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18/20

第18話 母を待つ少年

第18話です。


今回、店主は母親を待ち続けている少年・朝倉奏太とともに、彼の記憶を辿ります。


学校。

避難所。

壊れた橋。


喫茶ミオの扉は、開くたびに少年が待っていた場所へつながっていきます。


迎えに来るという約束を信じ、長い時間を止めたまま待ち続けた奏太。


その先で見つかるのは、母が最後に残した一つの声でした。


第18話「母を待つ少年」、お付き合いいただけると嬉しいです。

 少年は、青い線の入ったカップを両手で包んでいた。

 小さな手だった。

 カップの方が少し大きく見える。

 湯気が、少年の顔の前で白く揺れている。

 温かいミルク。

 蜂蜜を少しだけ入れたもの。

 熱すぎないように、店主は何度も温度を確かめた。

 少年は、ふう、ふう、と息を吹きかけてから、慎重に一口飲んだ。

「……あまい」

「熱くないですか」

「うん。だいじょうぶ」

 少年は、少しだけ安心したようにカップを見つめた。

 その顔を見た瞬間、店主の胸の奥がまた痛んだ。

 知らないはずの少年。

 初めて会ったはずの客。

 けれど、その小さな手と、青い線の入ったカップと、ふうふう息を吹きかける仕草が、店主の記憶の奥を強く揺らす。

 ――熱いから、ふーふーしてあげて。

 ミオの声。

 ――自分でできるよ。

 幼い声。

 ――じゃあ、ちゃんとふーふーして。

 笑う声。

 顔は見えない。

 場所もはっきりしない。

 ただ、青いカップだけが、やけに鮮明だった。

 店主は、カウンターに手を置いた。

 呼吸を整える。

 救えない。

 終わらせられない。

 代わりに受け取ることもできない。

 ただ、そばにいる。

 昨日、地下の石板に教えられた言葉を、胸の中で繰り返す。

 目の前の少年は、母を待っている。

 なら、まずは話を聞かなければならない。

「お名前を聞いてもいいですか」

 店主が尋ねると、少年はカップから顔を上げた。

「そうた」

「そうた君」

「うん。朝倉奏太」

 朝倉奏太。

 その名前を聞いた瞬間、店主の胸が小さく跳ねた。

 知っている名前ではない。

 少なくとも、今の記憶の中にはない。

 けれど、響きの奥に何かが引っかかった。

 奏太。

 小さな布の袋を膝の上で握ったまま、少年は続けた。

「お母さんが、ここで待っててって言った」

「この店で、ですか」

「ううん」

 奏太は首を振った。

「最初は学校」

 店主は、静かに相づちを打った。

「学校で待っていたんですね」

「うん。でも、先生がみんな避難所に行くって言ったから、避難所に行った」

「お母さんとは、そこで会えましたか」

 奏太は、カップを見つめたまま黙った。

 少しして、小さく首を振る。

「来なかった」

 その声は泣いていなかった。

 けれど、泣かないためにずっと固くなっている声だった。

「それから、橋のところに行った。お母さん、橋を渡って迎えに来るって言ってたから」

「橋」

「うん。でも、橋、壊れてた」

 奏太は布の袋を握りしめた。

「だから、ずっと待ってた」

「ずっと」

「うん」

 店主は、言葉を失った。

 ずっと。

 子どもの「ずっと」は、短い時間にも使われる。

 けれど、この店に来る客の「ずっと」は、本当に長い。

 五十年歩いた配達ロボット。

 死ぬことを忘れた老人。

 未来から来た配達員。

 記憶を食べ続けた猫。

