第3話 記憶を売った少女
第3話です。
今回は、記憶を売って生き延びてきた少女が喫茶店を訪れます。
忘れたから楽になること。
忘れてしまったから空っぽになること。
そして、思い出すことで初めて戻ってくる温かさ。
そんな「記憶」のお話です。
お付き合いいただけると嬉しいです。
雨が降っていた。
世界が終わったあとにも、雨は降る。
それは店主にとって、少し意外なことだった。
空はいつも灰色で、雲は厚く、太陽はほとんど姿を見せない。けれど、そこから水が落ちてくることはあまりなかった。降るとしても、それは雨というより、灰を含んだ細かな霧のようなものだった。
だが、その日の雨は違った。
細い糸のような雨が、朝からずっと降り続いていた。
道路のひび割れに水が溜まり、倒れた街灯の金属部分を濡らし、壊れたバス停の屋根からぽたぽたと雫が落ちる。遠くの廃墟は雨に煙り、いつもより輪郭がぼやけて見えた。
雨音があるだけで、世界は少し生きているように聞こえる。
店主は窓の内側から、その雨を見ていた。
店内は暖かかった。
やかんが火にかけられ、棚の照明が柔らかく灯り、カウンターには磨かれたカップが並んでいる。窓ガラスは雨粒で濡れていたが、割れてはいない。外の冷たさは、ここまでは入ってこない。
今日も、喫茶店だけは営業している。
店主は入り口の札を見た。
――開店中。
その文字は、雨の薄暗さの中でもはっきり見えた。
店を開けてから、店主はまず一杯目のコーヒーを淹れた。
いつもの一杯。
誰のためなのか分からない一杯。
カウンターの端、いつもの席に置く。
湯気が細く立ち上り、雨音に混じって消えていく。
その席には、今日も誰も座っていなかった。
けれど店主は、以前ほどその空席を不自然だとは思わなくなっていた。
壊れかけの配達ロボット、AD-17。
最後の新聞記者、黒瀬真悟。
たった二人の客が来ただけで、店主の中で何かが変わり始めていた。
この店は、ただ待つ場所ではない。
誰かが何かを抱えて辿り着く場所なのだ。
ロボットは、五十年遅れの誕生日プレゼントを届けた。
黒瀬は、世界が終わっても誰かがいたことを記録しようとしていた。
では、次に来る客は何を抱えているのだろう。
店主は、カウンターの下から一冊のノートを取り出した。
表紙の茶色いノート。
前回、黒瀬が去ったあとに見つけたものだ。
最初のページには、店主自身の字でこう書かれている。
――一人目の客。AD-17。配送完了。
――五十年前の誕生日プレゼントを届けに来た。
――最後に、自分は客だったかと尋ねた。
その下には、二人目の客の記録がある。
――二人目の客。黒瀬真悟。最後の新聞記者。
――世界最後の新聞を作っている。
――この店の記事を書いた。
――コーヒーはうまい、と書き残した。
店主はその一文を見るたびに、少しだけ笑ってしまう。
あの記者らしい言葉だった。
黒瀬はまた来ると言った。
記事を刷ったら、一部持ってくると。
彼が本当に戻ってくるのかは分からない。
この世界で約束がどれほど守られるものなのか、店主には分からない。
それでも、その約束があるだけで、店内の空気が少しだけ変わった気がする。
待つ理由が増えた。
それは、良いことなのかもしれなかった。
店主はノートの次のページを開いた。
白紙だった。
そこに、次の客のことを書く日が来るのだろうか。
そう思った時、扉のベルが鳴った。
からん。
雨音の中で、その音は妙にはっきり響いた。
店主は顔を上げた。
扉が少しだけ開いていた。
そこに、小さな人影が立っていた。
少女だった。
年齢は十歳か、十一歳くらいに見える。
薄汚れたフード付きの外套を着ていて、裾からは濡れた靴が覗いている。髪は肩のあたりで切られているが、雨で額や頬に張りついていた。
顔色は悪い。
唇は青白く、両手で何かを大事そうに抱えている。
店主はすぐにカウンターを出た。
「いらっしゃいませ」
少女はびくりと肩を震わせた。
逃げるかもしれないと思った。
野良猫に声をかけた時のような反応だった。
店主は足を止め、できるだけ柔らかい声で言った。
「大丈夫です。ここは喫茶店です」
少女は扉の隙間から店内を見回した。
カウンター。椅子。テーブル。窓際の席。灯り。湯気の立つやかん。
その目には警戒と、空腹と、疲労が浮かんでいた。
「……お金、ない」
少女は小さく言った。
声は雨に濡れた紙のように頼りなかった。
「構いません」
