表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
10/11

第十話 定時退社の聖域

第十話 定時退社の聖域


 迷宮都市オウラムの朝は、以前より静かになった。


 怒鳴り声が減った。


 担架で運ばれる血塗れの新人も減った。


 ギルド前の石畳には、今日も冒険者たちが集まっている。だが、その空気はどこか違っていた。


「おい、新装備どうだ?」

「軽いのにちゃんと硬ぇ」

「前の鉄板よりマシだな」


 朝陽が磨かれた胸当てを照らす。


 以前の粗悪品とは違う。

 留め具も。

 重量も。

 厚みも。


 ちゃんとしていた。


 受付窓口では、若い職員が冒険者へ羊皮紙を渡している。


「こちら、危険手当申請です」

「遺族年金の更新は第二窓口になります」

「第五階層以上は回復薬補助が出ますので」


 列は長い。


 だが怒号は少ない。


 書類不備で突き返されていた頃より、明らかに空気がまともだった。


 ミーシャは窓口からその光景を見て、小さく息を吐く。


「……変わりましたね」


 隣で帳簿を読んでいたエドガー・レインが答える。


「数字上も改善しています」


「また数字」


「死亡率二十四%減少。新人生存率上昇。離職率低下」


「ほんと数字好きですね」


「事実なので」


 相変わらずの口調だった。


 だが以前より少しだけ顔色がマシだった。


 睡眠時間が増えたのだ。


 ギルド再建後、無駄な横領調査と隠蔽処理が消えた。予算の流れも整理され、迷宮保守も正常化された。


 結果。


 人間が少し死ににくくなった。


 それだけだった。


 だが、この街にとっては大きかった。


「カイルさん!」


 若い冒険者が駆け寄ってくる。


 まだ新品の胸当てを着けた少年だった。


「ありがとうございました!」


 エドガーが顔を上げる。


「……何がです」


「兄貴、前の装備で死にかけたんです。でも今の新人装備、ちゃんと防げるんです!」


 少年は頭を下げた。


「俺、生きて帰れました!」


 ミーシャが少し笑う。


 エドガーは沈黙した。


 どう返せばいいのか分からない顔だった。


「……そうですか」


 結局、それだけだった。


 だが少年は嬉しそうに笑って去っていく。


 昼過ぎ。


 ギルド会議室。


 重役たちが緊張した顔で座っていた。


 机上には新組織図。


 ギルド再編成案。


 その中央へ、一人の老役員が咳払いした。


「では正式に決を取る」


 全員の視線がエドガーへ向く。


「エドガー・レイン氏を、新ギルド長へ推薦する」


 室内が静まり返る。


 ミーシャが目を瞬かせた。


「えっ」


 当然だった。


 ここまで腐敗を暴き、都市を立て直した張本人なのだから。


 だが。


 エドガーは即答した。


「嫌です」


 沈黙。


 役員たちが固まる。


「……は?」


「激務なので」


 真顔だった。


 ミーシャが吹き出しそうになる。


「いや、でもですね……!」


「会議増えますよね」


「それは増えますが……」


「定時退社不能になります」


 役員たちが絶句する。


 エドガーは本気だった。


「現在の労働環境改善には、財務監査部の継続管理が必要です」


「そ、それはそうだが……」


「表の統括はミーシャが適任です」


「ええっ!?」


 急に名前を呼ばれ、ミーシャが飛び上がる。


「む、無理です無理です!!」


「現場把握能力と調整力があります」


「そんな面接みたいに言わないでください!」


「あと、人当たりが私より良い」


 役員たちが微妙に頷いた。


 否定できなかった。


 ミーシャが真っ赤になる。


「わ、私なんか受付嬢ですよ!?」


「現場を知っています」


 エドガーは静かに言った。


「それが一番重要です」


 会議室が静まる。


 しばらくして。


 老役員が苦笑した。


「……変わった監査官だな」


「よく言われます」


 窓の外では、夕陽が迷宮塔を赤く染めていた。


 そして。


 午後五時。


 ギルド本部の鐘が鳴る。


 ゴォン――。


 エドガーが帳簿を閉じた。


「帰ります」


 ミーシャが目を丸くする。


「え、ほんとに?」


「勤務時間終了です」


「元ギルド長なんて毎日深夜まで――」


「だから腐敗したのでは」


 正論だった。


 ミーシャが笑ってしまう。


 二人は並んでギルドを出た。


 夕暮れのオウラムは穏やかだった。


 酒場の喧騒。

 焼いた肉の匂い。

 帰還した冒険者たちの笑い声。


 以前より少しだけ、

 人間の街に近い。


 裏路地へ入る。


 いつもの屋台。


 鉄鍋から湯気が立っていた。


「おう、来たか」


 店主が笑う。


「今日はちょっと豪華だぞ」


 差し出された皿。


 魔汁煮込み定食。


 黒パン。

 角ウサギの煮込み。

 酢漬けキャベツ。


 そして。


 半熟卵。


 黄身が湯気の中で揺れていた。


 ミーシャが目を輝かせる。


「わぁ……!」


「頑張った日くらい食え」


 店主が鼻を鳴らす。


 二人は木箱へ腰掛けた。


 スープの湯気が冷えた頬へ当たる。


 エドガーが黒パンを浸した。


 柔らかくなる。


 一口。


 塩気。

 トマト。

 肉の旨味。


 そして卵の熱。


 疲れた胃へ、じんわり落ちていく。


 ミーシャが笑う。


「……なんか、不思議ですね」


「何がです」


「最初ここ来た時、カイルさん、死にそうな顔してたじゃないですか」


「今も疲れています」


「そういう意味じゃなくて」


 彼女は少しだけ照れ臭そうに笑った。


「ちゃんと、生きてる顔になりました」


 路地裏に沈黙が落ちる。


 遠くで鐘が鳴っていた。


 夕方の風は少し冷たい。


 エドガーはしばらく黙ったまま、湯気を見ていた。


 そして。


 本当に少しだけ。


 ほんの少しだけ、

 口元を緩めた。


「……そうかもしれません」


 その小さな笑みを見て。


 ミーシャも、嬉しそうに笑った。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