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14/20

第14話 店の外に出られない店主

第14話です。


今回、店主は喫茶ミオの外へ出ます。


壊れた駅。

止まった時計。

誰もいない商店街。


そこには、終わった世界の風景とともに、店主が忘れていた過去の名残が残されていました。


けれど、店から一定以上離れようとすると、なぜか必ず喫茶ミオの前へ戻されてしまいます。


店が店主を縛っているのか。

それとも、店主自身がこの場所を手放せないのか。


第14話「店の外に出られない店主」、お付き合いいただけると嬉しいです。

 水瀬ミオ。

 その名前は、朝になっても消えなかった。

 カウンターの下、常連帳の隣に置いた空の麻袋。

 昨日、その袋の表面に浮かび上がった名前。

 ――水瀬ミオ。

 店主は、何度もその文字を見た。

 見てはいけない気がした。

 けれど、目を逸らすこともできなかった。

 ミオ。

 喫茶ミオ。

 この店の名前。

 日記に出てきた女性の名前。

 世界が壊れた日に、「ここは開けておこう。誰かが帰ってこられる場所が必要だから」と言った人。

 そして、店主の胸を痛ませる名前。

 けれど、まだ顔は思い出せない。

 声も、輪郭だけしか分からない。

 笑っていた気がする。

 青いカップを持っていた気がする。

 白い指で、カウンターを軽く叩いていた気がする。

 店主の名前を呼んでいた気がする。

 だが、一番大事なところだけが、いつも霧の向こうに隠れる。

 ――     。

 自分の名前。

 その音だけが聞こえない。

 店主は麻袋をそっと畳み直した。

 指先に、かすかな豆の香りが移る。

 苦い後悔。

 甘い思い出。

 酸っぱい未練。

 昨日、地下の石板は告げた。

 この店の豆は、客が手放した心残りの残滓から生まれる。

 客が自身の心残りと向き合える温度にするために、店主は豆を挽き、湯を注ぎ、一杯を出している。

 それは、奪うことではない。

 手放されたものを、もう一度温めること。

 それでも、怖さは残った。

 そして、ミオの名が浮かんだことで、その怖さは別の形へ変わっていた。

 水瀬ミオの心残りも、いつか豆になるのだろうか。

 店主は、その一杯を淹れなければならないのだろうか。

 それとも、もう淹れてしまったのだろうか。

 分からない。

 分からないことばかりだった。

「また見てる」

 カウンター横の自動販売機の足元から、ミケが言った。

 黒猫は、温かい牛乳の皿の前に座っている。

 まだ飲み始めていない。

 金色と青色の目で、店主をじっと見ていた。

「はい」

 店主は答えた。

「見ても思い出せない?」

「少しだけ」

「どのへん?」

「カップと、手と、声の手前」

「声の手前って何」

「声が聞こえそうになるんです。でも、呼ばれるところだけ抜けています」

「店主の名前?」

「たぶん」

 ミケは皿の牛乳を少し舐めた。

「ふうん」

「何か分かりますか」

「分からない」

「ミケも分からないんですね」

「猫だからね」

「猫は何でも知っていそうですが」

「猫は知ってるふりが得意なだけ」

 店主は少しだけ笑った。

 ミケがいると、重く沈み込みそうな思考が少しだけ横へ逸れる。

 助かっている。

 そう思った。

 だが、今日はそのまま店の中で考え続けるわけにはいかなかった。

 店主は、扉の方を見た。

 古い木製の扉。

 ガラス越しに、灰色の街が見える。

 壊れた道路。

 倒れた街灯。

 崩れかけた建物。

 人気のない通り。

 この店の外には、終わった世界が広がっている。

 店主はこれまで、何度か外へ出ている。

 AD-17の配達先を確かめるために、桜庭家のあった場所へ向かったこともある。

 店の前で客を見送ったこともある。

