第十話 定時退社の聖域
第十話 定時退社の聖域
迷宮都市オウラムの朝は、以前より静かになった。
怒鳴り声が減った。
担架で運ばれる血塗れの新人も減った。
ギルド前の石畳には、今日も冒険者たちが集まっている。だが、その空気はどこか違っていた。
「おい、新装備どうだ?」
「軽いのにちゃんと硬ぇ」
「前の鉄板よりマシだな」
朝陽が磨かれた胸当てを照らす。
以前の粗悪品とは違う。
留め具も。
重量も。
厚みも。
ちゃんとしていた。
受付窓口では、若い職員が冒険者へ羊皮紙を渡している。
「こちら、危険手当申請です」
「遺族年金の更新は第二窓口になります」
「第五階層以上は回復薬補助が出ますので」
列は長い。
だが怒号は少ない。
書類不備で突き返されていた頃より、明らかに空気がまともだった。
ミーシャは窓口からその光景を見て、小さく息を吐く。
「……変わりましたね」
隣で帳簿を読んでいたエドガー・レインが答える。
「数字上も改善しています」
「また数字」
「死亡率二十四%減少。新人生存率上昇。離職率低下」
「ほんと数字好きですね」
「事実なので」
相変わらずの口調だった。
だが以前より少しだけ顔色がマシだった。
睡眠時間が増えたのだ。
ギルド再建後、無駄な横領調査と隠蔽処理が消えた。予算の流れも整理され、迷宮保守も正常化された。
結果。
人間が少し死ににくくなった。
それだけだった。
だが、この街にとっては大きかった。
「カイルさん!」
若い冒険者が駆け寄ってくる。
まだ新品の胸当てを着けた少年だった。
「ありがとうございました!」
エドガーが顔を上げる。
「……何がです」
「兄貴、前の装備で死にかけたんです。でも今の新人装備、ちゃんと防げるんです!」
少年は頭を下げた。
「俺、生きて帰れました!」
ミーシャが少し笑う。
エドガーは沈黙した。
どう返せばいいのか分からない顔だった。
「……そうですか」
結局、それだけだった。
だが少年は嬉しそうに笑って去っていく。
昼過ぎ。
ギルド会議室。
重役たちが緊張した顔で座っていた。
机上には新組織図。
ギルド再編成案。
その中央へ、一人の老役員が咳払いした。
「では正式に決を取る」
全員の視線がエドガーへ向く。
「エドガー・レイン氏を、新ギルド長へ推薦する」
室内が静まり返る。
ミーシャが目を瞬かせた。
「えっ」
当然だった。
ここまで腐敗を暴き、都市を立て直した張本人なのだから。
だが。
エドガーは即答した。
「嫌です」
沈黙。
役員たちが固まる。
「……は?」
「激務なので」
真顔だった。
ミーシャが吹き出しそうになる。
「いや、でもですね……!」
「会議増えますよね」
「それは増えますが……」
「定時退社不能になります」
役員たちが絶句する。
エドガーは本気だった。
「現在の労働環境改善には、財務監査部の継続管理が必要です」
「そ、それはそうだが……」
「表の統括はミーシャが適任です」
「ええっ!?」
急に名前を呼ばれ、ミーシャが飛び上がる。
「む、無理です無理です!!」
「現場把握能力と調整力があります」
「そんな面接みたいに言わないでください!」
「あと、人当たりが私より良い」
役員たちが微妙に頷いた。
否定できなかった。
ミーシャが真っ赤になる。
「わ、私なんか受付嬢ですよ!?」
「現場を知っています」
エドガーは静かに言った。
「それが一番重要です」
会議室が静まる。
しばらくして。
老役員が苦笑した。
「……変わった監査官だな」
「よく言われます」
窓の外では、夕陽が迷宮塔を赤く染めていた。
そして。
午後五時。
ギルド本部の鐘が鳴る。
ゴォン――。
エドガーが帳簿を閉じた。
「帰ります」
ミーシャが目を丸くする。
「え、ほんとに?」
「勤務時間終了です」
「元ギルド長なんて毎日深夜まで――」
「だから腐敗したのでは」
正論だった。
ミーシャが笑ってしまう。
二人は並んでギルドを出た。
夕暮れのオウラムは穏やかだった。
酒場の喧騒。
焼いた肉の匂い。
帰還した冒険者たちの笑い声。
以前より少しだけ、
人間の街に近い。
裏路地へ入る。
いつもの屋台。
鉄鍋から湯気が立っていた。
「おう、来たか」
店主が笑う。
「今日はちょっと豪華だぞ」
差し出された皿。
魔汁煮込み定食。
黒パン。
角ウサギの煮込み。
酢漬けキャベツ。
そして。
半熟卵。
黄身が湯気の中で揺れていた。
ミーシャが目を輝かせる。
「わぁ……!」
「頑張った日くらい食え」
店主が鼻を鳴らす。
二人は木箱へ腰掛けた。
スープの湯気が冷えた頬へ当たる。
エドガーが黒パンを浸した。
柔らかくなる。
一口。
塩気。
トマト。
肉の旨味。
そして卵の熱。
疲れた胃へ、じんわり落ちていく。
ミーシャが笑う。
「……なんか、不思議ですね」
「何がです」
「最初ここ来た時、カイルさん、死にそうな顔してたじゃないですか」
「今も疲れています」
「そういう意味じゃなくて」
彼女は少しだけ照れ臭そうに笑った。
「ちゃんと、生きてる顔になりました」
路地裏に沈黙が落ちる。
遠くで鐘が鳴っていた。
夕方の風は少し冷たい。
エドガーはしばらく黙ったまま、湯気を見ていた。
そして。
本当に少しだけ。
ほんの少しだけ、
口元を緩めた。
「……そうかもしれません」
その小さな笑みを見て。
ミーシャも、嬉しそうに笑った。




