第九話 泣いている母
三度目の秋が来た。
◇
「先生!」
声に呼ばれて、諸葛亮は振り返った。
そして。
少しだけ、顔を上げた。
「何でしょう」
「また詰まった!」
「どこが?」
「東の水路!」
「昨日直したところですか?」
「違う。その先」
「では、先に水を止めてください」
「もうやった!」
「早いですね」
「三年もやってりゃ覚えるよ」
溟は笑った。
いつの間にか。
少年は、諸葛亮より背が高くなっていた。
◇
須佐へ来て、三度目の秋。
村は変わった。
田が増えた。
水路が増えた。
倉が増えた。
道ができた。
小さな橋も架かった。
最初に作った水路は、一度崩れた。
二度直した。
三度目には、思金から教わった山の水まで考えて作り直した。
今では大雨が降っても、以前ほど簡単には溢れない。
もっとも。
「先生!」
「はい」
「こっちも壊れてる!」
「……壊れる時は壊れますね」
「何その達観!」
◇
諸葛亮は鍬を持って水路へ降りる。
村人が笑った。
もう誰も。
この老人を旅人とは呼ばなかった。
「孔明!」
「はい」
「こっち!」
「今参ります」
「孔明!」
「はい」
「倉の板が!」
「後で見ます」
「孔明!」
「はい」
「橋!」
「橋は何です?」
「猪!」
「それは私ではなく猟師を呼んでください」
溟が笑う。
「先生、何でも屋じゃん」
「誰のせいだと思っているのです」
「先生じゃね?」
「否定できないのが腹立たしいですね」
◇
水路の泥を掻き出す。
隣では溟が働いている。
もう子供の仕事ではなかった。
重い籠を持つ。
土を運ぶ。
若い男たちと同じように鍬を振る。
「メイ!」
向こうから声がする。
「おう!」
「終わったら山行くぞ!」
「今日は無理!」
「なんで!」
「先生連れてく!」
「私ですか?」
「橋見るんだろ?」
「……覚えておられましたか」
「先生よりはな」
「最近、本当に生意気になりましたね」
◇
溟は、もう夜ごと川へ行くことはなかった。
母を忘れたわけではない。
海を忘れたわけでもない。
西の空を見ることもある。
大陸から来た商人を見れば、話を聞きに行く。
蜀のことを知る者がいれば、
何度でも同じことを尋ねる。
だが。
泣くことは減った。
須佐には、
彼を「メイ」と呼ぶ者が増えた。
帰る家があった。
飯を食わせる者がいた。
叱る者がいた。
待っている者がいた。
それでも。
母は一人だった。
◇
「先生」
「はい」
「呼ばれてる」
「誰に?」
「女王様」
「女王陛下です」
「本人いないじゃん」
「いない時ほどです」
「まだ言ってんの、それ」
三年経っても、
そこだけは変わらなかった。
◇
卑弥呼も変わった。
三年前。
人前へ出ることを恐れていた女王は、
以前より人と会うようになった。
全てではない。
今も姿を見せる相手は限られている。
祭祀の神秘も必要だった。
諸国を束ねるため、
人々が彼女へ抱く畏れもまた力になる。
だから。
姿を隠すこと自体をやめたわけではない。
ただ。
隠れることと、
逃げることを、
少しずつ分けられるようになっていた。
◇
卑弥呼のもとへ着く。
思金がいた。
いつもの男もいた。
卑弥呼の奥へ出入りし、
食事を運び、
言葉を伝える男。
三年前から変わらない。
目立たない。
口数も少ない。
だが卑弥呼は、
その男が持ってきた湯だけは、
礼を言って受け取った。
「ありがとう」
「いえ」
男は頭を下げる。
「今日はもう大丈夫です」
「……無理はなさいませんよう」
「分かっています」
その言い方だけが。
臣下が王へ向けるものとは、
少し違っていた。
諸葛亮は気づいた。
だが。
何も尋ねなかった。
◇
「孔明殿」
「はい」
「狗奴国の件です」
思金が板を出した。
三年前。
小さな鉄片から始まった違和感。
それは消えなかった。
むしろ。
増えている。
「鉄の量が、また増えています」
「ええ」
「武器も」
「確認できたのですか?」
「交易に出た者が見ています」
「形は?」
思金が説明する。
諸葛亮は聞く。
そして尋ねる。
「製鉄の場所は?」
「まだ」
「原料は?」
「分かりません」
「炭は?」
「山から大量に運ばれているという話があります」
「水は?」
「孔明殿」
「はい」
「楽しそうですね」
「失礼な」
「川の話になった瞬間、目が変わりましたよ」
「必要な情報です」
「先生、三年経ってもそれなんだな」
「溟様」
◇
話は鉄だけではなかった。
狗奴国との境に近い集落。
