第18話 母を待つ少年
第18話です。
今回、店主は母親を待ち続けている少年・朝倉奏太とともに、彼の記憶を辿ります。
学校。
避難所。
壊れた橋。
喫茶ミオの扉は、開くたびに少年が待っていた場所へつながっていきます。
迎えに来るという約束を信じ、長い時間を止めたまま待ち続けた奏太。
その先で見つかるのは、母が最後に残した一つの声でした。
第18話「母を待つ少年」、お付き合いいただけると嬉しいです。
少年は、青い線の入ったカップを両手で包んでいた。
小さな手だった。
カップの方が少し大きく見える。
湯気が、少年の顔の前で白く揺れている。
温かいミルク。
蜂蜜を少しだけ入れたもの。
熱すぎないように、店主は何度も温度を確かめた。
少年は、ふう、ふう、と息を吹きかけてから、慎重に一口飲んだ。
「……あまい」
「熱くないですか」
「うん。だいじょうぶ」
少年は、少しだけ安心したようにカップを見つめた。
その顔を見た瞬間、店主の胸の奥がまた痛んだ。
知らないはずの少年。
初めて会ったはずの客。
けれど、その小さな手と、青い線の入ったカップと、ふうふう息を吹きかける仕草が、店主の記憶の奥を強く揺らす。
――熱いから、ふーふーしてあげて。
ミオの声。
――自分でできるよ。
幼い声。
――じゃあ、ちゃんとふーふーして。
笑う声。
顔は見えない。
場所もはっきりしない。
ただ、青いカップだけが、やけに鮮明だった。
店主は、カウンターに手を置いた。
呼吸を整える。
救えない。
終わらせられない。
代わりに受け取ることもできない。
ただ、そばにいる。
昨日、地下の石板に教えられた言葉を、胸の中で繰り返す。
目の前の少年は、母を待っている。
なら、まずは話を聞かなければならない。
「お名前を聞いてもいいですか」
店主が尋ねると、少年はカップから顔を上げた。
「そうた」
「そうた君」
「うん。朝倉奏太」
朝倉奏太。
その名前を聞いた瞬間、店主の胸が小さく跳ねた。
知っている名前ではない。
少なくとも、今の記憶の中にはない。
けれど、響きの奥に何かが引っかかった。
奏太。
小さな布の袋を膝の上で握ったまま、少年は続けた。
「お母さんが、ここで待っててって言った」
「この店で、ですか」
「ううん」
奏太は首を振った。
「最初は学校」
店主は、静かに相づちを打った。
「学校で待っていたんですね」
「うん。でも、先生がみんな避難所に行くって言ったから、避難所に行った」
「お母さんとは、そこで会えましたか」
奏太は、カップを見つめたまま黙った。
少しして、小さく首を振る。
「来なかった」
その声は泣いていなかった。
けれど、泣かないためにずっと固くなっている声だった。
「それから、橋のところに行った。お母さん、橋を渡って迎えに来るって言ってたから」
「橋」
「うん。でも、橋、壊れてた」
奏太は布の袋を握りしめた。
「だから、ずっと待ってた」
「ずっと」
「うん」
店主は、言葉を失った。
ずっと。
子どもの「ずっと」は、短い時間にも使われる。
けれど、この店に来る客の「ずっと」は、本当に長い。
五十年歩いた配達ロボット。
死ぬことを忘れた老人。
未来から来た配達員。
記憶を食べ続けた猫。
終われない心は、時間の中で何度でも同じ場所に戻る。
この少年も、崩壊の日からずっと待っていたのだろう。
学校で。
避難所で。
壊れた橋で。
母が来ると信じて。
「お母様のお名前は、分かりますか」
「朝倉里奈」
奏太はすぐに答えた。
「お母さん、看護師さん。白い服で、お仕事してた」
「看護師さん」
「うん。だから、すぐ帰れない時があるって言ってた。でも、約束した」
「どんな約束ですか」
奏太は、店主をまっすぐ見た。
「どこにいても、ちゃんと迎えに行くって」
店主は、何も言えなかった。
その約束は、あまりにも重い。
子どもにとっては、世界の真ん中にある約束だ。
母が迎えに来る。
だから待つ。
それだけで、どんなに怖くてもそこにいられる。
しかし、世界が壊れた日、その約束を守れなかった人がどれだけいただろう。
守りたくても、行けなかった人が。
帰りたくても、帰れなかった人が。
店主は、カウンターの外へ出た。
奏太の前に膝をつき、目線を合わせる。
「一緒に探しましょう」
そう言った瞬間、ミケが耳を動かした。
「店主」
低い声だった。
「外には長く出られないよ」
「分かっています」
奏太は、店主とミケを交互に見た。
