第19話 店主を恨む男
第19話です。
今回、喫茶ミオを訪れるのは、店主を恨んでいる男。
世界が壊れた日。
彼は妻を背負い、明かりの灯る喫茶ミオへ助けを求めました。
けれど、店内はすでに避難者でいっぱい。
男は店に入れず、その日の記憶と怒りを抱えたまま、長い時間を過ごしてきました。
店主は、本当に彼を見捨てたのか。
そして男は、なぜ店主を恨み続けなければならなかったのか。
第19話「店主を恨む男」、お付き合いいただけると嬉しいです。
朝になっても、青い線の入ったカップのことが頭から離れなかった。
店主は、そのカップを棚の奥へしまわず、カウンターの上に置いていた。
昨日、朝倉奏太という少年が使ったカップ。
母を待ち続けていた少年。
学校、避難所、壊れた橋。
そして、母が残した録音メッセージ。
奏太はその声を聞き、ようやく待つことを終えた。
最後に、彼は店主へ言った。
――おじさんも、誰かを待ってるんでしょ?
その言葉は、今も胸の中で静かに響いている。
誰かを待っている。
店主は、扉の札を見た。
――開店中。
自分は、この店で客を待っている。
最後の客を待っている。
けれど、それだけではない。
たぶん、自分は水瀬ミオを待っている。
あるいは、ミオを思い出せる日を待っている。
あるいは、忘れないと耐えられなかった何かと向き合える日を待っている。
答えはまだ出ない。
ただ、胸の中にある待ち時間だけが、少しずつ形を持ちはじめていた。
「そのカップ、まだ見てる」
カウンター横のAVMの足元で丸くなっていたミケが言った。
「はい」
「洗ったのに?」
「洗いました」
「じゃあ、ただのカップじゃん」
「そうですね」
「そう思ってない匂いがする」
店主は苦笑した。
「ミケには、隠し事ができませんね」
「猫だからね」
「猫は隠し事を見抜くんですか」
「見抜いたふりがうまい」
「便利ですね」
「でしょ」
ミケは得意げに尻尾を揺らした。
店主は青い線の入ったカップを棚に戻そうとして、手を止めた。
小さな手が、このカップを包んでいた。
奏太は、母を待っていた。
そして、待つことを終えた。
それはよかった。
そう思う。
けれど、胸の奥には別の痛みが残っている。
奏太の母、朝倉里奈は、迎えに来たくなかったわけではなかった。
来られなかった。
間に合わなかった。
世界が壊れた日には、そんな「間に合わなかった」が無数にあったのだろう。
帰れなかった人。
迎えに行けなかった人。
助けられなかった人。
入れなかった人。
店主は、ふとその言葉に引っかかった。
入れなかった人。
世界が壊れた日、喫茶ミオには人々が集まった。
日記にはそう書かれていた。
店はすぐにいっぱいになった。
椅子が足りなくなり、床に座る人が出た。
カウンターにもたれる人がいた。
子どもたちは棚の下で震えていた。
では、店に入れなかった人はどうしたのだろう。
扉の外にいた人は。
間に合わなかった人は。
店主の手が、カップを持ったまま止まった。
「店主?」
ミケが顔を上げる。
「大丈夫ですか」
「何か、考えた匂いがした」
「店に入れなかった人のことを考えていました」
ミケの耳がぴくりと動いた。
「今日、来そう」
「え?」
「そういう匂い」
店主が聞き返そうとした、その時だった。
扉の外で、重い足音がした。
こつ。
こつ。
これまでの客の足音とは違っていた。
迷っている音ではない。
怯えている音でもない。
怒りを押し殺して歩く音だった。
店内の空気が、少し冷える。
AVMの表示が一瞬だけ淡く光り、すぐに消えた。
ミケがカウンターの下へ移動する。
「来た」
店主は扉を見た。
からん。
ベルが鳴った。
入ってきたのは、四十代くらいの男だった。
背は高いが、ひどく痩せていた。
黒いコートは擦り切れ、裾には灰がついている。
髪は乱れ、頬はこけ、目の下には深い影があった。
右手には、古い金属製の水筒を握っている。
その指先が、白くなるほど力を込めていた。
