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第1話 壊れかけの配達ロボット

はじめまして。


終わってしまった世界で、なぜか一軒だけ営業している喫茶店。

そこへ訪れる客たちは、それぞれに終わらせられないものを抱えています。


静かで少し切なく、けれど最後に少しだけ温かさが残るような物語を目指しています。


第1話、よろしくお願いいたします。

 世界が終わったあとも、朝は来る。

 それは不思議なことだった。

 誰も目覚める者がいなくても。

 誰も窓を開けなくても。

 誰も新聞を取りに出なくても。

 誰も学校へ向かわず、会社へ急がず、店のシャッターを上げなくても。

 朝は、勝手に来る。

 灰色の雲の向こうで、太陽らしきものがぼんやりと滲む。光は弱く、地上まで届く頃には冷えきっている。空には鳥の影もなく、遠くから聞こえるはずの車の音も、人の声も、信号機の電子音もない。

 風だけがあった。

 乾いた砂を巻き上げ、ひび割れた道路を撫で、崩れかけたビルの隙間を抜けていく風。

 それは時折、どこかで外れかけた看板を揺らし、かん、かん、と乾いた音を鳴らした。

 まるで、誰もいない世界に向かって、まだ返事を待っているみたいに。

 そんな世界の片隅に、一軒の喫茶店があった。

 大きな店ではない。

 赤茶色の屋根。白かったはずの外壁。木枠の窓。入り口には古びた扉が一枚。扉の横には、小さな黒板が立てかけられている。

 黒板には、白いチョークでこう書かれていた。

 ――本日のコーヒー。

 その下に書かれているはずの豆の名前は、雨風に削られて読めなくなっていた。

 けれど黒板そのものは倒れていない。扉のガラスも割れていない。窓辺に置かれた小さな鉢植えも、枯れてはいるが、なぜか土だけは乾ききっていなかった。

 世界が終わったあとに残っているには、あまりに整いすぎた店だった。

 店主は、いつものように店の奥で目を覚ました。

 ベッドではなかった。事務室の隅に置かれた古いソファだった。毛布を一枚かけて眠っていたらしい。眠った記憶はある。けれど、いつ眠ったのかは思い出せない。

 店主はしばらく天井を見上げた。

 木目の天井。小さな染み。止まったままの壁掛け時計。時計の針は四時二十二分を指している。だが、その下に置かれた別の小さな時計は、今もかち、かち、と律儀に動いていた。

 どちらが正しいのかは分からない。

 そもそも、この世界に正しい時刻などまだあるのだろうか。

 店主は体を起こした。

 自分の名前は、今日も思い出せなかった。

 毎朝、最初に確かめる。

 自分は誰なのか。

 何歳なのか。

 いつからここにいるのか。

 なぜ、この店にいるのか。

 答えはいつも返ってこない。

 記憶は霧の向こうに沈んでいる。手を伸ばせば届きそうなのに、指先に触れる前に遠ざかってしまう。思い出そうとすればするほど、頭の奥に鈍い痛みが走った。

 ただ、一つだけ分かっていることがあった。

 今日も店を開けなければならない。

 理由は分からない。

 誰に命じられたわけでもない。

 けれど、そうしなければならない気がした。

 店主は顔を洗い、白いシャツの袖をまくった。鏡に映る自分の顔を見ても、やはり何も思い出せない。短く整えられた髪。疲れの残る目。年齢は若くもなく、老いてもいない。見慣れているようで、初めて見る顔のようでもあった。

「……おはようございます」

 鏡の中の自分に、店主は小さく言った。

 返事はない。

 それでも、言わないよりはましだった。

 店内に出る。

 カウンター。丸いテーブル。木の椅子。壁際の本棚。窓際の席。床には昨日磨いたばかりのような艶がある。誰もいないはずなのに、椅子はきちんとテーブルに収まっていた。

 店主はまず、窓を拭いた。

 外から灰が飛んでくることもある。だが今朝の窓は、薄く曇っているだけだった。布巾で拭うと、灰色の街が少しだけ鮮明になる。

 崩れた歩道。倒れた街灯。遠くで斜めに傾いた高層ビル。

 そのすべてが、まるで巨大な写真の中に閉じ込められているように動かない。

 店主は窓辺の枯れた鉢植えに水をやった。

 枯れているなら意味がない。

 そう思うのに、毎朝やってしまう。

 土に水が染み込む音を聞くと、なぜか少し落ち着いた。

 それから、店主は入り口へ向かった。

 扉には木製の札が掛かっている。片面には「閉店」、もう片面には「開店中」と書かれている。

 店主は札を裏返した。

 ――開店中。

 その瞬間、店の空気がほんの少し変わった。

 灯りが柔らかくなる。カウンターの奥で、小さな機械が低く唸る。蛇口から一滴、水が落ちる。棚の上のカップが、かすかに触れ合って音を立てる。

 まるで店そのものが、目を覚ましたみたいだった。

 店主は厨房に入り、やかんに水を注いだ。

 この店には水が出る。

 外の世界では、ありえないことだった。昨日、店の裏手にある古い水道管を確かめたが、とっくに錆びついていた。貯水タンクも見つからない。電気も同じだ。近くの電柱は倒れ、送電線は切れている。それなのに店内の照明は点く。冷蔵庫は静かに動き、コンロには火がつく。