 終われない心は、時間の中で何度でも同じ場所に戻る。

 この少年も、崩壊の日からずっと待っていたのだろう。

 学校で。

 避難所で。

 壊れた橋で。

 母が来ると信じて。

「お母様のお名前は、分かりますか」

「朝倉里奈」

 奏太はすぐに答えた。

「お母さん、看護師さん。白い服で、お仕事してた」

「看護師さん」

「うん。だから、すぐ帰れない時があるって言ってた。でも、約束した」

「どんな約束ですか」

 奏太は、店主をまっすぐ見た。

「どこにいても、ちゃんと迎えに行くって」

 店主は、何も言えなかった。

 その約束は、あまりにも重い。

 子どもにとっては、世界の真ん中にある約束だ。

 母が迎えに来る。

 だから待つ。

 それだけで、どんなに怖くてもそこにいられる。

 しかし、世界が壊れた日、その約束を守れなかった人がどれだけいただろう。

 守りたくても、行けなかった人が。

 帰りたくても、帰れなかった人が。

 店主は、カウンターの外へ出た。

 奏太の前に膝をつき、目線を合わせる。

「一緒に探しましょう」

 そう言った瞬間、ミケが耳を動かした。

「店主」

 低い声だった。

「外には長く出られないよ」

「分かっています」

 奏太は、店主とミケを交互に見た。

「猫、しゃべった」

「はい。しゃべります」

「すごい」

「すごい猫です」

「もっと言っていいよ」

 ミケは得意げに尻尾を立てた。

 奏太は、ほんの少しだけ笑った。

 その笑顔に、店主の胸がまた痛む。

 だからこそ、放っておけなかった。

「まずは、学校へ行ってみましょう」

 店主は言った。

 奏太はぱっと顔を上げた。

「行けるの?」

「外へ出るだけなら」

 言いかけて、店主は言葉を止めた。

 外へ出ることはできる。

 けれど、長く離れることはできない。

 一定以上店から離れようとすると、必ず喫茶ミオの前に戻される。

 昨日、駅へ行こうとして、それを思い知った。

 それでも試さないわけにはいかない。

 店主は扉の方を見た。

 木製の扉。

 ガラス越しに、灰色の町が見える。

 あの向こうに、学校があるのかもしれない。

 避難所があるのかもしれない。

 壊れた橋があるのかもしれない。

 店主は奏太に手を差し出した。

「怖ければ、ここで待っていてもいいです」

 奏太は首を振った。

「行く」

 小さな手が、店主の手を握った。

 その瞬間、店主の胸の奥に鋭い痛みが走る。

 小さな手。

 昔、確かに握ったことがあるような感触。

 店主は息を整え、立ち上がった。

 ミケも足元に並ぶ。

「僕も行く」

「もちろんです」

「もちろんって言った。よし」

 カウンター横のAVMが、淡く光った。

 ――^^

「店番をお願いします」

 店主が言うと、AVMはやはり何も答えなかった。

 けれど、その光はどこか頼もしかった。

 店主は扉へ向かった。

 扉の札は、開店中。

 外へ出ても、店は閉めない。

 最後の客が来るまでは。

 店主は扉を開けた。

 からん。

 ベルが鳴る。

 外の風が入ってくる。

 奏太の手が、少し強く店主の手を握った。

「大丈夫です」

 店主は言った。

「一緒に行きましょう」

 外へ一歩出る。

 灰色の通り。

 壊れた街灯。

 ひび割れた道路。

 昨日と同じ終わった町。

 店主は奏太の話を頼りに、学校の方向へ歩き始めた。

 けれど、数分もしないうちに胸の奥の糸が張り始めた。

 喫茶ミオと店主をつなぐ見えない糸。

 背中側から引かれる感覚。

 店から離れるほど、強くなる。