男は店内を見回した。
カウンター。
棚のカップ。
窓際の席。
AVM。
ミケ。
そして、店主。
男の視線が店主に止まった瞬間、その目に炎のようなものが灯った。
「……まだ、開いてるのか」
低い声だった。
店主は、胸の奥がざわつくのを感じながら、いつものように頭を下げた。
「いらっしゃいませ」
男は笑った。
笑ったというより、吐き捨てた。
「いらっしゃいませ、か」
「お席へどうぞ」
「座れって?」
「はい」
「俺に?」
「お客様ですから」
男の顔が歪んだ。
「ふざけるな」
店内の空気が、さらに冷えた。
ミケが低く唸る。
店主は動かなかった。
男は一歩、また一歩とカウンターへ近づいた。
靴音が床に重く響く。
「お客様だと? 今さら?」
「……僕を、ご存じなんですか」
店主が尋ねると、男は水筒をカウンターに叩きつけた。
鈍い音がした。
「覚えてないのか」
店主は、男の顔を見た。
記憶を探る。
しかし、出てこない。
どこかで会ったのかもしれない。
世界が壊れた日に。
この店に集まった人々の中にいたのかもしれない。
だが、思い出せない。
「すみません」
店主は正直に言った。
「覚えていません」
男の目が、さらに怒りで光った。
「そうかよ」
男は低く笑った。
「そりゃあいい。お前は覚えてないんだな。俺のことも、俺がどう叫んだかも、扉を叩いたことも」
扉。
店主の胸が、どくんと鳴る。
「扉を、叩いた?」
「世界が壊れた日だ」
男は言った。
「四月十四日。空が割れて、駅が止まって、商店街が崩れて、みんな行き場を失った日だ」
店主の指先が冷たくなる。
四月十四日。
世界が壊れた日。
日記で読んだ日。
そして、自分がまだ断片しか思い出せない日。
男は続けた。
「この店には明かりがついていた。扉には『開店中』の札が出ていた。中には人がいた。温かい飲み物を飲んでるやつらがいた」
男の声が震える。
怒りなのか、悲しみなのか分からない震えだった。
「俺は扉を叩いた。入れてくれって。助けてくれって。何度も言った」
店主は息を呑んだ。
扉を叩く音。
何かが記憶の奥で揺れる。
だが、まだ見えない。
「でも、お前は入れなかった」
男は、店主を指さした。
「俺を、外に置き去りにした」
その言葉は、店主の胸を深く刺した。
外に置き去りにした。
「僕が」
「ああ」
男は水筒を掴んだまま、カウンターに身を乗り出す。
「中はいっぱいだって言った。もう入れないって言った。ここは喫茶店じゃないのか? 客なら入れるんじゃないのか? 最後の待合室だかなんだか知らないが、俺は待つことすら許されなかった」
店主は、何も言えなかった。
覚えていない。
そう言うことは簡単だった。
だが、それは男にとって何の意味もない。
この男は、覚えている。
扉の外にいたことを。
中の灯りを見ていたことを。
入れなかったことを。
その痛みだけは、確かにここへ持ってきている。
「お名前を」
店主は、かろうじて言った。
「聞いてもいいですか」
男は睨んだ。
「名前なんか聞いてどうする」
「記録します」
「記録?」
「この店に来た方のことを、忘れないために」
「もう忘れてるくせに」
店主は言葉を失った。
男は冷たく笑った。
「……間宮信二」
しばらくして、男は吐き捨てるように名乗った。
「間宮信二だ。覚えておけよ、今度こそ」
「間宮さん」
「その呼び方も気に入らない」
「では、信二さん」
「もっと気に入らない」
男は椅子に座らなかった。
立ったまま、カウンター越しに店主を睨んでいる。
店主は、静かに言った。
「何か、お飲みになりますか」
男の目が大きく開いた。
次の瞬間、怒りが爆発した。
「飲み物だと?」
水筒がカウンターの上で鳴った。
「お前、俺に飲み物を出すのか。今さら。あの日は外にいた俺に出さなかったくせに」
店主の胸が締めつけられる。
ミケがカウンターの下から出てきた。
「店主」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃない」