 考えても分からない。

 だから店主は、今日も深く考えないことにした。

 やかんを火にかける。

 棚から豆の缶を下ろす。

 蓋を開けると、濃い香りが広がった。

 苦く、甘く、少しだけ焦げたような香り。

 店主はこの香りを知っている。身体のどこか深いところが、これを朝の匂いだと覚えている。

 豆を量る。

 ミルに入れる。

 手で回す。

 がり、がり、がり。

 静かな世界に、豆を挽く音が響く。

 この音だけは、終わった世界に似合わなかった。あまりに生活の音だった。まだ誰かが起きてきて、新聞を広げ、トーストをかじり、眠そうにコーヒーを待っているような音だった。

 店主はドリッパーに粉を入れ、湯を少しだけ注いだ。

 粉が膨らむ。

 湯気が立つ。

 香りが店内に満ちていく。

 この瞬間だけ、店主は自分が何者なのかを考えずに済んだ。

 コーヒーを淹れる手順は、記憶ではなく身体に刻まれている。湯の温度。注ぐ速さ。粉の膨らみ方。カップを温めるタイミング。どれも自然に分かる。

 白いカップに、一杯目のコーヒーを注いだ。

 店主はそれをカウンターの端に置く。

 いつも同じ席。

 そこは、誰かの席だった気がする。

 けれど、誰の席なのかは分からない。

「……どうぞ」

 無人の席に向かって、店主は小さく言った。

 返事はない。

 カップから湯気だけが立ち上る。

 店主はカウンターの内側に立ち、外を見た。

 今日も客は来ないかもしれない。

 昨日も来なかった気がする。いや、一昨日はどうだっただろう。三日前は。十日前は。そもそも、自分は何日ここにいるのだろう。

 数えようとしたことはある。

 けれど、数え始めるたびに、途中で分からなくなった。夜が来たのか、ただ空が少し暗くなっただけなのか。朝が来たのか、灰色が少し薄くなっただけなのか。時間の境目が曖昧すぎる。

 だから店主は、毎日を「今日」と呼ぶことにしていた。

 今日、店を開ける。

 今日、湯を沸かす。

 今日、コーヒーを淹れる。

 それだけで十分だった。

 扉のベルが鳴ったのは、その少し後だった。

 からん。

 小さく、乾いた音。

 店主は顔を上げた。

 扉の向こうに、影があった。

 最初は人間かと思った。背丈は大人の胸ほど。細い脚が二本。丸い頭部。肩のような部分から片腕だけが伸びている。

 だが、次の瞬間、その影が一歩店内に入ってきて、店主はそれが人間ではないと分かった。

 ロボットだった。

 銀色だったはずの外装は、砂と錆でくすんでいる。胸の装甲はへこみ、左腕は肘から先がない。右脚は動くたびにぎこちなく震え、足裏の部品が一つ欠けている。頭部に埋め込まれたカメラレンズには蜘蛛の巣のようなひびが走っていた。

