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第五話 谷深め

第五話 谷深め


 迷宮都市オウラムの空は、朝から鉛色だった。


 細かい雨が石畳を濡らし、迷宮帰りの冒険者たちの外套から湿った獣臭が漂っている。ギルド酒場《鉄鍋熊亭》は朝だというのに騒がしかった。


「ふざけんなって言ってんだろ!」


 怒鳴り声と同時に、木椀が床へ叩きつけられる。


 薄い豆スープが飛び散った。


 ミーシャが肩を震わせる。


 怒鳴っているのは大柄な斧使いだった。頬に古傷が走り、赤い目を血走らせている。


「監査だか何だか知らねぇが、装備申請に三日待ち!? 現場なめてんのか!」


「き、規定確認が増えたので……」


「前は当日だったろうが!」


 周囲の冒険者たちも苛立っていた。


「回復薬の本数まで記録しろとか頭おかしい」

「武器交換の許可印が足りねぇ」

「最近、全部面倒くせぇんだよ」


 酒臭い空気。

 濡れた革鎧。

 疲労と苛立ち。


 その視線が、一斉に奥へ向いた。


 黒衣の男。


 エドガー・レイン。


 酒場の隅で、無言で帳簿を読んでいた。


 冒険者の一人が唾を吐く。


「全部あいつのせいだ」


 ミーシャが息を呑んだ。


「……っ」


 エドガーは顔を上げない。


 ただ静かに羽ペンを走らせている。


 その態度が、余計に神経を逆撫でした。


「おい監査官!」


 斧使いが近づいてくる。


 酒場が静まった。


「現場知らねぇ役人が、俺たちの仕事止めてんじゃねぇよ」


 酒臭い息。


 エドガーはようやく視線を上げた。


「粗悪装備の流通停止後、新人死亡率は二割減少しています」


「だからなんだ!」


「数字上、改善傾向です」


 斧使いの顔が歪む。


「数字数字ってよぉ……!」


 机が叩かれた。


 鈍い音。


「仲間が死ぬ時はなぁ! そんな紙切れ見てる暇なんかねぇんだよ!」


 酒場の空気が重くなる。


 ミーシャは反論しようとして、言葉を飲み込んだ。


 分かるのだ。


 この男たちも疲れている。


 迷宮で命を削り、

 酒で誤魔化し、

 明日も潜るしかない。


 そこへ急に監査だ規定だと言われても、

 素直に受け入れられるわけがなかった。


 だがエドガーの声は変わらない。


「だからこそ必要です」


「は?」


「死なないために」


 一瞬だけ、斧使いが言葉を失う。


 だが次の瞬間、苦々しく吐き捨てた。


「……綺麗事だ」


 男は肩をぶつけるように去っていった。


 周囲の視線は冷たいままだった。


 ミーシャが小さく言う。


「……かなり嫌われてますね」


「そうでしょうね」


 エドガーは淡々としていた。


「監査は嫌われる仕事です」


「気にしないんですか?」


「今さら」


 短い返事だった。


 だがミーシャは、その横顔の疲労を見逃さなかった。


 目の下の隈。

 寝不足。

 冷えた指先。


 この人も限界なのだ。


 ただ、それを言わないだけで。


 昼を過ぎた頃には雨脚が強くなっていた。


 ギルド本部の廊下は薄暗い。


 職員たちがエドガーを見ると、露骨に視線を逸らす。


「また監査だって」

「次は誰が飛ぶんだ……」


 空気が淀んでいた。


 その時、ミーシャが小さく声を上げる。


「あれ?」


「どうしました」


「今日の食堂定食、もう売り切れ……」


 掲示板には《本日終了》の札。


 エドガーは少しだけ目を細めた。


「珍しいですね」


「最近、物価上がってて……安い定食に人が集中してるんです」


 ミーシャの腹が小さく鳴る。


 彼女が慌てて押さえた。


「……すみません」


「別に謝る必要は」


 そこまで言いかけた時だった。


 背後で風が動く。


 エドガーの目が細くなる。


「ミーシャ」


「え?」


「伏せてください」


 反射的にしゃがむ。


 直後。


 ゴッ!!


 鈍い衝撃。


 視界が揺れた。


 黒布の男が二人。


 短剣。

 無音の動き。


 暗殺者。


「っ――!」


 ミーシャが叫ぶ前に、口を塞がれた。


 冷たい刃が喉へ当たる。


「騒ぐな」


 低い声。


 エドガーは壁へ押し付けられていた。


 首筋に短剣。


 だが彼は抵抗しない。


「……依頼主はギルド長ですか」


 暗殺者が舌打ちした。


「喋るな」


「否定しないんですね」


「この野郎……」


 ミーシャが必死に首を振る。


 逃げて。

 そう言いたかった。


 だがエドガーは妙に静かだった。


 まるで予想していたみたいに。


「監査資料は?」


「没収した」


「そうですか」


「随分落ち着いてるな」


 暗殺者が怪訝そうに眉をひそめる。


 エドガーは答えなかった。


 ただ廊下の窓を見る。


 雨が強くなっていた。


 灰色の空。


 冷たい風。


 そして、湿った革袋から漂う匂い。


 干し肉。

 黒パン。

 安酒。


 暗殺者たちも、

 結局は日雇いなのだろう。


「……食事は取っていますか」


「は?」


 暗殺者が顔をしかめる。


「なんだ急に」


「空腹時は判断力が低下します」


「頭おかしいのかお前」


「よく言われます」


 ミーシャが涙目になる。


 この状況で何を言っているんだ、この人は。


 だがエドガーは本当に平然としていた。


 暗殺者の一人が吐き捨てる。


「連れて行け」


 粗暴に腕を掴まれる。


 冷たい雨の中へ引きずり出される。


 石畳が濡れていた。


 オウラムの夜は暗い。


 遠くで迷宮塔が唸っている。


 ミーシャは震えていた。


 怖かった。


 なのに。


 前を歩くエドガーだけは、

 まるで残業へ向かう役人みたいな顔をしていた。



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