第15話 喫茶ミオ
第15話です。
今回、店主の前に現れるのは、喫茶ミオの昔の常連だった女性。
彼女は店主を見るなり、「まだここにいたんだ」と言います。
喫茶ミオは、最初から一人で作られた店ではありませんでした。
店主と、もう一人。
この店に名前を残した人物、水瀬ミオ。
けれど、店主は今も彼女の顔だけを思い出せません。
第15話「喫茶ミオ」、お付き合いいただけると嬉しいです。
喫茶ミオ。
その名前を、店主は何度もノートに書いた。
喫茶ミオ。
水瀬ミオ。
ミオ。
書けば書くほど、文字は見慣れていくはずだった。
だが、不思議なことに、その名前だけは何度見ても胸の奥に引っかかった。
店名なのか。
人名なのか。
あるいは、もっと別の何かなのか。
昨日、店主は店の外へ出た。
長く離れようとすると、必ず店の前へ戻されることを知った。
壊れた駅。
止まった時計。
誰もいない商店街。
桜の咲かない公園。
そのどれもが、かつて自分と誰かが歩いた場所だった。
たぶん、水瀬ミオと。
そして、道の向こうから看板を見上げた時、初めてはっきり読めた。
――喫茶ミオ。
その瞬間、少しだけ記憶が戻った。
開店前の店。
看板を見上げる女性。
明るい声。
――名前、決めたよ。
――喫茶ミオ。
けれど、顔だけが見えなかった。
声の輪郭はある。
白いブラウスも見える。
紙袋を持つ手も、青いカップを持つ指先も、ぼんやりと思い出せる。
なのに、顔だけが白く抜けている。
店主はカウンターの上に置いた麻袋を見つめた。
空の豆袋。
そこに浮かんだ名前。
――水瀬ミオ。
店主は指先で、その文字に触れないように、少し離れた布地をなぞった。
「ミオ……」
小さく口にすると、胸の奥が痛んだ。
痛みは、昨日より少しだけ鋭い。
けれど、逃げたい痛みではなくなりつつあった。
むしろ、その痛みの奥に何かがあると分かってしまったから、余計に苦しい。
店主は顔を上げた。
カウンター横には、自動販売機AVM-0321が立っている。
その足元で、黒猫のミケが丸くなっていた。
ミケは片目だけ開け、店主を見ている。
「またミオ見てる」
「はい」
「好きなの?」
店主は答えに詰まった。
好き。
その言葉は、あまりに直接的だった。
けれど、否定できなかった。
「分かりません」
「分からないって言うと思った」
「すみません」
「謝ることじゃないよ。店主はだいたい分かってない」
「なかなか厳しいですね」
「猫だからね」
ミケは起き上がり、伸びをした。
小さな体が弓なりになる。
「でも、その名前、甘い匂いと苦い匂いが一緒にする」
「どんな匂いですか」
「春の花。コーヒー。雨の日の木の床。あと、すごく強い後悔」
店主は黙った。
後悔。
その言葉は、今の自分に深く刺さる。
自分は何を後悔しているのだろう。
何を忘れたのだろう。
何を忘れなければならなかったのだろう。
店主は麻袋を畳み、常連帳の隣に置いた。
今日は、何かが来る。
そんな予感があった。
理由は分からない。
けれど、店の空気が昨日と違っている。
カップの音が少し響く。
カウンターの木目がいつもより濃く見える。
窓の外の灰色の街も、まるで誰かを待っているように静かだった。
店主は一杯目のコーヒーを淹れた。