 奏太は気づいていない。

 ミケは気づいている。

 低く唸っている。

「店主、もう引っ張られてる」

「まだです」

「まだって顔じゃない」

 店主は足を進めた。

 角を曲がる。

 その先に、学校らしき建物の影が見えた気がした。

 白い校舎。

 割れた窓。

 校庭の鉄棒。

 だが、近づこうとした瞬間、胸が強く引かれた。

「っ……!」

 視界が白くなる。

 奏太の手を離さないよう、店主は必死に握った。

 からん。

 ベルの音。

 次の瞬間、三人は喫茶ミオの扉の前に戻っていた。

 店主は膝をついた。

 奏太は驚いて周囲を見回す。

「戻ってる」

「すみません」

「おじさん、だいじょうぶ?」

「はい。少し、店に戻されただけです」

「戻されるの?」

「そうみたいです」

 奏太は、不思議そうに扉を見た。

「変なお店」

「はい」

「でも、あったかい」

 その言葉に、店主は少しだけ救われた気がした。

 ミケは扉の前に座り、じっとその木目を見ていた。

「ねえ」

「はい」

「今、扉の匂いが変わった」

「扉?」

「外に出る時は普通の外だった。でも、戻った後、なんか混ざってる」

「何がですか」

「この子の記憶」

 店主は扉を見た。

 喫茶ミオの扉。

 ここは、最後の待合室。

 死者や迷った魂、未来へ進めない存在が最後に立ち寄る場所。

 ならば、普通の扉である必要はないのかもしれない。

 外の町へ続く扉ではなく。

 客が待ち続けた場所へ続く扉。

 客の記憶へ続く扉。

 店主は、奏太を見た。

「奏太君」

「なに?」

「学校のことを、強く思い出せますか」

「学校?」

「はい。お母様を待っていた場所です」

 奏太は、少し不安そうに目を伏せた。

「思い出したら、そこに行けるの?」

「分かりません。でも、試してみましょう」

「うん」

 奏太は、青い線の入ったカップを思い出すように、両手を胸の前で握った。

「学校……」

 店主は扉の取っ手に手をかけた。

 さっきまで冷たかった取っ手が、少しだけ温かい。

「お母さんが、お迎え遅くなるって言ってた」

 奏太が小さく話し始める。

「先生が、教室で待ってなさいって。外、変な色だった。窓が、がたがたしてた。みんな泣いてた」

 店主は、ゆっくり扉を開けた。

 からん。

 ベルが鳴る。

 だが、扉の向こうは灰色の通りではなかった。

 教室だった。

 夕方とも昼ともつかない、奇妙な光が差し込む教室。

 机がいくつも倒れ、黒板には白いチョークで「落ち着いて待つこと」と書かれている。

 窓の外の空には、黒いひびが走っていた。

 小さな椅子。

 ランドセル。

 散らばったプリント。

 校内放送の割れた音。

 奏太の手が震えた。

「ここ」

 店主は息を呑んだ。

 扉の向こうが、少年の記憶の場所へつながっている。

 喫茶ミオの扉が、開いたのだ。

「行きましょう」

 店主は奏太の手を握ったまま、教室へ足を踏み入れた。

 ミケも続く。

 振り返ると、そこには喫茶ミオの扉がある。

 教室の壁に、場違いな木製の扉が立っている。

 開いたまま、店内の温かな灯りをのぞかせている。

「すごい」

 奏太が呟いた。

 教室は静かだった。

 だが、耳を澄ませると、遠くに声がある。

 泣き声。

 先生の声。

 机を動かす音。

 校内放送。

 それらは記憶の残響のようで、はっきりとは聞こえない。

 店主は教卓の上を見た。

 そこに、古い出席簿が置かれている。

 ページが開いていた。

 名前の一つに、赤い丸がついている。

 朝倉奏太。

