第八話 女王・卑弥呼
「先生」
「はい」
「騙されたな」
「……否定できませんね」
◇
卑弥呼に呼ばれ。
諸葛亮が初めて女王のいる地を訪れた、その日のことである。
思金は言った。
「少し、相談に乗っていただきたいことがあります」
諸葛亮は答えた。
「承知しました」
少し。
その言葉を信じた。
自分が悪かった。
◇
「東の集落が、今年の負担を減らせと言っております」
「理由は?」
「不作です」
「どの程度?」
「こちらに」
「西の国からは?」
「兵を出したくないと」
「何故?」
「南との関係が悪化しています」
「この穀物の数が合いません」
「やはり?」
「こちらは去年の数字でしょう」
「今年のものが届いておりません」
「では比較できません」
「分かっています」
「この二つの村は?」
「境界で揉めています」
「原因は?」
「川です」
「また水ですか」
「今回は漁場です」
「……」
「あと婚姻も少々」
「またですか」
「倭国ですから」
諸葛亮は額を押さえた。
◇
目の前には木簡や板。
布。
印。
記録。
記録。
記録。
須佐とは比べものにならない。
「思金殿」
「はい」
「これは」
「はい」
「何日分です?」
「今日の分です」
「…………」
「孔明殿?」
「帰ってよろしいですか」
「駄目です」
「私は臣ではないという約束だったはずですが」
「ええ」
「では」
「相談です」
「これ全部?」
「相談です」
「言葉の意味を変えておられませんか?」
「倭国ですから」
「それで何でも許されると思っておりませんか」
◇
溟は笑っていた。
「先生、仕事いっぱい!」
「何故嬉しそうなのです」
「いつも俺ばっか働かされるから」
「あなたは半分以上遊んでおります」
「仕事の途中で遊んでるだけだよ」
「それを遊んでいると言います」
「先生だって仕事の途中で川見てるじゃん」
「川を見るのは仕事です」
「やっぱり川好きじゃん」
思金が顔を上げた。
「以前も思いましたが、この二人はいつもこうなのですか」
「だいたい」
「誰に聞いているのです、溟様」
◇
諸葛亮は周囲を見る。
王の政庁。
そう呼んでよい場所なのだろう。
だが。
蜀の成都とは何もかも違った。
石造りの大きな宮殿があるわけではない。
整然と並んだ官署もない。
官僚が同じ制度のもとで動いているわけでもない。
いくつもの国。
いくつもの集落。
それぞれの長。
それぞれの慣習。
それぞれの神。
それぞれの利害。
それらが、
卑弥呼という一人の女を中心に、
辛うじて同じ方向を向いている。
「……なるほど」
「何か?」
思金が尋ねる。
「これは大変ですね」
「今さらですか」
「想像していたより」
「帰りたくなりました?」
「少し」
「帰しませんよ」
◇
「先生」
「はい」
「女王様いないな」
溟が言った。
確かに。
朝からここにいるが、卑弥呼の姿を一度も見ていない。
「思金殿」
「はい」
「女王陛下は?」
「奥です」
「ご病気で?」
「いいえ」
「では?」
思金は少し黙った。
「人前には、あまり出られません」
「何故?」
「そういう方なのです」
答えになっていない。
諸葛亮はそう思った。
だが。
それ以上は聞かなかった。
◇
昼を過ぎたころ。
一人の男が奥から出てきた。
器を持っている。
思金と短く言葉を交わす。
そしてまた奥へ戻っていく。
諸葛亮は目で追った。
「今の方は?」
「卑弥呼様のお世話をしております」
「側近?」
「それも」
「言葉を伝える役目も?」
「ええ」
「……なるほど」
思金が見る。
「何か?」
「いえ」
王が人前へ出ない。
限られた者が出入りする。
言葉は人を介して伝わる。
それで多くの国を束ねている。
異様と言えば異様だ。
だが。