 だが、長く外にいたことはない。

 いつも、気づけば店へ戻っていた。

 客を見送ったあと。

 荷物を抱えたあと。

 灰色の道を少し歩いたあと。

 自分は、何となく店へ帰ってきていた。

 それが、単に店主としての習慣なのか。

 それとも、帰らされていたのか。

 昨日から、その疑問が頭を離れなかった。

「ミケ」

「なに」

「今日は、外に出ます」

 ミケの耳がぴくりと動いた。

「買い出し?」

「この世界に買い出し先があるなら、ぜひ行きたいですが」

「じゃあ散歩?」

「調査です」

「また面倒なことする」

「この店から、どこまで離れられるのか確かめたいんです」

 ミケは牛乳を飲むのをやめた。

 顔を上げ、店主を見る。

「やめた方がいいよ」

「なぜですか」

「匂いが嫌」

「どんな匂いですか」

「引っ張られる匂い」

 店主は黙った。

 ミケは尻尾をゆっくり揺らした。

「この店、店主の匂いと絡まってる。糸みたいに。外に出ても、ずっとつながってる」

「それは、昨日からですか」

「最初から」

「なぜ今まで言わなかったんですか」

「聞かれなかったから」

「……そうですか」

 店主は小さく息を吐いた。

「それなら、なおさら確かめます」

「怖くないの?」

「怖いです」

「じゃあ、やめれば」

「でも、知らないままではいられません」

 ミケは、しばらく店主を見ていた。

 それから、皿の牛乳を最後まで飲み干した。

「僕も行く」

「外は危ないかもしれません」

「危ないなら、なおさら行く」

「ミケが?」

「店主だけで行くと、変なところで倒れそうだから」

「心配してくれるんですね」

「違う。店主が倒れたら牛乳が出ない」

「理由が正直ですね」

「猫だからね」

 店主は、少しだけ笑った。

 その笑いで、胸の重さが少し軽くなった。

 カウンター横のAVMが、ほんの一瞬だけ淡く光る。

 ――^^

「AVMさん、店番をお願いします」

 もちろん返事はない。

 けれど、店主には「どういたしまして」と聞こえた気がした。

 店主は外套を羽織った。

 白シャツに黒いベスト、黒いエプロン。

 その上から、少しくたびれた濃い色のコートを着る。

 店主というより、これから廃墟を歩く旅人のような格好になった。

 ミケは扉の前で待っている。

 尻尾を立て、不機嫌そうな顔をしているが、足元は落ち着いている。

 店主は扉の札を見た。

 ――開店中。

 少し迷った。

 外に出るなら、閉めるべきだろうか。

 しかし、手は札に伸びなかった。

 この店は、最後の客が来るまでは閉めてはいけない。

 それが、日記に書かれていた。

 篠原も言った。

 地下の時計も、同じ言葉を示した。

 店主は札をそのままにした。

「行ってきます」

 誰に向けた言葉か分からないまま、そう言った。

 扉を開ける。

 からん、とベルが鳴った。

 外の風が入ってくる。

 冷たい。

 乾いていて、灰の匂いがした。

 店主は一歩外へ出た。

 ミケも続く。

 扉が、静かに閉まった。

 外に出ると、喫茶ミオの温かさが背中に残った。

 店の窓には灯りがともっている。

 ガラス越しに、カウンターや棚のカップが見えた。

 その前に立つAVMの影も、かすかに見える。

 店主は振り返らないようにして、前を向いた。

 灰色の町が広がっている。

 道路は大きくひび割れ、アスファルトの隙間から枯れた草が伸びている。

 倒れた街灯は、斜めに道路を塞いでいた。

 ビルの窓は割れ、壁には黒い焦げ跡がある。

 遠くで、何かの看板が風に揺れて軋む音がした。

 この町に、人はいない。

 少なくとも、今は。

 店主は歩き出した。

 ミケが足元をついてくる。

 最初は、店の前の通りをまっすぐ進んだ。

 何度か歩いたことのある道だ。