「猫、しゃべった」
「はい。しゃべります」
「すごい」
「すごい猫です」
「もっと言っていいよ」
ミケは得意げに尻尾を立てた。
奏太は、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔に、店主の胸がまた痛む。
だからこそ、放っておけなかった。
「まずは、学校へ行ってみましょう」
店主は言った。
奏太はぱっと顔を上げた。
「行けるの?」
「外へ出るだけなら」
言いかけて、店主は言葉を止めた。
外へ出ることはできる。
けれど、長く離れることはできない。
一定以上店から離れようとすると、必ず喫茶ミオの前に戻される。
昨日、駅へ行こうとして、それを思い知った。
それでも試さないわけにはいかない。
店主は扉の方を見た。
木製の扉。
ガラス越しに、灰色の町が見える。
あの向こうに、学校があるのかもしれない。
避難所があるのかもしれない。
壊れた橋があるのかもしれない。
店主は奏太に手を差し出した。
「怖ければ、ここで待っていてもいいです」
奏太は首を振った。
「行く」
小さな手が、店主の手を握った。
その瞬間、店主の胸の奥に鋭い痛みが走る。
小さな手。
昔、確かに握ったことがあるような感触。
店主は息を整え、立ち上がった。
ミケも足元に並ぶ。
「僕も行く」
「もちろんです」
「もちろんって言った。よし」
カウンター横のAVMが、淡く光った。
――^^
「店番をお願いします」
店主が言うと、AVMはやはり何も答えなかった。
けれど、その光はどこか頼もしかった。
店主は扉へ向かった。
扉の札は、開店中。
外へ出ても、店は閉めない。
最後の客が来るまでは。
店主は扉を開けた。
からん。
ベルが鳴る。
外の風が入ってくる。
奏太の手が、少し強く店主の手を握った。
「大丈夫です」
店主は言った。
「一緒に行きましょう」
外へ一歩出る。
灰色の通り。
壊れた街灯。
ひび割れた道路。
昨日と同じ終わった町。
店主は奏太の話を頼りに、学校の方向へ歩き始めた。
けれど、数分もしないうちに胸の奥の糸が張り始めた。
喫茶ミオと店主をつなぐ見えない糸。
背中側から引かれる感覚。
店から離れるほど、強くなる。
奏太は気づいていない。
ミケは気づいている。
低く唸っている。
「店主、もう引っ張られてる」
「まだです」
「まだって顔じゃない」
店主は足を進めた。
角を曲がる。
その先に、学校らしき建物の影が見えた気がした。
白い校舎。
割れた窓。
校庭の鉄棒。
だが、近づこうとした瞬間、胸が強く引かれた。
「っ……!」
視界が白くなる。
奏太の手を離さないよう、店主は必死に握った。
からん。
ベルの音。
次の瞬間、三人は喫茶ミオの扉の前に戻っていた。
店主は膝をついた。
奏太は驚いて周囲を見回す。
「戻ってる」
「すみません」
「おじさん、だいじょうぶ?」
「はい。少し、店に戻されただけです」
「戻されるの?」
「そうみたいです」
奏太は、不思議そうに扉を見た。
「変なお店」
「はい」
「でも、あったかい」
その言葉に、店主は少しだけ救われた気がした。
ミケは扉の前に座り、じっとその木目を見ていた。
「ねえ」
「はい」
「今、扉の匂いが変わった」
「扉?」
「外に出る時は普通の外だった。でも、戻った後、なんか混ざってる」
「何がですか」
「この子の記憶」
店主は扉を見た。
喫茶ミオの扉。
ここは、最後の待合室。
死者や迷った魂、未来へ進めない存在が最後に立ち寄る場所。
ならば、普通の扉である必要はないのかもしれない。
外の町へ続く扉ではなく。
客が待ち続けた場所へ続く扉。
客の記憶へ続く扉。
店主は、奏太を見た。
「奏太君」
「なに?」
「学校のことを、強く思い出せますか」
「学校?」
「はい。お母様を待っていた場所です」
奏太は、少し不安そうに目を伏せた。
「思い出したら、そこに行けるの?」
「分かりません。でも、試してみましょう」
「うん」
奏太は、青い線の入ったカップを思い出すように、両手を胸の前で握った。
「学校……」
店主は扉の取っ手に手をかけた。
さっきまで冷たかった取っ手が、少しだけ温かい。
「お母さんが、お迎え遅くなるって言ってた」
奏太が小さく話し始める。
「先生が、教室で待ってなさいって。外、変な色だった。窓が、がたがたしてた。みんな泣いてた」
店主は、ゆっくり扉を開けた。
からん。
ベルが鳴る。
