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第2話 最後の新聞記者

第2話です。


世界が終わっても、誰かがいたことまで消えてしまうわけではない。

今回は、そんな想いを抱えた「最後の新聞記者」が喫茶店を訪れます。


静かな終末世界の中で、彼が何を残そうとしているのか。

お付き合いいただけると嬉しいです。

 翌朝も、世界は終わったままだった。

 窓の外には、昨日と同じ灰色の空が広がっている。遠くのビルは傾き、折れた電線は風に揺れ、道路のひび割れには白い砂が薄く積もっていた。夜のあいだに雨が降ったのか、店の前のアスファルトには浅い水たまりができている。

 水たまりに映る空も、やはり灰色だった。

 店主は喫茶店の扉を開け、いつものように札を返した。

 ――開店中。

 その二文字を見て、店主は少しだけ手を止めた。

 昨日、壊れかけの配達ロボットが来た。

 五十年前の荷物を抱え、もう存在しない家へ、もう会えない受取人へ、誕生日プレゼントを届けに来た。

 ロボットは最後に「配送完了」と呟き、静かに停止した。

 その光景が、店主の中にまだ残っている。

 崩れた家の玄関先に置かれた、色褪せた箱。

 古いノートに書かれていた、少女の文字。

 冷めたコーヒーの苦さ。

 あれから店主は、何度も考えていた。

 自分はあのロボットに何をしたのだろう。

 助けたのか。

 見送ったのか。

 それとも、ただ最後の瞬間に立ち会っただけなのか。

 答えは出なかった。

 ただ一つだけ、確かだと思えることがあった。

 あのロボットは、この店に来てから、何かを終わらせた。

 五十年続いた配送任務。

 届かなかった誕生日。

 渡せなかった謝罪。

 それらを、ようやく終わらせた。

 店主はカウンターの内側へ戻り、棚からコーヒー豆の缶を下ろした。

 蓋を開ける。

 深く、苦く、少し甘い香りが立ちのぼった。

「……今日も、あるんだな」

 豆は減っていなかった。

 昨日も淹れた。今朝も淹れる。それなのに、缶の中の豆はいつも同じ量だけある。

 この店は、やはり普通ではない。

 けれど、その不自然さにも店主は少しずつ慣れ始めていた。慣れるというより、考えても仕方がないこととして、棚の奥に置くようになっていた。

 店主は豆を挽き、湯を沸かし、白いカップを一つ用意した。

 一杯目のコーヒー。

 誰のためなのか分からない一杯。

 でも、淹れなければならない気がする一杯。

 湯を落とすと、粉がゆっくり膨らんだ。店内に、朝の静けさとコーヒーの香りが混じる。

 外の世界は冷えきっている。

 だが、この店の中だけは少し暖かい。

 店主はカップにコーヒーを注ぎ、カウンターの端に置いた。

 昨日と同じ場所だった。

 客席は空っぽだった。

 それでも、いつ誰が来てもいいように、店主はカップの向きを整えた。

 そのとき。

 がしゃり、と外で何かが倒れる音がした。

 店主は顔を上げた。

 風に飛ばされた看板か、崩れた瓦礫かと思った。だが、続いて聞こえたのは、人の咳だった。

「……人?」

 店主はカウンターを出て、扉へ向かった。

 ベルを鳴らして扉を開けると、冷たい空気が流れ込んできた。

 店の前に、人が倒れていた。

 年齢は四十代半ばほどだろうか。痩せた男だった。ボロボロのコートを着て、首にはひび割れたカメラを下げている。肩からは大きな布鞄を提げていた。鞄の口からは、束になった紙と古いペン、折れ曲がったノートが覗いている。

 男は片手を地面につき、もう片方の手で何かを必死に守るように抱えていた。

「大丈夫ですか」

 店主が駆け寄ると、男はゆっくり顔を上げた。

 顔は土と灰で汚れていた。唇は乾き、頬はこけている。けれど、その目だけは異様なほど強かった。

 何かを見逃すまいとする目。

 何かを書き留めるためだけに生きてきたような目。

「……営業、してるのか」

 男はかすれた声で言った。

 店主は少しだけ迷い、それから頷いた。

「はい。開店中です」

 男はその言葉を聞くと、力が抜けたように笑った。

「そうか。じゃあ……客だ」

 そう言って、男は意識を失った。

 店主は男を店内へ運んだ。

 見た目以上に軽かった。体は冷えきっていて、服には砂と雨の匂いが染みついていた。

 店主は男を窓際の席に座らせ、濡れたコートを脱がせた。奥の棚から毛布を持ってきて、肩に掛ける。なぜそんなものが店にあるのか分からないが、こういう時に必要なものは、なぜかいつも店のどこかにあった。

