第七話 三度目の客
思金が、また来た。
◇
「先生」
「はい」
「あのおっちゃん来た」
「どのおっちゃんでしょう」
「面倒くさい方」
諸葛亮は筆を止めた。
「溟様」
「何?」
「人をそのように呼んではいけません」
「先生も前に面倒って言ってたじゃん」
「聞こえないところで言いました」
「そういう問題?」
「大切なことです」
「聞こえておりますよ」
後ろから声がした。
「……」
「……」
諸葛亮はゆっくり振り返った。
思金が立っていた。
「お久しぶりです」
「ええ。面倒な者です」
「その節は大変失礼を」
「本当に思っています?」
「善処いたします」
「それは守らない者の返答だぞ」
溟が言った。
「溟様」
◇
思金が二度目に須佐を訪れた理由は、水だった。
正確には。
水を巡って、人が争っていた。
「二つの村があります」
思金は地面へ簡単な図を描いた。
「同じ川を使っている?」
「ええ」
「上流と下流」
「そうです」
「今年は雨が少ない」
「よく分かりましたね」
「川を見れば」
「……あなた本当に川が好きですね」
「最近、自覚しました」
思金は話を続けた。
上流の村が水を堰き止めた。
下流の田へ水が届かない。
下流の者が堰を壊した。
上流の者が怒った。
殴り合いになった。
怪我人が出た。
「それだけですか?」
「それだけ、とは?」
「死人は?」
「まだ」
「ならば、今のうちでしょう」
諸葛亮は立ち上がった。
「行きましょう」
思金が目を瞬く。
「よいのですか?」
「そのために来られたのでしょう?」
「ええ」
「では」
「……話が早いですね」
「人が死んでからでは遅い」
◇
三日後。
「無理ですね」
川を見た諸葛亮は言った。
思金が眉をひそめる。
「何が?」
「両方の村が欲しがっているだけの水を、この川から取るのは無理です」
「では?」
「増やします」
「水を?」
「使える水を」
諸葛亮は上流を見る。
小さな支流。
湿地。
山から落ちる水。
そして地形。
「こちらから引けるかもしれません」
「村の者は?」
「話します」
「あなたが?」
「思金殿が」
「私ですか?」
「私はこの土地の言葉がまだ十分ではありません」
「随分話せるようになりましたよ」
「水路なら話せます」
「何ですか、その偏った語彙は」
◇
結局。
諸葛亮が水を見て、
思金が人を見た。
「上流の村には、今まで使っていた水を一定量残す」
「それでは下流が納得しません」
「新しい水路の維持を上流にも負担していただきます」
「それなら?」
「下流は納得するでしょう」
「上流は?」
「新しく開ける田の一部を――」
「それは駄目です」
「何故?」
「その土地は別の一族が使っています」
「……」
「言ったでしょう」
「倭国ですから?」
「倭国です」
諸葛亮は額を押さえた。
「魏と戦う方が簡単だった気がします」
「魏?」
「昔の取引先です」
「絶対違うでしょう」
◇
十日かかった。
最後には、両方の村が完全に満足したわけではなかった。
それでも。
水は流れた。
殴り合いは止まった。
「これでよいのでしょうか」
思金が尋ねる。
「全員が満足する策など、そうありません」
「では、何をもって良しと?」
諸葛亮は水路を見る。
「来年も使われていれば」
「……なるほど」
「策とは、立てた時ではなく、残った時に初めて意味があります」
思金はその言葉を覚えておくことにした。
◇
須佐へ戻る途中。
思金が言った。
「孔明殿」
「はい」
「私と来ませんか」
「どちらへ?」
「女王のもとへ」
諸葛亮の足が止まった。
「……女王」
「ええ」
「この地には、多くの国があると伺っております」
「あります」
「その全ての?」
「いいえ」
思金は苦笑した。
「そこまで単純なら、私ももう少し楽なのですが」
諸葛亮は続きを待った。
「いくつもの国が、一人の女王を立てています」
「何故?」
「争いが続いたからです」
諸葛亮の目が少し変わった。
「詳しく聞いても?」
「来てくだされば」
「お断りします」
「……」
「……」
「今、詳しく聞きたいと言いましたよね?」
「はい」
「来れば話すと言いました」
「はい」
「なぜ断るのです?」
「仕えるつもりはありませんので」
「誰が仕えろと」
「違うのですか?」
「……半分くらいは」
「では、お断りします」
「話が早すぎませんか?」
◇
「地位は用意できます」
「要りません」
「住む場所も」
「ここにあります」
「田も」
「皆様のものです」
「財は?」
