外を走る人が増えた。
――ミオが非常用の水と毛布を出した。
――店を閉めようかと言ったら、彼女は首を振った。
次の行は、少し文字が乱れていた。
――「ここは開けておこう。誰かが帰ってこられる場所が必要だから」
店主は目を閉じた。
声が聞こえた。
はっきりと。
優しく、けれど強い声。
――ここは開けておこう。
ミオ。
その名前を胸の中で呼んだ瞬間、頭が割れるように痛んだ。
店主は椅子に座り込んだ。
息が詰まる。
視界が白くなる。
断片が押し寄せる。
店内に人がいる。
外では警報が鳴っている。
黒瀬が外へ取材に出ようとしている。
篠原が子どもたちに落ち着くよう声をかけている。
ユイが誕生日のリボンを握りしめている。
AD-17が店の前を通り過ぎる。
ミオがカウンターの向こうで、湯を沸かしている。
店主が叫ぶ。
――危ないから奥へ。
誰かが泣いている。
カップが割れる。
窓が震える。
ミオが振り返る。
笑っている。
――大丈夫。まだ、淹れられるよ。
そこで記憶は途切れた。
店主は机に突っ伏すようにして呼吸した。
痛い。
だが、今度は逃げなかった。
逃げたくなかった。
日記を読む手は震えていたが、閉じなかった。
次のページ。
そこから先は、途中で文字が乱れていた。
――避難所に行けない人たちが来る。
――ミオは全員に温かいものを出している。
――水が足りないはずなのに、なぜかまだ出る。
――電気も消えない。
――この店は、何かおかしい。
店主は眉をひそめた。
この店の異常は、世界が壊れた後に始まったのか。
いや、壊れ始めたその日に、もう起きていた。
次の行。
――ミオは、前から何か知っていたのかもしれない。
――問い詰める時間がない。
その次のページは破れていた。
何枚か、意図的に抜かれている。
店主は焦るようにページをめくった。
残っている次のページには、日付がなかった。
文字はさらに乱れている。
――この店を閉めてはいけない。
――最後の客が来るまでは。
店主は動けなくなった。
篠原が言った言葉。
そして、日記に書かれている言葉。
これは、篠原が知っていたのではない。
この言葉は、元からここにあった。
店主自身が書いたのか。
ミオが言ったのか。
あるいは、二人で決めたのか。
次の行には、こう書かれていた。
――もし僕が忘れていたら、この日記を読め。
――ただし、一度に全部読むな。
――心が壊れる。
店主はページをめくろうとして、手を止めた。
一度に全部読むな。
心が壊れる。
それは自分への警告だった。
店主は日記を閉じた。
読みたい。
続きを知りたい。
ミオのことを知りたい。
この店が何なのか知りたい。
最後の客が誰なのか知りたい。
だが、今の自分では受け止めきれない。
それも分かった。
店主は日記を机の上に置き、ゆっくり立ち上がった。
店内へ戻ると、空気が少し変わっていた。
何かが近づいている。
そう感じた。
客ではない。
いや、客かもしれない。
だが、まだ扉の外にはいない。
店主はカウンターに戻り、冷めた一杯目のコーヒーを見た。
湯気はない。
けれど、表面がわずかに揺れていた。
風は入っていない。
店主はカップを手に取った。
その瞬間、店の奥で音がした。
かちり。
時計の針が進む音。
だが今回は、一度では終わらなかった。
かちり。
かちり。
かちり。
三度、続いた。
店主は振り返った。
厨房の奥。
倉庫でも事務室でもない、さらに奥。
そこに、見慣れない扉が現れていた。
今までそんな扉はなかった。
少なくとも、店主の記憶にはない。
古い木の扉。
表面には細かな傷があり、中央に小さな真鍮のプレートがついている。
プレートには、何も書かれていない。
店主はゆっくり近づいた。
扉の前に立つと、冷たい空気が足元に流れてきた。
地下へ続いている。
そう直感した。
この店には地下がある。
今まで知らなかった。
あるいは、知らないことにしていた。
扉の取っ手に手をかける。
冷たい。
開けようとした瞬間、頭の中に声が響いた。
――まだ。
店主は手を離した。
声はミオのものだったのか。
それとも、自分自身の記憶なのか。
まだ。
まだ早い。
そう言われた気がした。
店主は扉の前で立ち尽くした。
開けたい。
だが、開けてはいけない。
今日は、日記を見つけた。
店名を知った。
ミオという名前を知った。
この店が世界の崩壊の日にも開いていたことを知った。
それだけで、心は十分に揺れている。
今、地下へ降りれば、本当に何かが壊れるかもしれない。
店主は一歩下がった。
「……まだ、ですね」
小さくそう言うと、扉の冷気が少し和らいだ気がした。
次の瞬間、表の扉のベルが鳴った。
からん。
店主は弾かれるように振り返った。
客だ。
今度は本当に。
店主は急いで店内へ戻った。
扉の前に、誰かが立っていた。
最初、店主はその人物を人間だと思った。
背が高い。
肩幅が広い。
旅装束のようなものを着ている。
ぼろぼろの外套。泥のついたブーツ。腰には剣の鞘。
しかし、その剣は折れていた。
鞘に収まりきらないほど不格好に欠け、柄には乾いた血のような黒ずみが残っている。
男の顔は疲れきっていた。
年齢は三十代半ばほどに見えるが、目だけは何十年も戦い続けた老人のようだった。
髪は乱れ、頬には古い傷があり、右腕には包帯が巻かれている。
男は店内を見回した。
そして、かすれた声で言った。
「……ここは」
店主は息を整え、いつもの言葉を口にした。
「いらっしゃいませ」
男はその言葉を聞いて、信じられないものを見るような顔をした。
「店なのか」
「はい。喫茶店です」
「世界は、もう終わったはずだ」
「そうですね」