豆を挽く手は、まだ少し緊張している。
この豆が、誰かの心残りの残滓から生まれていると知ってしまったからだ。
けれど、手は止めなかった。
恐れながら、手を温める。
地下の石板の言葉を思い出す。
豆を挽く。
湯を注ぐ。
香りが立つ。
白いカップに注ぎ、カウンターの端に置く。
一杯目のコーヒー。
誰のためか分からない一杯。
今日は、その湯気が少しだけ甘く感じられた。
ミケが鼻をひくつかせる。
「今日の湯気、変」
「舐めないでください」
「舐めないよ。まだ」
「まだ、もだめです」
「はいはい」
ミケはAVMの足元へ戻った。
その直後、扉のベルが鳴った。
からん。
店主は顔を上げた。
入口に、一人の女性が立っていた。
年齢は、四十代後半から五十代くらいだろうか。
淡い灰色のコートを着て、手には古い革のバッグを持っている。
髪は肩のあたりで切りそろえられ、ところどころに白いものが混じっていた。
表情は落ち着いている。
けれど、その目だけは、まるで長い時間を越えてきた人のように深かった。
女性は店内を見回した。
カウンター。
棚のカップ。
窓際の席。
AVM。
ミケ。
そして、店主。
女性の視線が店主に止まった瞬間、彼女は少しだけ目を細めた。
懐かしむような。
呆れるような。
泣きそうになるのをこらえるような。
そんな顔だった。
「……まだここにいたんだ」
その言葉は、店内に静かに落ちた。
店主は、しばらく何も言えなかった。
初めて会うはずの人だ。
少なくとも、今の記憶の中では。
だが、その声には聞き覚えがあった。
遠い。
けれど、確かに。
この店で、何度も聞いたことがある気がする。
「いらっしゃいませ」
店主は、ようやくそう言った。
女性は小さく笑った。
「その言い方、変わらないね」
「僕を、ご存じなんですか」
「知ってるよ」
女性はゆっくり店内へ入ってきた。
扉が閉まり、外の灰色の風が遮られる。
「この店にも、何度も来た」
「常連の方、ですか」
「昔はね」
女性はカウンター席へ向かおうとして、ふと窓際の席を見た。
篠原が座った席。
ヴァルグランが休暇を取った席。
リツの祖母、白藤ハルが夕方に紅茶を飲んでいたかもしれない席。
女性は、その席を見て少しだけ微笑んだ。
「篠原先生、まだあの席が似合いそう」
店主は息を呑んだ。
「篠原先生をご存じなんですか」
「もちろん。よく本を読んでた。砂糖一つ入れて、混ぜずに飲む人でしょ」
「はい」
「黒瀬さんも来てたね。締め切り前は顔が怖くてさ。ミオが『話しかけない方がいいよ』ってよく言ってた」
黒瀬。
ミオ。
自然にその名が出た。
店主の胸が鳴る。
「あなたは……」
「名前?」
「はい」
女性はカウンター席に座った。
そして、バッグを膝に置いた。
「橘沙耶。昔、この商店街で花屋をやってた」
「花屋……」
店主の脳裏に、昨日歩いた商店街が浮かぶ。
シャッターの下りた小さな花屋。
割れた植木鉢。
枯れた草。
あの店の人なのか。
「花屋さん」
「そう。駅前の方じゃなくて、商店街の奥の小さい店。覚えてない?」
店主は目を閉じた。
花屋。
商店街。
ミオ。
紙袋。
花の匂い。
何かが揺れる。
――沙耶さん、今日は白い花ある?
――あるよ。ミオちゃん、また店に飾るの?