だが、扉の向こうは灰色の通りではなかった。
教室だった。
夕方とも昼ともつかない、奇妙な光が差し込む教室。
机がいくつも倒れ、黒板には白いチョークで「落ち着いて待つこと」と書かれている。
窓の外の空には、黒いひびが走っていた。
小さな椅子。
ランドセル。
散らばったプリント。
校内放送の割れた音。
奏太の手が震えた。
「ここ」
店主は息を呑んだ。
扉の向こうが、少年の記憶の場所へつながっている。
喫茶ミオの扉が、開いたのだ。
「行きましょう」
店主は奏太の手を握ったまま、教室へ足を踏み入れた。
ミケも続く。
振り返ると、そこには喫茶ミオの扉がある。
教室の壁に、場違いな木製の扉が立っている。
開いたまま、店内の温かな灯りをのぞかせている。
「すごい」
奏太が呟いた。
教室は静かだった。
だが、耳を澄ませると、遠くに声がある。
泣き声。
先生の声。
机を動かす音。
校内放送。
それらは記憶の残響のようで、はっきりとは聞こえない。
店主は教卓の上を見た。
そこに、古い出席簿が置かれている。
ページが開いていた。
名前の一つに、赤い丸がついている。
朝倉奏太。
備考欄には、こう書かれていた。
――保護者到着待ち。母、朝倉里奈。病院勤務。連絡取れず。
奏太は、その文字を見つめた。
「先生、何回も電話してた」
「はい」
「でも、つながらなかった」
「そうですね」
「お母さん、忙しかったのかな」
店主は答えられなかった。
代わりに、そばにいた。
奏太は、教室の隅へ歩いていく。
そこには、小さな机があった。
中から、青い折り紙が少しだけはみ出している。
奏太がそれを取り出した。
折り紙には、子どもの字で書かれていた。
――おかあさんへ。まってる。
奏太は、それをしばらく見ていた。
「これ、ぼくが書いた」
「持っていきますか」
「うん」
奏太は折り紙を布の袋に入れた。
その瞬間、教室の壁が少し薄くなった。
喫茶ミオの扉が、静かに光る。
「次へ行けるみたいです」
店主が言った。
「次?」
「避難所です」
奏太は、少しだけ顔をこわばらせた。
でも、頷いた。
店主は喫茶ミオの扉へ戻った。
扉を閉める。
そして、奏太に尋ねる。
「避難所を思い出せますか」
奏太は、小さく頷いた。
「体育館。人がいっぱい。寒かった。お母さんの名前、何回も呼んだけど、いなかった」
店主は扉を開けた。
からん。
次に扉の向こうに現れたのは、体育館だった。
広い床。
敷かれた毛布。
壁際に積まれた段ボール。
消えかけた非常灯。
人々の気配が、薄い影のように揺れている。
誰かが咳をしている。
赤ん坊が泣いている。
大人たちが小声で話している。
放送設備から、ノイズ混じりの声が流れていた。
――避難者名簿を確認しています。
――医療関係者はステージ横へ。
――落ち着いて行動してください。
奏太は、店主の手を強く握った。
「ここ、きらい」
「戻りますか」
「ううん。探す」
小さな声だった。
けれど、確かに前へ進もうとしている声だった。
店主は頷いた。
三人は体育館へ入った。
ミケは耳を伏せている。
「ここ、泣いた匂いが多すぎる」
「大丈夫ですか」
「僕は大丈夫。店主こそ」
「……大丈夫です」
「うそっぽい」
店主は何も言い返せなかった。
体育館の光景は、あの日の喫茶ミオを思い出させた。
行き場を失った人々。
寒さ。
不安。
名前を呼ぶ声。
誰かを探す紙。
店主は、掲示板を見つけた。
避難者名簿が何枚も貼られている。
奏太は駆け寄った。
「お母さん、ある?」
店主も一緒に探した。
朝倉。
朝倉。
朝倉奏太。
その名前はある。
だが、朝倉里奈の名前は、避難者名簿にはなかった。
奏太の肩が小さく下がる。
「なかった」
「まだ、他の場所に記録があるかもしれません」
その時、ステージ横の机の上に、赤いファイルが置かれているのが見えた。
表紙には、「医療支援者記録」と書かれている。
店主はファイルを開いた。
中に、見覚えのある名前があった。
――朝倉里奈。
所属、朝霧総合病院。
役割、避難所医療支援。
備考。
――十五時四十分、東橋方面へ移動。負傷者搬送補助。
奏太が文字を覗き込む。
「お母さん、ここにいたの?」
「はい」
「でも、橋に行ったの?」
「そう書いてあります」
奏太は唇を噛んだ。
「ぼくも、橋に行った」
記憶の体育館が、少し揺れた。
照明が点滅する。
遠くで、誰かが叫ぶ。
――東橋が落ちた!