「構わないって、何が」
「お代はあとで考えます。まず、中へどうぞ。濡れています」
少女はすぐには動かなかった。
店主は一歩下がり、扉を大きく開けた。
暖かい空気が外へ流れる。
コーヒーの香りも一緒に流れた。
少女の鼻が、ほんの少し動いた。
「……いい匂い」
「コーヒーです」
「コーヒー」
「飲んだことは?」
少女は首を振った。
「分からない」
その答えに、店主は少しだけ眉をひそめた。
飲んだことがない、ではなく、分からない。
少女はおそるおそる店内に入った。
床に雨水が落ちる。
店主はすぐにタオルを持ってきた。
「これで拭いてください」
少女はタオルを受け取ったが、使い方を確かめるようにじっと見たあと、髪に当てた。
その仕草が、どこか不慣れだった。
店主は窓際ではなく、カウンターに近い席を勧めた。
何かあればすぐ手が届く場所だ。
少女は椅子に座ったが、背もたれにはもたれなかった。いつでも逃げられるように、体を少し前に倒している。
両手で抱えていたものを膝の上に置いた。
それは、小さな布袋だった。
汚れているが、口はしっかり結ばれている。
店主はそれに触れなかった。
「温かいものを出しますね」
「お金、ないって言った」
「はい。聞きました」
「じゃあ、なんで」
「雨の日に濡れた子どもをそのままにしておく店は、あまり良い店ではないので」
少女は店主をじっと見た。
信用しているわけではなさそうだった。
ただ、言葉の意味を測っているような目だった。
「子どもって、私のこと?」
「違いましたか」
「分からない」
まただ。
店主は、その言葉を胸の中で繰り返した。
分からない。
この少女は、自分のこともはっきり分からないのだろうか。
店主は厨房へ入り、コーヒーではなくミルクを温めた。
小さな鍋に牛乳を注ぐ。
どうして牛乳があるのかは分からない。外の世界に牛が残っているとは思えない。冷蔵庫を開ければ必要なものが入っている。その不自然さには、もう何度も驚いた。
砂糖を少し。
それから、コーヒーをほんの少しだけ加える。
苦くなりすぎないように。
子どもでも飲めるように。
店主の手は、自然にそうしていた。
どこかで、この飲み物を誰かに作ったことがある気がした。
小さなカップではなく、両手で包める丸いマグカップを選ぶ。
温めたミルクコーヒーを注ぐ。
表面に淡い泡が浮かんだ。
店主はそれを少女の前に置いた。
「熱いので、少しずつ飲んでください」
少女はマグカップを見つめた。
「これは?」
「ミルクコーヒーです。普通のコーヒーより甘いです」
「甘い」
「嫌いですか」
「分からない」
少女はカップに両手を伸ばした。
指先が赤くなっている。雨で冷えきっていたのだろう。
カップに触れた瞬間、少女の肩から少しだけ力が抜けた。
「……あったかい」
「はい」
「これ、飲んでいいの」
「もちろん」
少女は慎重にカップへ口をつけた。
ほんの少しだけ飲む。
次の瞬間、目を見開いた。
「甘い」
「砂糖を入れました」
「砂糖……」
少女はもう一度飲んだ。
今度は少し長く。
喉が動く。
それから、少女はカップを両手で包んだまま、黙って俯いた。
店主は何も言わなかった。
雨音が続いている。
やかんが小さく鳴る。
カウンターの端では、いつもの一杯目のコーヒーが湯気を失いかけていた。
「名前を聞いてもいいですか」
店主がそう尋ねると、少女はカップの中を見たまま答えた。
「ない」
「ない?」
「売った」
店主は言葉を失った。
少女は淡々と言った。
「名前は売った。だから、ない」
「名前を……売ったんですか」
「うん」
「誰に?」
少女は首を傾げた。
「忘れた」
店主はカウンターに手を置いた。
冗談を言っているようには見えなかった。
少女は本気で言っている。
名前を売った。
そして、そのこと以外は忘れている。
「名前以外にも、何か売ったんですか」
少女は少し考えた。
「たぶん、いっぱい」
「いっぱい」
「でも、何を売ったか忘れた」
少女はカップを持ったまま、ぼんやりと言った。
「売ったから、忘れたんだと思う」
店主は、胸の奥に冷たいものが落ちるのを感じた。
記憶を売る。
そんなことが、この世界では起きるのか。
世界が終わったあとには、何でもあり得る。
配達ロボットは五十年前の荷物を届けに来た。
新聞記者は読者のいない新聞を書いていた。
この喫茶店は、電気も水も失わずに営業している。
