↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
13/20

第13話 尽きないコーヒー豆

第13話です。


今回、店主が向き合うのは、喫茶ミオで当たり前のように使われてきたコーヒー豆。


いくら使っても尽きない豆。

その一粒一粒には、これまで店を訪れた客たちの名前が刻まれていました。


苦い後悔。

甘い思い出。

酸っぱい未練。


一杯のコーヒーが、何から生まれているのか。

そして、店主は客の心に何をしていたのか。


第13話「尽きないコーヒー豆」、お付き合いいただけると嬉しいです。

 朝、店主は豆の缶を開けた。

 いつものように。

 何気なく。

 ただ、いつもと違ったのは、開けたあとに手が止まったことだった。

 缶の中には、コーヒー豆が入っている。

 黒く艶のある豆。

 深煎りの香ばしい匂い。

 それは、昨日もあった。

 一昨日もあった。

 その前の日も、そのさらに前の日も。

 店主は毎朝、この缶から豆をすくい、ミルに入れ、挽き、湯を注いでいる。

 壊れかけの配達ロボットに出した一杯。

 最後の新聞記者に出した一杯。

 記憶を売った少女に出した蜂蜜入りの温かい飲み物。

 幽霊になった常連客に出した「いつもの一杯」。

 世界を救えなかった勇者に出した苦いコーヒーと、少し苦みを和らげた二杯目。

 人間になりたかった自動販売機に買った缶コーヒー。

 休暇中の魔王に出した甘いカフェオレ。

 死ぬことを忘れた老人に出した、静かなコーヒー。

 未来から来た配達員に出したホットレモネード。

 記憶を食べる猫に出した温かい牛乳。

 未来記録院の調査員に出した紅茶。

 何杯も、何杯も。

 この店は、客が来るたびに何かを出してきた。

 それなのに。

 豆の缶は、減っていなかった。

「……おかしいですね」

 店主は小さく呟いた。

 カウンター横の自動販売機の足元で丸くなっていた黒猫が、片目を開けた。

「何が」

「コーヒー豆です」

「豆?」

「減っていません」

 黒猫――ミケは、ゆっくり起き上がった。

 寝起きのせいか、尻尾の毛が少し乱れている。

「昨日も淹れてたよね」

「はい」

「一昨日も」

「はい」

「その前も」

「はい」

「じゃあ、減ってないなら便利でいいじゃん」

「便利すぎます」

「便利なものに疑問を持つの、人間の悪い癖だよ」

「この店では、疑問を持たない方が危ない気がします」

 ミケは大きくあくびをした。

「それはそう」

 店主は豆の缶を持ち上げた。

 重さも変わっていない気がする。

 中を覗くと、豆は缶の八分目ほどまで入っている。

 昨日も、そうだった。

 その前も。

 いつからそうだったのかは分からない。

 そもそも、この豆を誰が仕入れたのか、店主は知らない。

 外の世界は終わっている。

 物流はない。

 市場もない。

 焙煎所もない。

 それなのに、喫茶ミオでは毎朝コーヒーが淹れられる。

 水が出る。

 湯が沸く。

 豆がある。

 これまでは、そういうものだと思っていた。

 いや、思おうとしていた。

 考え始めると、店そのものの正体に触れてしまいそうで、少し怖かったからだ。

 だが、昨日、地下の扉が開いた。

 未来記録院の調査員、白藤リツが喫茶ミオを未来に記録したことで、店の奥にある階段が開いた。

 地下には巨大な時計があった。

 そして、黒い石板に文字が浮かんでいた。

 ――未処理の心残り。

 ――残り十件。

 これまで聞いていた「かちり」という音は、あの時計が進む音だったのだろう。

 客が何かを終えるたびに、針が動いていた。

 この店は、ただの喫茶店ではない。

 それは、もう分かってしまった。