――向こう側と連絡が取れない!
奏太の顔が青ざめた。
「橋」
店主は、奏太の手を握り直した。
「行きましょう」
「うん」
体育館の壁に、喫茶ミオの扉が再び立っていた。
店主は扉へ向かう。
閉じる。
奏太を見る。
「壊れた橋を、思い出せますか」
奏太は、長く黙った。
小さな身体が震えている。
「怖いですか」
「うん」
「戻ってもいいです」
「でも、行かなきゃ」
奏太は布の袋を抱えた。
「お母さん、そこにいるかもしれないから」
店主は、膝をつき、奏太の目を見た。
「一人ではありません」
「うん」
「僕とミケがいます」
「うん」
「怖いままでも、行けます」
奏太は少しだけ泣きそうな顔をした。
けれど、涙は落ちなかった。
「行く」
店主は立ち上がり、扉を開けた。
からん。
扉の向こうに、雨の匂いが広がった。
壊れた橋。
灰色の川。
空は黒く割れ、遠くで光が揺れている。
橋は中央から崩れ落ち、向こう岸へ渡る道は途切れていた。
欄干は曲がり、アスファルトはめくれ、車が一台、斜めに引っかかっている。
風が強い。
水の音が低く響く。
記憶の場所なのに、冷たい雨が頬に触れた気がした。
奏太は、橋の手前で立ち尽くした。
「ここ」
店主は、何も言わなかった。
ただ、隣に立った。
橋の向こう側は、ぼんやり霞んでいる。
そこに誰かがいたのか。
今はもう分からない。
奏太は、小さな声で言った。
「お母さん、来なかった」
「はい」
「ぼく、ここで待ってた」
「はい」
「夜になっても、待ってた」
「はい」
「でも、誰も来なかった」
奏太の声が震えた。
「だから、ぼく、もしかして悪い子だったのかなって思った」
店主の胸が締めつけられた。
「お母さん、ぼくのこと嫌いになったのかなって」
「違います」
店主は、反射的に言っていた。
奏太が見上げる。
店主は、強く首を振った。
「それは、違います」
「でも」
「迎えに来られなかったことと、迎えに来たくなかったことは違います」
自分で言いながら、その言葉が店主自身にも刺さった。
来られなかった。
守れなかった。
間に合わなかった。
それは、愛していなかったこととは違う。
奏太は、唇を震わせた。
「ほんと?」
「はい」
店主は言った。
「少なくとも、僕はそう思います」
その時、ミケが橋のたもとにある小さな防災ボックスを見つけた。
赤い箱。
半分壊れている。
「店主、こっち」
ミケが尻尾で示す。
店主は奏太と一緒に近づいた。
防災ボックスの中には、懐中電灯、古い毛布、救急用品が入っている。
その奥に、小さな携帯端末があった。
防水ケースに入っている。
画面は割れているが、側面のランプがかすかに光っていた。
店主はそれを取り出した。
奏太が息を呑む。
「それ」
「知っていますか」
「お母さんの」
端末の裏に、名前のシールが貼られていた。
朝倉里奈。
店主の指が震えた。
画面を押すと、端末は一度だけ鈍く光った。
古い録音データの一覧が表示される。
最後の一件。
タイトルは、短かった。
――奏太へ。
奏太は、動けなくなった。
店主も、すぐには再生できなかった。
これは、少年がずっと待っていたものだ。
母そのものではない。
けれど、母が最後に残した声。
受け取る準備が必要なもの。
「聞きますか」
店主は尋ねた。
奏太は、しばらく端末を見つめていた。
小さな手が震えている。
「聞いたら」
奏太は言った。
「お母さん、来ないって分かっちゃう?」
店主は、胸が痛くなった。
嘘は言えない。
でも、突き放すこともできない。
「分かることも、あるかもしれません」
奏太の目に、初めて涙が浮かんだ。
「聞きたくない」
「はい」
「でも、聞きたい」
「はい」
「どうしたらいい?」
店主は、奏太の隣に膝をついた。
「一緒に聞きましょう」
「おじさんも?」
「はい」