それでも、記憶を売るという言葉は、店主の中の何かに強く引っかかった。
店主自身も、記憶がない。
名前も、過去も、店のことも、何も思い出せない。
けれど店主は、それを売った覚えはない。
なくしたのか。
封じたのか。
奪われたのか。
それとも、捨てたのか。
少女の言葉は、店主自身の空白を指でなぞるようだった。
「どうして売ったんですか」
店主が尋ねると、少女は少し困った顔をした。
「生きるため」
「生きるため」
「食べ物とか、水とか、薬とか、靴とか。そういうのと交換した」
「誰がそんな取引を?」
「街の奥」
「街の奥に、そういう場所があるんですか」
少女はうなずいた。
「記憶市場」
その言葉だけ、妙にはっきりしていた。
記憶市場。
店主は聞いたことがなかった。
だが、その名を聞いた瞬間、店の灯りがわずかに揺れた気がした。
「記憶を買う人がいるんですか」
「いるよ」
「何のために?」
少女はカップに口をつけた。
「寂しい人は、楽しい記憶を買う」
雨音が強くなった。
「悪いことをした人は、きれいな記憶を買う」
少女は続けた。
「死にたくない人は、誰かが生きていた記憶を買う。眠れない人は、優しい夢みたいな記憶を買う。自分の記憶がつらい人は、他の人の記憶で上書きする」
店主は黙って聞いていた。
「逆に、売る人は?」
「お腹が空いた人。寒い人。痛い人。逃げたい人。忘れたい人」
少女は自分の布袋を見下ろした。
「私は、たぶん全部だった」
その声には感情があまりなかった。
感情まで、どこかに置いてきてしまったようだった。
店主はもう一杯、温かいミルクコーヒーを作ることにした。
一杯目はもう半分以上なくなっている。
少女は飲み方を覚えたようで、少しずつ、でも確実に飲んでいた。
店主はカウンター越しに尋ねた。
「その布袋には、何が入っているんですか」
少女はさっと布袋を抱え込んだ。
目に警戒が戻る。
「取らないで」
「取りません」
「みんな取る」
「僕は取りません」
「ほんと?」
「はい」
「なんで?」
店主は少し考えた。
「ここは喫茶店なので」
「喫茶店だと、取らないの?」
「少なくとも、僕の店では取りません」
少女はしばらく店主を見ていた。
それから、少しだけ布袋の口を緩めた。
中には、小さな透明のカプセルがいくつも入っていた。
ガラスか、樹脂か、よく分からない。
指先ほどの大きさで、中には淡い光が閉じ込められている。
青い光。
黄色い光。
薄桃色の光。
白に近い光。
それぞれが、かすかに揺れていた。
「これは?」
「売れ残り」
「売れ残り?」
「私の記憶。買われなかったもの」
店主は息を呑んだ。
少女の記憶。
それが、カプセルの中に入っている。
「どうして持っているんですか」
「安かったから、返された」
「安い?」
「価値がないって言われた」
少女は何でもないことのように言った。
「つまらない記憶。よくある記憶。誰も欲しがらない記憶。だから返された」
店主は胸が痛んだ。
記憶に価値があるとか、ないとか。
誰が決めるのだろう。
「中身は分かるんですか」
「分からない。売ったから」
「見れば思い出せる?」
少女は首を振った。
「見るだけじゃだめ。割って飲む」
「飲む?」
「そうすると戻る。でも、戻すと売れなくなる」
「売るために持っているんですか」
「うん」
「でも、買われなかったんですよね」
「次は買われるかもしれない」
少女は布袋を結び直した。
「お腹が空いたら、売る」
店主は厨房の方を見た。
「食べ物を出します」
「いらない」
「お腹は?」
「空いてる」
「なら」
「食べたら、あとで払わないといけない」
「ここでは、記憶を代金にしません」
少女の動きが止まった。
「……なんで」
「さっきも言いました。ここは喫茶店です」
「喫茶店って、変」
「そうかもしれません」
「お金がないって言った」
「聞きました」
「記憶も、あまりいいの残ってない」
「いりません」
「じゃあ、何を払えばいいの」
店主は少し迷った。
少女は真剣だった。
ただで出す、と言っても納得しないのかもしれない。
この子は、何かを受け取るためには何かを差し出さなければならない世界で生きてきたのだ。
ならば、今すぐその考えを否定しても、彼女は不安になるだけかもしれない。
店主は、黒瀬の残していった記事を思い出した。
世界が終わったあとも、誰かの帰る場所は存在した。
「では、一つだけ」
店主は言った。
少女の肩が強張る。