 やかんの湯はまだ熱い。

 店主はコーヒーではなく、まず白湯を出した。

 男はしばらくして目を覚ました。

 目を開けるなり、彼は自分の鞄を探した。

「鞄なら、ここにあります」

 店主がテーブルの横を示すと、男はほっと息を吐いた。

「中は?」

「触っていません」

「そうか。悪い」

 男は白湯のカップを見た。

「コーヒーじゃないんだな」

「まずは体を温めた方がいいと思って」

「……まともな店だ」

 男は小さく笑い、白湯を口に含んだ。

 両手でカップを包むように持ち、ゆっくり飲む。たったそれだけの動作に、長い旅の疲れが滲んでいた。

 店主はカウンターに戻りながら言った。

「コーヒーも淹れられます」

「なら、あとで頼む。先に、少し聞きたい」

「何でしょう」

 男はカップを置き、店内を見回した。

 古びたカウンター。並んだ椅子。曇りのない窓。天井から下がる小さな灯り。棚に並ぶカップ。静かに湯気を上げるやかん。

 男の目が、すべてを記録するように動いていく。

「ここは、いつから営業している?」

 店主は答えに詰まった。

「分かりません」

「店名は?」

「……分かりません」

「店主の名前は?」

「それも、分かりません」

 男は眉を上げた。

「自分の名前も?」

「はい」

「なのに、店は開けている」

「はい」

「コーヒーは淹れられる」

「それだけは、覚えています」

 男はじっと店主を見つめた。

 疑っているというより、興味深いものを見つけたような目だった。

「なるほど」

 男は鞄からノートを取り出した。表紙は擦り切れ、端は何度もめくられたせいで丸くなっている。男はそこにペンを走らせた。

 かりかり、と乾いた音が店内に響く。

「あなたは?」

 店主が尋ねると、男は書く手を止めなかった。

「新聞記者だ」

「新聞記者」

「元、をつけるべきかもしれないがな」

 男は顔を上げた。

「名は黒瀬。黒瀬真悟。最後の新聞記者、と自分では名乗っている」

「最後の」

「少なくとも、同業者にはもう会っていない」

 黒瀬は自嘲するように笑った。

「新聞社もない。輪転機も止まった。配達員も読者もいない。そもそも、紙を印刷するためのまともな設備すら残っていない」

「それでも、新聞を?」

「ああ」

 黒瀬はノートを指で叩いた。

「世界最後の新聞を作っている」

 店主は言葉を失った。

 世界最後の新聞。

 その響きは、ひどく寂しく、同時にどこか滑稽だった。

 読者のいない新聞。

 配られるあてのない新聞。

 世界が終わったあとに書かれる記事。

「誰が読むんですか」

 店主は思わず聞いていた。

 黒瀬は嫌な顔をしなかった。むしろ、その問いを待っていたように少し笑った。

「さあな」

「さあな、って」

「誰も読まないかもしれない。風で飛ばされて、瓦礫の下に埋もれて、それきりかもしれない」

「それでも書くんですか」

「ああ」

「なぜ?」

 黒瀬は窓の外を見た。

 ひび割れた道路。倒れた標識。遠くの廃墟。

「終わったからだ」

 短い答えだった。

 店主には、その意味がすぐには分からなかった。

 黒瀬は続けた。

「世界が続いている間、人は記録を残す。今日何があった。誰が何をした。どこで火事があった。誰が生まれた。誰が死んだ。くだらない事件も、笑える話も、腹の立つ話も、全部だ」

 黒瀬は白湯を一口飲んだ。

「だが、世界が終わると、誰も記録しなくなる。生き延びるだけで精一杯になる。何が起きたのか、誰がいたのか、誰が最後まで何を守ろうとしたのか、全部、砂みたいに消えていく」