「猫も?」
「もちろん」
「僕、音大きいの嫌」
ミケが言った。
「小さめでお願いします」
奏太は、涙を浮かべたまま少しだけ笑った。
店主は端末の再生ボタンに指を置いた。
「準備はいいですか」
奏太は、ぎゅっと目を閉じた。
そして、小さく頷いた。
店主は再生した。
ノイズが流れる。
ざざ。
ざざざ。
雨の音。
遠くの警報。
誰かの荒い息。
そして、女性の声が聞こえた。
『奏太』
少年の肩が震えた。
「お母さん……」
録音の中の声は、少し息切れしていた。
けれど、無理に明るくしようとしているのが分かった。
『奏太、聞こえるかな。お母さんです』
ノイズ。
『ごめんね。迎えに行くって約束したのに、まだ行けていません』
奏太は、店主の袖を握った。
店主は、その手をそっと包む。
『学校にも、避難所にも行ったんだけど、途中で東橋の方に怪我をした人がいるって聞いて、そっちへ向かっています』
雨の音が強くなる。
『奏太は、きっと怒ってるよね。泣いてるかもしれない。もしかしたら、我慢してるかもしれない。奏太は、我慢するとき、唇をぎゅってするから』
奏太は、唇を噛んでいた。
それに気づいて、ゆっくり力を抜いた。
『でもね、奏太。これだけは信じて』
録音の声が、少し震えた。
『お母さんは、奏太を迎えに行きたくなかったわけじゃない』
店主は、息を止めた。
『奏太を忘れたわけじゃない』
奏太の涙が、頬を伝った。
『奏太が悪い子だったから、行けなかったんじゃない』
声は、はっきりそう言った。
まるで、少年が何十年も抱え続けることを知っていたかのように。
『奏太は、お母さんの大事な子です』
奏太は、小さく声を漏らした。
「おかあさん……」
『もし、この声だけが届いたら、ごめんね』
ノイズが強くなる。
遠くで何かが崩れる音。
『でも、声だけでも届けたい。奏太が、ずっと待ち続けなくていいように』
店主の胸が痛んだ。
ずっと待ち続けなくていいように。
それは、母が子どもへ残した最後の願いだった。
『奏太。待っていてくれてありがとう』
奏太は、泣きながら首を振った。
『でも、もう寒い場所で待たなくていいよ』
雨の音。
警報。
女性の息。
『あったかい場所に行って。誰かに、助けてって言って。お腹がすいたら、食べて。眠かったら、寝て。怖かったら、泣いていい』
声が震える。
『お母さんを待つためだけに、奏太の時間を止めないで』
店主は、視界が滲むのを感じた。
これは奏太への言葉だ。
だが、なぜか店主自身にも向けられているように聞こえた。
『奏太が笑ってくれたら、お母さんはそれが一番うれしいです』
録音の向こうで、女性が一度だけ息を吸った。
『大好きだよ、奏太』
奏太は端末に向かって手を伸ばした。
『どこにいても、それだけは変わらない』
ノイズ。
長い沈黙。
最後に、かすかな声。
『ごめんね。ありがとう。生まれてきてくれて、ありがとう』
録音はそこで終わった。
雨の音だけが残り、やがてそれも消えた。
壊れた橋の記憶の中で、三人はしばらく動けなかった。
奏太は、泣いていた。
声を上げて泣くのではなく、ずっと止めていたものが静かに溢れるように。
店主は、その隣にいた。
何も言わなかった。
言えなかった。
言葉を足す必要はなかった。
母の声は、もう届いた。
奏太は端末を両手で抱えた。
「お母さん」
小さく呼ぶ。
返事はない。
けれど、録音の声は確かにここにあった。
「ぼく、悪い子じゃなかった?」
店主は、静かに答えた。
「はい」
「忘れられてなかった?」
「はい」
「待ってなくても、いいの?」
店主は、少しだけ息を吸った。
「お母様は、そう言っていました」
奏太は泣きながら、何度も頷いた。
「うん」
そして、端末を胸に抱いたまま、長く泣いた。
橋の向こう側が、少しずつ明るくなっていく。
雨の音が弱くなる。