理由がないわけではない。
神聖なものは、
近づきすぎれば神聖ではなくなる。
諸葛亮はそう考えた。
◇
夕方。
ようやく卑弥呼が現れた。
「お待たせしました」
「いえ」
「嘘ですね」
「……少々」
「顔に出ています」
「修行が足りませんね」
「思金に働かされたでしょう」
「相談に乗っただけです」
思金が言った。
「そうですか」
卑弥呼が諸葛亮を見る。
「相談でしたか?」
「女王陛下」
「はい」
「倭では、一日働かせることを相談と呼ぶのですか」
「呼びません」
思金が目を逸らした。
「思金」
「はい」
「孔明殿は臣下ではありませんよ」
「存じております」
「ほどほどに」
「善処いたします」
諸葛亮と溟が同時に言った。
「それは守らない者の返答です」
思金が黙った。
◇
その夜。
三人で食事をした。
豪華なものではない。
米。
魚。
山菜。
須佐でも見慣れたものだ。
「女王って、もっとすごいもん食うのかと思ってた」
溟が言う。
「溟様」
「いいですよ」
卑弥呼は笑った。
「私も、そう思っていました」
「え?」
「女王になれば、毎日すごいものが食べられるのかと」
「違った?」
「思金が許してくれません」
「当然です」
「ほら」
「思金のおっちゃん厳しいな」
「おっちゃん……」
◇
食事が進む。
溟は卑弥呼を怖がらなかった。
卑弥呼も、それを嫌がらなかった。
「卑弥呼って、何歳?」
「溟様」
「先生うるさい」
「女性に年齢を尋ねてはいけません」
「なんで?」
「そういうものです」
「大陸では?」
「主に私の経験上です」
「誰に怒られたの?」
「秘密です」
卑弥呼が笑う。
思金まで笑った。
その瞬間だけ。
そこに女王はいなかった。
ただ若い女がいた。
諸葛亮はそれを見ていた。
◇
食事の後。
卑弥呼と二人になった。
「孔明殿」
「はい」
「どうでした?」
「何がでしょう」
「私の国です」
諸葛亮は少し考えた。
「まだ、国ではありませんね」
卑弥呼の表情が止まった。
普通なら。
不敬と言われても仕方がない。
だが彼女は怒らなかった。
「やはり?」
「ご存じでしたか」
「なんとなく」
卑弥呼は外を見る。
「皆、私を女王と呼びます」
「はい」
「でも、それぞれの国にはそれぞれの王がいる」
「ええ」
「私が命じても、従わないこともある」
「あるでしょうね」
「神の言葉なら聞くのに」
少し寂しそうに笑った。
「私の言葉になると、聞かない人もいます」
◇
「それで人前に出られないのですか」
諸葛亮が尋ねた。
卑弥呼は答えなかった。
「神の声を伝える女王でいる限り、皆が従う」
「……」
「しかし、一人の人間として姿を見せれば」
「孔明殿」
「はい」
「意地悪ですね」
「申し訳ありません」
「当たっています」
卑弥呼は膝を抱えた。
「怖いのです」
小さな声だった。
「何が?」
「私がただの女だと、皆に知られることが」
◇
諸葛亮は黙った。
「私は神ではありません」
「ええ」
「祈っても雨が降らないことがあります」
「当然です」
「当然って言われると少し腹が立ちますね」
「申し訳ありません」
「でも、そうなんです」
卑弥呼は笑った。
「それでも皆は、私なら何とかできると思っている」
「……」
「だから」
自分の手を見る。
「会わない方がいい」
「そう思われた」
「はい」
「姿を隠し、神秘を保つ」
「思金たちとも相談して決めました」
「悪い策ではありません」
卑弥呼が顔を上げる。
「そうなのですか?」
「少なくとも、今は」
「今は?」
「ええ」
◇
「女王陛下」
「はい」
「姿を隠すことと、逃げることは違います」
卑弥呼の目が揺れた。
「あなたが人前へ出ないことで国がまとまるなら、それは策です」
「……」
「ですが」