 AD-17と共に桜庭ユイの家を探した時にも、似た道を通った気がする。

 だが今日は、いつもより遠くへ行く。

 店から離れる。

 どこまで行けるのか確かめる。

 店主は、胸の奥に見えない糸があるような感覚を覚えた。

 痛みではない。

 ただ、背中側に何かがある。

 店へつながる何か。

 歩くたびに、それが少しずつ張っていくようだった。

「ねえ」

 ミケが言った。

「もう引っ張られてるよ」

「分かりますか」

「匂いが伸びてる」

「僕にも、少し分かります」

「やっぱりやめる?」

「まだ行きます」

「強情」

「店主なので」

「その使い方は変」

 ミケは不満そうに言いながらも、先を歩いた。

 しばらく進むと、商店街の入口が見えた。

 アーチ状の看板が道路の上にかかっている。

 かつては賑やかな文字が書かれていたのだろうが、今は半分以上が剥がれ落ちている。

 かろうじて読めるのは、

 ――朝霧中央商店街。

 店主は足を止めた。

 胸の奥が、かすかに鳴った。

 朝霧中央商店街。

 この名前を、知っている。

 文字としてではなく、体の中のどこかが覚えている。

 ミケが振り返った。

「どうしたの」

「ここ……知っている気がします」

「店主、ここに住んでた?」

「分かりません」

 店主は、商店街へ足を踏み入れた。

 シャッターの下りた店が並んでいる。

 八百屋。

 魚屋。

 薬局。

 和菓子屋。

 古本屋。

 小さな花屋。

 どの店も、もう営業していない。

 シャッターは錆び、ガラスは割れ、店先の商品棚は空っぽだ。

 それでも、かつて人がいた気配だけは残っている。

 店の前に置きっぱなしの木箱。

 色褪せた値札。

 傾いた自転車。

 割れた植木鉢。

 誰かが急いで片づける途中で、そのまま世界が止まってしまったようだった。

 店主は、ゆっくり歩いた。

 ふいに、耳の奥で声がした。

 ――今日は、商店街寄って帰ろうよ。

 店主は足を止めた。

 女の人の声。

 明るく、少し弾んだ声。

 ミオだ。

 そう思った瞬間、視界の端に色が戻った気がした。

 灰色の商店街が、一瞬だけ違う風景になる。

 夕方。

 開いたシャッター。

 店先に並ぶ野菜。

 焼きたてのパンの匂い。

 子どもが走る足音。

 自転車のベル。

 隣を歩く誰か。

 白いブラウス。

 揺れる髪。

 手には紙袋。

 ――コーヒー豆、切らしてたでしょ?

 店主は息を呑んだ。

 視界が戻る。

 商店街は、再び灰色の廃墟だった。

「店主?」

 ミケが足元で見上げている。

「今、少し」

「思い出した?」

「たぶん」

「何を」

「ここを、誰かと歩きました」

「水瀬ミオ?」

「……たぶん」

 名前を口にすると、胸が痛んだ。

 だが昨日ほどではない。

 痛みの奥に、少しだけ温かさが混じっていた。

 店主は商店街を進んだ。

 やがて、時計屋の前に出た。

 店名は読めない。

 ガラス戸は割れており、店内の壁には無数の時計が掛かっている。

 すべて止まっていた。

 丸い掛け時計。

 振り子時計。

 小さな目覚まし時計。

 柱時計。

 それぞれが、ばらばらの時刻で止まっている。

 十時十五分。

 三時四十二分。

 七時ちょうど。

 十一時五十八分。

 その中で、一つだけ、店主の目を引く時計があった。

 店内の奥にある、大きな古い柱時計。

 針は、四時十四分で止まっている。

 四月十四日。

 日記にあった、世界が壊れた日。

 店主の喉が乾いた。

 時計の針を見ていると、耳の奥で音が鳴る。

 かちり。

 地下の時計の音ではない。

 もっと現実的な、街の時計の音。

 そして、声。

 ――四時までには戻らないと。

 ――仕込み、間に合わなくなるよ。

 ――大丈夫。今日は予約もないし。

 ――それでも、店は開けるんでしょ?