――うん。あの人、ほっとくと何も飾らないから。
――相変わらずだねえ。
その会話が、一瞬だけ耳の奥で響いた。
店主は目を開けた。
「白い花」
沙耶の表情が変わった。
「少し、思い出した?」
「会話だけです。顔は……」
「ミオの?」
店主は頷いた。
沙耶は、しばらく店主を見つめていた。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、悲しそうに。
「そう」
彼女は小さく言った。
「まだ、顔は思い出せないんだ」
その声が、店主の胸に刺さった。
「すみません」
「謝ることじゃないよ」
「でも」
「あなたが忘れたんじゃない」
店主は顔を上げた。
沙耶は、静かに言った。
「忘れないと、ここに立っていられなかったんだと思う」
店内が、ひどく静かになった。
ミケも何も言わなかった。
AVMの表示も光らない。
店主は、カウンターに手を置いた。
「ミオさんは」
声が震えた。
「水瀬ミオさんは、どんな人だったんですか」
沙耶は、少しだけ目を伏せた。
「注文してから話してもいい?」
「あ……はい。すみません」
「紅茶。砂糖なし。できれば、昔のまま」
店主は頷いた。
身体が自然に動いた。
紅茶の缶を開ける。
茶葉を量る。
ポットを温める。
湯を注ぐ。
待つ。
その手順を、身体が覚えている。
喫茶ミオの紅茶。
沙耶が昔飲んでいたもの。
店主は、まだ彼女を覚えていない。
けれど、手が少しだけ知っている。
ポットからカップへ注ぐと、琥珀色の紅茶が揺れた。
香りが広がる。
沙耶はその香りを吸い込み、目を細めた。
「懐かしい」
「お待たせしました」
店主がカップを置くと、沙耶は両手で包んだ。
一口飲む。
長い沈黙。
「うん」
沙耶は微笑んだ。
「ちゃんと、喫茶ミオの味」
店主は胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
店は、覚えている。
自分が忘れても、手が覚えている。
カップが覚えている。
茶葉の量が覚えている。
湯の温度が覚えている。
沙耶は紅茶を見つめながら、ゆっくり話し始めた。
「この店はね、もともと二人で作った店だった」
「二人」
「あなたと、ミオ」
店主は息を呑んだ。
分かっていたはずなのに、誰かの口からはっきり言われると、胸の奥が震えた。
「二人で?」
「そう」
沙耶は店内を見回した。
「この場所、昔は別の店だったんだよ。古い雑貨屋。店主のおじいさんが亡くなって、しばらく空き店舗になってた。商店街の人たちは、もう誰も借りないだろうって言ってた」
「そこを、僕たちが」
「借りた」
沙耶は頷いた。
「正確には、最初に見つけたのはミオだった。『ここ、喫茶店にしたら絶対いい』って」
「ミオさんが」
「あなたは不安そうだったよ。資金は足りるのかとか、客は来るのかとか、コーヒーしか淹れられないとか、店を持つなんて無謀じゃないかとか」
店主は、少しだけ苦笑しそうになった。
それは、今の自分でも言いそうなことだった。
「ミオさんは、何と?」
「『不安なら、店に立ってから考えればいい』って」
沙耶は笑った。
「強引な子だったから」
「強引」
「うん。明るくて、よく笑って、でも妙に頑固で。あなたが悩んでいる間に、勝手に商店街の人たちへ挨拶して、古い棚をもらって、看板の木材まで手配してた」
店主の脳裏に、かすかな映像が浮かぶ。
埃の積もった空き店舗。
窓を開ける女性。
光が差し込む。
白いブラウスの袖をまくり、雑巾を持って笑っている。
顔は見えない。
それでも、その人が楽しそうだったことだけは分かる。
――ほら、ここ。カウンター置いたら絶対いいよ。
――まだ契約もしていません。
――じゃあ契約しよう。
――そんな簡単に。
――簡単じゃないから、今やるの。
店主は胸を押さえた。
沙耶は、その様子を見て静かに紅茶を置いた。
「無理に思い出さなくていい」
「でも、思い出したいです」
「うん」
沙耶は頷いた。
「たぶん、そう言うと思った」