 ならば、豆が尽きないことにも、理由があるはずだった。

 店主は豆を一粒、指先でつまみ上げた。

 黒い豆。

 表面には油分の艶がある。

 香ばしい匂い。

 見たところ、普通のコーヒー豆だ。

 しかし、よく見ると、豆の表面に細い線のようなものが刻まれている気がした。

「……文字?」

 店主は目を細めた。

 ミケがカウンターへ飛び乗ろうとして、店主に見られた。

「カウンターの上は」

「調査中だから特別」

「勝手に特別にしないでください」

「じゃあ、椅子」

 ミケは近くの椅子に飛び乗り、そこから首だけ伸ばして豆を覗き込んだ。

「うわ」

「何か分かりますか」

「匂いが濃い」

「豆の匂いですか」

「違う。人の匂い」

 ミケの金色と青色の目が、細くなった。

「それ、ただの豆じゃないね」

 店主は、指先の豆を見つめた。

 表面の細い線は、ただのしわではなかった。

 小さすぎて読みにくい。

 店主は棚から古い虫眼鏡を取り出した。

 なぜそこにあるのかは分からない。

 だが、この店はいつも、必要なものを静かに差し出す。

 虫眼鏡で豆を見る。

 黒い表面に、かすかな文字が浮かんでいた。

 ――AD-17。

 店主の手が止まった。

「……」

 豆の表面に刻まれていたのは、配達ロボットの名前だった。

 壊れかけの配達ロボット。

 五十年遅れの誕生日プレゼントを、桜庭ユイへ届けようとしていた機械。

 この店が受け取りの証人になり、配送完了を告げたあと、「ありがとう」と言って停止した最初の客。

 その名前が、豆に刻まれている。

 店主は別の豆を取った。

 虫眼鏡で見る。

 ――黒瀬真悟。

 次の豆。

 ――アメ。

 次。

 ――篠原宗一郎。

 次。

 ――レオン。

 次。

 ――AVM-0321。

 次。

 ――ヴァルグラン。

 次。

 ――ヨル。

 次。

 ――時枝カナタ。

 次。

 ――ミケ。

「僕のもある?」

 ミケが言った。

 店主は頷いた。

「あります」

「食べないでね」

「飲み物にしてしまっているかもしれません」

 その言葉を口にした瞬間、店主の胸が冷たくなった。

 飲み物にしている。

 客の名前が刻まれた豆。

 それを挽き、湯を注ぎ、カップに入れ、客へ出している。

 店主は、缶の中の豆を見つめた。

 これまで自分は、何を淹れていたのだろう。

 コーヒーではない。

 ただの飲み物ではない。

 客の記憶。

 客の心残り。

 後悔。

 未練。

 思い出。

 それらを豆にし、挽き、湯で抽出し、一杯に変えていたのだとしたら。

「店主?」

 ミケが呼んだ。

 店主は答えられなかった。

 指先が少し震えている。

 手の中の豆が、ひどく重く感じた。

「僕は……」

 声がかすれた。

「僕は、客の心を削っていたのでしょうか」

 ミケは黙った。

「コーヒーを出していたつもりでした。温かいものを出しているつもりでした。でも、本当は、客の心残りを飲み物にしていたんじゃないですか」

 胸が苦しい。

 AD-17の「ありがとう」。

 黒瀬の原稿。

 アメの涙。

 篠原の最後の一杯。

 レオンの手紙。

 AVMの「どういたしまして」。

 ヴァルグランの休暇。

 ヨルの名前。

 カナタの母の手紙。

 ミケの記憶の芯。

 リツの祖母の記録。

 それらが豆になっている。

 自分は、その豆を挽いていた。

 香りが立つたびに、客の心を取り出していた。

 そう思うと、急にミルが恐ろしいものに見えた。

 古い手回しミル。

 毎朝、何気なく使ってきた道具。

 その中で、何を砕いていたのか。

 豆ではなく、誰かの痛みだったのだとしたら。

「やめれば?」

 ミケが言った。

 店主は顔を上げた。

「やめる?」