 ――うん。誰か来るかもしれないから。

 誰の会話だろう。

 自分と、ミオだろうか。

 店主は、柱時計に近づこうとした。

 しかし、足が動かなかった。

 胸の奥の糸が、強く張った。

「……っ」

 店主は思わず胸を押さえた。

 ミケが耳を伏せる。

「引っ張りが強くなってる」

「まだ、大丈夫です」

「大丈夫じゃない匂い」

「もう少しだけ」

 店主は時計屋を離れた。

 商店街を抜けると、広い通りに出た。

 その先に、駅が見えた。

 朝霧駅。

 駅舎は大きく傾き、屋根の一部が崩れている。

 駅前広場には、誰もいない。

 バス停の時刻表は破れ、タクシー乗り場には錆びた車が一台、斜めに止まっている。

 噴水は干上がり、底には灰と枯葉が溜まっていた。

 駅の時計も止まっている。

 四時十四分。

 店主は、駅前に立った。

 風が吹く。

 かつてなら、人で溢れていた場所だろう。

 通勤する人。

 学校へ向かう学生。

 買い物帰りの人。

 待ち合わせをする人。

 誰かを見送る人。

 誰かを迎える人。

 今は、誰もいない。

 ただ、足音の記憶だけが地面に残っているようだった。

 店主は駅の改札へ向かった。

 自動改札機は黒く焦げ、電光掲示板は消えている。

 改札の上にある案内板は割れていた。

 ホームへ続く階段には、埃が積もっている。

 店主は、一歩踏み出した。

 その瞬間、胸の奥の糸が、強く引かれた。

「っ……!」

 視界が揺れた。

 ミケが叫ぶ。

「店主!」

 店主は手すりに掴まろうとした。

 しかし、手は空を切った。

 足元がぐらりと傾く。

 次の瞬間、目の前の景色が白くなった。

 風の音が消える。

 駅の匂いが消える。

 代わりに、コーヒーの香りがした。

 からん。

 ベルの音。

 店主は、喫茶ミオの扉の前に立っていた。

「……え」

 振り返る。

 そこには、温かい灯りのともる喫茶店がある。

 扉の札は「開店中」。

 窓の向こうに、カウンターが見える。

 AVMが立っている。

 まるで、最初からここにいたかのように。

 駅はない。

 商店街もない。

 店の前の通りだけが広がっている。

 足元で、ミケが毛を逆立てていた。

「戻された」

 ミケは低く言った。

「今の、一瞬だった」

「僕は、駅にいました」

「うん。いた。でも、線が切れる前に戻された」

「線」

「店と店主をつないでるやつ」

 店主は胸に手を当てた。

 さっきまで強く張っていた感覚は、今は少し緩んでいる。

 だが、消えてはいない。

 確かにある。

 店と自分を結ぶ、見えない糸。

 店主は、喫茶ミオの扉を見つめた。

「もう一度、試します」

「は?」

 ミケが目を丸くした。

「今ので分かったでしょ」

「どこまで行けるのか、まだ分かっていません」

「店主、たまにかなり頑固だよね」

「たまにですか」

「まあまあ頻繁」

「すみません」

 店主は深く息を吸った。

 今度は、別の道へ向かった。

 店の前から左へ。

 壊れた住宅街の方へ。

 ミケは文句を言いながらもついてきた。

 住宅街は、商店街よりも静かだった。

 家々は崩れ、門扉は傾き、庭には枯れた草が伸び放題になっている。

 郵便受けの口は開いたまま。

 玄関先には、片方だけの靴。

 窓辺には、色褪せたカーテン。

 どの家にも、かつて生活があった。

 朝食の匂い。

 洗濯物。

 テレビの音。

 子どもの声。

 そういうものが、すべて灰に沈んでいる。

 店主は歩いた。

 今度は、駅へ向かった時よりも長く歩けた。

 だが、ある十字路に差しかかったところで、また胸の糸が張った。

 目の前に、小さな公園があった。

 ブランコは錆び、片方の鎖が切れている。

 滑り台は傾き、砂場には雑草が生えていた。

 公園の中央には、一本の桜の木がある。

 もう花は咲いていない。

 枝だけが、灰色の空へ伸びている。

 店主は、その桜を見た瞬間、足を止めた。

 記憶が揺れた。

 ――春になったら、ここでお花見しよう。

 ――店は?