 胸元には、かすれた文字が残っている。

 ――朝霧市配送公社 自律配送機 AD-17。

 ロボットは扉の前で止まった。

 ぎぎ、と内部の歯車かモーターが軋む音がした。足元に小さな金属片が落ちる。

 店主は少しだけ驚いたが、すぐにいつもの言葉を口にした。

「いらっしゃいませ」

 終わった世界で、壊れかけたロボットに向かって言うには、ひどく場違いな挨拶だった。

 けれど、喫茶店の扉を開けて入ってきたなら、それは客だ。

 店主はそう思った。

 ロボットの頭部が、ゆっくりと動いた。ひび割れたレンズが店内を見回し、最後に店主の顔で止まる。

 胸のスピーカーが、ざり、と雑音を鳴らした。

『……営業……確認』

 声はひどく歪んでいた。古い録音を何度も再生したような、途切れ途切れの機械音声だった。

「はい。営業しています」

『店舗……種別……飲食店』

「喫茶店です」

『喫茶……店』

 ロボットはその言葉を確認するように繰り返した。

『客席……利用……可能?』

「もちろん」

 店主は窓際の席を示した。

 ロボットは一歩進んだ。右脚が震える。次の一歩で、膝のあたりから小さな火花が散った。

 店主は思わずカウンターから出た。

「大丈夫ですか」

『機能低下……進行中。歩行……可能。配送任務……継続可能』

 ロボットはそう言って、ぎこちなく椅子の横に立った。

 座るのかと思ったが、膝の関節がうまく曲がらないらしい。店主は椅子を少し引いたが、ロボットは首を振るように頭部を動かした。

『着席……不要。滞在目的……休憩ではありません』

「では、何かご用件が?」

 ロボットは胸元に抱えていた箱を、残った右腕で大事そうに持ち上げた。

 小さな箱だった。

 茶色い包装紙。色褪せた赤いリボン。角は少し潰れているが、破れてはいない。箱の表面には、防水加工の名残のような光沢がうっすら残っていた。

 それは、この壊れた世界の中で、奇妙なほど丁寧に守られていた。

『配送任務……未完了』

 ロボットは言った。

『荷物ヲ……届ける必要ガ……あります』

 店主は箱を見つめた。

 誰かに贈られるはずだったもの。

 誰かの手に渡るはずだったもの。

 その箱だけが、五十年も百年も時間から取り残されたみたいに、ロボットの腕の中にあった。

「宛先は分かりますか」

『宛先……第七区画、朝霧町、三丁目、十七番地』

「朝霧町……」

 店主はその地名を繰り返した。

 知らないはずなのに、胸の奥が少しだけ揺れた。

 朝霧。

 その音に、何か覚えがある気がした。

 けれど、やはり思い出せない。

『受取人……サクラバ、ユイ』

「サクラバ、ユイさん」

『配送予定日……西暦二〇九六年、四月十四日』

 店主は思わずロボットを見た。

「今は……何年なんですか」

 問いながら、店主は自分でも妙なことを聞いていると思った。

 今が何年なのか、店主は知らない。

 世界が終わった後、年号が意味を持つのかも分からない。

 ロボットの頭部が、かくん、と傾いた。

『現在日時……取得不能。最終同期……西暦二〇九六年、四月十四日、午前十時三十二分』

「その日に、届ける予定だったんですか」

『肯定』

「それから、ずっと?」

『配送ルート……遮断。通信……途絶。再計算……失敗。待機命令……未受信。配送任務……継続』

 店主は黙った。

 ロボットの言葉は機械的だった。

 だが、その短い文の間に、あまりに長い時間が横たわっている気がした。

 道が壊れ、通信が途絶え、誰からも命令が来なくなった後も、このロボットは荷物を抱えて動き続けていた。

 何日も。

 何年も。

 もしかすると、何十年も。

『遅延……発生中』

 ロボットの胸のランプが弱く点滅する。

『謝罪……必要』

 その言葉を聞いた時、店主はカウンターの端に置いたコーヒーを見た。

 まだ湯気が立っている。

 客に出すはずの一杯。

 だが、この客は飲めない。

「少し、待ってもらえますか」

『待機……可能』

 店主は厨房へ戻り、小さな工具箱を探した。なぜあるのか分からないが、棚の下に古びた箱があった。中にはドライバー、布、油差し、細いワイヤーが入っていた。

「修理はできないかもしれませんが、少し見てもいいですか」

 ロボットは一瞬、沈黙した。

『任務続行ニ支障ノナイ範囲デ……許可』

「ありがとうございます」

 店主はロボットの右脚の関節に、少しだけ油を差した。外装の隙間に詰まった砂を布で拭う。専門的なことは分からない。だが、軋む音はわずかに小さくなった。

『歩行効率……二パーセント改善』

「二パーセントだけですか」

『有意ナ改善』

「それならよかった」

 店主がそう言うと、ロボットの頭部が少しだけ上を向いた。

『感謝……します』

 機械音声だった。

 けれど、店主にはそれが本当の感謝に聞こえた。

 店主は壁に掛けてあった外套を取った。厚手の生地で、ところどころ擦り切れている。袖を通すと、妙に身体に馴染んだ。

 扉の前で、店主は一度振り返った。

 カウンターの端には、一杯目のコーヒーがある。

 開店中の札もそのままだ。

 少し迷った。

 外に出ている間に、誰かが来るかもしれない。

 そんなことは今までほとんどなかったはずなのに、そう思った。

「すぐ戻ります」

 誰に言うでもなく呟き、店主は扉を開けた。

 外の空気は冷たかった。

 ロボットが先に出る。店主は後に続く。

 扉のベルが、からん、と鳴った。

 二人は灰色の街を歩き始めた。

 店主は店の周辺からあまり遠くへ行った記憶がない。行こうとしたことはあるのかもしれないが、思い出せない。ただ、店から離れるほど、胸の奥がざわつくような感覚があった。