信二はミケを見た。
「猫までしゃべるのか。ここは本当に、まともじゃないな」
「まともじゃない店でも、牛乳は出る」
「黙ってろ」
「黙らない猫です」
ミケは尾を膨らませた。
店主は小さく首を振る。
「ミケ」
「……分かった」
ミケは不満そうにカウンターの下へ戻った。
店主は信二へ向き直る。
「信二さん」
「何だ」
「僕は、あの日のことをすべて思い出せていません」
「便利だな」
「はい」
店主は、逃げずに言った。
「便利です。ずるいと思います」
信二の表情が少しだけ揺れた。
「何だと」
「あなたが覚えている苦しみを、僕は忘れています。あなたを傷つけたかもしれない出来事を、僕は思い出せない。だから、謝ることさえ遅れています」
店主は頭を下げた。
「申し訳ありません」
信二は、黙った。
だが、その沈黙は許しではなかった。
怒りが行き場を失って、少しだけ形を変えただけだった。
「謝れば済むと思ってるのか」
「思っていません」
「俺はあの日、妻といた」
信二の声が、低くなった。
店主は顔を上げた。
信二はカウンターの一点を見つめていた。
そこには何もない。
だが彼には、別のものが見えているのだろう。
「あいつ、足を怪我してた。駅の階段で転んだ。外は光が降ってきて、建物が歪んで、道路も割れてた。俺はあいつを背負って、この店まで来た」
店主の喉が詰まる。
背負って。
扉を叩いた男。
その背中には、怪我をした妻がいた。
「中には明かりがあった。人がいた。温かそうだった。俺は思った。助かったって」
信二は、水筒を握る手に力を込めた。
「でも、入れなかった」
沈黙。
「妻は、寒いって言った。俺は、もう少しだって言った。中に入れてもらえば温まれるって。大丈夫だって」
信二の声がかすれた。
「でも、入れなかった」
店主は、カウンターの端を握った。
胸が痛い。
覚えていないのに、痛い。
いや、覚えていないからこそ痛いのかもしれない。
自分が何をしたのか分からない。
何をできなかったのか分からない。
それなのに、その結果だけが目の前に立っている。
「奥様は」
店主は、声を絞り出した。
信二は答えなかった。
答えないことが答えだった。
店内の空気が沈む。
ミケも何も言わなかった。
AVMの表示も消えたままだ。
「俺はずっと思ってた」
信二は言った。
「あの時、お前が入れてくれていれば。せめてあいつだけでも中に入れてくれていれば。違っていたんじゃないかって」
店主は、何も言えなかった。
「だから、恨んだ」
信二は店主を見た。
「お前を。喫茶ミオを。この温かい店を。外から見えた湯気を。笑ってるみたいに揺れてた明かりを。全部、恨んだ」
その言葉の一つ一つが、店内の灯りを暗くするようだった。
店主は、ただ聞いた。
救えない。
終わらせられない。
許せない。
代わりに受け取れない。
そばにいるだけ。
今、自分にできるのは、逃げずに聞くことだけだった。
「……覚えていません」
店主は言った。
「でも、確かめたいです」
「何を」
「あの日の記憶を」
「都合よく思い出して、自分は悪くないって言うつもりか」
「分かりません」
「分からない?」
「はい」
店主は、自分の胸に手を当てた。
「もしかしたら、僕は本当にあなたを見捨てたのかもしれません。そうでなかったとしても、あなたと奥様が中に入れなかった事実は消えません」
信二の目が細くなる。
「それでも、知りたいです」
「俺のためか」
「あなたのためだけではありません」
店主は、正直に言った。
「僕自身のためでもあります」
信二はしばらく黙った。
やがて、低く言った。
「最低だな」
「はい」
「でも、正直だ」
その言葉は、少しだけ怒りの熱を失っていた。
店主は厨房奥の扉を見た。
地下の時計。
黒い石板。
記憶の場所へつながる扉。
昨日、奏太の記憶を辿ったように、もしかしたら信二の記憶も辿れるかもしれない。
だが、今回は違う。