人が減っている。
「戦ですか?」
「大きな戦はありません」
「では?」
思金が少し言いにくそうにする。
「人が、連れていかれているという話があります」
溟の顔が変わった。
「誰が?」
思金が見る。
「若い者です」
「男?」
「それもいます」
「女は?」
少し間があった。
「……います」
◇
「何のために?」
溟が尋ねる。
「分かりません」
「分からない?」
「狗奴国側は、神への奉仕だと言っているそうです」
「奉仕?」
「祭祀に必要だと」
「帰ってきた奴は?」
思金が黙った。
それだけで答えになった。
「いないのか」
「少なくとも、私が把握している限りでは」
溟の拳が握られる。
「いつから?」
「少し前からです」
「なんで放ってた」
「溟様」
諸葛亮が低い声で止める。
「だって!」
「思金殿を責めても解決しません」
「じゃあ誰を責めればいいんだよ」
「責める相手を探す前に、事実を確認します」
「またそれかよ」
諸葛亮が溟を見る。
「また、とは?」
「調べる。確認する。待つ」
「必要なことです」
「その間、連れていかれた奴はどうなる?」
「溟」
卑弥呼が呼んだ。
溟は黙った。
◇
「私も」
卑弥呼が言う。
「何とかしたいと思っています」
「じゃあ――」
「でも」
卑弥呼は続ける。
「狗奴国へ兵を入れれば、戦になります」
「向こうが先にやってるだろ」
「まだ分からないのです」
思金が言う。
「狗奴国そのものが命じているのか。一部の者が行っているのか。それすら」
「連れていかれてるのは本当なんだろ!」
「だから調べています」
「いつまで!」
声が響いた。
◇
その時。
外が騒がしくなった。
「何です?」
思金が立つ。
声。
誰かが止めている。
女の声だった。
「お願いします!」
卑弥呼の顔が変わる。
「通してください」
「卑弥呼様」
「構いません」
やがて。
一人の女が入ってきた。
◇
ひどい姿だった。
髪は乱れている。
足には泥。
遠くから歩いてきたのだろう。
膝をつく。
「女王様」
声が震えている。
「お願いします」
卑弥呼が立った。
「どうしました」
「娘を」
女が床へ手をついた。
「娘を、返してください」
部屋から音が消えた。
◇
「いつです」
思金が尋ねる。
「七日前」
「どこで?」
女が答える。
境に近い集落だった。
「誰に?」
「狗奴の者です」
「見たのですか?」
「見ました」
「何人?」
「分かりません」
「武器は?」
「思金」
卑弥呼が止めた。
「……申し訳ありません」
女は泣いている。
「娘は」
言葉が途切れる。
「まだ十五です」
溟が動いた。
諸葛亮は気づいた。
◇
「女王様」
母親は頭を下げた。
「お願いします」
何度も。
「返してください」
何度も。
「お願いします」
床に額がつく。
卑弥呼が近づく。
膝をつく。
「顔を上げてください」
「お願いします」
「……」
「何でもします」
「……」
「田も差し上げます」
「……」
「私を連れていっても構いません」
「……」
「だから」
母親が顔を上げた。
「娘を返してください」
◇
溟の耳には、
もう何も入っていなかった。
母。
その言葉だけが残った。
遠い海。
船。
夜。
泣いた。
何度も泣いた。
母上。
母上。
帰りたい。
会いたい。
きっとまた会える。
先生は何も言わなかった。
生きているとも。
死んでいるとも。
ただ。
待った。
◇
「先生」
低い声だった。
「はい」
「助けに行こう」
諸葛亮はすぐには答えなかった。
「先生」
「……今は、動くべきではありません」
溟の目が変わった。
「何で」
「情報が足りません」
「娘が連れていかれた」
「分かっています」
「七日前だぞ」
「分かっています」
「じゃあ!」
「溟様」
諸葛亮の声も強くなる。
「我々が兵を動かせば、狗奴国との戦になります」
「だから何だよ!」
「何人死ぬと思っているのです!」
初めて。
部屋に諸葛亮の怒声が響いた。
◇
誰も動かなかった。
溟も。
諸葛亮も。
「……戦になれば」
諸葛亮が続ける。
今度は静かに。
「その娘一人では済まなくなる」
「じゃあ、見捨てるのか」
「そうは申しておりません」
「同じだろ」
「違います」
「何が違う!」
「助けるために、調べるのです!」
「その間に死んだら!?」
諸葛亮が言葉を失った。
溟の目に涙が浮かんだ。
「助かるのかよ」
「……」
「待ってれば」
「……」
「あの子は、助かるのかよ」
「……分かりません」