 それでも今日は、ロボットがいた。

 ロボットは道を知っているようだった。

 いや、正確には、知っていた道を何度も再計算しながら進んでいるようだった。

『旧中央通リ……障害物多数。迂回』

 ロボットは時々そう呟き、崩れた道路を避けた。

 そのたびに、店主は周囲を見回した。

 ここは、かつて町だった。

 それも、人が大勢暮らしていた町だ。

 壊れたバス停には、古い時刻表が貼られている。文字は薄れているが、朝七時台の本数だけやけに多い。通勤や通学で混み合っていたのだろう。

 倒れたコンビニの看板。

 割れたショーウィンドウ。

 シャッターの下りた花屋。

 店先に転がったままの買い物かご。

 砂に半分埋もれた子ども用の靴。

 公園の入口で止まったままの三輪車。

 どれも、人の生活の抜け殻だった。

 店主は三輪車の前で少し足を止めた。

 ハンドルに、小さな鈴がついている。風に揺れて、ちりん、と鳴った。

 一瞬、子どもの笑い声が聞こえた気がした。

 店主は振り返る。

 誰もいない。

 ロボットの足音だけが、かしゃん、ぎい、かしゃん、と続いている。

「この町は、いつからこうなったんでしょう」

 店主が呟くと、ロボットは少し遅れて反応した。

『都市機能停止……記録アリ』

「分かるんですか」

『断片記録……保持』

「教えてください」

 ロボットは歩きながら、胸のランプを明滅させた。

『二〇九六年四月十四日、午前十時三十五分。第三区画ニテ爆発音。通信量急増。緊急避難通知……受信失敗』

 店主は黙って聞いた。

『午前十時四十一分。中央交通網……停止。配送ルート……再計算』

 ロボットの声には感情がない。

 だからこそ、その記録は冷たく胸に刺さった。

『午前十時五十八分。第七区画方面、道路陥没。通行不能』

 かしゃん、ぎい。

『午前十一時二十分。依頼主ヨリ通信。内容……配送継続依頼』

「依頼主から?」

『肯定』

「何て言っていたんですか」

 ロボットは立ち止まった。

 胸の奥で、ざざ、と雑音が鳴る。

『音声記録……破損。再生可能部分……アリ』

 数秒後、スピーカーから別の声が流れた。

 ひどく歪み、途切れ途切れだった。

『……頼む……娘の……誕生日……今日だけは……届けて……やって……』

 そこで音声は途切れた。

 店主は息を止めた。

 声の主は、男性だった。

 恐怖を押し殺したような声。

 何かが迫る中で、それでも娘の誕生日を思っている声。

『依頼主……サクラバ、レン。追加命令……配送継続』

「だから、ずっと」

『肯定。配送任務……最優先』

 店主はロボットの腕の中の箱を見た。

 茶色い包装紙。

 赤いリボン。

 それはただの荷物ではなかった。

 父親が最後に託した願いだった。

 店主は胸の奥が重くなるのを感じた。

 自分は父親だったことがあるのだろうか。

 子どもがいたのだろうか。

 誰かの誕生日を祝ったことがあったのだろうか。

 何も思い出せない。

 ただ、温かいココアをカップに注ぐ手の感触が、一瞬だけ蘇った。

 誰かが笑っていた。

 小さな手が、カップを両手で包んでいた。

 その記憶は、すぐに消えた。

「……行きましょう」

 店主は言った。

 ロボットは再び歩き出した。

 朝霧町三丁目へ向かう道は、まっすぐではなかった。

 大通りは瓦礫で塞がれていた。地下道は水没している。歩道橋は途中で折れている。ロボットは何度も立ち止まり、古い地図と現在の地形を照合するように頭部を動かした。

 店主はそのたびに周囲を探した。

 行けそうな道を見つけ、ロボットを支える。大きな瓦礫の間を通る時は、ロボットの抱える箱がぶつからないように手を添えた。

『支援……感謝』

「客ですから」