これは、店主自身の罪悪感に触れる記憶だ。
逃げたくなる。
見たくない。
けれど、見なければならない。
「扉を使います」
店主は言った。
「この店の扉は、時々、客の記憶へつながります」
信二は不信感を隠さなかった。
「何を言ってる」
「信じなくても構いません」
「構わないって言われてもな」
「ただ、もしよければ、一緒に見に行きませんか」
信二は、カウンターに置いた水筒を見た。
長い沈黙。
それから、彼は水筒を手に取った。
「見せろ」
短く言った。
「お前が俺をどう見捨てたのか、見せろ」
店主は頷いた。
ミケも、カウンターの下から出てくる。
「僕も行く」
「ミケ」
「今回は絶対行く。匂いが重すぎる」
店主は反対しなかった。
AVMの表示が一瞬だけ光った。
――……
笑顔ではない。
ただ、何かを見守るような光だった。
店主は扉へ向かった。
喫茶ミオの入口の扉。
昨日、奏太の学校、避難所、壊れた橋へつながった扉。
店主は取っ手に触れる。
冷たい。
けれど、その奥に熱がある。
「信二さん」
「何だ」
「あの日を、思い出せますか」
「忘れたことなんかない」
信二は言った。
その声には、怒りと悲しみが混ざっていた。
「扉の外で、寒かった。妻が俺の背中で震えてた。中から、コーヒーの匂いがした」
店主の胸が痛む。
信二は続ける。
「俺は叫んだ。開けてくれって。入れてくれって。頼むって」
店主は扉を開けた。
からん。
ベルが鳴った。
扉の向こうに、灰色の通りではなく、赤黒い空が広がっていた。
四月十四日。
世界が壊れた日の商店街。
道路は割れ、看板は落ち、遠くで火のような光が揺れている。
空には黒いひびが走り、そこから雪のような光の粒が降っていた。
風は冷たく、灰と煙の匂いが混ざっている。
喫茶ミオの前には、人がいた。
たくさんの人が。
扉の内側にも、外側にも。
記憶の中の人々は、薄い影のようでありながら、確かにそこにいる。
泣く子ども。
座り込む老人。
肩を貸し合う若者。
怪我をした人。
名前を呼ぶ人。
その中心に、喫茶ミオがあった。
扉には、開店中の札。
窓の中は人で埋まっている。
床にも、カウンターにも、壁際にも人がいる。
店内は、たしかにいっぱいだった。
店主は息を呑んだ。
信二も動かない。
「見ろ」
信二が言った。
「いっぱいだから、俺は入れなかった」
その声には、怒りが戻っていた。
店主は、記憶の中の扉を見た。
そこに、若い頃の自分がいるはずだった。
だが、カウンターの中には、ミオがいた。
ミオの顔はまだはっきり見えない。
けれど、白いブラウスにエプロン姿で、必死にカップを配っている。
店内の奥から、篠原が子どもたちを落ち着かせる声が聞こえる。
黒瀬は何かを書いている。
沙耶は怪我人の手当てをしている。
そして、若い店主は――。
「いない」
店主は呟いた。
カウンターの中に、自分がいない。
その時、外から声がした。
――こっちにも、温かいものあります!
店主は振り返った。
喫茶ミオの外。
店の軒下。
そこに、若い店主がいた。
雨のような光の粒が降る中、簡易テーブルを出している。
テーブルの上には、ポット。
紙コップ。
毛布。
水。
包帯代わりの布。
若い店主は、店内ではなく外にいた。
外にいる人々へ、飲み物を配っていた。
――中はもういっぱいです。でも、ここで温かいものを出します。座れる方は壁際へ。怪我をしている方はこちらへ。
店主は、凍りついたようにその光景を見つめた。
信二も、言葉を失っていた。
「……何だよ」
信二の声がかすれる。
「何で」
記憶の中で、若い店主は必死に動いている。
ポットを持ち、紙コップに湯を注ぎ、震える手に渡す。
ミオが店内から追加の毛布を持ってくる。
若い店主が受け取る。
二人は何か短く言葉を交わし、また別々に動く。
店内と店外。
どちらもいっぱいだった。
どちらにも人がいた。
どちらにも、待っている人がいた。
その時、記憶の中に信二の声が響いた。
――入れてくれ!