 備考欄には、こう書かれていた。

 ――保護者到着待ち。母、朝倉里奈。病院勤務。連絡取れず。

 奏太は、その文字を見つめた。

「先生、何回も電話してた」

「はい」

「でも、つながらなかった」

「そうですね」

「お母さん、忙しかったのかな」

 店主は答えられなかった。

 代わりに、そばにいた。

 奏太は、教室の隅へ歩いていく。

 そこには、小さな机があった。

 中から、青い折り紙が少しだけはみ出している。

 奏太がそれを取り出した。

 折り紙には、子どもの字で書かれていた。

 ――おかあさんへ。まってる。

 奏太は、それをしばらく見ていた。

「これ、ぼくが書いた」

「持っていきますか」

「うん」

 奏太は折り紙を布の袋に入れた。

 その瞬間、教室の壁が少し薄くなった。

 喫茶ミオの扉が、静かに光る。

「次へ行けるみたいです」

 店主が言った。

「次?」

「避難所です」

 奏太は、少しだけ顔をこわばらせた。

 でも、頷いた。

 店主は喫茶ミオの扉へ戻った。

 扉を閉める。

 そして、奏太に尋ねる。

「避難所を思い出せますか」

 奏太は、小さく頷いた。

「体育館。人がいっぱい。寒かった。お母さんの名前、何回も呼んだけど、いなかった」

 店主は扉を開けた。

 からん。

 次に扉の向こうに現れたのは、体育館だった。

 広い床。

 敷かれた毛布。

 壁際に積まれた段ボール。

 消えかけた非常灯。

 人々の気配が、薄い影のように揺れている。

 誰かが咳をしている。

 赤ん坊が泣いている。

 大人たちが小声で話している。

 放送設備から、ノイズ混じりの声が流れていた。

 ――避難者名簿を確認しています。

 ――医療関係者はステージ横へ。

 ――落ち着いて行動してください。

 奏太は、店主の手を強く握った。

「ここ、きらい」

「戻りますか」

「ううん。探す」

 小さな声だった。

 けれど、確かに前へ進もうとしている声だった。

 店主は頷いた。

 三人は体育館へ入った。

 ミケは耳を伏せている。

「ここ、泣いた匂いが多すぎる」

「大丈夫ですか」

「僕は大丈夫。店主こそ」

「……大丈夫です」

「うそっぽい」

 店主は何も言い返せなかった。

 体育館の光景は、あの日の喫茶ミオを思い出させた。

 行き場を失った人々。

 寒さ。

 不安。

 名前を呼ぶ声。

 誰かを探す紙。

 店主は、掲示板を見つけた。

 避難者名簿が何枚も貼られている。

 奏太は駆け寄った。

「お母さん、ある?」

 店主も一緒に探した。

 朝倉。

 朝倉。

 朝倉奏太。

 その名前はある。

 だが、朝倉里奈の名前は、避難者名簿にはなかった。

 奏太の肩が小さく下がる。

「なかった」

「まだ、他の場所に記録があるかもしれません」

 その時、ステージ横の机の上に、赤いファイルが置かれているのが見えた。

 表紙には、「医療支援者記録」と書かれている。

 店主はファイルを開いた。

 中に、見覚えのある名前があった。

 ――朝倉里奈。

 所属、朝霧総合病院。

 役割、避難所医療支援。

 備考。

 ――十五時四十分、東橋方面へ移動。負傷者搬送補助。

 奏太が文字を覗き込む。

「お母さん、ここにいたの?」

「はい」

「でも、橋に行ったの?」

「そう書いてあります」

 奏太は唇を噛んだ。

「ぼくも、橋に行った」

 記憶の体育館が、少し揺れた。

 照明が点滅する。

 遠くで、誰かが叫ぶ。

 ――東橋が落ちた!

 ――向こう側と連絡が取れない!