『客……定義確認。飲食店ニ来訪シ、商品またはサービスヲ利用スル者』

「広い意味では、合っています」

『商品……未利用』

「では、サービスを利用しています」

『サービス……配送支援』

「はい」

『当機……客』

「そうです」

 ロボットは少しだけ沈黙した。

『当機……客。記録』

 店主は小さく笑った。

 その笑い声は、壊れた街の中で自分でも驚くほど柔らかく響いた。

 しばらく進むと、住宅街らしき場所に出た。

 そこは、ほかの場所よりも静かだった。

 もちろん、街全体が静かなのだが、この一角には特別な沈黙があった。人が最後まで家を守ろうとした場所の沈黙。生活が完全に終わった場所の沈黙。

 門扉が倒れた家。

 屋根の抜けた家。

 庭に洗濯竿だけが残った家。

 表札が読めなくなった家。

 店主はゆっくり歩いた。

 どの家にも、誰かの暮らしがあった。

 朝、カーテンを開けた人がいた。

 台所で味噌汁を温めた人がいた。

 子どもを起こした人がいた。

 仕事に遅れると慌てた人がいた。

 夕飯の買い物を考えた人がいた。

 その全部が、途中で途切れている。

『目的地……接近』

 ロボットの声がした。

 十七番地。

 そこは小さな家だった。

 いや、家だったものだった。

 屋根は半分崩れ、壁は黒く焦げている。玄関の扉は外れて、庭の隅に倒れていた。窓ガラスは砕け、室内には砂と枯葉が吹き込んでいる。

 それでも、玄関横の表札だけは残っていた。

 錆びた金属板に、かすかに文字が刻まれている。

 ――桜庭。

 店主は指先で埃を払った。

「ここです」

『照合……一致』

 ロボットは一歩前へ進んだ。

『配送先……第七区画、朝霧町、三丁目、十七番地』

 胸のランプが点滅する。

『受取人……サクラバ、ユイ』

 ロボットは玄関跡に向かって、箱を差し出した。

 だが、そこには誰もいなかった。

 返事はない。

 チャイムもない。

 扉もない。

 家の中には、風だけが通り抜けている。

『受取人……不在』

 ロボットは言った。

『再配達……待機』

 その言葉を聞いて、店主は胸が締めつけられた。

「待っても、たぶん来ません」

『受取人……不在ノ場合、再配達ヲ実施』

「でも、もう何年も経っています」

『現在日時……取得不能。再配達……待機』

「この家には、もう誰も住んでいない」

『再配達……待機』

 同じ言葉が繰り返される。

 命令。

 規定。

 手順。

 それがロボットを動かしている。

 けれど店主には、その繰り返しが泣き声のように聞こえた。

 ロボットはここまで来た。

 ようやく辿り着いた。

 なのに、受取人がいない。

 命令は完了しない。

 箱は渡せない。

 五十年分の道のりが、玄関先で止まってしまった。

 店主は家の中を見た。

「少し、探してみてもいいですか」

『探索目的……受取人確認』

「はい」

『許可』

 店主は崩れた玄関をまたぎ、家の中に入った。

 床はところどころ抜けていた。慎重に足を置く。壁には焦げ跡があり、天井から垂れ下がった配線が揺れている。

 ここにも生活の痕跡が残っていた。

 割れた食器。

 倒れた椅子。

 壁に貼られた子どもの絵。

 色褪せたカレンダー。

 冷蔵庫に貼られたマグネット。

 カレンダーは四月で止まっていた。

 十四日の欄に、赤い丸がついている。

 その下に、小さな文字が書かれていた。

 ――ユイ誕生日。

 店主はしばらく、その文字を見つめた。

 子どもの誕生日。

 きっと、この家ではその日を楽しみにしていたのだろう。ケーキを買う予定があったかもしれない。夕飯はいつもより少し豪華だったかもしれない。父親から届くプレゼントを、娘は朝から待っていたかもしれない。