「名前がないと呼びにくいので、今日ここにいる間だけの呼び名を決めさせてください」
「呼び名?」
「はい。それを代金にしましょう」
「それでいいの?」
「それで十分です」
少女は困惑した顔をした。
そんな取引は知らない、という顔だった。
「どんな名前?」
店主は窓の外を見た。
雨が降っている。
細い糸のような雨。
灰色の世界を、静かに濡らす雨。
「アメ、はどうでしょう」
「アメ」
「雨の日に来たので」
「食べる飴じゃなくて?」
「雨の方です」
少女は小さく口の中で繰り返した。
「アメ」
それから、少しだけ首を傾げた。
「変じゃない?」
「僕はいいと思います」
「あなたの名前は?」
その問いは、不意に来た。
店主は答えられなかった。
「……分かりません」
少女、アメは瞬きをした。
「あなたも売ったの?」
「覚えはありません」
「でも、名前ない」
「はい」
「じゃあ、おそろい」
アメはそう言った。
その声には、初めて少しだけ子どもらしい響きがあった。
店主は苦笑した。
「そうですね。おそろいです」
「じゃあ、あなたにも名前いる」
「僕に?」
「うん。呼びにくいから」
アメは少し考えた。
「コーヒー」
「それは名前ですか」
「だめ?」
「少し、そのまますぎる気がします」
「じゃあ、テンチョー」
「店長」
「うん。店にいるから」
店主は思わず笑った。
「それなら、いいかもしれません」
「じゃあ、テンチョー」
アメはカップを両手で持ち、少し得意そうに言った。
「おかわり」
「はい。少々お待ちください」
店主はミルクコーヒーをもう一杯作り、それから簡単な食事を用意した。
パンを軽く焼き、卵を焼く。
スープを温める。
少しだけ塩を入れ、皿に盛る。
アメは食べ物が並ぶのを、信じられないものを見るように見ていた。
「これも、代金に入ってる?」
「はい。今日の呼び名代に含まれています」
「呼び名って、高いんだ」
「うちでは高いです」
アメは真剣に頷いた。
そして、パンを手に取った。
最初の一口は小さかった。
次は少し大きく。
三口目からは、急に早くなった。
よほど空腹だったのだろう。店主は水も出した。アメは途中でむせそうになりながら、それでも一生懸命食べた。
「ゆっくりで大丈夫です」
「取られる前に食べないと」
「ここでは誰も取りません」
アメは手を止めた。
パンの端を握ったまま、店主を見る。
「ほんとに?」
「はい」
「あとで怒らない?」
「怒りません」
「寝たら、荷物なくなったりしない?」
「しません」
「記憶も?」
「取りません」
アメはしばらく黙っていた。
それから、またパンを食べ始めた。
ただし、さっきより少しだけゆっくりだった。
食事が終わる頃には、アメの顔色は少し戻っていた。
頬にわずかに赤みが差し、指先の震えも止まっている。
店主は空いた皿を下げた。
「眠りますか」
「眠ったら、危ない」
「奥にソファがあります」
「危ない」
「僕はここにいます」
「知らない人」
「そうですね」
「知らない人は、危ない」
「正しいです」
店主は否定しなかった。
アメはその答えに少し驚いたようだった。
「正しいの?」
「はい。知らない人を簡単に信用しない方がいいです」
「じゃあ、テンチョーも信用しない」
「それで大丈夫です」
「怒らない?」
「怒りません」
アメは眉を寄せた。
「変」
「よく言われそうです」
「言われたことある?」
「覚えていません」
「じゃあ、今言った。変」
「ありがとうございます」
「ほめてない」
「そうでしたか」
アメは少しだけ笑った。
本当に少しだけだった。
口元が一瞬ゆるんで、すぐに戻る。
でも、確かに笑った。
店主はそれを見て、胸の中に小さな灯りがともるような感覚を覚えた。
この子は、笑える。
まだ、笑えるのだ。
アメは布袋を膝に置き、カプセルを一つ取り出した。
薄桃色の光が入った小さなカプセルだった。
「テンチョー」
「はい」
「これ、いる?」
「記憶ですか」
「うん。ごはんと、飲み物と、名前代」
「代金はいらないと言いました」
「でも、それじゃ落ち着かない」
アメはカプセルを見つめた。
「これ、たぶん安いやつ。売れなかったやつ」
「中身は分からないんですよね」
「うん」
「なら、大事なものかもしれません」
「大事なら、売れたと思う」
「大事なものほど、他人には価値が分からないこともあります」
アメは首を傾げた。
「そうなの?」
「たぶん」