「特には」
「人を付けることも」
「溟様一人で手一杯です」
少し離れた場所から声が飛んできた。
「聞こえてるぞ!」
「聞こえるように申しました」
「ひどくね!?」
思金は眉間を押さえた。
「では、何なら来るのです」
諸葛亮は少し考えた。
「さて」
「……その言葉、本当に嫌いになりそうです」
◇
思金は帰った。
それからしばらく。
何もなかった。
諸葛亮は田を見た。
水路を直した。
倉の帳面を作った。
文字を読めない者でも分かるよう、印を使った記録の方法を村人と考えた。
溟は山へ行った。
怒られた。
翌日また行った。
また怒られた。
平和だった。
そしてある朝。
「先生」
「はい」
「また来た」
諸葛亮はため息をついた。
「思金殿ですか」
「うん」
「今度は何でしょう」
「知らん」
溟は少し考える。
「でも女の人もいる」
諸葛亮の筆が止まった。
◇
思金の隣に、一人の女が立っていた。
若い。
諸葛亮が想像していたより、ずっと若かった。
華美な衣をまとっているわけではない。
武器もない。
大勢の供を連れているわけでもない。
ただ。
周囲の者たちの立ち方が違う。
彼女を中心に空間ができている。
諸葛亮には、それだけで十分だった。
「……女王陛下ですか」
女が少し驚いた。
「分かるのですか」
「昔、人を見る仕事をしておりましたので」
「どんな仕事です?」
「雑用です」
思金が横から言った。
「絶対に違いますよ、この人」
◇
「卑弥呼と申します」
女が頭を下げた。
諸葛亮は一瞬、返礼が遅れた。
王が。
自分に頭を下げた。
「孔明と申します」
「存じています」
「悪い噂でなければよいのですが」
「妙な老人だと」
諸葛亮が思金を見る。
「私はそこまで言っておりません」
「だいたい言ってた」
溟が割り込んだ。
「溟様」
「この子は?」
卑弥呼が尋ねる。
「溟と申します」
「先生の子じゃないぞ」
「まだ何も聞いておりませんよ」
「よく間違われるから」
卑弥呼が笑った。
「そう。よろしく、溟」
「うん」
「溟様」
「何?」
「女王陛下です」
「……よろしくお願いします」
頭を下げる。
卑弥呼はまた笑った。
◇
「それで」
諸葛亮は尋ねた。
「女王陛下が、このような場所まで何用でしょう」
「あなたに来ていただきたいのです」
「思金殿にも申し上げましたが――」
「聞いております」
「ならば」
「ですから、私が来ました」
諸葛亮が黙った。
思金も何も言わない。
「私は」
卑弥呼が続ける。
「祈ることができます」
「……」
「人々は、私の言葉を神の言葉として聞きます」
自慢しているようには聞こえなかった。
むしろ。
苦しそうだった。
「雨が降るよう祈れと言われれば、祈れます」
「はい」
「病が治るよう祈れと言われれば、それも」
「はい」
「争いが収まるよう、神意を問うこともできます」
卑弥呼は手を見る。
「でも」
小さな声だった。
「雨が降らなかったら?」
諸葛亮は何も言わない。
「田が枯れたら?」
「……」
「食べるものがなくなったら?」
思金も黙っている。
「国と国が争い、誰かの子が死んだら?」
卑弥呼は顔を上げた。
「私は、何をすればいいのでしょう」
諸葛亮の表情から、笑みが消えた。
◇
「皆は私を女王と呼びます」
卑弥呼は言う。
「争いを終わらせるために、私を選びました」
「……」
「でも私は、祈ることしか知らない」
「思金殿がおられるでしょう」
「います」
「優秀な方です」
「知っています」
思金が少し気まずそうな顔をした。
「ならば――」
「思金は、倭を知っています」
卑弥呼は言った。
「人を知っている。国を知っている。誰と誰が争い、何を言えば誰が怒るのかも」
「……」
「でも思金が言いました」
諸葛亮が思金を見る。
「何と?」
卑弥呼は答えた。
「あなたは、国の形を見る人だと」
諸葛亮は黙った。
「水路を作ったと聞きました」
「少し手伝っただけです」
「田を増やした」
「皆で」
「倉を作った」
「必要でしたので」
「争っていた村に水を流した」
「思金殿のお力です」
「それでも」
卑弥呼は一歩、近づいた。
「あなたは、王になろうとしなかった」
風が吹いた。
「……何故です?」
諸葛亮は答えなかった。
◇
昔。
似た問いを受けたことがあった。
まだ若かったころ。
隆中の小さな庵。
天下が乱れ。
群雄が争い。
一人の男が三度、自分を訪ねた。
その男は尋ねた。
どうすればよい。
この天下を。
この漢を。
この民を。
自分は答えた。