「怖いなら、コーヒー淹れるのやめればいい」

 ミケの声は静かだった。

 からかうような響きはなかった。

「豆を挽かなければいい。湯も注がなければいい。客が来ても何も出さなければいい」

「それは」

「できる?」

 店主は答えられなかった。

 できない。

 そう思った。

 理由は分からない。

 けれど、客が来たら、何かを出したい。

 温かいものを。

 その人に必要な一杯を。

 飲めない客にも。

 機械にも。

 幽霊にも。

 魔王にも。

 死ぬことを忘れた老人にも。

 未来から来た配達員にも。

 記憶を食べる猫にも。

 それが、この店の店主としての自分だった。

 自分の名前は分からない。

 過去も分からない。

 ミオの顔も、まだはっきりと思い出せない。

 それでも、コーヒーの淹れ方だけは覚えている。

 客に一杯を出すことだけは、身体が覚えている。

「やめられません」

 店主は言った。

 ミケは、椅子の上で丸くなりかけながら言った。

「なら、調べるしかないね」

「はい」

「地下に行く?」

 店主は豆の缶を見た。

 地下。

 巨大な時計。

 未処理の心残り、残り十件。

 きっと、あそこに答えがある。

 この店の豆が何なのか。

 なぜ尽きないのか。

 自分が何をしているのか。

 店主は缶を両手で持った。

「行きます」

「牛乳は?」

「戻ってからです」

「重要なのに」

「戻ってからです」

「ちぇ」

 ミケは文句を言いながらも、椅子から飛び降りた。

 カウンター横のAVMの前を通る時、AVMの表示が一瞬だけ淡く光った。

 ――^^

「笑ってる場合じゃないよ、箱」

 ミケが言う。

 もちろん返事はない。

 けれど、店主にはその光が、少しだけ励ましてくれているように見えた。

 店主は厨房奥の扉へ向かった。

 昨日開いた地下への扉。

 取っ手に触れる。

 冷たい。

 だが、拒まれてはいない。

 扉を開けると、下へ続く階段が見えた。

 壁の小さな灯りが、一つずつ点いていく。

 店主は豆の缶を抱え、階段を下りた。

 ミケが後ろからついてくる。

「すごい匂い」

 ミケが言った。

「昨日より濃いですか」

「うん。今日は豆を持ってるから、地下の匂いと混ざってる」

「どんな匂いですか」

「焦げた後悔、濡れた手紙、冷めた紅茶、甘い牛乳、鉄とリボン。あと、店主の怖がってる匂い」

「最後のは言わなくていいです」

「言った方がいい時もある」

 店主は何も言わなかった。

 怖い。

 確かに怖い。

 この店が優しい場所ではなく、客の心を材料にして動く装置だったらどうしよう。

 自分は店主ではなく、誰かの未練を加工する係だったら。

 そう思うと、足が重くなった。

 階段を下りきると、地下室に出た。

 巨大な時計が、昨日と同じように壁一面を覆っている。

 いくつもの歯車。

 複数の針。

 ゆっくり揺れる振り子。

 その中央の黒い石板には、文字が浮かんでいた。

 ――未処理の心残り。

 ――残り十件。

 時計の音が響く。

 かちり。

 かちり。

 かちり。

 店主は豆の缶を抱えたまま、石板の前に立った。

「この豆は、何ですか」

 返事はない。

 店主はもう一度、言った。

「この店のコーヒー豆は、何でできているんですか」

 石板の文字が揺れた。

 黒い面に、淡い光が広がる。

 そして、新しい文字が浮かび上がった。

 ――心残りの残滓。

 店主は息を呑んだ。

 残滓。

 残りかす。

 その言葉は、ひどく冷たく聞こえた。

 ミケが低く唸る。

「言い方、嫌い」

 石板は構わず文字を続けた。

 ――客が手放した後悔。

 ――客が抱いていた思い出。

 ――客が飲み込めなかった言葉。