彼女はバッグを開けた。
中から、小さな封筒を取り出す。
古い紙の封筒。
角は少し擦り切れている。
「これ、持ってきた」
「それは」
「写真」
店主の手が止まった。
写真。
心臓が一度、大きく鳴った。
沙耶は封筒をカウンターに置いた。
しかし、すぐには渡さなかった。
「見る?」
店主は答えられなかった。
見たい。
見たくない。
ミオの顔を知りたい。
けれど、見てしまったら、何かが壊れる気がする。
日記に書かれていた言葉が蘇る。
――一度に全部読むな。心が壊れる。
顔を見ることは、全部読むことに近いのかもしれない。
ミケがカウンター下から言った。
「今は、やめた方がいい」
沙耶は驚いたようにミケを見た。
「猫がしゃべってる」
「記憶を食べる猫だから」
「喫茶ミオ、相変わらず変な店になったね」
「昔から変だったの?」
「少なくとも、普通ではなかったよ」
ミケは少し考えたように尻尾を揺らした。
「この写真、匂いが強すぎる。今見たら、店主たぶん倒れる」
「そう」
沙耶は封筒を見つめた。
「やっぱり、まだ早いか」
店主は、かすれた声で尋ねた。
「見ない方がいいんですね」
「今はね」
沙耶は封筒をバッグに戻さなかった。
代わりに、カウンターの上へ置いたままにした。
「でも、いつか見なきゃいけない」
「はい」
「その時まで、この店に預けてもいい?」
「僕に?」
「この店に」
沙耶は静かに言った。
「私が持っているより、ここにあった方がいい気がする」
店主は封筒を見つめた。
中には、ミオの顔がある。
自分がまだ思い出せない人の顔。
見れば、痛む。
だが、預かることならできる。
「大切に預かります」
「うん」
沙耶は紅茶をもう一口飲んだ。
「ミオはね、この店を自分の名前にしたけど、自分のためだけにしたわけじゃない」
「どういう意味ですか」
「あなたのためでもあった」
「僕の」
「あなた、昔から帰る場所を作るのが下手だったから」
店主は黙った。
「どこにいても、少しだけ所在なさそうで。人に優しいのに、自分が誰かに待たれることには慣れていなかった。ミオはそれをよく分かってた」
沙耶は窓の外を見た。
灰色の町。
終わった世界。
その向こうに、彼女は昔の商店街を見ているのかもしれない。
「だから言ってたよ。『この店は、あの人が迷った時に帰ってくる場所にする』って」
店主の胸が痛んだ。
昨日、看板の前で聞いた記憶と同じだ。
迷ったら、私のところに帰ってくる店。
「僕は、そんなに迷っていたんですか」
「うん」
沙耶は即答した。
「でも、店に立っている時は迷ってなかった」
「そうなんですか」
「不思議なくらいね。コーヒーを淹れている時と、客の話を聞いている時だけは、ちゃんとここにいた」
店主は自分の手を見た。
この手は、覚えている。
カップの重さ。
豆の量。
湯を注ぐ速度。
客の前に一杯を置くタイミング。
自分の名前より先に、店の仕事を覚えていた。
「ミオさんは、僕と一緒に店に立っていたんですか」
「立ってたよ」
「どんなふうに」
「あなたがコーヒー担当。ミオが接客と焼き菓子担当」
「焼き菓子」
「ミオのスコーン、人気だったんだよ。ちょっと焦がす時もあったけど」
沙耶は懐かしそうに笑った。
「焦げた日は、あなたが黙って少しだけ端を削って出してた」
その瞬間、店主の脳裏に匂いが蘇った。
焼き菓子の匂い。
バター。
小麦粉。
少し焦げた端。
ミオの声。
――焦げてない。香ばしいだけ。
――これは焦げています。
――細かいなあ。
――お客様に出すものですから。
――じゃあ、あなたが食べて。
――なぜ僕が。
――店主だから。
店主は、思わず笑いそうになった。
だが、その笑みはすぐに痛みに変わった。
楽しい記憶がある。
温かい記憶がある。
それなのに、顔だけがない。
顔がないことが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
「顔が」
店主は言った。
「顔だけ、思い出せません」
沙耶は、紅茶のカップを静かに置いた。