 店主は、昨日の配達ロボットを思い出した。

 五十年前の荷物。

 誕生日を待っていた少女。

 あの場所に店主が行かなければ、あの話は誰にも知られないまま終わっていた。

「消えていくのが、嫌なんですね」

「嫌だ」

 黒瀬は即答した。

「世界は終わった。だが、なかったことにはさせない」

 その声は静かだったが、強かった。

 店主はカウンターの内側に戻り、コーヒーを淹れる準備を始めた。

「コーヒー、飲みますか」

「ああ。できれば濃いやつを」

「分かりました」

 豆を挽く音が、店内に響いた。

 黒瀬はその音を聞きながら、ノートを開いていた。

「いい音だ」

「そうですか」

「新聞社にも似た音があった。朝刊の締め切り前、編集部のキーボードが一斉に鳴る音だ。あれはもう少し騒がしかったが」

「新聞社は、どんな場所だったんですか」

「眠れない場所だな」

 黒瀬は苦笑した。

「電話は鳴る。怒号は飛ぶ。デスクは原稿を直せと叫ぶ。新人は誤字を出して青ざめる。ベテランは椅子で寝る。誰かが差し入れのパンを食う。締め切りは毎日来る。世界がどれだけ変わっても、朝刊は出さなきゃならない」

 店主はドリッパーに湯を落とした。

 ふわりと香りが広がる。

「忙しそうですね」

「忙しかった。腹も立った。辞めたいと思ったことも何度もある」

「でも、好きだった?」

 黒瀬は少し黙った。

 それから、視線を落として言った。

「好きだったんだろうな」

 店主はカップにコーヒーを注いだ。

 黒い液体が静かに満ちていく。

 濃いめのコーヒー。

 砂糖もミルクも添えずに、店主は黒瀬の前へ置いた。

「お待たせしました」

 黒瀬はカップを持ち上げ、香りを吸い込んだ。

「本物のコーヒーだ」

「たぶん」

「たぶん?」

「豆がどこから来ているのか、自分でも分からないので」

「記事にしたら面白そうだ」

「やめてください」

「もう書いている」

 黒瀬は真顔で言った。

 店主が困った顔をすると、黒瀬は初めて声を立てて笑った。

「冗談だ。いや、半分は本気だが」

 彼はコーヒーを一口飲んだ。

 その瞬間、目を閉じた。

 長い沈黙があった。

 店主は何も言わなかった。

 黒瀬はもう一口飲み、ゆっくり息を吐いた。

「……うまいな」

「ありがとうございます」

「うまい。腹が立つくらいに」

「腹が立つ?」

「こんな世界で、まだうまいコーヒーが飲めるのかと思うと、腹が立つ」

 黒瀬はカップの中を見つめた。

「終わったはずなのにな」

 店主はその言葉に、少しだけ胸が痛くなった。

 終わったはずなのに。

 それでも、店は営業している。

 湯は沸き、豆は香り、誰かが扉を開ける。

 それが救いなのか、残酷なのか、店主にはまだ分からない。

 黒瀬はコーヒーを半分ほど飲むと、鞄から何枚もの紙を取り出した。

 紙には手書きの文字がびっしりと書かれている。ところどころに写真が貼られ、地図の切れ端や誰かのメモも挟まっていた。

「これが、俺の新聞だ」

 店主はそっと覗き込んだ。

 そこには、見出しがいくつも並んでいた。

 ――北部避難所、最後の炊き出しを実施。

 ――旧中央病院、医療ロボットが現在も稼働。

 ――第五水門、手動開放により三百名の避難経路を確保。

 ――名もなき教師、最後の授業を記録。

 ――犬を連れた老人、橋の上で目撃される。

 どれも大きなニュースのようで、小さな個人の記録のようでもあった。

「これを、一人で?」

「ああ」

「すごいですね」

「すごくはない。遅すぎた」

 黒瀬は紙を撫でた。

「もっと早く書くべきだった。世界が壊れ始めた時、俺たちはまだ新聞を出していた。だが、最初は何が起きているのか分からなかった。災害だと思った。戦争だと思った。事故だと思った。陰謀だと騒いだ奴もいた。だが、全部だった」