店主はそちらを見た。
若い信二がいた。
今より少し若く、顔には灰がついている。
背中には、女性を背負っていた。
妻だろう。
彼女はぐったりしているが、意識はあるようだった。
信二は扉を叩いている。
――頼む! 妻だけでも!
若い店主が駆け寄る。
――こちらへ。中は満員です。今、外で手当てをします。
――中に入れてくれ!
――申し訳ありません。これ以上入れると、中の人も危険です。こちらで――
――ふざけるな! 中にはいるだろ! まだ立ってるやつもいるじゃないか!
若い信二の声は切羽詰まっていた。
怒りではなく、恐怖だった。
妻を背負い、行き場を失い、明かりのある店へ辿り着いた。
その扉が閉ざされているように見えた時、彼は壊れそうだったのだろう。
若い店主は、信二の妻を見た。
すぐに近くの椅子を外へ出そうとする。
――座らせてください。毛布を。
ミオが店内から毛布を投げるように渡す。
若い店主はそれを受け取る。
――温かいものもあります。奥様に少し――
信二が若い店主の手を払いのけた。
紙コップが地面に落ちる。
湯が割れたアスファルトに広がる。
――いらない! 中に入れろって言ってるんだ!
若い店主の顔が歪む。
だが、怒らなかった。
――すみません。
――謝るなら入れろ!
――すみません。今は、これしかできません。
その言葉に、現在の店主の胸が締めつけられた。
今は、これしかできません。
あの日の自分も、同じことを言っていた。
救えない。
世界を止められない。
全員を中に入れられない。
それでも、外で飲み物を配っていた。
見捨てたわけではなかった。
けれど、それで十分だったわけでもない。
記憶の中の信二は、妻を背負ったまま後ずさった。
――もういい!
――待ってください!
若い店主が追いかけようとする。
だが、その時、別の場所で悲鳴が上がった。
店の軒下にいた子どもが倒れた。
若い店主は一瞬迷う。
信二の背中。
倒れた子ども。
そして、店内からミオの声。
――お願い、そっち見て!
若い店主は、子どもの方へ走った。
信二は、妻を背負って暗い通りへ消えていく。
その背中を、若い店主は一度だけ振り返った。
顔には、苦痛が浮かんでいた。
けれど、戻れなかった。
目の前の子どもを抱き起こし、毛布をかけ、湯を差し出す。
信二の背中は、もう見えなかった。
記憶の風景が、そこで止まった。
信二は、水筒を握ったまま立ち尽くしていた。
「……嘘だ」
小さな声だった。
「俺は、見てない」
店主は何も言わなかった。
信二は、記憶の中の軒下を見ている。
紙コップ。
毛布。
外に座り込む人々。
若い店主。
ミオ。
すべて、そこにあった。
「俺は、扉しか見てなかった」
信二は呟いた。
「中の明かりしか、見てなかった」
その声から怒りが抜けていく。
代わりに、別のものが現れる。
もっと弱く、もっと痛いもの。
「お前が、何もしてなかったわけじゃないのか」
店主は、ゆっくり言った。
「それでも、あなたと奥様を中に入れられなかったことは事実です」
信二は顔を歪めた。
「やめろ」
「あなたが、寒い外にいたことも」
「やめろ」
「奥様を助けられなかったことも」
「やめろ!」
信二の声が、壊れた橋のように響いた。
記憶の商店街が揺れる。
ミケが店主の足元に寄った。
信二は、両手で顔を覆った。
「違う」
かすれた声。
「違うんだ」
店主は黙っていた。
「俺は……」
信二は震える声で言った。
「俺は、誰かを恨んでないと、立っていられなかった」
その言葉が、赤黒い空の下に落ちる。
「妻を守れなかった。背負ってたのに。俺がついてたのに。何もできなかった」
信二は、膝をつきそうになりながらも立っていた。
「世界が悪いって思っても、広すぎて恨めない。空が悪いって思っても、殴れない。運が悪かったって思ったら、自分が壊れそうだった」
店主は、聞いていた。
「だから、お前を恨んだ」
信二は店主を見た。
目には涙が浮かんでいた。