「そうだろうね」
「なぜですか」
「一番見ていたからじゃないかな」
「一番見ていたから、忘れるんですか」
「たぶん」
沙耶の声は優しかったが、痛かった。
「一番大切だったものほど、壊れた時に心を傷つけるから」
店主は、言葉を失った。
「あなたが忘れたのは、薄情だからじゃない。ミオを大切にしていなかったからでもない。逆だよ」
沙耶は店主をまっすぐ見た。
「大切すぎたから、忘れないと耐えられなかった」
その言葉が、胸の奥に深く沈んだ。
忘れないと、耐えられなかった。
店主はカウンターに手をついた。
息が浅くなる。
ミケが足元に来て、身体を寄せた。
温かい。
小さな体温が、かろうじて店主を今に繋ぎ止める。
「ミオさんは」
店主は、震える声で尋ねた。
「もう、いないんですか」
沙耶は、すぐには答えなかった。
その沈黙が、答えのようでもあった。
だが、彼女は言った。
「それは、私が言うことじゃない」
「なぜ」
「あなたが思い出すことだから」
「僕が」
「うん」
沙耶は、少しだけ悲しそうに笑った。
「人から聞いたら、ただの情報になる。でも、あなたに必要なのは情報じゃない。記憶でしょ」
店主は目を閉じた。
情報と記憶。
未来記録院のリツも、似たことを言っていた。
記録には温度が残りにくい。
喫茶ミオに必要なのは、ただの事実ではない。
温度。
痛み。
匂い。
声。
手触り。
自分で思い出さなければならないもの。
「分かりました」
店主は言った。
本当は、分かっていない。
けれど、今はそう答えるしかなかった。
沙耶は紅茶を飲み終えた。
カップを静かに置く。
「ごちそうさま」
「お口に合いましたか」
「昔と同じだった」
沙耶は、少しだけ目を細めた。
「それだけで、来てよかった」
店の奥で、かちり、と音がした。
時計の針が一つ進む音。
沙耶はその音に気づいたのか、店内を見回した。
「今の音」
「この店の音です」
「そう」
彼女は、なぜか納得したように頷いた。
「この店、まだ仕事してるんだね」
「仕事」
「終われない人を、ちゃんと帰してる」
店主は黙った。
沙耶もまた、何かを終えるために来たのだろうか。
ミオのことを伝えるため。
写真を預けるため。
喫茶ミオが、二人で作られた店だったことを、店主に返すため。
それが彼女の心残りだったのかもしれない。
沙耶は立ち上がった。
「もう行きますか」
「うん。長居すると、昔のことを話しすぎる」
「話していただいても」
「今は、これくらいでいい」
彼女はカウンターの上の封筒を指さした。
「写真、預けるね」
「はい」
「まだ見ないで」
「分かっています」
「ミケちゃん、見張ってて」
ミケが顔を上げた。
「ちゃん付け?」
「かわいいから」
「悪くない」
「すぐ調子に乗りますね」
店主が言うと、ミケは得意げに尻尾を立てた。
沙耶は、そんな二人を見て少し笑った。
「よかった」
「何がですか」
「一人じゃないみたいだから」
その言葉に、店主は少しだけ胸が温かくなった。
沙耶は扉へ向かった。
店主もカウンターから出て、見送る。
扉の前で、沙耶は立ち止まった。
そして、振り返った。
「最後に一つだけ」
「はい」
沙耶は店主を見つめた。
その目には、昔の常連としての懐かしさと、友人を見守るような優しさと、どうしようもない悲しみが混ざっていた。
「あなたが忘れたんじゃない。忘れないと、耐えられなかったんだよ」
その言葉は、静かだった。
けれど、店主の胸にまっすぐ届いた。
店主は何も言えなかった。
沙耶は微笑み、扉を開けた。
からん、とベルが鳴る。
外の灰色の風が店内へ少しだけ入ってくる。
「また来ますか」
店主が尋ねると、沙耶は少しだけ考えた。
「もし、この店がまだ開いていたら」
「開いています」
「そう言うと思った」
沙耶は、どこか寂しそうに笑った。
「じゃあ、また」
彼女は外へ出た。
灰色の通りを歩いていく。
商店街の方へ。
かつて花屋があった場所へ帰るのかもしれない。
あるいは、もうどこにも帰らないのかもしれない。
