第三話 数字の迷宮
第三話 数字の迷宮
迷宮都市オウラムの地下は、生きている。
そう言われる理由を、ミーシャは初めて理解した。
岩肌が脈打っていた。
壁の奥を、青白い魔力が血管のように流れている。湿った空気はぬるく、鉄臭い。どこか遠くで水滴が落ちる音が、延々と反響していた。
迷宮第三階層。
通称、“喰い残し”。
新人冒険者の死亡率が異様に高い危険区域だった。
「……本当に行くんですか」
ミーシャの声は強張っていた。
彼女の手には魔導灯。だが灯りは弱く、闇を押し返しきれていない。
エドガー・レインは前を向いたまま答える。
「監査命令ですので」
「絶対おかしいです! こんなの!」
ミーシャが思わず声を荒げた。
「普通、監査官が迷宮に入ります!? しかも第三階層ですよ!? あのギルド長、完全に殺す気じゃないですか!」
エドガーは無言だった。
昨日、ギルド長バルトロ・フォン・グランドルから直々に命令が下ったのだ。
『最近、監査官殿は実に熱心だ』
脂ぎった笑み。
金の指輪。
肉に埋もれた目。
『ならば迷宮内部の魔力設備も見てもらわねばな。なに、簡単な調査だ』
その場にいた職員たちは誰も目を合わせなかった。
つまり有名なのだ。
この区域が。
“事故死”に最適だと。
「……帰りましょうよ」
ミーシャが小さく言った。
「報告だけなら適当に……」
「虚偽報告は監査規定違反です」
「今そんな真面目なこと言ってる場合ですか!?」
声が反響する。
直後。
カチ、と音がした。
エドガーが立ち止まる。
「え?」
床だった。
石畳の一枚が沈んでいる。
次の瞬間、壁面に刻まれた魔法陣が青白く発光した。
「伏せてください」
「きゃっ!?」
ミーシャの身体をエドガーが引き寄せる。
直後、空気を裂く轟音。
無数の炎槍が通路を貫いた。
熱風が髪を焼く。
石壁が爆ぜ、焦げ臭い煙が広がった。
「げほっ……! げほっ……!」
ミーシャが咳き込む。
喉が焼けるようだった。
「だ、大丈夫ですか……!?」
「はい」
エドガーは平然としていた。
だが彼の視線は床へ向いている。
「やはり」
「……え?」
「術式に欠陥があります」
ミーシャは意味が分からず顔を上げた。
「欠陥?」
「魔力流路の配線が古い」
エドガーは壁へ触れた。
青白い光が彼の指先を走る。
「本来、感知術式と発射術式は別回路であるべきですが、ここは接続が雑です」
「……は?」
「予算不足でしょうね」
エドガーは淡々と言った。
「安価な流用部品を使っています」
ミーシャは絶句した。
「い、今それ分かるんですか……?」
「見れば」
エドガーの瞳に青白い線が走る。
【因果の算盤】
魔力の流れが視覚化される。
術式。
供給量。
回路。
誤差。
全てが数字になって浮かび上がる。
「右側へ」
「え?」
「三歩」
言われるままミーシャが動いた瞬間、さっきまで立っていた場所の床が崩落した。
「ひっ……!」
真下は闇だった。
落ちれば即死だろう。
ミーシャの背筋を冷たい汗が流れる。
「な、なんなんですかこれ……」
「予算横領の結果です」
エドガーは即答した。
「本来の保守点検がされていない」
「そんな冷静に言わないでくださいよ……!」
彼女は半泣きだった。
だがエドガーの歩みは止まらない。
迷宮は静かだった。
静かすぎた。
普通なら魔獣の唸り声や羽音が聞こえるはずなのに。
その代わり、時折どこかで金属音が鳴る。
カン。
カン。
カン。
まるで迷宮そのものが軋んでいるようだった。
通路を曲がった瞬間、ミーシャが悲鳴を上げた。
「きゃあっ!」
壁に人骨が突き刺さっていた。
焼け焦げた鎧。
砕けた盾。
まだ新しい。
エドガーがしゃがみ込む。
「新人冒険者ですね」
「わ、分かるんですか……?」
「支給装備です」
薄い胸当て。
粗悪鉄。
第二話で見たものと同じだった。
ミーシャが唇を噛む。
「こんなの……死ぬに決まってる……」
エドガーは答えなかった。
その代わり、骨の傍に落ちていた剣を拾い上げる。
錆びた刃。
安物。
だが柄には、小さな刻印があった。
【監査未確認品】
エドガーの目が細くなる。
「……なるほど」
「どうしたんです?」
「武器商会も絡んでいますね」
「え?」
「粗悪品流通です」
その瞬間。
地鳴りがした。
ゴゴゴゴ、と壁が震える。
ミーシャの顔が青ざめた。
「な、なに……!?」
暗闇の奥。
赤い目が開いた。
巨大だった。
四足獣。
黒い甲殻。
鋭い牙。
「ま、魔甲狼……!」
新人ではまず勝てない中級魔獣だった。
獣臭が鼻を刺す。
唾液が石畳へ落ち、煙を上げる。
ミーシャの喉が凍る。
「に、逃げ――」
「左へ寄ってください」
エドガーが言った。
「え?」
「早く」
ミーシャが壁際へ飛ぶ。
次の瞬間、魔甲狼が突進した。
だが。
ガギィン!!
天井から巨大な鉄槍が降ってきた。
魔獣の頭部を貫く。
絶叫。
血飛沫。
熱い臭い。
魔甲狼が痙攣しながら崩れ落ちた。
ミーシャは呆然とした。
「な……なんで……」
「罠の起動位置をずらしました」
エドガーは死骸を見下ろしていた。
「魔力流路の誤差を利用すれば、誘導可能です」
「そんなことできるんですか!?」
「欠陥構造でしたので」
まるで壊れた棚を直すような口調だった。
ミーシャは理解した。
この男は戦っていない。
計算している。
迷宮を。
罠を。
死を。
全部。
その時だった。
通路奥に巨大な魔法陣が見えた。
歪んでいる。
ひび割れた結晶。
漏れ出す魔力。
不安定な光。
エドガーの目が止まる。
「……これですか」
「え?」
「事故原因」
彼は静かに魔法陣へ近づいた。
耳障りな高音が響く。
まるで悲鳴みたいだった。
「本来、第三階層の結界維持には高純度魔石が必要です」
「はい……」
「しかし使われているのは低級品」
ミーシャが息を呑む。
「まさか……」
「高級魔石が抜かれている」
青白い算盤が空中に浮かぶ。
珠が鳴った。
カチ。
カチ。
カチ。
「差額、およそ金貨八百枚分」
エドガーの声は冷たい。
「……人が死ぬわけです」
迷宮が唸る。
壊れた結界から漏れた魔力が、まるで呻き声のように空間を震わせていた。
ミーシャはその横顔を見上げる。
怒っているようには見えなかった。
悲しんでもいない。
なのに。
彼の背中だけが、異様に冷えて見えた。