「全部?」

「災害も、戦争も、事故も、暴走も、崩壊も。世界は一つの理由で終わったんじゃない。無数の理由が同時に重なって、支えきれなくなった」

 店主は黙って聞いていた。

 黒瀬の言葉を聞いていると、頭の奥で何かがざわめく。灰色の空。警報音。走る人々。倒れた椅子。こぼれたコーヒー。

 断片が浮かびかけて、すぐに消えた。

「覚えているんですか。世界が終わった時のこと」

「少しはな」

 黒瀬は眉間にしわを寄せた。

「だが、全部じゃない。人間の記憶は都合よくできている。耐えられないものは、勝手にぼかす」

 その言葉に、店主は小さく息を呑んだ。

 自分の記憶も、そうなのだろうか。

 耐えられないから、思い出せないのか。

「だから記録がいる」

 黒瀬は言った。

「記憶は壊れる。だが、紙は残ることがある。写真は残ることがある。誰かが書いた一行が、百年後の誰かに届くことがある」

「百年後に、誰かがいると思いますか」

「分からん」

「それでも?」

「それでもだ」

 黒瀬はまたコーヒーを飲んだ。

「希望があるから書くんじゃない。希望がないから書く」

 店主はその言葉を、すぐには飲み込めなかった。

 希望がないから、書く。

 希望がないからこそ、残す。

 それは、店主が毎朝コーヒーを淹れることと少し似ている気がした。

 客が来る保証はない。

 誰のための一杯かも分からない。

 それでも、淹れる。

「黒瀬さんは、今日ここへ何をしに来たんですか」

 店主が尋ねると、黒瀬は紙の束をまとめた。

「取材だ」

「この店の?」

「ああ」

「どうやって知ったんですか」

「噂を聞いた」

「噂?」

「南の避難線跡で、妙な話を聞いた。荒野に、明かりのついた店がある。そこではコーヒーが飲める。死にかけた者も、迷った者も、なぜかその店に辿り着く」

 店主は眉をひそめた。

「誰がそんなことを」

「分からん。旅人か、幻覚を見た老人か、あるいはもうこの世にいない誰かか」

 黒瀬は淡々と言った。

「だが、俺は見つけた。だから記事にする」

「記事にしても、誰も読まないかもしれないんですよね」

「そうだ」

「それでも書く」

「ああ」

 店主は少しだけ考えた。

 この店のことを記録される。

 それは不思議な気分だった。

 自分の名前も分からない。店の名前も分からない。なぜ存在しているのかも分からない。それなのに、誰かが記事として残そうとしている。

 残していいのだろうか。

 いや、残されるほどのものなのだろうか。

「僕には、話せることがほとんどありません」

「構わない」

 黒瀬はペンを構えた。

「分からないことも、記事になる」

「そういうものですか」

「そういうものだ。特に今はな」

 黒瀬はノートに見出しのようなものを書きつけた。

 店主は文字を読もうとしたが、黒瀬は手で隠した。

「完成前の記事は見せない主義だ」

「意外とこだわるんですね」

「最後の新聞記者だからな。せめて体裁くらいは守る」

 黒瀬はカップを置いた。

「店主。少し外を案内してくれ」

「外を?」

「この店の周りを見たい。店がどんな場所に立っているのか、記事には必要だ」

「遠くには行けません」

 店主は自然にそう答えていた。

 自分でも少し驚いた。

「なぜ?」

「分かりません。ただ、遠くへ行こうとすると、戻ってきてしまう気がします」

「気がする?」

「昨日も、あまり遠くまでは行けませんでした」

 実際には、昨日は配達ロボットと住宅街まで行った。だが、そこがどれほど遠かったのか、今思い返すとよく分からない。歩いた時間も、道順も、記憶の中で曖昧になっている。

 黒瀬は興味深そうに目を細めた。

「ますます記事向きだな」

「楽しまないでください」

「記者は不思議なものを見ると楽しくなる生き物なんだ」

 二人は外へ出た。

 店の扉を開けると、冷たい風が頬を撫でた。黒瀬は首から下げたカメラを持ち上げ、店の外観を撮ろうとした。

 シャッター音は鳴らなかった。

 カメラは壊れているようだった。