 奏太の顔が青ざめた。

「橋」

 店主は、奏太の手を握り直した。

「行きましょう」

「うん」

 体育館の壁に、喫茶ミオの扉が再び立っていた。

 店主は扉へ向かう。

 閉じる。

 奏太を見る。

「壊れた橋を、思い出せますか」

 奏太は、長く黙った。

 小さな身体が震えている。

「怖いですか」

「うん」

「戻ってもいいです」

「でも、行かなきゃ」

 奏太は布の袋を抱えた。

「お母さん、そこにいるかもしれないから」

 店主は、膝をつき、奏太の目を見た。

「一人ではありません」

「うん」

「僕とミケがいます」

「うん」

「怖いままでも、行けます」

 奏太は少しだけ泣きそうな顔をした。

 けれど、涙は落ちなかった。

「行く」

 店主は立ち上がり、扉を開けた。

 からん。

 扉の向こうに、雨の匂いが広がった。

 壊れた橋。

 灰色の川。

 空は黒く割れ、遠くで光が揺れている。

 橋は中央から崩れ落ち、向こう岸へ渡る道は途切れていた。

 欄干は曲がり、アスファルトはめくれ、車が一台、斜めに引っかかっている。

 風が強い。

 水の音が低く響く。

 記憶の場所なのに、冷たい雨が頬に触れた気がした。

 奏太は、橋の手前で立ち尽くした。

「ここ」

 店主は、何も言わなかった。

 ただ、隣に立った。

 橋の向こう側は、ぼんやり霞んでいる。

 そこに誰かがいたのか。

 今はもう分からない。

 奏太は、小さな声で言った。

「お母さん、来なかった」

「はい」

「ぼく、ここで待ってた」

「はい」

「夜になっても、待ってた」

「はい」

「でも、誰も来なかった」

 奏太の声が震えた。

「だから、ぼく、もしかして悪い子だったのかなって思った」

 店主の胸が締めつけられた。

「お母さん、ぼくのこと嫌いになったのかなって」

「違います」

 店主は、反射的に言っていた。

 奏太が見上げる。

 店主は、強く首を振った。

「それは、違います」

「でも」

「迎えに来られなかったことと、迎えに来たくなかったことは違います」

 自分で言いながら、その言葉が店主自身にも刺さった。

 来られなかった。

 守れなかった。

 間に合わなかった。

 それは、愛していなかったこととは違う。

 奏太は、唇を震わせた。

「ほんと?」

「はい」

 店主は言った。

「少なくとも、僕はそう思います」

 その時、ミケが橋のたもとにある小さな防災ボックスを見つけた。

 赤い箱。

 半分壊れている。

「店主、こっち」

 ミケが尻尾で示す。

 店主は奏太と一緒に近づいた。

 防災ボックスの中には、懐中電灯、古い毛布、救急用品が入っている。

 その奥に、小さな携帯端末があった。

 防水ケースに入っている。

 画面は割れているが、側面のランプがかすかに光っていた。

 店主はそれを取り出した。

 奏太が息を呑む。

「それ」

「知っていますか」

「お母さんの」

 端末の裏に、名前のシールが貼られていた。

 朝倉里奈。

 店主の指が震えた。

 画面を押すと、端末は一度だけ鈍く光った。

 古い録音データの一覧が表示される。

 最後の一件。

 タイトルは、短かった。

 ――奏太へ。

 奏太は、動けなくなった。

 店主も、すぐには再生できなかった。

 これは、少年がずっと待っていたものだ。

 母そのものではない。

 けれど、母が最後に残した声。

 受け取る準備が必要なもの。

「聞きますか」

 店主は尋ねた。

 奏太は、しばらく端末を見つめていた。

 小さな手が震えている。

「聞いたら」

 奏太は言った。

「お母さん、来ないって分かっちゃう?」

 店主は、胸が痛くなった。

 嘘は言えない。

 でも、突き放すこともできない。

「分かることも、あるかもしれません」

 奏太の目に、初めて涙が浮かんだ。

「聞きたくない」

「はい」

「でも、聞きたい」

「はい」

「どうしたらいい?」

 店主は、奏太の隣に膝をついた。

「一緒に聞きましょう」

「おじさんも?」

「はい」

「猫も?」

「もちろん」

「僕、音大きいの嫌」

 ミケが言った。

「小さめでお願いします」

 奏太は、涙を浮かべたまま少しだけ笑った。

 店主は端末の再生ボタンに指を置いた。

「準備はいいですか」

 奏太は、ぎゅっと目を閉じた。

 そして、小さく頷いた。

 店主は再生した。

 ノイズが流れる。

 ざざ。

 ざざざ。

 雨の音。

 遠くの警報。

 誰かの荒い息。

 そして、女性の声が聞こえた。

『奏太』

 少年の肩が震えた。

「お母さん……」