 だが、その日、世界は壊れた。

 誕生日は、誕生日のまま終わらなかった。

 店主は奥の部屋へ進んだ。

 そこは子ども部屋だった。

 壁紙は淡い黄色。窓辺には、壊れた小さな机。床にはぬいぐるみが一つ転がっている。ぬいぐるみはうさぎの形をしていたが、片耳が取れていた。

 机の上に、古い写真立てが倒れていた。

 店主はそれを拾い上げた。

 写真には、三人家族が写っていた。

 父親らしき男性。

 母親らしき女性。

 そして、真ん中で笑う少女。

 少女は誕生日の帽子をかぶっていた。

 ケーキの前で、目を輝かせている。

 写真の端には、手書きの文字。

 ――ユイ、七歳の誕生日。

 店主は写真立てをそっと机に戻した。

 その横に、小さな缶があった。

 菓子缶だ。蓋は錆びていたが、しっかり閉まっている。店主は少し力を入れて開けた。

 中には、ノートと数枚の手紙が入っていた。

 ノートの表紙には、丸い字で名前が書かれている。

 ――さくらば ゆい。

 店主は胸の奥が重くなった。

 読んでいいのだろうか。

 これは他人の日記だ。

 けれど、ここにはもう、読んでほしくないと拒む人もいない。

 そして、あのロボットは受取人を探している。

 店主は静かにページを開いた。

 最初のページには、好きなものが書かれていた。

 いちご。

 ハンバーグ。

 青いリボン。

 お父さんの作る卵焼き。

 お母さんの歌。

 ページをめくる。

 学校であったこと。友達と喧嘩したこと。仲直りしたこと。テストで百点を取ったこと。雨の日に長靴で水たまりに入ったこと。

 何でもない日々だった。

 けれど、今の世界では、その何でもなさが眩しかった。

 後半のページには、少し大人びた字で書かれていた。

 ――お父さんは最近、遠くの仕事が多い。

 ――お母さんは心配しているけど、私は平気。

 ――だって、誕生日には帰ってくるって言ってたから。

 次のページ。

 ――やっぱり帰れないかもしれないって。

 ――でも、プレゼントを送ってくれるって。

 ――何かな。

 ――ちゃんと届いたら、ありがとうって言いたい。

 その次のページは、白紙だった。

 そこから先は何も書かれていない。

 店主はしばらく動けなかった。

 日記は、誕生日の前で止まっていた。

 ありがとう、と言う前で止まっていた。

 店主はノートを閉じ、缶に戻した。だが、手は震えていた。

 子ども部屋を出ると、ロボットは玄関跡で待っていた。

『受取人……確認?』

 店主は首を横に振った。

「本人はいません」

『受取人……不在。再配達……待機』

「でも、ユイさんの日記がありました」

『日記……受取人所有物』

「はい」

 店主は缶をロボットに見せた。

「彼女は、プレゼントを待っていました」

 ロボットの胸のランプが点滅する。

『配送遅延……重大』

「でも、ここまで来ました」

『受取確認……不可』

「僕が証人になります」

『証人……?』

「あなたは、確かに届けた。受取人本人はいないけれど、ここは彼女の家です。彼女が待っていた場所です。彼女の日記も、写真もあります」

『配送規定……受取人本人、または代理人ノ署名ガ必要』

「では、代理人になります」

『代理権限……確認不能』

「確認できなくても、今ここで見届ける人が必要なら、僕が見届けます」

 ロボットは沈黙した。

 長い沈黙だった。

 機械が計算しているだけなのかもしれない。

 壊れかけの回路が答えを探しているだけなのかもしれない。

 だが店主には、ロボットが悩んでいるように見えた。

『質問』

「はい」

『配送完了トハ……何ヲ意味シマスカ』

 店主はすぐに答えられなかった。

 配送完了。

 荷物を相手に渡すこと。

 受領印をもらうこと。

 記録上の任務を終えること。

 きっと、本来はそういう意味なのだろう。

 だが、この箱に関しては、それだけでは足りない気がした。

「届けたい気持ちが、目的地まで辿り着くことだと思います」

『気持チ……定義不能』

「分からなくてもいいです」

 店主は箱を見た。

「でも、この箱には、誰かの気持ちが入っています。ユイさんに誕生日おめでとうと言いたかった、お父さんの気持ちです」

『依頼主……サクラバ、レン』

「はい。その気持ちは、ここまで来ました」

『受取人……不在』

「それでも、届いたと考えていいと思います」

『規定外……判断』

「そうですね。規定外です」

 店主は苦笑した。

「でも、世界はもう規定通りではないので」

 ロボットの頭部が、わずかに傾いた。

 その動作が、どこか納得に似ていた。

『証人……登録。氏名……』

 店主は口を開きかけて、止まった。

 氏名。

 自分の名前。

 分からない。

 いつもの空白が、胸の中に広がる。

「……分かりません」

『氏名……不明』

「はい」

『証人……氏名不明ノ喫茶店店主』

 ロボットはそう記録した。

 店主は少しだけ笑った。

「それでお願いします」

『承認』

 ロボットは、玄関跡の前に進んだ。

 右脚が震える。

 胸の奥で、モーターが悲鳴のような音を立てた。

 それでもロボットは倒れなかった。