 黒瀬はそれでも、レンズを向け続けた。

「撮れていないのでは?」

「撮れていないな」

「意味あるんですか」

「ある」

 黒瀬はファインダーを覗いたまま言った。

「撮ろうとしたことは、覚えていられる」

 店主は何も言えなかった。

 黒瀬は店の前に立ち、屋根、窓、扉、看板、ひび割れた壁を順番に見ていった。

「変な店だ」

「よく言われそうです」

「誰に?」

「……言われたことは、ないかもしれません」

「なら、俺が最初だ」

 黒瀬はノートに書いた。

 店主はその横で、荒れた道を見つめた。

 昨日歩いたはずの住宅街は、見えなかった。どちらへ行けば辿り着くのかも分からない。ただ、遠くには灰色のビル群が沈黙している。

「ここは、どこの町なんでしょう」

 店主が呟くと、黒瀬は地面にしゃがみ込んだ。

 道路の端に、割れた標識が埋まっていた。黒瀬は手袋をはめた手で砂を払い、文字を読もうとした。

「……朝霧市、中央区」

「朝霧市」

 店主はその名前を口の中で転がした。

 昨日、配達ロボットが言っていた宛先も、朝霧町だった。

 同じ町なのだろうか。

 朝霧。

 その言葉に、胸の奥が小さく揺れた。

 朝の霧。白い息。誰かの笑い声。開店前の店内。二つ並んだカップ。

 そこまで浮かんで、消えた。

「どうした」

 黒瀬が尋ねた。

「いえ……少し、知っている気がしました」

「思い出したのか」

「思い出しそうで、思い出せません」

 黒瀬は立ち上がった。

「記憶喪失の店主。終末後も営業する喫茶店。尽きないコーヒー。噂を辿って来る客。いい記事だ」

「黒瀬さん」

「分かっている。不謹慎だと言いたいんだろう」

「いえ」

 店主は首を振った。

「少し、うらやましいと思いました」

「何が」

「黒瀬さんは、残したいものが分かっている」

 黒瀬は返事をしなかった。

 風が二人の間を抜けていく。

 しばらくして、黒瀬は低く言った。

「分かっているわけじゃない」

「え?」

「残したいものが多すぎて、何から書けばいいのか分からないだけだ」

 黒瀬は遠くの廃墟を見た。

「世界が終わった日、俺は取材に出ていた。大きな爆発があって、通信が途絶えた。街では火災が起き、避難所には人が溢れた。俺は撮った。書いた。誰がどこで何をしていたか、必死に記録した」

「はい」

「だが、新聞社に戻った時には、もう編集部はなかった」

 黒瀬の声は変わらなかった。

 けれど、その指がわずかに震えていた。

「建物は崩れていた。輪転機は潰れ、デスクも、同僚も、後輩も、みんな瓦礫の下だった」

 店主は息を呑んだ。

「俺はその時、何をしたと思う」

「……助けようとした」

「違う」

 黒瀬は首を振った。

「写真を撮った」

 店主は言葉を失った。

 黒瀬は、自分を責めるように笑った。

「助けを呼ぶべきだった。瓦礫をどけるべきだった。名前を叫ぶべきだった。だが、俺はカメラを構えた。新聞記者として、その瞬間を記録しなければならないと思った」

「それは……」

「そのあとで、もちろん掘った。叫んだ。手が血だらけになるまで瓦礫を動かした。だが、最初にしたことは、写真を撮ることだった」

 黒瀬は壊れたカメラを握りしめた。

「それ以来、俺は自分が人間なのか、記録する機械なのか分からなくなった」

 店主は、昨日の配達ロボットを思い出した。

 命令を守り続けた機械。

 けれど、機械のように見えて、その姿は誰よりも人間らしかった。

 では、人間のように見える黒瀬は、何を抱えてここに来たのだろう。

「黒瀬さんは、新聞を作りたいんじゃなくて」

 店主はゆっくり言った。

「許されたいんですか」

 黒瀬は目を細めた。

「……きついことを言うな、店主」

「すみません」

「いや。たぶん、当たっている」

 黒瀬は少し疲れた顔で笑った。

「世界最後の新聞なんて、大げさなことを言っているが、本当は言い訳がほしいのかもしれない。俺は記録者だった。だから、あの時カメラを構えたのだと。そう言えれば、自分を少しは許せる気がした」