「テンチョーは、自分の記憶ないのに?」
店主は少し言葉に詰まった。
鋭いことを言う。
「ないから、そう思うのかもしれません」
「ないと、困る?」
「困ります」
「でも、生きてる」
「はい」
「名前なくても?」
「はい」
「過去なくても?」
「……はい」
店主は答えながら、自分の胸の奥に触れるような感覚を覚えた。
自分は生きているのだろうか。
この店で、毎朝目覚め、店を開け、コーヒーを淹れている。
それを生きていると言うのなら、確かに生きている。
けれど、過去も名前も目的も分からないまま、ただ営業を続ける自分は、本当に生きているのだろうか。
答えは分からない。
アメはカプセルを指先で転がした。
「私は、たまに分からなくなる」
「何がですか」
「どこまでが私なのか」
雨音が、少し弱くなった。
「名前を売ったら、名前を呼ばれていた私はいなくなった。家族の顔を売ったら、家族がいた私はいなくなった。好きなものを売ったら、それを好きだった私はいなくなった」
アメは淡々と言った。
「でも、お腹は空く。寒いと震える。痛いと泣く。だから、私はまだいるみたい」
店主は何も言えなかった。
それは幼い少女の言葉にしては、あまりに重かった。
「テンチョーは?」
「僕ですか」
「名前も過去もないのに、なんでテンチョーはテンチョーなの?」
店主は、カウンターの端に置かれた一杯目のコーヒーを見た。
もう冷めている。
けれど、そこにある。
「コーヒーを淹れられるから、かもしれません」
「それだけ?」
「今のところは」
「じゃあ、コーヒーを淹れられなくなったら?」
店主は答えられなかった。
アメはカプセルを握った。
「記憶って、怖いね」
「ええ」
「あると痛い」
アメは言った。
「ないと、空っぽ」
店主は、その言葉を胸の中で受け止めた。
あると痛い。
ないと空っぽ。
まさに、自分の中の記憶はそういうものかもしれない。
ないから苦しい。
でも、思い出そうとすると痛む。
ならば、自分は何から逃げているのだろう。
「アメさん」
「アメでいい」
「では、アメ」
「なに」
「記憶を一つ、戻してみませんか」
アメの肩が強張った。
「なんで」
「売れなかった記憶なら、もう一度売れるとは限りません」
「でも、戻したら売れなくなる」
「はい」
「お腹が空いたら困る」
「その時は、ここに来ればいいです」
アメは店主を睨むように見た。
「ずっとあるの?」
「分かりません」
「ずっといるの?」
「分かりません」
「じゃあ、だめ」
その答えは当然だった。
店主はすぐに頷いた。
「無理にとは言いません」
「怖い」
「はい」
「いい記憶か分からない。痛いかもしれない。戻したら、つらくなるかもしれない」
「そうですね」
「だったら、ない方がいい」
アメはそう言った。
でも、その手はカプセルを離さなかった。
店主は、彼女が本当は迷っていることに気づいた。
戻したくない。
でも、戻したい。
いらない。
でも、捨てられない。
記憶とは、そういうものなのかもしれない。
店主は何か言おうとして、ふと厨房の棚に目をやった。
そこに、蜂蜜の瓶があった。
いつからあるのか分からない。
ラベルは少し古いが、中身は澄んだ黄金色をしていた。
店主はそれを手に取り、温かいミルクに少し落とした。
コーヒーは入れず、蜂蜜だけ。
優しい甘い香りが広がる。
「これは?」
アメが尋ねた。
「ホットミルクです。蜂蜜入り」
「コーヒーじゃない」
「夜に近い時間なので」
「まだ夜なの?」
「分かりませんが、雨の日は眠くなるので」
アメは疑わしそうにカップを見た。
店主はそれを彼女の前に置いた。
「これを飲んでから考えてもいいです」
「また代金増える」
「今日は呼び名代に全部含まれています」
「呼び名、高すぎ」
「特別価格です」
アメはカップを両手で持ち、慎重に飲んだ。
その瞬間。
彼女の表情が変わった。
大きく目を見開いた。
唇がわずかに震える。
カップを持つ手が止まった。
「アメ?」
店主が声をかけると、アメは返事をしなかった。
ただ、カップの中を見つめている。
「……これ」
「どうしました?」
「これ、知ってる」
声が震えていた。
「飲んだことが?」
「分からない。でも、知ってる」
アメの目に、少しずつ涙が溜まっていく。
「甘くて、あったかくて」
彼女はゆっくりと言葉を探した。
「白いカップじゃなくて、黄色いカップで」
店主は息を呑んだ。
「誰かが、ふーふーしてくれて」