 録音の中の声は、少し息切れしていた。

 けれど、無理に明るくしようとしているのが分かった。

『奏太、聞こえるかな。お母さんです』

 ノイズ。

『ごめんね。迎えに行くって約束したのに、まだ行けていません』

 奏太は、店主の袖を握った。

 店主は、その手をそっと包む。

『学校にも、避難所にも行ったんだけど、途中で東橋の方に怪我をした人がいるって聞いて、そっちへ向かっています』

 雨の音が強くなる。

『奏太は、きっと怒ってるよね。泣いてるかもしれない。もしかしたら、我慢してるかもしれない。奏太は、我慢するとき、唇をぎゅってするから』

 奏太は、唇を噛んでいた。

 それに気づいて、ゆっくり力を抜いた。

『でもね、奏太。これだけは信じて』

 録音の声が、少し震えた。

『お母さんは、奏太を迎えに行きたくなかったわけじゃない』

 店主は、息を止めた。

『奏太を忘れたわけじゃない』

 奏太の涙が、頬を伝った。

『奏太が悪い子だったから、行けなかったんじゃない』

 声は、はっきりそう言った。

 まるで、少年が何十年も抱え続けることを知っていたかのように。

『奏太は、お母さんの大事な子です』

 奏太は、小さく声を漏らした。

「おかあさん……」

『もし、この声だけが届いたら、ごめんね』

 ノイズが強くなる。

 遠くで何かが崩れる音。

『でも、声だけでも届けたい。奏太が、ずっと待ち続けなくていいように』

 店主の胸が痛んだ。

 ずっと待ち続けなくていいように。

 それは、母が子どもへ残した最後の願いだった。

『奏太。待っていてくれてありがとう』

 奏太は、泣きながら首を振った。

『でも、もう寒い場所で待たなくていいよ』

 雨の音。

 警報。

 女性の息。

『あったかい場所に行って。誰かに、助けてって言って。お腹がすいたら、食べて。眠かったら、寝て。怖かったら、泣いていい』

 声が震える。

『お母さんを待つためだけに、奏太の時間を止めないで』

 店主は、視界が滲むのを感じた。

 これは奏太への言葉だ。

 だが、なぜか店主自身にも向けられているように聞こえた。

『奏太が笑ってくれたら、お母さんはそれが一番うれしいです』

 録音の向こうで、女性が一度だけ息を吸った。

『大好きだよ、奏太』

 奏太は端末に向かって手を伸ばした。

『どこにいても、それだけは変わらない』

 ノイズ。

 長い沈黙。

 最後に、かすかな声。

『ごめんね。ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう』

 録音はそこで終わった。

 雨の音だけが残り、やがてそれも消えた。

 壊れた橋の記憶の中で、三人はしばらく動けなかった。

 奏太は、泣いていた。

 声を上げて泣くのではなく、ずっと止めていたものが静かに溢れるように。

 店主は、その隣にいた。

 何も言わなかった。

 言えなかった。

 言葉を足す必要はなかった。

 母の声は、もう届いた。

 奏太は端末を両手で抱えた。

「お母さん」

 小さく呼ぶ。

 返事はない。

 けれど、録音の声は確かにここにあった。

「ぼく、悪い子じゃなかった?」

 店主は、静かに答えた。

「はい」

「忘れられてなかった?」

「はい」

「待ってなくても、いいの?」

 店主は、少しだけ息を吸った。

「お母様は、そう言っていました」

 奏太は泣きながら、何度も頷いた。

「うん」

 そして、端末を胸に抱いたまま、長く泣いた。

 橋の向こう側が、少しずつ明るくなっていく。

 雨の音が弱くなる。

 灰色の川の上に、淡い光が差した。

 壊れた橋は壊れたままなのに、怖さだけが少し薄れていく。

 奏太は涙を拭いた。

「おじさん」

「はい」

「戻りたい」

「喫茶ミオへ?」

「うん」

 店主は頷いた。

 振り返ると、そこには木製の扉が立っていた。

 喫茶ミオの扉。

 最後の待合室へ戻る扉。

 奏太は端末を布の袋に入れ、店主の手を握った。

 三人は扉をくぐった。

 からん。

 ベルが鳴る。

 温かい空気。

 コーヒーの香り。

 カウンターの灯り。

 AVMの淡い表示。

 喫茶ミオへ戻ってきた。

 奏太はカウンター席に座った。

 少し泣いたあとで、顔は赤い。

 けれど、来た時よりも表情が柔らかくなっていた。

 店主は、青い線の入ったカップにもう一度温かいミルクを注いだ。

 蜂蜜を少し。

 今度は、奏太は自分からカップを受け取った。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 その言葉に、カウンター横のAVMが淡く光った。