「でも、それだけじゃないと思います」

「なぜ分かる」

「黒瀬さんの記事を見たからです」

 店主は店内のテーブルに置かれていた紙の束を思い出した。

 炊き出しの記事。

 医療ロボットの記事。

 名もなき教師の記事。

 犬を連れた老人の記事。

 そこには、人を責める言葉より、人が確かに生きていたことを残そうとする言葉が多かった。

「黒瀬さんは、誰かをなかったことにしたくないんでしょう」

 黒瀬は長く黙った。

 それから、目を伏せた。

「……ああ」

 たった一言だった。

 けれど、その声にはさっきよりも深い疲れと、少しだけ救われたような響きがあった。

 二人は店に戻った。

 黒瀬は窓際の席に座り、しばらくペンを動かしていた。店主はカウンターの内側で、二杯目のコーヒーを淹れた。

 今度は少しだけ薄めにした。

 黒瀬は何も言わず、それを受け取った。

 午後になっても、外の明るさはほとんど変わらなかった。

 この世界には、時間の流れがあるようで、ないようにも感じられる。時計の針は動いている。湯は冷める。コーヒーは減る。けれど、空の色はずっと同じで、街の沈黙は変わらない。

 黒瀬は何枚も何枚も書いた。

 途中で、店主はサンドイッチのようなものを作った。パンも野菜も、なぜか厨房にあった。黒瀬はそれを見て「本当に変な店だ」と言いながら、全部食べた。

 食べ終えると、彼は少しだけ顔色を取り戻していた。

「記事、見ますか」

 夕方とも夜ともつかない時間になって、黒瀬が言った。

「完成前は見せない主義では?」

「これは完成した」

 黒瀬は数枚の紙を整え、店主の前に置いた。

 そこには、手書きの見出しがあった。

 大きく、力強い字だった。

 ――世界が終わったあと、喫茶店だけが営業していた。

 店主はその文字をじっと見つめた。

 自分の目の前にある文章なのに、どこか遠い場所から届いたもののように感じた。

 黒瀬は静かに読み上げ始めた。

「朝霧市中央区、旧幹線道路沿い。文明崩壊後、電力、水道、通信のすべてが停止した地域に、一軒の喫茶店が営業を続けている。店名不明。店主氏名不明。営業開始時期不明。だが、店内には明かりがあり、湯が沸き、コーヒーが出される」

 店主は黙って聞いた。

「店主は自らの過去を記憶していない。しかし、来客に対する所作は自然で、コーヒーを淹れる技術は確かである。本紙記者は濃いコーヒーを一杯、薄めのコーヒーを一杯、ならびにサンドイッチを提供された。味は、悔しいが、かなり良い」

「そこも書くんですね」

「重要な情報だ」

 黒瀬は真面目な顔で言った。

 店主は少しだけ笑った。

 黒瀬は続けた。

「この店が何であるか、現時点では不明である。避難所か、幻か、終末後に残された奇跡か。あるいは、心残りを抱えた者が最後に辿り着く場所なのか」

 店主は胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。

 心残りを抱えた者。

 昨日のロボット。

 そして、目の前の新聞記者。

「世界は終わった。しかし、終わった世界にも記録すべきものは残っている。倒れた建物ではない。失われた数字ではない。最後まで何かを届けようとした機械。誰かのために湯を沸かす名もなき店主。冷えた手を温める一杯のコーヒー。そうしたものこそ、終末の中で最も失われやすく、最も残すべき事実である」