その答えしかなかった。
◇
「俺は待った!」
溟が叫んだ。
「溟様」
「俺は待ったよ!」
涙が落ちた。
「母上に会えるって!」
「……」
「ずっと待った!」
三年前。
川辺で泣いていた小さな少年が、
そこにいた。
「明日なら会えるかもしれない」
「……」
「海渡ったら会えるかもしれない」
「……」
「先生についていけば、いつか帰れるかもしれない!」
「溟様」
「ずっと待った!」
拳を握る。
「俺ならいいよ」
「……」
「俺はここに来た!」
声が震える。
「田吾がいて」
「……」
「須佐のみんながいて」
「……」
「先生がいて!」
諸葛亮は動けなかった。
「俺にはここができた!」
溟は泣いていた。
「でも」
母親を見る。
「この人の娘は?」
誰も答えられない。
「あの子まで」
溟が言った。
> **「あの子まで、俺と同じにするのかよ!」**
◇
「溟!」
卑弥呼が呼ぶ。
だが。
もう遅かった。
溟は走った。
「溟様!」
諸葛亮も追う。
外へ出る。
人を避ける。
だが。
三年前とは違う。
少年ではない。
速い。
「溟様!」
一度だけ。
溟が振り返った。
泣いていた。
怒っていた。
そして。
そのまま走っていった。
◇
諸葛亮は追うのを止めた。
追いつけないからではない。
いや。
それも少しあった。
だが。
「孔明殿!」
思金が来る。
「人を出します」
「待ってください」
「しかし」
「追わせれば、さらに意地になります」
「では?」
諸葛亮は考える。
感情を捨てる。
今。
何が必要か。
溟はどこへ行く。
狗奴国。
ならば道。
距離。
食料。
川。
山。
境。
見張り。
追跡。
頭の中で、
古い何かが動き始める。
◇
卑弥呼が外へ出てきた。
「孔明殿」
「はい」
「溟は」
「狗奴国へ向かうでしょう」
「一人で?」
「おそらく」
「止められますか」
諸葛亮は答えなかった。
「孔明殿」
「……止めるべきです」
「では」
「ですが」
言葉が止まる。
先ほどの溟の顔が浮かぶ。
俺は待った。
ずっと待った。
諸葛亮は目を閉じた。
「先生?」
そう呼んだ少年の声を思い出す。
◇
「思金殿」
「はい」
「足の速い者を数名」
「兵を?」
「いえ」
「では?」
「狗奴国との境を知る者。山を歩ける者。目の良い者」
「何をさせます」
「溟様を探してください」
「連れ戻す?」
「いいえ」
思金が眉をひそめた。
「見つけるだけです」
「それだけ?」
「決して戦わない」
「……」
「狗奴国へ入っても、手を出さない」
「では何を」
「見てください」
諸葛亮の目が変わっていた。
「溟様がどこへ向かうか」
「……」
「何があるか」
「……」
「煙」
「煙?」
「道。川。荷車。人の数。武器。出入りする物」
思金が息を呑んだ。
「全てです」
◇
三年間。
田を見ていた。
水路を見ていた。
雨を見ていた。
倉を見ていた。
人がどうすれば腹いっぱい食べられるかを考えていた。
だが。
その男はかつて。
戦場を見ることで、
国を支えていた。
「孔明殿」
思金が静かに言った。
「あなたは……」
諸葛亮が振り返る。
「何者なのです?」
しばらく。
答えはなかった。
「……今は」
諸葛亮は言った。
「溟様の先生です」
◇
その夜。
卑弥呼は一人になった。
母親の声が、
耳から離れなかった。
娘を返してください。
お願いします。
お願いします。
お願いします。
そして。
溟の声。
あの子まで、
俺と同じにするのかよ。
「……」
卑弥呼は手を見る。
女王。
皆がそう呼ぶ。
祈ることはできる。
神意を問うこともできる。
だが。
一人の娘を返してほしいと、
目の前で母親に頼まれた。
何も答えられなかった。
「私は……」
声が震える。
「何のための女王なの」
返事はない。
◇
戸口に。
あの男が立っていた。
いつものように、
食事を持っている。
「……要りません」
卑弥呼が言った。
男は何も言わない。
「下げてください」
「卑弥呼様」
「一人にしてください」
「……」
「お願い」
男はしばらく立っていた。
そして。
器を置いた。
「分かりました」
出ていく。
戸が閉じる。
◇
卑弥呼は暗闇に座っていた。
神に祈った。
答えはなかった。
もう一度祈った。
やはり。
答えはない。
初めて思った。
神ではなく。
誰でもなく。
自分が決めなければならないのではないか。
そう思った瞬間。
怖くなった。
◇
翌朝。
卑弥呼は、
誰にも会わなかった。