その背中は少しずつ薄くなり、廃墟の角を曲がる頃には、灰色の風に溶けるように見えなくなった。
店主は、扉を閉めた。
店内へ戻る。
カウンターの上には、写真の入った封筒が残っている。
ミケがその前に座っていた。
「見ちゃだめ」
「見ません」
「今の店主、絶対見そうな匂いしてる」
「そんな匂いが」
「ある」
店主は封筒を両手で持った。
軽い。
けれど、恐ろしいほど重かった。
この中に、ミオの顔がある。
自分がまだ思い出せない顔。
自分が忘れないと耐えられなかった顔。
店主は、封筒を開けなかった。
倉庫へ向かう。
「預かりもの」の木箱を開ける。
錆びた鍵。
古い万年筆。
子ども用の髪留め。
折れた眼鏡。
写真の入っていない写真立て。
金属製の名札。
折れた聖剣。
黒焔城の紋章。
不達票。
ミケの記憶の小瓶。
未来記録院の徽章。
そこへ、写真の封筒をそっと置いた。
写真の入っていない写真立ての隣。
まるで、最初からそこに置かれるのを待っていたようだった。
店主は木箱の蓋を閉めた。
店内へ戻り、茶色いノートを開く。
新しいページ。
ペンを持つ。
手が震えていた。
それでも書く。
――十三人目の客。橘沙耶。
少し考え、次の行を書く。
――昔の常連。
――商店街の花屋だった人。
――喫茶ミオが、僕と水瀬ミオの二人で作った店だったことを教えてくれた。
店主は、一度息を吸った。
そして続ける。
――ミオは、強引で、明るくて、よく笑う人だった。
――接客と焼き菓子担当。
――この店を、僕が迷った時に帰ってくる場所にしようとしていた。
ペン先が止まる。
胸が痛い。
だが、書かなければならない。
書くことで、記憶は少しだけ形になる。
店主は、最後の言葉を書いた。
――あなたが忘れたんじゃない。忘れないと、耐えられなかったんだよ。
書き終えた瞬間、店の奥で、もう一度かちりと音がした。
時計の針が進む音。
今日は、それが少しだけ遠く聞こえた。
店主はペンを置いた。
カウンターの端の一杯目のコーヒーは、すっかり冷めていた。
店主はそれを手に取る。
一口飲む。
苦い。
いつもより苦い。
けれど、そこにほんの少しだけ焼き菓子の甘い匂いが混ざっている気がした。
ミオのスコーン。
焦げた端。
笑う声。
まだ顔は見えない。
それでも、そこに誰かがいた。
店主はカップを置いた。
「ミオさん」
小さく呼ぶ。
ミケが足元で言った。
「やっぱり、さん付けじゃない気がする」
「今は、これで」
「そっか」
ミケはそれ以上言わなかった。
窓の外には、灰色の町が広がっている。
商店街は静かで、花屋はもう営業していない。
けれど、かつてそこには白い花を買うミオがいて、紅茶を飲みに来る沙耶がいて、篠原先生が本を読み、黒瀬が原稿を書き、ユイが熱いミルクコーヒーをふーふーしていた。
この店は、二人で作った店だった。
店主と、ミオ。
喫茶ミオ。
店主は、扉の札を見た。
――開店中。
世界が終わったあとも。
店の外に長く出られないことを知ったあとも。
喫茶ミオが、二人で作られた店だったことを思い出し始めたあとも。
この店だけは、まだ営業している。
最後の客が来る、その日までは。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
第15話は、昔の常連・橘沙耶から、喫茶ミオの始まりを聞くお話でした。
この店は、店主と水瀬ミオの二人で作った店。
不安ばかり口にする店主の背中を押し、空き店舗を見つけ、棚や看板を用意し、帰る場所を作ろうとしたミオ。
店主の手は、紅茶の味も、焦げたスコーンの記憶も覚えています。
それでも、ミオの顔だけは思い出せません。
忘れたのではなく、忘れなければ耐えられなかった。
沙耶が残したその言葉と、まだ開けられない写真の封筒は、これから店主の記憶をさらに揺らしていきます。
次回は、第16話「世界が壊れた日」です。
よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。