 黒瀬の声が、少しだけ揺れた。

「本紙は、この喫茶店を以下のように記録する。世界が終わったあとも、誰かの帰る場所は存在した。少なくとも、今日この日、確かに存在した」

 読み終えると、黒瀬は紙をテーブルに置いた。

 店内は静かだった。

 やかんの湯気が、かすかに揺れている。

 店主はしばらく言葉を探した。

「……いい記事ですね」

 ようやく出てきたのは、それだけだった。

 黒瀬は小さく笑った。

「語彙が少ないな、店主」

「すみません」

「いや。それで十分だ」

 黒瀬は記事を丁寧に折りたたんだ。

「これで一つ、書けた」

「この記事は、どうするんですか」

「新聞にする」

「どこで?」

「俺の拠点に、小さな手回し印刷機がある。壊れかけだが、まだ何枚かは刷れる」

「配る相手は?」

「いないかもしれない」

「それでも刷るんですね」

「ああ」

 黒瀬は迷いなく言った。

「瓦礫の壁に貼る。避難所跡に置く。風で飛ばされてもいい。誰かが拾うかもしれない。誰も拾わなくても、世界に一枚、この記事が存在したという事実は残る」

 店主はうなずいた。

「黒瀬さんらしいですね」

「今日会ったばかりで分かったようなことを言う」

「すみません」

「謝ることじゃない」

 黒瀬は残ったコーヒーを飲み干した。

 そして、鞄を開けた。

 中から、一束の紙を取り出す。これまで彼が書いてきた新聞の原稿だった。端は擦り切れ、ところどころ雨染みがある。

「店主」

「はい」

「頼みがある」

 黒瀬は紙束をカウンターに置いた。

「これを、少しの間ここに置かせてくれないか」

「ここに?」

「ああ」

「大事なものでは」

「だからだ」

 黒瀬は鞄の中を見た。そこにはまだ白紙のノートが一冊、残っていた。

「俺は、この喫茶店の記事を刷りに戻る。戻れるかは分からん。道中で倒れるかもしれない。印刷機が完全に壊れているかもしれない。何が起こるか分からない」

「なら、なおさら持っていた方が」

「いや」

 黒瀬は首を振った。

「全部を持って歩くには、重すぎる」

 その言葉には、紙の重さ以上のものが含まれていた。

 店主には分かった。

 黒瀬が置いていこうとしているのは、原稿だけではない。

 自分が背負ってきたものの一部を、この店に預けようとしている。

「分かりました」

 店主は紙束を両手で受け取った。

「大切に預かります」

 黒瀬は少しだけ安心したように息を吐いた。

「助かる」

 店主は棚の下から木箱を取り出した。中には何も入っていない。まるで、最初から何かを保管するために用意されていたようだった。

 そこへ黒瀬の原稿を入れる。

 蓋を閉める前に、店主は一枚だけ目に留めた。

 見出しには、こう書かれていた。

 ――最後まで歌っていた少女合唱団。

 店主は胸が詰まった。

 黒瀬はそれを見て、静かに言った。

「いい記事だった」

「読んでも?」

「いつか、な」

 店主は木箱の蓋を閉めた。

 その瞬間、店の奥で何かが小さく鳴った気がした。

 ベルではない。

 時計の針が、一つ進んだような音。

 店主が振り返ると、そこにはいつも通りの棚と扉があるだけだった。

 黒瀬もその音に気づいたのか、少し眉をひそめた。

「今のは?」

「分かりません」

「この店は、本当に記事にしがいがある」

「もう十分書いたのでは」

「記者に十分はない」

 黒瀬は立ち上がった。

 足元はまだふらついている。だが、来た時よりも背筋が伸びていた。

「もう行くんですか」

「ああ。長居すると、書けなくなる」

「どうして」

「居心地が良すぎる」

 黒瀬はコートを羽織り、鞄を肩に掛けた。来た時より、少しだけ鞄は軽くなっている。

 その軽さが、彼の表情にも出ているようだった。

 店主は扉まで見送った。

「また来てください」

 自然にその言葉が出た。

 言ってから、店主は少しだけ戸惑った。

 この店に来る客は、みんな何かを終わらせに来ているのかもしれない。

 ならば、また来てくださいという言葉は、正しいのだろうか。

 黒瀬は扉の前で振り返った。

「記事を刷ったら、一部持ってくる」

「約束ですか」

「ああ。記者は締め切りと約束には縛られる」

「なら、待っています」

「待つのは得意そうだな、店主」

 黒瀬はそう言って、店の外へ出た。

 灰色の風が吹いていた。

 黒瀬は一度、喫茶店を振り返った。壊れたカメラを構え、撮れない写真をまた一枚撮る。

 そして、荒れた道を歩き出した。

 その背中は痩せていて、頼りなくて、今にも風に倒されそうだった。

 けれど、足取りは来た時よりも確かだった。

 店主は、黒瀬の姿が灰色の街に溶けて見えなくなるまで見送った。

 扉を閉めると、ベルが小さく鳴った。

 店内に戻ると、黒瀬が座っていた席に、紙が一枚残されていた。

 店主はそれを手に取った。