アメの頬を、涙が一粒こぼれた。
「熱いから、ゆっくりねって」
その瞬間、アメの手の中の薄桃色のカプセルが、小さく光った。
まるで、内側から呼吸しているようだった。
アメはカプセルを見た。
「これ……」
店主は静かに言った。
「もしかすると、その記憶かもしれません」
「嫌」
アメは即座に首を振った。
「嫌。戻したくない。怖い」
「はい」
「でも」
アメはカプセルを握りしめた。
「このままだと、忘れちゃう」
「もう少し、思い出しかけていますね」
「忘れたくない」
その言葉は、さっきまでの淡々とした声ではなかった。
はっきりとした願いだった。
忘れたくない。
自分の名前も家族も売ってきた少女が、初めてそう言った。
店主はカウンターの中から出て、アメの向かいの椅子に座った。
「一緒にいます」
「何が出てきても?」
「はい」
「泣いても?」
「はい」
「叫んでも?」
「はい」
「あとで、やっぱり売りたいって言ったら?」
店主は少し考えた。
「それは、アメが決めることです」
「止めないの?」
「止めたいとは思います。でも、決めるのはアメです」
アメは店主をじっと見た。
そして、カプセルを両手で持った。
「どうやるんだっけ」
「飲むと言っていました」
「割って、飲む」
「水を用意しますか」
アメは首を振った。
「ミルクでいい」
店主は頷き、空のカップを用意した。
アメはカプセルを机の端に押し当てた。
かちり、と小さな音がした。
薄桃色の光が、中からこぼれる。
液体ではなかった。
煙でもない。
光そのものがほどけるように、カップの中へ落ちた。
店主は息を止めて見ていた。
アメはホットミルクをその中へ注いだ。
白いミルクに、淡い桃色の光が溶けていく。
アメは震える手でカップを持った。
「こわい」
「はい」
「でも、飲む」
「はい」
アメは目を閉じて、カップに口をつけた。
一口。
それだけだった。
けれど、その一口で、彼女の表情が崩れた。
カップが机に置かれる。
アメは両手で口元を押さえた。
目から涙が溢れる。
「……お母さん」
小さな声だった。
店主は何も言わなかった。
アメは肩を震わせた。
「お母さんだ」
涙が次々に落ちる。
「黄色いカップ。うさぎの絵。私が熱いって泣いたら、お母さんが笑って、ふーふーしてくれて」
アメは息を詰まらせた。
「雨の日だった。外に出られなくて、私が怒ってて。お母さんが、じゃあ特別ねって、蜂蜜入れてくれて」
記憶は、言葉になるたびに形を取り戻していくようだった。
「歌ってた」
「歌?」
「うん。変な歌。雨の日の歌。私、笑ってた」
アメは自分の胸を押さえた。
「私、笑ってたんだ」
店主の胸が締めつけられた。
この子は、自分が笑っていたことすら忘れていたのだ。
「お母さんの顔は?」
店主は慎重に尋ねた。
アメは目を閉じた。
「……ぼんやり」
声が震える。
「でも、あったかい顔」
「名前は?」
「分からない」
「自分の名前は?」
アメは首を振った。
「分からない。そこは、ない」
戻ったのは、すべてではなかった。
雨の日のホットミルク。
母の声。
黄色いカップ。
笑っていた自分。
それだけ。
でも、それだけでも、アメにとっては大きすぎるほどの記憶だった。
アメは泣き続けた。
声を殺して泣くのではなく、子どものように肩を震わせて泣いた。
店主は席を立ち、タオルを取ってきた。
アメはそれを受け取り、顔に押し当てた。
「痛い」
タオルの中から声がした。
「はい」
「思い出すの、痛い」
「はい」
「でも、あったかい」
店主は静かに頷いた。
アメは泣きながら笑った。
「変なの」
「そうですね」
「記憶って、変」
「本当に」
店主は、自分の胸の奥がかすかに痛むのを感じていた。
黄色いカップ。
蜂蜜入りのホットミルク。
雨の日。
母の歌。
それはアメの記憶だ。
店主のものではない。
それなのに、なぜか店主の中にも、似たような何かが揺れていた。
白ではなく、青いカップ。
蜂蜜ではなく、砂糖を多めに入れたココア。
小さな手。
誰かが笑う声。
思い出せそうで、思い出せない。
頭の奥が痛む。
店主は目を閉じた。
触れてはいけない記憶の扉が、少しだけ開きかけた気がした。
しかし次の瞬間、店の奥でかちりと音がした。
時計の針が一つ進むような音。
店主は目を開けた。
アメも泣き顔のまま顔を上げた。
「今の音、なに?」
「分かりません」
「この店、変」
「それは本当にそうです」