 ――昼だけ閉めればいいじゃない。

 ――閉めるんですか?

 ――たまにはいいでしょ。店主だって、人間なんだから。

 ――人間、ですか。

 ――そう。ちゃんと休んで、ちゃんと笑って、ちゃんと私と桜を見る人間。

 店主は息を呑んだ。

 ミオの声だ。

 今度は、はっきりそう思えた。

 顔は見えない。

 けれど、声に笑いが混じっている。

 少し強引で、少し明るくて、店主を外へ連れ出そうとする声。

 店主は桜の木へ近づこうとした。

 その瞬間、また胸が引かれた。

 視界が白くなる。

 からん。

 ベルの音。

 店主は、喫茶ミオの扉の前に戻っていた。

 二度目。

 ミケは、少し遅れて足元に現れた。

 猫なのに、珍しく息を切らしている。

「もうやめよう」

「ミケ」

「今の、僕まで引っ張られた」

「すみません」

「店主一人の問題じゃないよ。店が本気で戻してる」

 店主は扉に手をついた。

 木の感触。

 温かい。

 まるで、店そのものが「戻ってきた」と言っているようだった。

「僕は」

 店主は呟いた。

「ここから出られないんですね」

 声にすると、それは思ったより重かった。

 店の外に出られない。

 長く離れられない。

 一定以上遠くへ行こうとすると、必ず店の前に戻される。

 自分は、店に縛られている。

 喫茶ミオの店主だから、ではない。

 もっと深いところで。

 店そのものと、心残りが結びついている。

「地下の石板が言っていましたね」

 店主は言った。

「未処理の心残り、残り十件」

「うん」

「この店は、客の心残りだけで動いているのではないのかもしれません」

「店主のも?」

「たぶん」

 店主は、扉越しに店内を見た。

 カウンター。

 棚のカップ。

 AVM。

 常連帳。

 茶色いノート。

 地下の時計。

 水瀬ミオの名が浮かんだ麻袋。

 この店は、自分の心残りと結びついている。

 だから、出られない。

 店主が何かを終えるまでは。

 最後の客が来るまでは。

 この店は店主を離さない。

 いや。

 もしかすると、店主自身がこの店を離せないのかもしれない。

「店が縛ってるんじゃなくて」

 ミケが言った。

 店主は足元を見る。

「店主が、店にしがみついてる匂いもする」

「僕が?」

「うん」

 ミケは尻尾を揺らした。

「離れたいのに、離れたくない。外に行きたいのに、帰りたい。忘れたいのに、思い出したい。ぐちゃぐちゃ」

「ひどい言い方ですね」

「でも、合ってるでしょ」

「……はい」

 合っていた。

 外へ出たいと思った。

 町を歩きたいと思った。

 自分の過去を探したいと思った。

 でも、店から離れるたびに胸が痛む。

 戻ってくると、少し安心する。

 喫茶ミオがあることに安心する。

 扉の札が「開店中」であることに安心する。

 この店は、自分を縛っている。

 だが同時に、自分がすがっている場所でもある。

「もう一度だけ」

 店主は言った。

 ミケが露骨に嫌そうな顔をした。

「まだやるの?」

「最後に、店の看板を見ます」

「看板?」

「今まで、ちゃんと見ていなかった気がします」

 ミケは黙った。

 店主は店から少し離れた。

 今度は遠くへは行かない。

 道の反対側まで歩くだけ。

 そこから、喫茶店の外観を見る。

 古い木造の建物。

 蔦の絡んだ壁。

 温かな光の灯る窓。

 扉の札。

 そして、看板。

 看板は、これまで何度も見ていたはずだ。

 だが、不思議なことに、店主の記憶の中では文字がぼやけていた。

 喫茶ミオ。

 そう分かっている。

 口にもしている。

 表紙画像にも、常連帳にも、日記にも、その名はあった。

 それでも、看板そのものの文字だけは、いつも視界の端で滲んでいた気がする。

 店主は、道の向こうから看板を見上げた。

 灰色の空を背に、古びた木の看板がある。

 風で少し揺れている。

 そこに書かれた文字は、最初はやはりぼやけていた。

 喫茶――。

 その先が読めない。

 胸が痛む。

 ミケが足元で黙っている。

 店主は逃げずに見た。

 文字が、ゆっくり輪郭を持つ。

 滲んでいた墨が、少しずつ濃くなる。

 喫茶。

 その次。

 ミ。

 オ。

 ――喫茶ミオ。

 その瞬間、店主の頭の奥で、何かが弾けた。

 声が聞こえた。

 ――名前、決めたよ。

 明るい声。

 カウンターの向こう側。

 夕方の光。

 まだ壊れていない町。

 店内には、開店前の木の匂い。

 白いブラウスの女性が、看板の下で笑っている。

 顔はまだぼやけている。

 けれど、その人が看板を見上げているのが分かる。

 ――喫茶ミオ。

 ――自分の名前を店につけるんですか?