 ――客が終える際に残した熱。

 ――それらは豆となり、次の一杯へ循環する。

「循環」

 店主は呟いた。

「やっぱり、客の心を使っているんですか」

 石板の文字が、少し遅れて浮かぶ。

 ――奪取ではない。

 ――抽出でもない。

 ――変換。

「変換……」

 店主は豆の缶を見た。

 ミケが石板に向かって言った。

「つまり、勝手に食べてるわけじゃないってこと?」

 ――手放されたもののみ、豆となる。

 ――抱え続けるべき記憶は、豆にはならない。

 店主は、その文字を読んでもすぐには安心できなかった。

「でも、僕はそれを挽いています」

 ――挽くとは、砕くことではない。

 ――開くこと。

「開く?」

 ――豆は閉じた心残り。

 ――湯は現在の時間。

 ――カップは受け止める器。

 ――一杯の飲み物は、客が自身の心残りと向き合うための形。

 店主は黙った。

 ミケが隣で尻尾を揺らす。

「分かったような、分からないような」

「僕もです」

 石板の文字はさらに続いた。

 ――苦い後悔は、深い豆となる。

 ――甘い思い出は、香りとなる。

 ――酸っぱい未練は、舌に残る。

 ――冷えた孤独は、湯でほどける。

 ――言えなかった言葉は、湯気となる。

 店主の胸の奥が震えた。

 言えなかった言葉は、湯気となる。

 だから、この店の湯気には記憶が混ざるのか。

 だから、ミケは湯気を舐めようとしたのか。

 だから、飲めないAD-17にも一杯を出したかったのか。

 飲めなくても、湯気を見つめることはできる。

 カップの前に座ることはできる。

 客として迎えられることはできる。

「僕が出していた一杯は、客自身のものだったんですか」

 ――是。

 石板に、一文字だけ浮かんだ。

 ――店主は、客の心残りを奪わない。

 ――店主は、客が向き合える温度にする。

 その言葉を見た瞬間、店主の手から少し力が抜けた。

 客が向き合える温度。

 そうかもしれない。

 AD-17には、飲めない一杯。

 レオンには、最初は苦いコーヒー、次に少し苦みを和らげた二杯目。

 ヴァルグランには甘いカフェオレ。

 ヨルには静かなコーヒー。

 カナタにはホットレモネード。

 リツには紅茶。

 店主は、毎回考えていた。

 その人に必要な一杯は何か。

 それは、客の心残りを飲み物に変えるためではなく、その人が自分の心に触れられる温度にするためだったのか。

 店主はその場に立ったまま、深く息を吐いた。

「それでも、怖いです」

 声は小さかった。

「自分が何をしているのか、分からないまま続けるのは怖いです」

 石板はすぐには答えなかった。

 代わりに、地下の時計がゆっくり音を立てた。

 かちり。

 かちり。

 かちり。

 やがて、文字が浮かぶ。

 ――恐れは、正しい。

 店主は顔を上げた。

 ――恐れずに淹れる者は、客の痛みを軽んじる。

 ――恐れすぎて淹れない者は、客の痛みを置き去りにする。

 ――恐れながら、手を温めよ。

 店主は、言葉を失った。

 恐れながら、手を温める。

 それが、この店の店主の仕事なのか。

 ミケが隣に座った。

 小さな黒い身体が、店主の足首に触れる。

「店主」

「はい」

「怖いなら、怖いって言いながら淹れれば」

「そんな店主、嫌ではありませんか」

「勝手に平気な顔して出されるより、まし」

 ミケは石板を見上げた。

「痛い記憶を食べる猫としては、そう思うよ」

 店主は、少しだけ笑いそうになった。

「説得力がありますね」

「もっと褒めていいよ」

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 その言葉に、地下室のどこかで小さな光が揺れた気がした。