 茶色い箱を、両腕で――いや、残った片腕と欠けた左腕の付け根で支えるようにして、慎重に下ろす。

 店主は家の中から、ユイの日記と写真立てを持ってきた。

 玄関だった場所に、箱を置く。

 その横に、日記を置く。

 写真立てを置く。

 風で飛ばされないよう、錆びた缶をそばに置く。

 まるで、小さな祭壇のようだった。

 ロボットは箱の前に立ち、胸のスピーカーを鳴らした。

『配送先……第七区画、朝霧町、三丁目、十七番地』

 声は途切れ途切れだった。

『受取人……サクラバ、ユイ』

 ロボットの胸のランプが、赤から青へ変わりかける。

『依頼主……サクラバ、レン』

 ざざ、と雑音。

『配送品……誕生日贈答品』

 ロボットは残った右腕で、箱のリボンを整えた。

 その動きはひどく不器用だった。金属の指先は震え、何度もリボンを滑らせた。それでもロボットは諦めず、最後には結び目を正面に向けた。

『遅延……発生』

 ロボットの声が一段低くなる。

『謝罪……実行』

 数秒の沈黙。

 そして、ロボットは言った。

『サクラバ、ユイ様。配送予定時刻ヲ大幅ニ超過シマシタ。申シ訳……アリマセン』

 店主は目を伏せた。

『荷物ヲ……オ届ケシマス』

 胸のランプが、青く光った。

 小さく、弱く、けれど確かな光。

『配送……完了』

 その瞬間、風が吹いた。

 枯れた庭の草が揺れる。

 壊れた家のどこかで、古い鈴のような音が鳴った。

 店主は顔を上げた。

 子ども部屋の窓辺に、何かが揺れていた。さっきまでは気づかなかったが、そこには色褪せた青いリボンが結ばれていた。

 ユイが好きだと日記に書いていた、青いリボン。

 風に揺れたそれが、一瞬だけ手を振っているように見えた。

 ロボットの身体が傾いた。

「危ない」

 店主は支えようとした。

 だが、金属の身体は重く、そして力を失っていた。

 ロボットは玄関横に、ゆっくり座り込むように崩れた。衝撃は小さかった。まるで自分でそこを選んだようだった。

『任務……完了』

 胸のランプが点滅する。

『待機命令……不要』

「ロボットさん」

『当機名称……AD-17』

「AD-17」

『はい』

 店主はその場に膝をついた。

「店に戻れば、もう少し修理できるかもしれません」

『自己診断……主要機能停止間近。移動……不可』

「でも」

『問題……ありません』

 機械音声なのに、どこか穏やかだった。

『配送完了……確認』

 店主は何も言えなかった。

 ロボットは空を見上げるように頭部を動かした。ひび割れたレンズに、灰色の空が映っている。

『質問』

「はい」

『当機ハ……客デシタカ』

 店主はうなずいた。

「はい。あなたは、うちのお客さんでした」

『商品……未利用』

「それでもです」

『飲食……不能』

「関係ありません」

 店主は静かに言った。

「うちの店に来て、誰かのために何かを終わらせた。なら、客です」

 ロボットの胸のランプが、また一度だけ青く光った。

『記録……当機、喫茶店ノ客』

「はい」

『感謝……します』

 店主は首を振った。

「こちらこそ」

『配送遅延……申シ訳……アリマセン』

「ちゃんと届きました」

『配送……完了』

「はい。完了です」

 ロボットの頭部が、ほんの少し下がった。

『……良カッタ』

 それが、最後の言葉だった。

 胸のランプが消える。

 ひび割れたレンズから光が失われる。

 AD-17は、桜庭家の玄関先で静かに停止した。

 店主は長い間、その場を離れられなかった。

 壊れた家。

 色褪せたプレゼント。

 少女の日記。

 家族写真。

 停止した配達ロボット。

 それらはすべて、世界が終わったあとに残されたものだった。

 世界は、人を消した。

 町を壊した。

 時間を止めた。

 それでも、誰かを思う気持ちだけは、完全には消えなかった。

 箱は届いた。

 五十年遅れで。

 受取人のいない家に。

 それでも、確かに届いた。

 店主は写真立てを見た。

 七歳のユイが笑っている。

「誕生日おめでとうございます」

 店主は小さく言った。

 返事はない。

 けれど、風が少しだけ柔らかくなった気がした。

 店主はAD-17のそばに、近くに落ちていた板を立てかけた。雨風を完全に防げるわけではないが、何もしないよりはいい。

 その板の上に、煤で短い文字を書いた。

 ――配送完了。

 それから店主は、ゆっくりと喫茶店へ戻った。

 帰り道は、来た時よりも短かった。

 いや、短く感じただけかもしれない。

 街は相変わらず静かだった。バス停も、コンビニも、公園も、何も変わっていない。三輪車の鈴だけが、遠くで一度鳴った。

 店主は歩きながら、胸の奥に残った重さを感じていた。

 悲しいのに、少しだけ温かい。

 寂しいのに、どこか救われたようでもある。

 不思議な感覚だった。

 喫茶店が見えてきた時、店主はほっとした。

 赤茶色の屋根。木の扉。窓の灯り。

 終わった世界の中で、そこだけがまだ「帰る場所」の形をしている。

 扉の札は、出た時のままだった。

 ――開店中。

 店主は扉を開けた。

 からん、とベルが鳴る。

 店内は、出ていった時とほとんど変わっていなかった。