怒りでは隠しきれなくなった涙だった。
「明かりのついた店。扉の前にいたお前。中に入れなかった俺。ちょうどよかったんだ。恨む相手に」
店主は、静かに頷いた。
「はい」
「はいじゃない」
「それでも、あなたが苦しかったことは本当です」
「……」
「僕があなたにとって恨む相手になったことも、本当です」
信二は、何かを言おうとして、言えなかった。
店主は頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
「だから、お前は悪くなかったんだろ」
「悪くなかった、とは言えません」
店主は顔を上げた。
「僕は全員を中に入れられませんでした。全員を救えませんでした。あなたと奥様に十分なことができませんでした。そして、そのことを忘れていました」
信二の表情が揺れる。
「忘れたことも、罪だと思います」
「……そんなの」
「でも、あなたが僕を恨んだことを、責めることもできません」
店主は言った。
「僕があなたの立場だったら、同じように誰かを恨んだかもしれません」
信二は唇を噛んだ。
「やめろよ」
「はい」
「そんなふうに言うなよ」
「すみません」
「謝るなよ」
信二は、とうとうその場に座り込んだ。
記憶の中の喫茶ミオの前。
灰の降る商店街。
壊れかけた世界。
その中で、彼は水筒を抱えたまま肩を震わせた。
「俺は、弱かった」
小さな声だった。
「妻がいなくなったあと、ずっと、お前のせいだって思ってた。そう思ってないと、自分が耐えられなかった」
店主は、信二の隣に膝をついた。
「弱かったのではなく、苦しかったのだと思います」
「同じだ」
「同じではありません」
「同じだよ」
信二は、水筒を見つめた。
「これは、あの日持ってた水筒だ。妻に飲ませようと思ってた。でも、中はほとんど空だった」
彼はふたを開けた。
古い水筒の中には、もう何も入っていない。
「俺は、これもずっと持ってた。あいつに何も飲ませてやれなかった証拠みたいに」
店主は、その水筒を見つめた。
「お預かりしてもいいですか」
信二は顔を上げた。
「これを?」
「はい」
「何のために」
「あなたが置いていけるなら」
信二は水筒を握りしめた。
すぐには渡さなかった。
長い沈黙。
それから、彼は小さく笑った。
疲れた笑いだった。
「まだ恨みたい気持ちもある」
「はい」
「お前を見ると、腹が立つ」
「はい」
「でも」
信二は、水筒を差し出した。
「これを持ってると、俺はずっとあの日の扉の前にいる」
店主は、両手で水筒を受け取った。
思ったより軽かった。
けれど、そこに込められた時間は重かった。
「お預かりします」
「許したわけじゃない」
「はい」
「全部納得したわけでもない」
「はい」
「妻が戻るわけでもない」
「はい」
信二は、店主を睨むように見た。
しかし、その目にはもう最初の炎はなかった。
残っているのは、焼け残った灰のような痛みだった。
「でも、もう少しだけ、自分のことも見なきゃいけないんだろうな」
「はい」
「はいばっかりだな」
「すみません」
「それもだ」
信二は、かすかに笑った。
記憶の風景が薄れていく。
赤黒い空が遠ざかり、喫茶ミオの扉が浮かび上がる。
店主は水筒を抱え、信二とミケと共に扉をくぐった。
からん。
ベルが鳴る。
温かい空気。
コーヒーの香り。
いつもの喫茶ミオ。
信二は、戻ってきた店内を見回した。
最初に入ってきた時とは違う目だった。
恨みはまだある。
痛みもある。
だが、店の明かりをただ憎むだけの目ではなくなっていた。
店主はカウンターの内側へ戻った。
「何か、お飲みになりますか」
信二は、少しだけ眉を動かした。
「まだ言うのか」
「はい」
「……苦いやつ」
「コーヒーでよろしいですか」
「砂糖はいらない」
「かしこまりました」
店主は豆をすくった。
ミルに入れる。
ごり。
ごり。
豆が開かれる。
今日の香りは、深く苦かった。
焦げたような苦さ。