「なのに、店が開いているのか」
「はい」
男は扉の前に立ったまま、しばらく動かなかった。
濡れてもいないのに、全身から疲労が滴っているように見えた。
店主は一歩近づいた。
「お席へどうぞ」
「……金はない」
「構いません」
「剣も折れた」
「それも構いません」
「俺は」
男は何かを言いかけて、唇を噛んだ。
そして、絞り出すように言った。
「俺は、世界を救えなかった」
店主は黙って男を見た。
この人も、何かを終わらせに来たのだ。
そう分かった。
男は折れた剣に手を置き、震える声で続けた。
「魔王を倒した。仲間も失った。国も燃えた。それでも、最後には救えると思っていた」
店内は静まり返っていた。
男の声だけが響く。
「なのに、世界は終わった」
その言葉には、怒りも、悲しみも、疲れも、絶望も混ざっていた。
店主はゆっくり頭を下げた。
「まずは、座ってください」
「……俺に、座る資格があるのか」
「ここでは、あります」
男は店主を見た。
「なぜ」
「客ですから」
店主はそう答えた。
男は一瞬、泣きそうな顔をした。
だが、涙は出なかった。
もう枯れているのかもしれない。
店主は窓際ではなく、カウンターに近い席を示した。
男は重い足取りで歩き、椅子に腰を下ろした。
椅子がぎしりと鳴る。
その音が、妙に現実的だった。
店主はカウンターに入った。
豆の缶を開ける。
今日の客には、どんな一杯が必要なのだろう。
濃く、苦いコーヒー。
砂糖もミルクもいらない。
飲んだ瞬間に、目を背けていた苦さを思い出すような一杯。
しかし、その奥に少しだけ熱が残るような一杯。
店主の手は自然に動いた。
男はカウンター越しに、店主を見ていた。
「お前は、何者だ」
「分かりません」
「分からない?」
「名前も、過去も、覚えていません」
「それでも店をやっているのか」
「はい」
「なぜ」
店主は湯を注ぎながら、少しだけ考えた。
篠原の言葉。
日記の言葉。
ミオの声。
閉めてはいけない店。
最後の客が来るまでは。
「閉めてはいけないからです」
店主は言った。
男は眉を寄せた。
「誰に言われた」
「たぶん、僕自身に」
店主はカップにコーヒーを注いだ。
黒い液体から、強い香りが立ち上る。
「お待たせしました」
男の前にカップを置く。
男はしばらくそれを見つめた。
「毒ではないだろうな」
「少なくとも、僕はそう思っています」
「変な答えだ」
「よく言われます」
「誰に」
「最近は、名前を売った少女に」
男は意味が分からないという顔をした。
それでも、カップを手に取った。
ひと口飲む。
顔をしかめる。
「苦い」
「はい」
「ひどく苦い」
「必要かと思いまして」
「客に苦いものを出すのか」
「たぶん、この店では」
男はもう一口飲んだ。
今度は顔をしかめなかった。
ただ、目を伏せた。
「……温かいな」
「はい」
「まだ、温かいものがあるのか」
「あります」
男はカップを両手で包むように持った。
その手は大きく、傷だらけだった。
剣を握り続けた手。
誰かを守ろうとして、何かを失い続けた手。
店主はその手を見ながら、ふと自分の手を思い出した。
コーヒーを淹れる手。
篠原の注文を覚えていた手。
ミオのことを、まだどこかで覚えているかもしれない手。
男はゆっくり息を吐いた。
「俺は勇者だった」
その言葉は、少しも誇らしげではなかった。
むしろ、呪いのようだった。
「そう呼ばれていた。剣を抜いた時から。魔王を倒せる唯一の人間だと。世界を救う者だと」
「お名前を聞いても?」
男は少し黙った。
「レオン」
「レオンさん」
「勇者レオン。そう呼ばれていた」
店主はノートのことを思い出した。
五人目の客。
勇者レオン。
世界を救えなかった人。
「話してもらえますか」
店主は言った。
「何を」
「ここへ来るまでのことを」
レオンは苦く笑った。
「長いぞ」
「店は開いています」
「閉めなくていいのか」
「閉めてはいけないので」
レオンはその答えを聞いて、少しだけ目を伏せた。
「奇妙な店だ」
「はい」
「だが」
レオンはカップを見つめた。
「今は、ありがたい」
店主は何も言わなかった。
ただ、カウンターの内側で静かに立っていた。
店の奥には、まだ開けていない地下への扉がある。
机の上には、途中まで読んだ日記がある。
倉庫には、喫茶ミオのメニュー表がある。
自分の過去は、少しずつ近づいている。
だが今は、目の前の客がいる。
折れた剣を持った、世界を救えなかった勇者。
彼が何を終わらせに来たのか。
それを見届けることが、今の店主の仕事だった。
レオンは、苦いコーヒーをもう一口飲んだ。
そして、遠い戦場を見るような目で語り始めた。
「最初に仲間が死んだのは、北の砦だった」
その言葉とともに、第5話の夜が静かに深まっていった。
外では、灰色の風が吹いている。
世界は終わった。
それでも喫茶店だけは、明かりを消さずに営業していた。
最後の客が来る、その日までは。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第5話は、店主が喫茶店そのものの謎に触れ始める回でした。
「喫茶ミオ」という店名。
世界が壊れた日にも、この店が開いていたこと。
そして、日記に残されていた「この店を閉めてはいけない。最後の客が来るまでは」という言葉。
これまで訪れた客たちも、偶然この店に来ていたわけではなさそうです。
第1章はここで一区切りとなります。
次回からは第2章に入り、第6話「世界を救えなかった勇者」へ続きます。
よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。