 ――^^

 奏太は、ミルクを一口飲んだ。

「お母さん、来ないんだね」

 店主は、静かに頷いた。

「はい」

「でも、声は来た」

「はい」

「ちゃんと、来てた」

「そうですね」

 奏太は、布の袋を見下ろした。

 その中には、青い折り紙と、母の端末が入っている。

 待ち続けた証と、待ち続けなくていいという声。

 どちらも、奏太のものだった。

「ぼく、もう橋で待たなくていいんだ」

「はい」

「学校でも、避難所でも」

「はい」

「ここでも?」

 店主は、少しだけ言葉に迷った。

 奏太は、じっと店主を見る。

 店主は、正直に答えた。

「待つためだけなら、もう待たなくていいと思います」

 奏太は、カップの湯気を見つめた。

「そっか」

 店内の空気が、少しだけ変わった。

 重く結ばれていた糸が、ほどけていくような感覚。

 奏太の足元に、淡い光が落ちる。

 地下の方から、かちり、と音がした。

 今度は、はっきり時計の針が進む音だった。

 奏太は、その音に気づいたのか、店の奥を見た。

「今の、なに?」

「この店の時計です」

「時間、動いたの?」

「たぶん」

「ぼくの?」

 店主は頷いた。

「はい。奏太君の時間が、少し動いたのだと思います」

 奏太は、膝の上の布袋を抱きしめた。

「じゃあ、行かなきゃ?」

「すぐでなくても大丈夫です」

「でも、行けそう」

 奏太は少しだけ笑った。

 寂しい笑顔だった。

 でも、来た時のように固まった顔ではなかった。

「お母さん、あったかい場所に行ってって言ってた」

「はい」

「ここ、あったかかった」

「よかったです」

「でも、ずっとここにいたら、また待っちゃう気がする」

 店主は何も言えなかった。

 奏太は、ちゃんと分かっている。

 この店は待合室だ。

 待つ場所。

 けれど、永遠に待ち続けるための場所ではない。

 終わりを受け入れ、次へ進むまでの場所。

 奏太は、もう母を待つためだけにここにいる必要はなくなった。

 店主は立ち上がり、扉へ向かった。

 奏太も椅子から降りる。

 小さな足が床に触れる。

 今度は、しっかり立っていた。

 店主は扉を開けた。

 からん。

 扉の向こうには、灰色の通りではなく、淡い光の道が広がっていた。

 どこへ続くのかは分からない。

 けれど、寒くはなさそうだった。

 奏太は、少し怖そうにその道を見た。

 ミケが足元から言った。

「大丈夫。変な匂いしない」

「ほんと?」

「猫はこういう時、だいたい正しい」

「だいたい?」

「かなり」

 奏太はくすっと笑った。

 そして、店主を見上げた。

「おじさん」

「はい」

「一緒に探してくれて、ありがとう」

「僕は、そばにいただけです」

「それがよかった」

 その言葉に、店主は胸が詰まった。

 そばにいただけ。

 地下の石板が言った役目。

 それを、この少年が受け取ってくれた。

 奏太は布の袋を抱え直した。

 扉の向こうへ一歩踏み出そうとして、ふと振り返る。

「おじさんも」

 店主は、少年を見る。

 奏太は、まっすぐに言った。

「おじさんも、誰かを待ってるんでしょ?」

 店主は、息を呑んだ。

 その言葉が、胸の奥深くに沈む。

 水瀬ミオ。

 写真の封筒。

 空の豆袋。

 読めるようになった看板。

 外に出られない店主。

 最後の待合室。

 誰かを待っている。

 そうなのかもしれない。

 自分は、客を待っている。

 最後の客を待っている。

 そして、きっとミオを待っている。

 あるいは、自分自身がミオのもとへ行ける日を待っている。

 答えは出なかった。