アメは鼻をすすった。
泣き疲れたのか、少しぼんやりしている。
店主は温かい水を出した。
アメはそれを飲み、ようやく落ち着いた。
しばらく二人は黙っていた。
雨はまだ降っている。
しかし、さっきより少しだけ弱くなっていた。
窓の外の灰色が、わずかに明るく見える。
アメは布袋を開け、残ったカプセルを見つめた。
「まだ、ある」
「はい」
「戻した方がいいと思う?」
店主はすぐには答えなかった。
「分かりません」
「テンチョーなのに?」
「テンチョーでも分からないことはあります」
「役に立たない」
「すみません」
アメは少し笑った。
涙の跡が残った顔で笑うと、彼女は少し年相応に見えた。
「でも、今日はもういい」
「そうですね」
「一個で、お腹いっぱい」
「記憶で?」
「うん」
アメは布袋を結んだ。
「これ、全部戻したら、私はどうなるんだろ」
「元に戻るのかもしれません」
「元って、どれ?」
店主は答えられなかった。
名前があった頃のアメ。
母の顔を覚えていたアメ。
好きなものを持っていたアメ。
笑っていたアメ。
泣いていたアメ。
記憶を売り、生き延びてきたアメ。
どれが本当の彼女なのか。
きっと、全部なのだろう。
「全部、アメだと思います」
店主は言った。
アメは目を丸くした。
「記憶あるのも?」
「はい」
「ないのも?」
「はい」
「売ったのも?」
「はい」
「今日、泣いたのも?」
「もちろん」
アメは少し考えた。
「じゃあ、テンチョーも全部テンチョー?」
「僕も?」
「名前ないのも。過去ないのも。コーヒー淹れるのも。変な店にいるのも」
店主はその言葉を受け止めた。
全部、店主。
名前がなくても。
過去がなくても。
理由が分からなくても。
今ここで、コーヒーを淹れ、客を迎えている自分。
「そうだと、いいですね」
「いいじゃなくて、そう」
アメは少し強い声で言った。
「私がそう決めた」
店主は驚いて、それから小さく笑った。
「ありがとうございます」
「代金」
「え?」
「ごはんとミルクのお礼。テンチョーはテンチョーって決めた」
「それは助かります」
「でしょ」
アメは少し得意そうにした。
その表情は、ホットミルクの記憶の中で笑っていた少女と、きっと同じものだったのだろう。
雨がやんだのは、それから少し後だった。
外の世界は相変わらず壊れている。
けれど、雨に濡れた道路は少しだけ光を反射していた。灰色の空の隙間から、わずかな明るさが差している。
アメは椅子から降りた。
「行くんですか」
「うん」
「まだ休んでも」
「長くいると、行けなくなる」
その言い方は、以前の黒瀬に少し似ていた。
居心地が良すぎると、先へ進めなくなる。
この店は、そういう場所なのかもしれない。
店主は棚から、小さな包みを取り出した。
中には焼いたパンと、少しのチーズ、それから小さな瓶に入れた蜂蜜がある。
「これを」
アメは警戒した。
「また代金?」
「今日の呼び名代に含まれています」
「呼び名、どこまで高いの」
「雨の日の特別価格です」
アメは包みを受け取った。
少し重そうにして、それを布袋とは別に大事そうに抱える。
「この蜂蜜、売れるかな」
「できれば食べてください」
「お腹空いたら食べる」
「はい」
「記憶より先に?」
「できれば」
アメは少し考えて、頷いた。
「分かった。先にパン食べる」
「それがいいです」
店主は扉まで見送った。
アメは外に出る前に振り返った。
「テンチョー」
「はい」
「アメって名前、今日だけ?」
「アメが嫌でなければ、次に来た時も」
「次に来ていいの?」
「もちろん」
「お金なくても?」
「はい」
「記憶、売らなくても?」
「はい」
「泣いても?」
「はい」
「忘れてても?」
「はい」
アメはしばらく店主を見つめた。
そして、小さく言った。
「じゃあ、また来るかも」
「待っています」
「約束は、怖い」
「では、来られたら来てください」
「うん」
アメは扉を開けた。
からん、とベルが鳴る。
雨上がりの冷たい空気が入ってきた。
アメは外に出て、数歩歩いた。
それから、もう一度だけ振り返った。
「テンチョー」
「はい」
「ホットミルク、また作って」
「もちろん」
「蜂蜜入り」
「覚えておきます」
アメは頷いた。
そして、灰色の街へ歩き出した。
小さな背中だった。
けれど、来た時よりも少しだけまっすぐだった。
店主はその姿が廃墟の角を曲がって見えなくなるまで、扉の前に立っていた。
