エピローグ 世界一静かな迷宮都市
エピローグ 世界一静かな迷宮都市
冬が近づいていた。
迷宮都市オウラムの朝は白い。
石畳の隙間から冷気が立ち上り、吐く息が薄く曇る。以前なら怒号と喧嘩で始まっていた中央通りも、今はずいぶん静かだった。
荷車が通る。
パン屋が開く。
鍛冶屋の槌音が響く。
人間が生活している音だった。
「次、第五階層調査隊受付はこちらでーす!」
ギルド窓口で、ミーシャが慌ただしく書類を捌いている。
机には山積みの申請書。
危険手当。
装備更新。
遺族年金。
治療補助。
忙しい。
だが以前と違うのは、誰も怒鳴っていないことだった。
「最近ほんと変わったよな」
「受付で怒鳴られなくなった」
「ちゃんと補償金出るし」
冒険者たちの会話を聞きながら、ミーシャは苦笑する。
「前が酷すぎたんですよ……」
その時、入口の方がざわついた。
「来たぞ」
「監査官だ」
黒衣の男が入ってくる。
エドガー・レイン。
相変わらず疲れた顔で、相変わらず死んだ魚みたいな目をしている。
だが以前ほど“死んで”はいなかった。
「おはようございます」
ミーシャが声をかける。
「おはようございます」
エドガーは短く返した。
「定時出勤ですね」
「それが普通です」
「この街だと革命なんですよ、それ」
ミーシャが笑う。
エドガーは首を傾げるだけだった。
ギルド奥の監査室へ入る。
部屋は質素だった。
古い木机。
帳簿棚。
黒茶。
そして山積みの書類。
ただ以前と違うのは、机の端に小さな鉢植えが置かれていることだった。
細い緑の葉。
薬草ミント。
ミーシャが勝手に置いたものだ。
「枯れてませんね」
「毎朝水やってますから」
「そうですか」
エドガーは席へ座る。
窓の外では、迷宮塔が朝靄に沈んでいた。
巨大で。
暗くて。
相変わらず危険な場所。
だが死亡率は大きく減った。
装備改善。
保守正常化。
危険区域管理。
新人講習。
全部、当たり前のことだった。
でも、この街にはなかった。
扉が叩かれる。
「失礼します!」
若い冒険者だった。
まだ新しい革鎧。
緊張した顔。
「監査官殿! 先月の補償申請、母に届きました!」
エドガーが顔を上げる。
「そうですか」
「……ありがとうございました」
少年は深く頭を下げた。
エドガーは少し黙る。
「受給権利です」
「え?」
「本来、支払われるべきものです」
少年が困ったように笑う。
「でも前は、そんなの無かったから」
その言葉に、部屋が少し静かになった。
ミーシャが視線を落とす。
以前のオウラムでは、
死んでも自己責任だった。
潰れて。
消えて。
終わり。
それだけ。
少年はもう一度礼を言い、部屋を出ていった。
扉が閉まる。
エドガーは帳簿を開く。
紙の匂い。
インク。
乾いた手触り。
珠が鳴る。
カチ。
カチ。
静かな音。
「……なんか不思議です」
ミーシャがぽつりと言った。
「何がです」
「前のカイルさんなら、“礼は不要です”って言って終わってた気がするので」
「今も似たようなものです」
「ちょっと違います」
エドガーは返事をしなかった。
窓の外を見る。
雪が降り始めていた。
白い。
静かな雪だった。
午後五時。
鐘が鳴る。
ゴォン――。
エドガーが帳簿を閉じた。
「帰ります」
ミーシャが笑う。
「最近ほんと定時守りますね」
「守るために環境改善したので」
「そのために街ひっくり返した人、初めて見ました」
二人はギルドを出る。
夕暮れの街は、以前より暖かかった。
屋台から湯気が立つ。
パンの匂い。
煮込み。
香辛料。
裏路地へ曲がる。
いつもの店。
「おう、監査官」
店主が鍋を混ぜている。
「今日は寒ぃからな。少し多めに煮といたぞ」
鉄鍋の中で、トマト色のスープがぐつぐつ煮えていた。
角ウサギの肉。
根菜。
豆。
湯気が立つ。
ミーシャが鼻を鳴らす。
「いい匂い……」
「腹減ってますね」
「仕事終わりですから!」
木皿が置かれる。
卵乗せ魔汁煮込み定食。
半熟卵。
黒パン。
酢漬けキャベツ。
いつもの味。
二人は木箱へ腰掛ける。
寒い。
だがスープは熱かった。
エドガーが黒パンを浸す。
柔らかくなる。
一口。
塩気が身体へ染みた。
胃の奥がゆっくり温まる。
ミーシャが卵を崩しながら笑う。
「……なんか、平和ですね」
「そうですね」
「前のオウラムじゃ考えられない」
遠くで冒険者たちが笑っている。
酔っ払いの歌声。
食器の音。
人間の生活の音だった。
エドガーは湯気の向こうを見つめる。
王都を追われた時。
もう全部終わったと思っていた。
人間も。
組織も。
正しさも。
どうせ腐るのだと。
でも。
ちゃんと数字を合わせれば。
人は少しだけ、
まともに生きられる。
ミーシャがこちらを見る。
「どうしました?」
「……いえ」
エドガーは小さく首を振った。
そして。
本当にわずかに。
疲れた人間らしい顔で笑った。
「今日は、卵が当たりですね」
ミーシャが吹き出した。
「感想それなんですか」
湯気が夜へ溶けていく。
迷宮都市オウラム。
世界一静かで。
世界一まともな。
そんな迷宮都市の夜だった。