 これは、自分の声だろうか。

 若い。

 少し呆れている。

 けれど、嫌がってはいない声。

 女性が振り返る。

 ――だって、あなたが決めないから。

 ――もっと落ち着いた名前でも。

 ――落ち着いた名前は、あなたが落ち着いてからでいいの。

 ――僕は落ち着いています。

 ――うそ。ずっと不安そうな顔してる。

 女性が笑う。

 ――だから、この店は私の名前。迷ったら、私のところに帰ってくる店。

 店主の胸が、強く痛んだ。

 けれど、その痛みの奥に、確かに温かさがあった。

 ミオ。

 水瀬ミオ。

 この店の名前は、彼女の名前だった。

 ただの店名ではなかった。

 帰る場所の名前だった。

 店主は、看板を見つめたまま立っていた。

 喫茶ミオ。

 今度は、はっきり読めた。

 文字はもう滲まない。

 風に揺れる古い看板に、その名は確かに刻まれている。

「読めた?」

 ミケが聞いた。

「はい」

「なんて?」

 店主は、少し震える声で答えた。

「喫茶ミオ」

 その言葉を口にした瞬間、店の奥で、かちり、と音がした。

 時計の針が一つ進む音。

 まだ何かが完全に終わったわけではない。

 けれど、一つだけ霧が晴れた。

 店主は、喫茶ミオへ戻った。

 今度は戻されたのではなく、自分の足で。

 扉を開ける。

 からん、とベルが鳴る。

 店内の温かさが、身体を包む。

 カウンター横のAVMが、淡く光った。

 ――^^

「ただいま戻りました」

 店主は言った。

 返事はない。

 けれど、店全体がその言葉を受け取ったような気がした。

 ミケは先に入り、AVMの足元へ向かった。

「疲れた。牛乳」

「はい」

「濃いやつ」

「牛乳に濃い薄いはありますか」

「ある」

「分かりました」

 店主は笑いながら、ミケ用の皿を用意した。

 手は少し震えていた。

 それでも、動いた。

 牛乳を温め、皿に注ぐ。

 ミケはそれを飲み始める。

 店主はカウンターへ戻り、茶色いノートを開いた。

 新しいページ。

 ペンを持つ。

 しばらく、何も書けなかった。

 外に出られない。

 町の記憶。

 商店街。

 止まった時計。

 壊れた駅。

 誰もいない商店街。

 桜の公園。

 そして、看板。

 喫茶ミオ。

 店主は、ゆっくり書き始めた。

 ――第十四話。店の外に出られない店主。

 その下に続ける。

 ――店から一定以上離れようとすると、必ず店の前に戻される。

 ――この店は、僕を縛っている。

 少し考え、書き直すように次の行を加えた。

 ――あるいは、僕がこの店にしがみついている。

 ペン先が止まる。

 店主は、窓の外を見た。

 灰色の町。

 壊れた駅。

 止まった時計。

 商店街。

 桜の公園。

 そこには、かつて自分とミオが歩いた時間があった。

 完全には思い出せない。

 けれど、確かにあった。

 店主はノートに書く。

 ――朝霧中央商店街を、誰かと歩いた記憶。

 ――時計屋の時計は、四時十四分で止まっていた。

 ――駅には行けなかった。

 ――公園の桜の下で、ミオが笑っていた気がする。

 最後に、一行を書く。

 ――看板の文字が読めた。

 ――喫茶ミオ。

 書いた瞬間、胸の奥が少しだけ温かくなった。

 店主はペンを置いた。

 カウンターの下にしまっていた空の麻袋を取り出す。