灰色の川の上に、淡い光が差した。
壊れた橋は壊れたままなのに、怖さだけが少し薄れていく。
奏太は涙を拭いた。
「おじさん」
「はい」
「戻りたい」
「喫茶ミオへ?」
「うん」
店主は頷いた。
振り返ると、そこには木製の扉が立っていた。
喫茶ミオの扉。
最後の待合室へ戻る扉。
奏太は端末を布の袋に入れ、店主の手を握った。
三人は扉をくぐった。
からん。
ベルが鳴る。
温かい空気。
コーヒーの香り。
カウンターの灯り。
AVMの淡い表示。
喫茶ミオへ戻ってきた。
奏太はカウンター席に座った。
少し泣いたあとで、顔は赤い。
けれど、来た時よりも表情が柔らかくなっていた。
店主は、青い線の入ったカップにもう一度温かいミルクを注いだ。
蜂蜜を少し。
今度は、奏太は自分からカップを受け取った。
「ありがとう」
「どういたしまして」
その言葉に、カウンター横のAVMが淡く光った。
――^^
奏太は、ミルクを一口飲んだ。
「お母さん、来ないんだね」
店主は、静かに頷いた。
「はい」
「でも、声は来た」
「はい」
「ちゃんと、来てた」
「そうですね」
奏太は、布の袋を見下ろした。
その中には、青い折り紙と、母の端末が入っている。
待ち続けた証と、待ち続けなくていいという声。
どちらも、奏太のものだった。
「ぼく、もう橋で待たなくていいんだ」
「はい」
「学校でも、避難所でも」
「はい」
「ここでも?」
店主は、少しだけ言葉に迷った。
奏太は、じっと店主を見る。
店主は、正直に答えた。
「待つためだけなら、もう待たなくていいと思います」
奏太は、カップの湯気を見つめた。
「そっか」
店内の空気が、少しだけ変わった。
重く結ばれていた糸が、ほどけていくような感覚。
奏太の足元に、淡い光が落ちる。
地下の方から、かちり、と音がした。
今度は、はっきり時計の針が進む音だった。
奏太は、その音に気づいたのか、店の奥を見た。
「今の、なに?」
「この店の時計です」
「時間、動いたの?」
「たぶん」
「ぼくの?」
店主は頷いた。
「はい。奏太君の時間が、少し動いたのだと思います」
奏太は、膝の上の布袋を抱きしめた。
「じゃあ、行かなきゃ?」
「すぐでなくても大丈夫です」
「でも、行けそう」
奏太は少しだけ笑った。
寂しい笑顔だった。
でも、来た時のように固まった顔ではなかった。
「お母さん、あったかい場所に行ってって言ってた」
「はい」
「ここ、あったかかった」
「よかったです」
「でも、ずっとここにいたら、また待っちゃう気がする」
店主は何も言えなかった。
奏太は、ちゃんと分かっている。
この店は待合室だ。
待つ場所。
けれど、永遠に待ち続けるための場所ではない。
終わりを受け入れ、次へ進むまでの場所。
奏太は、もう母を待つためだけにここにいる必要はなくなった。
店主は立ち上がり、扉へ向かった。
奏太も椅子から降りる。
小さな足が床に触れる。
今度は、しっかり立っていた。
店主は扉を開けた。
からん。
扉の向こうには、灰色の通りではなく、淡い光の道が広がっていた。
どこへ続くのかは分からない。
けれど、寒くはなさそうだった。
奏太は、少し怖そうにその道を見た。
ミケが足元から言った。
「大丈夫。変な匂いしない」
「ほんと?」
「猫はこういう時、だいたい正しい」
「だいたい?」
「かなり」
奏太はくすっと笑った。
そして、店主を見上げた。
「おじさん」
「はい」
「一緒に探してくれて、ありがとう」
「僕は、そばにいただけです」
「それがよかった」
その言葉に、店主は胸が詰まった。
そばにいただけ。
地下の石板が言った役目。
それを、この少年が受け取ってくれた。
奏太は布の袋を抱え直した。
扉の向こうへ一歩踏み出そうとして、ふと振り返る。
「おじさんも」
店主は、少年を見る。