 AVMが近くにいるわけではない。

 それでも、「どういたしまして」という言葉は、今やこの店の一部になっていた。

 店主は石板に向かって頭を下げた。

「分かりました」

 完全に分かったわけではない。

 恐怖が消えたわけでもない。

 だが、少なくとも今すぐ豆を捨てようとは思わなかった。

 この豆は、奪ったものではない。

 手放されたもの。

 閉じてしまったもの。

 それを、店主は湯で開く。

 客が自分自身と向き合える温度にする。

 それでも怖い。

 怖いからこそ、丁寧に淹れなければならない。

「戻りましょう」

 店主はミケに言った。

「牛乳?」

「まず、コーヒーを淹れます」

「牛乳は?」

「そのあとです」

「交渉の余地は」

「ありません」

「けち」

 ミケは文句を言いながらも、店主について階段を上がった。

 店内へ戻ると、朝の光とも夕方の光ともつかない淡い明るさが窓から入っていた。

 外は灰色の廃墟。

 けれど店内は、変わらず温かい。

 カウンターの端には、朝に置いた一杯目のコーヒーがある。

 すでに少し冷めている。

 店主はそれを見た。

 この一杯にも、何かの豆が使われている。

 誰かの心残りの残り香。

 誰かが手放した痛み。

 そう思うと、軽々しく口にはできなかった。

 しかし、捨てることもできなかった。

 店主はカップを手に取り、ゆっくり飲んだ。

 苦い。

 けれど、ただ苦いだけではない。

 奥に、かすかな甘さがある。

 その甘さに、誰かの笑顔が混ざっている気がした。

 名前は分からない。

 顔も分からない。

 けれど、誰かが確かに何かを手放し、その残った熱がここにある。

 店主はカップを置いた。

「……淹れます」

 誰に向けた言葉でもなかった。

 けれど、店内が静かにそれを聞いている気がした。

 店主は豆の缶を開けた。

 豆をすくう。

 今度は、一粒ずつ見るのをやめなかった。

 手のひらの上に、いくつかの豆を置く。

 虫眼鏡で見る。

 知らない名前もあった。

 昔の常連なのかもしれない。

 まだ来ていない客なのかもしれない。

 あるいは、地下の棚に並んでいた品物の持ち主かもしれない。

 店主は、その豆をミルに入れた。

 少しだけ手が震えた。

 ミケがカウンターの下から見ている。

「怖い?」

「はい」

「よし」

「よし、なんですか」

「怖がってるなら大丈夫」

 店主は、ゆっくりハンドルを回した。

 ごり。

 ごり。

 豆が砕ける。

 いや、開かれる。

 そう思うことにした。

 香りが立つ。

 深く、苦く、少し甘い。

 店主は湯を沸かし、ドリッパーを用意した。

 粉を入れる。

 湯を注ぐ。

 ふわりと膨らむ。

 湯気が上がる。

 その湯気の中に、いくつもの気配が混ざる。

 リボン。

 インク。

 蜂蜜。

 古い本。

 鉄。

 缶コーヒー。

 薔薇。

 夜明け。

 レモン。

 雨の日の牛乳。

 記録の紙。

 それらが一瞬だけ立ち上り、すぐにコーヒーの香りへ溶けていく。

 店主はカップに注いだ。

 白いカップ。

 黒いコーヒー。

 湯気。

 それを、カウンターの端に置く。

 一杯目のコーヒー。

 誰のためか分からない一杯。

 いや。

 今日だけは、少し分かる気がした。

 この一杯は、まだ来ていない誰かのためでもあり、これまで来た誰かのためでもあり、ここにいる自分のためでもある。

「飲むの?」

 ミケが尋ねた。

「少しだけ」

 店主はカップを持った。

 一口飲む。

 苦い。

 怖いほど苦い。

 けれど、飲み込んだあと、胸の奥が少し温かくなった。

 店主は目を閉じた。

 そして、思った。

 これは、誰かの心を削った味ではない。

 誰かが手放したものを、もう一度温めた味だ。

 それなら。

 それなら、自分はこの一杯を丁寧に淹れ続けたい。

 恐れながら。

 間違えないように。

 軽んじないように。

 店主はカップを置いた。

 ミケはカウンターの下で、なぜか得意そうに尻尾を揺らしている。

「で、牛乳は?」

「はいはい」

「はいは一回」

「どこで覚えたんですか、それ」

「誰かの記憶」

「勝手に食べていませんよね」

「昔のやつ」

 店主は小さく笑い、ミケ用の皿に温かい牛乳を注いだ。

 ミケは満足そうに飲み始める。

 AVMの表示が、ほんの一瞬だけ光った。

 ――^^

 店内は静かだった。

 けれど、静かすぎることはなかった。

 ミケが牛乳を飲む音。

 AVMのかすかな気配。

 窓の外の風。

 カップの湯気。

 すべてが、今の喫茶ミオの音だった。

 店主は、茶色いノートを開いた。

 新しいページ。

 ペンを持つ。

 ――十二人目の客、と書きかけて、手を止めた。

 今日は客が来たわけではない。

 いや、客は来ていない。

 けれど、今日向き合ったのは、この店そのものだった。

 店主は少し考え、こう書いた。

 ――第十三話。尽きないコーヒー豆。

 そして、その下に記録する。

 ――この店の豆は、尽きない。

 ――豆には、これまで来た客たちの名前が刻まれていた。

 ――客が手放した後悔、思い出、未練、言葉の残り香が、豆となる。

 ――店主はそれを奪うのではなく、客が向き合える温度にする。

 店主はペンを止めた。

 石板の言葉を思い出す。