 そこには、昨日と同じ文字がある。

 ――水瀬ミオ。

 店主はその名前を見て、今度は目を逸らさなかった。

「ミオさん」

 小さく呼んでみる。

 胸が痛む。

 けれど、昨日よりも少しだけ、呼べた。

 ミケが牛乳の皿から顔を上げた。

「さん付けなんだ」

「まだ、距離感が分からないので」

「たぶん、さん付けじゃなかった匂いがする」

「そうですか」

「うん。もっと近い匂い」

 店主は何も言えなかった。

 もっと近い。

 その言葉が、胸に沈む。

 水瀬ミオ。

 この店の名前になった人。

 迷ったら、自分のところに帰ってくる店だと言った人。

 その人に、自分は何と呼ばれていたのだろう。

 その人を、自分は何と呼んでいたのだろう。

 まだ分からない。

 けれど、今日分かったことがある。

 この町に、店主はいた。

 この町を、誰かと歩いた。

 この店の看板を、誰かと見上げた。

 そして、この店の名前を決めた時間があった。

 店主は、扉の札を見た。

 ――開店中。

 外には出られない。

 長くは離れられない。

 それでも、店の中に閉じ込められているだけではない気がした。

 ここは牢屋ではない。

 帰る場所だ。

 自分が離せなかった場所。

 自分を離さなかった場所。

 それを知るには、まだ痛みが足りない。

 記憶が足りない。

 残り十件。

 その先に、きっと答えがある。

 店主は新しい豆をすくい、ミルに入れた。

 怖さはある。

 けれど、手は動く。

 恐れながら、手を温める。

 豆を挽く。

 ごり。

 ごり。

 湯を沸かす。

 粉を膨らませる。

 香りが立つ。

 カップに注ぐ。

 今日の一杯は、少し苦く、少し甘く、そしてほんのわずかに春の匂いがした。

 桜の木の下で、誰かが笑っているような匂い。

 店主はカップをカウンターの端に置いた。

 一杯目のコーヒー。

 誰のためか分からない一杯。

 けれど今日は、その誰かの影が、少しだけ近づいた気がした。

 外では、終わった世界に風が吹いている。

 壊れた駅の時計は止まり、商店街には誰もいない。

 公園の桜は咲かず、町は灰色のまま。

 それでも、喫茶店の看板には、はっきりと店名が刻まれている。

 喫茶ミオ。

 世界が終わったあとも。

 店主が店の外に長く出られないことを知ったあとも。

 それでも、その店だけは営業している。

 最後の客が来る、その日までは。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第14話は、店主が喫茶ミオから長く離れられないことを知るお話でした。


荒廃した商店街。

四時十四分で止まった時計。

壊れた駅。

そして、桜の木の下に残るミオとの記憶。


店主は外へ進もうとするたびに、店の前へ戻されます。


それは、喫茶ミオが彼を縛っているからなのか。

それとも、店主自身がこの店を帰る場所として手放せずにいるからなのか。


まだ答えは分かりません。


ただ、これまで滲んでいた看板の文字だけは、はっきり読めるようになりました。


喫茶ミオ。


次回は、第15話「喫茶ミオ」です。

よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。

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