 カウンターの端には、朝淹れた一杯目のコーヒーが置かれている。湯気はもう消えていた。カップの中の黒い液体は、冷めて静かに揺れている。

 店主は外套を脱ぎ、カウンターに入った。

 手を洗う。

 水は冷たかった。

 指先についた灰と砂が流れていく。

 店主はカップを手に取り、冷めたコーヒーを見つめた。

 AD-17は、これを飲めなかった。

 客だったのに。

 喫茶店に来たのに。

 コーヒーの香りを知ることもなく、味を知ることもなく、ただ荷物を届けるために去っていった。

 店主はカップを口元へ運んだ。

 ひと口飲む。

 冷たかった。

 苦かった。

 舌に残る酸味が、妙に胸に響いた。

 それでも、捨てる気にはなれなかった。

 この一杯は、誰のために淹れたのか分からない。

 けれど今日だけは、AD-17のための一杯だったのかもしれない。

 店主はゆっくり飲み干した。

 空のカップを洗い、布巾で拭き、棚に戻す。

 それから、もう一度豆を挽いた。

 がり、がり、がり。

 静かな音が店内に響く。

 AD-17の足音に少し似ていると思った。

 かしゃん、ぎい、かしゃん。

 壊れながらも進み続けた音。

 届けるためだけに残っていた音。

 店主は新しいコーヒーを淹れた。

 今度はカウンターの中央に置いた。

 客席は空っぽだった。

 それでも、そこに誰かが座っているような気がした。

 銀色の身体をした、不器用な客。

 胸に古い荷物を抱えた客。

 最後に、自分は客だったのかと尋ねた客。

「あなたは、ちゃんとお客さんでしたよ」

 店主は呟いた。

 窓の外では、灰色の風が吹いている。

 世界は終わっている。

 だが、終わったはずの世界には、まだ終わっていないものが残っている。

 渡せなかった荷物。

 言えなかったありがとう。

 届かなかった誕生日。

 謝れなかった遅延。

 待ち続けた機械。

 そして、店を閉められない店主。

 店主はカウンターに手をつき、静かに息を吐いた。

「この店に来る客は……」

 言葉にしようとすると、胸の奥で何かが軋んだ。

 思い出してはいけないものに触れかけたような痛み。

 けれど、店主は続けた。

「みんな、何かを終わらせに来ているのかもしれない」

 その意味を、店主はまだ知らない。

 自分がなぜここにいるのかも。

 なぜ名前を思い出せないのかも。

 なぜこの店だけが、電気も水もコーヒーも失わずに残っているのかも。

 なぜ毎朝、誰かのために一杯目のコーヒーを淹れてしまうのかも。

 何も分からない。

 だが、一つだけ分かったことがある。

 誰かが扉を開ける限り、店は開けておかなければならない。

 たとえその客が人間でなくても。

 たとえコーヒーを飲めなくても。

 たとえ、何十年も前に終わった約束を抱えていたとしても。

 ここに辿り着いたなら、迎える。

 話を聞く。

 必要なら、一緒に歩く。

 そして、見送る。

 それが喫茶店の店主の仕事なのだと、店主は思った。

 理由は分からない。

 けれど、少なくとも今日、そう思えた。

 店主はカウンターの下を探した。

 そこに、小さな紙片があった。注文票のようなものだった。古びているが、まだ書ける。ペンもあった。

 店主は少し迷ったあと、紙に短く書いた。

 ――本日の客。AD-17。配送完了。

 書き終えると、その紙をカウンターの奥に置いた。

 それだけでは何も変わらない。

 だが、何も残さないよりはいい気がした。

 AD-17がここに来たこと。

 ユイの誕生日プレゼントを届けたこと。

 最後に配送完了と言ったこと。

 自分が喫茶店の客だったと知って、少しだけ安心したように見えたこと。

 それらを、店主だけは覚えていようと思った。

 外では風が強くなっていた。

 遠くの看板が、かん、かん、と鳴る。

 誰かが扉を叩いているような音だった。

 店主は顔を上げる。

 もちろん、誰もいない。

 けれど、いつかまた誰かが来る。

 そんな気がした。

 店主は新しいカップを磨き始めた。

 一つ、二つ、三つ。

 客席の椅子を整え、テーブルを拭き、やかんに水を足す。

 店内には、再びコーヒーの香りが満ちていく。

 その香りは、外の冷たい空気に少しずつ混ざり、扉の隙間から終わった世界へ流れていった。

 世界は終わった。

 町は壊れた。

 人々は消えた。

 だが、喫茶店だけは営業している。

 古びた扉に掛かった札は、今日も変わらず表を向いていた。

 ――開店中。

 そして店主は、その札をまだ裏返さなかった。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第1話は、壊れかけの配達ロボットと、五十年遅れの誕生日プレゼントのお話でした。


この喫茶店は何なのか。

店主はなぜ記憶を失っているのか。

そして、次はどんな客が訪れるのか。


少しずつ明かしていければと思います。


次回は、第2話「最後の新聞記者」です。

よろしければ、またお付き合いいただけると嬉しいです。


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