諸葛亮は続ける。
「人前へ出るべき時にまで出られないのであれば」
少し間を置く。
「それは、策ではありません」
「では?」
「恐れです」
卑弥呼は何も言わなかった。
◇
「孔明殿は、怖くないのですか」
やがて尋ねた。
「何がでしょう」
「人の前に立つことが」
「怖いですよ」
即答だった。
「……意外です」
「何度失敗しても慣れませんでした」
「失敗?」
「ええ」
「あなたでも?」
「私を何だと思っておられるのです」
「思金が、何でも分かる人みたいに」
「思金殿には後で訂正していただきましょう」
「でも」
卑弥呼は尋ねる。
「怖くても、出た?」
諸葛亮は遠くを見る。
戦場。
成都。
祁山。
五丈原。
何万もの人間の命が、
自分の一言で動いた日々。
「……出なければならない時は」
「どうやって?」
「さて」
「それが知りたいのです」
「私も最後まで分かりませんでした」
「役に立たない先生ですね」
「私は先生になった覚えはありませんが」
◇
卑弥呼が笑った。
それで話は終わった。
少なくとも。
その夜は。
◇
翌朝。
諸葛亮は思金と記録を見ていた。
「この国からの貢ぎが減っています」
「気づきましたか」
「二年続けて」
「ええ」
「理由は?」
「分かりません」
「調べては?」
「人を送っています」
「こちらは?」
「同じです」
「南ですね」
「ええ」
思金の表情が少し険しくなる。
「狗奴国に近い」
「狗奴国」
初めて聞く名だった。
「我々と、あまり仲がよくありません」
「どの程度?」
「昔から争いがあります」
「最近は?」
「妙なのです」
「何が?」
「以前より、強くなっている」
諸葛亮が顔を上げた。
「兵が?」
「それも」
「他には?」
「鉄」
◇
思金は小さな鉄片を出した。
諸葛亮が手に取る。
見る。
指で触れる。
「これを?」
「狗奴国から流れてきたものです」
「作った者は?」
「分かりません」
「量は?」
「増えています」
諸葛亮の顔から、
先ほどまでの気楽さが消えた。
「何か?」
「……いえ」
鉄そのものは珍しくない。
問題は。
どこから技術が来た。
誰が教えた。
何のために増やしている。
そして。
何と交換している。
「思金殿」
「はい」
「狗奴国へ入る品と、出る品を調べられますか」
「できます」
「船も」
「船?」
「海から来るものを」
思金の目が細くなった。
「何かお考えが?」
「まだ」
諸葛亮は鉄片を置いた。
「何も分かりません」
それは本当だった。
だからこそ。
調べる必要がある。
◇
「先生!」
外から溟が来た。
「帰るぞ!」
「はい?」
「約束しただろ。今日は帰るって」
「そうでしたか?」
「した!」
「記憶にありませんね」
「思金!」
「約束していました」
「……」
「先生!」
「分かりました」
諸葛亮は立ち上がる。
鉄片をもう一度見る。
思金が尋ねた。
「持っていきますか?」
「よろしいのですか」
「ええ」
「では」
懐へ入れる。
◇
帰り道。
溟は機嫌がよかった。
「卑弥呼、面白いな」
「女王陛下です」
「いないところでも?」
「いないところほどです」
「先生、そういうの細かいよな」
「大切です」
「また来る?」
「呼ばれれば」
「俺も?」
「来たいのですか」
「飯うまかった」
「田吾殿の家でも同じことを言っておられませんでしたか」
「うまいもんはうまい」
溟は先へ走っていく。
諸葛亮はその背を見ながら歩く。
懐には、
小さな鉄片がある。
まだ。
ただの鉄だった。
ただの隣国だった。
ただの小さな違和感だった。
この時はまだ。
それがやがて、
一人の母親の涙と。
一人の少年の過去と。
女王が岩戸へ消える夜へ繋がることを、
誰も知らなかった。