けれど、奥にわずかな酸味がある。
悔しさのような味。
後悔のような味。
店主は、丁寧に湯を注いだ。
恐れながら、手を温める。
カップにコーヒーを注ぎ、信二の前に置く。
「お待たせしました」
信二はカップを見た。
すぐには手を伸ばさなかった。
長い沈黙のあと、両手でカップを包んだ。
「温かいな」
「はい」
「外から見てた時、これが憎かった」
「はい」
「でも、寒い時は、やっぱり温かいものがほしいんだな」
信二は一口飲んだ。
顔をしかめる。
「苦い」
「砂糖をお持ちしますか」
「いらない」
彼は、もう一口飲んだ。
「苦いままでいい」
店主は、何も言わなかった。
信二は、ゆっくりコーヒーを飲んだ。
飲み終えるまで、店内は静かだった。
ミケも茶々を入れなかった。
AVMの表示も光らない。
その静けさは、責めるものではなかった。
ただ、男が自分の苦さを飲み込むための時間だった。
やがて、信二はカップを置いた。
「ごちそうさま」
「お口に合いましたか」
「合わない」
「そうですか」
「でも、今の俺にはこれくらいでいい」
信二は立ち上がった。
店主もカウンターから出る。
「もう行かれますか」
「ああ」
「水筒は」
「預ける」
信二は短く言った。
「でも、捨てるな」
「はい。大切にお預かりします」
「大切にって言われると腹が立つ」
「すみません」
「だから、それもだ」
信二は、ほんの少しだけ口元を歪めた。
笑ったのかもしれない。
店主には、そう見えた。
扉へ向かう信二の背中は、来た時よりも少しだけ軽かった。
けれど、完全に救われた背中ではない。
喪失は残っている。
怒りも、後悔も、消えたわけではない。
ただ、誰か一人を恨み続けることでしか立てなかった時間が、少しだけ動いたのだ。
扉の前で、信二は振り返った。
「なあ」
「はい」
「あの日、外にいたやつらのことも、覚えておけよ」
店主は、胸を強く押さえられたような気がした。
「はい」
「中に入れたやつだけじゃない。コーヒーを飲めたやつだけじゃない。扉の外にいたやつもいた」
「はい」
「俺みたいに、恨んでるやつもいる」
「はい」
「それを、忘れるな」
店主は、深く頭を下げた。
「忘れません」
信二は、しばらく店主を見ていた。
そして、静かに言った。
「今度はな」
扉が開く。
からん。
外の灰色の風が入ってくる。
信二は店の外へ出た。
その背中は、灰色の通りをゆっくり歩いていく。
光の道ではなかった。
はっきりとした救済の道でもなかった。
ただ、彼は自分の足で店を出た。
それで十分なのかもしれない。
角を曲がる前に、信二は一度だけ立ち止まった。
振り返らなかった。
そのまま、小さく何かを呟いたように見えた。
言葉は聞こえない。
そして、彼の姿は灰色の風の中へ消えていった。
扉が静かに閉まる。
店の奥で、かちり、と音がした。
時計の針が一つ進む音。
店主は、しばらく扉の前に立っていた。
ミケが足元に来る。
「行ったね」
「はい」
「許された?」
「いいえ」
店主は首を振った。
「許されたわけではありません」
「そっか」
「でも、信二さんは少しだけ進めたのだと思います」
「店主は?」
ミケの問いに、店主は答えられなかった。
自分は進めたのだろうか。
それとも、さらに重くなっただけだろうか。
信二の水筒が、カウンターの上にある。
空の水筒。
妻に何も飲ませられなかった証として、信二が持ち続けていたもの。
そして、店主が全員を中に入れられなかった証でもある。
見捨てたわけではなかった。
外にも飲み物を配っていた。
それは事実だ。
だが、だからといって胸が軽くなるわけではなかった。
店主は、水筒を両手で持った。
冷たい。
空っぽなのに重い。
「ミケ」
「なに」
「僕は、覚えていなければならないんですね」
「うん」
「店に入れた人のことだけでなく」
「うん」
「入れなかった人のことも」
「うん」
「助けられたかもしれない人のことも」