 出せなかった。

 奏太は、それ以上聞かなかった。

 ただ、小さく笑った。

「待ってると、寒いから」

 少年は言った。

「ちゃんと、あったかいもの飲んでね」

 店主は、視界が滲むのを感じた。

「はい」

 奏太は頷き、光の道へ歩き出した。

 小さな背中。

 紺色の上着。

 布の袋。

 その姿は少しずつ淡くなっていく。

 最後に、奏太は一度だけ振り返った。

「お母さんに、行ってきますって言う」

 店主は、深く頭を下げた。

「いってらっしゃい」

 奏太は笑った。

 そして、光の中へ消えていった。

 扉が静かに閉まる。

 からん、とベルが鳴った。

 店内に、温かい静けさが戻る。

 ミケはしばらく扉を見つめていた。

「行ったね」

「はい」

「待つの、終わった匂いがした」

「そうですか」

「うん。ちょっと寂しくて、でも軽い匂い」

 店主はカウンターへ戻った。

 青い線の入ったカップが残っている。

 底には、温かいミルクがほんの少しだけ残っていた。

 店主はそのカップを両手で包んだ。

 小さな手の温度が、まだ残っている気がした。

 茶色いノートを開く。

 ペンを取る。

 手は震えていた。

 だが、書く。

 ――十四人目の客。朝倉奏太。

 ――母を待つ少年。

 ――学校、避難所、壊れた橋。

 ――母、朝倉里奈の録音メッセージを受け取った。

 ――奏太は、待つことを終えた。

 店主はそこで手を止めた。

 そして、最後に一行を書く。

 ――おじさんも、誰かを待ってるんでしょ?

 書いた瞬間、胸が痛んだ。

 痛くて、温かい。

 店主はペンを置き、カウンター端の一杯目のコーヒーを見る。

 もう冷めていた。

 それでも、手に取る。

 一口飲む。

 苦い。

 けれど、今日は蜂蜜入りのミルクのような甘さが、かすかに残っていた。

 店主は目を閉じた。

 誰かを待っている。

 その言葉が、胸の中で静かに響く。

 窓の外には、終わった世界が広がっている。

 でも、店内には灯りがある。

 カウンターには青い線の入ったカップ。

 足元にはミケ。

 横にはAVM。

 奥の木箱には、まだ開けていない写真。

 そして、店の名は喫茶ミオ。

 店主は、扉の札を見た。

 ――開店中。

 母を待つ少年は、もう待つことを終えた。

 けれど店主は、まだ待っている。

 誰を待っているのか。

 何を待っているのか。

 その答えは、まだ分からない。

 それでも、喫茶店だけは営業している。

 最後の客が来る、その日までは。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第18話は、母を待ち続けていた少年・朝倉奏太のお話でした。


迎えに来なかったのではなく、迎えに行けなかった。


忘れられたのではなく、最後まで大切に思われていた。


母の録音メッセージを受け取ったことで、奏太はようやく学校や避難所、壊れた橋で待ち続けることを終えます。


店主は少年を救ったわけではありません。


ただ、一緒に記憶を辿り、母の声を聞き、泣き終えるまでそばにいました。


そして、奏太が去り際に残した言葉。


「おじさんも、誰かを待ってるんでしょ?」


その問いは、ミオを待ち続けている店主自身の心にも、静かに刺さっていきます。


次回は、第19話「店主を恨む男」です。

よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。

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