 先ほどの記事とは別の紙だった。

 短い文章が書かれている。

 ――臨時号、発行予定。

 その下に、大きな見出し。

 ――世界が終わったあと、喫茶店だけが営業していた。

 そして、欄外に小さく書き添えられていた。

 ――記者、黒瀬真悟。取材地、店名不明の喫茶店。店主、氏名不明。ただし、コーヒーはうまい。

 店主は思わず笑った。

 笑い声は小さく、店内の空気にすぐ溶けた。

 けれど、確かに笑った。

 世界が終わってから、自分が笑ったことがあっただろうか。

 覚えていない。

 覚えていないが、今の笑いは本物だった。

 店主は紙をカウンターの奥に置いた。

 それから、黒瀬の使ったカップを洗った。

 カップには、かすかにコーヒーの香りが残っている。

 水道から流れる水は澄んでいた。外の世界ではありえないほど、綺麗な水だった。

 店主は洗い終えたカップを棚に戻し、ふと、カウンターの端に置かれた朝の一杯を見た。

 今日も、最初に淹れたコーヒーは残っていた。

 けれど昨日とは違い、冷めきる前に店主はそれを手に取った。

 ひと口飲む。

 苦い。

 でも、昨日ほど冷たくはなかった。

 店主は窓の外を見た。

 黒瀬が歩いていった道には、もう誰の姿もない。

 だが、彼はきっと書くだろう。

 読者がいなくても。

 印刷機が壊れかけていても。

 世界が終わっていても。

 誰かがいたことを、なかったことにしないために。

「記録、か」

 店主は呟いた。

 自分には、記録がない。

 名前も、過去も、世界が終わった日のことも、何も覚えていない。

 けれど、ここに来た客のことなら覚えている。

 五十年遅れの荷物を届けたロボット。

 最後の新聞を作ろうとする記者。

 彼らがここで何を話し、何を飲み、何を終わらせていったのか。

 それなら、覚えていられる。

 店主はカウンターの下を探した。

 なぜか、そこに一冊のノートがあった。

 古いが、まだ何も書かれていない。表紙は濃い茶色で、角に小さな傷がある。

 店主はそれを開いた。

 最初のページは白紙だった。

 ペンもあった。

 店主はしばらく迷い、それから最初の一行を書いた。

 ――一人目の客。壊れかけの配達ロボット。

 少し考えて、次の行を書く。

 ――五十年前の誕生日プレゼントを届けに来た。

 さらに次の行。

 ――最後に、配送完了と言って停止した。

 店主はペンを止めた。

 文字はあまり綺麗ではなかった。久しぶりに書いたような、ぎこちない字だった。

 それでも、そこには確かに記録が残った。

 続けて、店主は書く。

 ――二人目の客。黒瀬真悟。最後の新聞記者。

 そこまで書いて、店主は少し笑った。

 黒瀬が見たら、「見出しが弱い」と言うかもしれない。

 それでも、今の店主にはこれが精一杯だった。

 店主はノートを閉じ、カウンターの中にしまった。

 外では風が吹いている。

 灰色の世界は、今日も終わったままだ。

 けれど、店の中にはコーヒーの香りが残っている。

 誰かが来た記録がある。

 誰かが去った余韻がある。

 そして扉には、今も札が掛かっている。

 ――開店中。

 店主は新しい湯を沸かした。

 次に来る客が、温かいものを必要としているかもしれないから。

 やかんが静かに鳴り始める。

 その音を聞きながら、店主はふと思った。

 黒瀬の記事が、いつか誰かの手に届くことはあるのだろうか。

 それは分からない。

 けれど、もし届いたなら。

 その誰かは、この記事を読んでどう思うのだろう。

 世界が終わったあと、喫茶店だけが営業していた。

 そんな奇妙な一文を、信じるだろうか。

 笑うだろうか。

 泣くだろうか。

 それとも、ここを探しに来るだろうか。

 店主は窓の外へ目を向けた。

 誰もいない道。

 灰色の空。

 遠くに続く、壊れた街。

 その向こうから、いつかまた誰かが歩いてくる気がした。

 だから店主は待つ。

 名前も過去も分からないまま。

 この店が何なのかも知らないまま。

 それでも、湯を沸かし、豆を挽き、カップを磨いて。

 世界が終わったあとも、喫茶店だけは営業している。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第2話は、世界最後の新聞を作ろうとする記者・黒瀬のお話でした。


誰も読まないかもしれない。

それでも、誰かが確かに生きていたことを残したい。

そんな黒瀬の想いと、店主の中に少しずつ積み重なっていく「記録」を描きました。


次回は、第3話「記憶を売った少女」です。

よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。


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