 恐れながら、手を温めよ。

 その一文を書いた。

 ――恐れながら、手を温める。

 書き終えた時、胸の奥が少しだけ軽くなった。

 完全には分かっていない。

 それでも、今日知ったことをここに残せた。

 店主はノートを閉じようとした。

 その時だった。

 カウンターの端に置いていた豆の袋が、かさりと音を立てた。

 豆の缶とは別に、棚の奥から見つけた空の麻袋だった。

 古い焙煎豆の袋。

 何も入っていないはずの袋。

 その表面に、文字が浮かび始めていた。

 店主は息を呑んだ。

 ミケも牛乳の皿から顔を上げる。

「店主」

「はい」

「変な匂い」

 店主は麻袋に近づいた。

 薄い茶色の布。

 その表面に、黒いインクのような文字が少しずつ染み出していく。

 名前だった。

 店主は、その文字を読もうとした。

 最初の一文字。

 ――水。

 次。

 ――瀬。

 店主の胸が痛んだ。

 指先が冷たくなる。

 さらに文字が浮かぶ。

 ――ミ。

 ――オ。

 店主は、息が止まりそうになった。

 麻袋に浮かんだ名前。

 それは、

 ――水瀬ミオ。

 店主は、声を出せなかった。

 ミオ。

 店の名前。

 胸の奥で何度も響いていた音。

 まだ思い出せない女性。

 世界が壊れた日に、ここを開けておこうと言った人。

 その名前が、今、空の豆袋に浮かんでいる。

 水瀬ミオ。

 フルネームを見た瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走った。

 青いカップ。

 白い指。

 笑い声。

 雨の日。

 カウンターの向こうに立つ誰か。

 そして、自分を呼ぶ声。

 ――     。

 名前の部分だけが、聞こえない。

 店主はカウンターに手をついた。

「店主!」

 ミケが駆け寄る。

 足元にすり寄る温かい感触。

 店主は、何とか倒れずに踏みとどまった。

「大丈夫です」

「大丈夫な匂いじゃない」

「……ミオ」

 店主は、かすれた声で言った。

「水瀬ミオ」

 その名を口にした瞬間、空の袋がふわりと膨らんだ。

 中には何も入っていない。

 それでも、確かに豆の香りがした。

 甘く、苦く、少し酸っぱい。

 後悔と、思い出と、未練が混ざった香り。

 これまでの誰よりも濃い。

 これまでのどの豆よりも、胸に刺さる香り。

 ミケが低く呟いた。

「この人、店主のすごく近くにいる」

「はい」

 店主は袋の文字を見つめた。

 水瀬ミオ。

 自分は、その人を知っている。

 知っていた。

 きっと、大切だった。

 けれど、まだ思い出せない。

 ただ一つ、分かることがあった。

 この名前は、ただの記録ではない。

 この店の豆袋に浮かんだということは、いつかこの人の心残りが、一杯のコーヒーになるのかもしれない。

 あるいは、店主自身がその一杯と向き合わなければならないのかもしれない。

 店の奥で、かちり、と音がした。

 時計の針が一つ進む音。

 店主は目を閉じた。

 第3章が始まったのだと、なぜか分かった。

 未処理の心残り、残り十件。

 その中のどこかに、水瀬ミオがいる。

 そして、その先に、最後の客がいる。

 店主は、震える手で空の袋をそっと畳んだ。

 捨てることはできなかった。

 棚の奥にしまうこともできなかった。

 だから、カウンターの下、常連帳の隣に置いた。

 ミケは、店主の足元から離れなかった。

「今日は、もう豆見ない方がいいよ」

「そうですね」

「牛乳、半分あげようか」

「それはミケの分では」

「特別」

 店主は少しだけ笑った。

「ありがとうございます」

「どういたしまして」

 カウンター横のAVMが淡く光った。

 ――^^

 店主は、空になったカップを見つめた。

 苦い後悔。

 甘い思い出。

 酸っぱい未練。

 それらが豆となり、一杯のコーヒーになる。

 ならばいつか、水瀬ミオの名前が刻まれた豆も現れるのだろう。

 その時、自分は淹れられるだろうか。

 恐れながら、手を温めることができるだろうか。

 答えはまだ分からない。

 けれど、扉の札は今日も表を向いている。

 ――開店中。

 世界が終わったあとも。

 未来に記録されていなかった店が、ようやく存在を認められたあとも。

 尽きないコーヒー豆の正体を、店主が少しだけ知ってしまったあとも。

 喫茶店だけは、まだ営業している。

 最後の客が来る、その日までは。


ここまで読んでいただき、ありがとうございます。


第13話は、喫茶ミオのコーヒー豆に隠された秘密のお話でした。


客が手放した後悔や思い出、言えなかった言葉。

それらは豆となり、店主の手によって、もう一度向き合える温度の一杯へと変わっていきます。


客の心を奪っているのではないかと恐れた店主。

けれど、その恐れを持つことこそが、誰かの痛みを軽んじないために必要なのかもしれません。


そして、空の豆袋に浮かび上がった名前。


水瀬ミオ。


ここから物語は、店の名前になった人物と、店主が忘れてしまった過去へ近づいていきます。


次回は、第14話「店の外に出られない店主」です。

よろしければ、またこの喫茶店にお立ち寄りください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。