「助けられなかった人のことも」
ミケが静かに続けた。
店主は頷いた。
胸の奥に、罪悪感が沈んでいく。
信二が恨みを置いていった代わりに、その一部が自分の中へ残ったようだった。
代わりに受け取ることはできない。
地下の石板はそう言った。
でも、見届けた記憶は残る。
謝っても、戻らない。
思い出しても、消えない。
それでも、忘れてはいけない。
店主は水筒を倉庫へ持っていった。
預かりものの木箱を開ける。
折れた聖剣。
黒焔城の紋章。
不達票。
未来記録院の徽章。
ミケの記憶の小瓶。
ミオの写真が入った封筒。
そこに、空の水筒を置いた。
少し迷ってから、隣に小さな紙を添える。
――間宮信二さん。
――世界が壊れた日、扉の外にいた人。
店主は木箱の蓋を閉じた。
店内へ戻り、茶色いノートを開く。
手が重い。
ペンを持つ指が震える。
それでも書いた。
――十五人目の客。間宮信二。
――店主を恨んでいた男。
――世界崩壊の日、妻を背負って喫茶ミオへ来た。
――店内は避難者でいっぱいで、彼と妻は中へ入れなかった。
――当時の僕は、外にいた人々にも飲み物と毛布を配っていた。
――それでも、彼の痛みは消えない。
店主は、一度ペンを止めた。
そして、ゆっくり続きを書く。
――彼は、誰かを恨まなければ耐えられなかった。
――僕は、彼の恨みを否定できない。
――僕は、全員を中に入れられなかった。
――僕は、全員を救えなかった。
最後に、こう書いた。
――扉の外にいた人たちのことを、忘れてはいけない。
ペン先が紙の上で止まる。
その一文を書いた瞬間、胸の奥が重くなった。
けれど、それでいいのだと思った。
軽くなってはいけない罪悪感もある。
忘れてしまえば立っていられる痛みもある。
けれど、いつかは思い出さなければならない。
ミオの顔と同じように。
世界が壊れた日の扉の外も。
店主はノートを閉じた。
カウンターの端には、一杯目のコーヒーが冷めている。
店主はそれを飲んだ。
苦い。
今までで一番、苦い。
砂糖を入れていないのに、それ以上に苦い。
焦げついた後悔の味がした。
それでも、店主は飲み込んだ。
ミケが足元から見上げる。
「苦い?」
「はい」
「砂糖いる?」
「いえ」
店主はカップを置いた。
「今日は、苦いままでいいです」
窓の外には、灰色の町が広がっている。
壊れた駅。
止まった時計。
誰もいない商店街。
そして、あの日、扉の外にいた人々の気配。
喫茶ミオの灯りは、今も温かい。
けれど、その温かさを外から見て恨んだ人もいた。
店主は、それを知った。
知ってしまった。
それでも、扉の札は表を向いている。
――開店中。
世界が壊れた日、店に入れなかった人がいた。
店主を恨む男がいた。
その恨みをすべてほどくことはできなかった。
それでも、男は自分の足で店を出た。
店主は、また一つ重い記憶を抱えた。
喫茶店だけは、今日も営業している。
最後の客が来る、その日までは。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第19話は、店主を恨んでいた男・間宮信二のお話でした。
世界崩壊の日、喫茶ミオの中は避難者で埋まり、店主は店の外にいる人々にも飲み物や毛布を配っていました。
店主は、信二を見捨てたわけではありません。
それでも、信二と妻を店内へ入れられなかったことも、妻を救えなかったことも変わりません。
信二は、誰かを恨まなければ耐えられなかった。
店主は、その恨みを否定せず、自分が全員を救えなかった事実と向き合います。
二人は完全に許し合ったわけではありません。
ただ、信二は空の水筒を置き、自分の弱さと痛みを認めて、少しだけ前へ進みました。
そして店主の中には、扉の外にいた人々への罪悪感が残ります。
次回は、第20話「残り十件」です。
よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。