やがて、扉を閉める。
ベルが小さく鳴る。
店内には、まだホットミルクと蜂蜜の甘い香りが残っていた。
店主はカウンターに戻り、アメが使ったカップを洗った。
黄色いカップではない。
うさぎの絵もない。
それでも、彼女はこの店で、一つの記憶を取り戻した。
痛くて、温かい記憶。
忘れたくないと願った記憶。
店主はカウンターの下からノートを取り出した。
次の白紙のページを開く。
ペンを持つ手が、少しだけ迷った。
そして書く。
――三人目の客。アメ。
少し考えて、次の行を書く。
――本当の名前は、売ってしまった。
さらに書く。
――記憶を売って生き延びていた少女。
――蜂蜜入りのホットミルクで、母親との雨の日を思い出した。
そこで、店主は手を止めた。
アメの記憶は、彼女のものだ。
勝手に細かく書いていいのだろうか。
黒瀬ならどうするだろう。
記録すべきだと言うかもしれない。
けれど、書かないこともまた、誰かを守ることなのかもしれない。
店主は少し迷い、最後に一行だけ加えた。
――思い出すのは痛い。でも、温かい。
それだけで十分な気がした。
ノートを閉じる。
その瞬間、また店の奥でかちりと音がした。
今度ははっきり聞こえた。
時計の針が進むような音。
店主は店の奥を見た。
棚。扉。壁。いつもと変わらない店内。
だが、何かが進んでいる。
AD-17の時も、黒瀬の時も、似たような音がした気がする。
客が何かを終わらせるたびに、この店のどこかで何かが動いている。
それは良いことなのか。
悪いことなのか。
まだ分からない。
店主はカウンターの端を見た。
朝に淹れた一杯目のコーヒーは、今日も冷めていた。
店主はそれを手に取る。
ひと口飲む。
苦い。
だが、今日はその苦さの奥に、わずかな甘さを感じた。
蜂蜜の香りが、店内に残っているからかもしれない。
あるいは、アメが少し笑って帰ったからかもしれない。
店主はカップを置き、窓の外を見た。
雨はもう完全にやんでいた。
灰色の雲の隙間から、細い光が差している。
その光は弱く、頼りなく、すぐに消えてしまいそうだった。
けれど、確かにそこにあった。
店主は自分の胸に手を当てた。
記憶がない。
名前もない。
過去もない。
けれど、今日のことは覚えている。
AD-17が配送完了と言ったこと。
黒瀬が記事を書いたこと。
アメが蜂蜜入りのホットミルクを飲んで、母親を思い出したこと。
それらは、店主の中に残っている。
もしかすると、自分というものは、過去だけでできているわけではないのかもしれない。
今、誰を迎えたか。
誰の話を聞いたか。
誰を見送ったか。
そういうものも、自分を作っていくのかもしれない。
店主はまだ、自分の名前を思い出せない。
それでも、アメは言った。
テンチョーはテンチョーだと。
その呼び名は、今日だけのものかもしれない。
次にアメが来る頃には、彼女は忘れているかもしれない。
あるいは、もう二度と来ないかもしれない。
けれど、今はそれでよかった。
店主は新しい湯を沸かした。
カップを磨き、椅子を整え、テーブルを拭く。
次に来る客が、何を抱えているのかは分からない。
荷物か。
記事か。
記憶か。
それとも、もっと別の何かか。
分からない。
だからこそ、店を開けておく。
誰かが扉を開けた時、そこに温かいものがあるように。
誰かが忘れたものを、少しだけ思い出せるように。
誰かが終わらせられなかったものを、終わらせられるように。
外では、雨上がりの風が吹いていた。
濡れた道路に、店の灯りがぼんやり映っている。
終わった世界の中に、小さな喫茶店が一軒。
扉の札は、今日も表を向いている。
――開店中。
店主は、その札をまだ裏返さなかった。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第3話は、記憶を売った少女・アメのお話でした。
記憶は、あると痛い。
でも、ないと空っぽになる。
そんな彼女が、蜂蜜入りのホットミルクをきっかけに、母親との雨の日を少しだけ思い出す回でした。
店主自身もまた、名前や過去を失っています。
誰かの記憶に触れることで、店主の中にも少しずつ何かが動き始めているのかもしれません。
次回は、第4話「幽霊になった常連客」です。
よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。