奏太は、まっすぐに言った。
「おじさんも、誰かを待ってるんでしょ?」
店主は、息を呑んだ。
その言葉が、胸の奥深くに沈む。
水瀬ミオ。
写真の封筒。
空の豆袋。
読めるようになった看板。
外に出られない店主。
最後の待合室。
誰かを待っている。
そうなのかもしれない。
自分は、客を待っている。
最後の客を待っている。
そして、きっとミオを待っている。
あるいは、自分自身がミオのもとへ行ける日を待っている。
答えは出なかった。
出せなかった。
奏太は、それ以上聞かなかった。
ただ、小さく笑った。
「待ってると、寒いから」
少年は言った。
「ちゃんと、あったかいもの飲んでね」
店主は、視界が滲むのを感じた。
「はい」
奏太は頷き、光の道へ歩き出した。
小さな背中。
紺色の上着。
布の袋。
その姿は少しずつ淡くなっていく。
最後に、奏太は一度だけ振り返った。
「お母さんに、行ってきますって言う」
店主は、深く頭を下げた。
「いってらっしゃい」
奏太は笑った。
そして、光の中へ消えていった。
扉が静かに閉まる。
からん、とベルが鳴った。
店内に、温かい静けさが戻る。
ミケはしばらく扉を見つめていた。
「行ったね」
「はい」
「待つの、終わった匂いがした」
「そうですか」
「うん。ちょっと寂しくて、でも軽い匂い」
店主はカウンターへ戻った。
青い線の入ったカップが残っている。
底には、温かいミルクがほんの少しだけ残っていた。
店主はそのカップを両手で包んだ。
小さな手の温度が、まだ残っている気がした。
茶色いノートを開く。
ペンを取る。
手は震えていた。
だが、書く。
――十四人目の客。朝倉奏太。
――母を待つ少年。
――学校、避難所、壊れた橋。
――母、朝倉里奈の録音メッセージを受け取った。
――奏太は、待つことを終えた。
店主はそこで手を止めた。
そして、最後に一行を書く。
――おじさんも、誰かを待ってるんでしょ?
書いた瞬間、胸が痛んだ。
痛くて、温かい。
店主はペンを置き、カウンター端の一杯目のコーヒーを見る。
もう冷めていた。
それでも、手に取る。
一口飲む。
苦い。
けれど、今日は蜂蜜入りのミルクのような甘さが、かすかに残っていた。
店主は目を閉じた。
誰かを待っている。
その言葉が、胸の中で静かに響く。
窓の外には、終わった世界が広がっている。
でも、店内には灯りがある。
カウンターには青い線の入ったカップ。
足元にはミケ。
横にはAVM。
奥の木箱には、まだ開けていない写真。
そして、店の名は喫茶ミオ。
店主は、扉の札を見た。
――開店中。
母を待つ少年は、もう待つことを終えた。
けれど店主は、まだ待っている。
誰を待っているのか。
何を待っているのか。
その答えは、まだ分からない。
それでも、喫茶店だけは営業している。
最後の客が来る、その日までは。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第18話は、母を待ち続けていた少年・朝倉奏太のお話でした。
迎えに来なかったのではなく、迎えに行けなかった。
忘れられたのではなく、最後まで大切に思われていた。
母の録音メッセージを受け取ったことで、奏太はようやく学校や避難所、壊れた橋で待ち続けることを終えます。
店主は少年を救ったわけではありません。
ただ、一緒に記憶を辿り、母の声を聞き、泣き終えるまでそばにいました。
そして、奏太が去り際に残した言葉。
「おじさんも、誰かを待ってるんでしょ?」
その問いは、ミオを待ち続けている店主自身の心にも、静かに刺さっていきます。
次回は、第19話「店主を恨む男」です。
よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。