荊州。
益州。
天下三分。
それが始まりだった。
あの日から。
長い、長い旅が始まった。
◇
「孔明殿」
卑弥呼の声で、現在へ戻る。
「何故、王になろうとしないのです?」
諸葛亮は少し笑った。
「向いておりませんので」
「嘘ですね」
即答だった。
諸葛亮が目を瞬く。
思金も驚いている。
「何故そう思われます?」
「向いているかどうかで決める人には見えません」
「……」
面白い。
諸葛亮は初めて、この女王を正面から見た。
「では、女王陛下」
「はい」
「何故、私なのです?」
卑弥呼は少し考えた。
「思金が言いました」
「また思金殿ですか」
「私ですか」
「あなたは国を欲しがらない、と」
諸葛亮の目が止まる。
「だからです」
「……」
「国を欲しがる人に、国のことを尋ねるのが怖いのです」
思金が卑弥呼を見る。
おそらく。
この言葉までは教えていない。
彼女自身の言葉だった。
◇
卑弥呼は頭を下げた。
「私に、教えてください」
諸葛亮は動かなかった。
「神に祈ることではなく」
風が吹く。
「人が生きる国を、どうすれば作れるのか」
諸葛亮の脳裏に。
遠い昔の光景が浮かんだ。
三度。
自分を訪ねた男。
劉備玄徳。
あの日。
自分は草廬を出た。
天下へ向かった。
戦へ向かった。
漢室復興という、果てしない旅へ向かった。
「……思金殿」
「はい?」
「あなたが須佐へ来られたのは、これで何度目です?」
「私だけなら二度です」
「そして今日は?」
「卑弥呼様をお連れしました」
「……そうですか」
諸葛亮は目を閉じた。
三度。
不思議なものだ。
最初の人生も。
こうして始まった。
◇
「女王陛下」
「はい」
「一つ、条件がございます」
思金が顔を上げた。
「来てくださるのですか?」
「思金殿」
「はい」
「まだ条件を申し上げておりません」
「……どうぞ」
諸葛亮は卑弥呼を見る。
「私は、あなたの臣にはなりません」
思金が固まった。
「ちょっと待ってください」
「はい」
「卑弥呼様がここまで来られたのですよ?」
「承知しております」
「あなたに頭まで下げた」
「恐縮です」
「その返事が『臣にはなりません』?」
「はい」
「孔明殿」
「何でしょう」
「大陸ではそれが普通なのですか?」
「場合によります」
「絶対普通じゃないでしょう」
卑弥呼が吹き出した。
◇
「構いません」
「卑弥呼様!?」
「だって」
卑弥呼は笑っている。
「国を欲しがらない人を探しに来たのに、臣下の地位で釣るのはおかしいでしょう」
思金が黙った。
「……確かに」
「それと」
諸葛亮が続ける。
「まだあるのですか?」
「須佐を離れるつもりもありません」
「孔明殿」
「はい」
「あなた、結構わがままですね」
「最近知りました」
卑弥呼がまた笑った。
「それも構いません」
「必要な時に、お呼びください」
「来てくれます?」
「可能な限り」
「断ることも?」
「ございます」
「正直ですね」
「嘘をついても仕方ありませんので」
卑弥呼は手を差し出した。
倭の礼なのか。
それとも彼女自身の癖なのか。
諸葛亮には分からなかった。
だから。
その手を取った。
「では、孔明殿」
「はい」
「よろしくお願いします」
「こちらこそ」
◇
帰っていく卑弥呼たちを、諸葛亮は見送った。
隣には溟がいる。
「先生」
「はい」
「また仕事するの?」
「……そうなるようですね」
「死んだのに?」
「困りましたね」
「嬉しそうじゃん」
諸葛亮は否定しようとした。
やめた。
「少し」
「やっぱり」
溟が笑う。
◇
卑弥呼の姿が見えなくなる。
諸葛亮は空を見る。
三度。
昔。
三度訪ねてきた人がいた。
あの人についていったことを、
後悔した日は一度もない。
苦しかった。
失った。
届かなかった。
それでも。
後悔だけはしなかった。
「……先帝」
小さく呟く。
「不思議なことも、あるものですな」
返事はない。
ただ風が吹く。
あの日。
三度の訪問を受けた臥龍は、
草廬を出て天下へ向かった。
そして今。
海の果てで、
再び三度、人が訪ねてきた。
ならば。
もう一度くらい。
人のために知恵を使ってみても、
よいのかもしれない。
◇
「先生!」
「はい」
「思金のおっちゃん、何か忘れてる!」
「何を?」
「これ!」
溟が板を持ってきた。
諸葛亮が見る。
先ほど二人で話していた、各地の水利についての記録だった。
「……重要なものですね」
「どうする?」
「届けましょう」
「追いつく?」
「急げば」
「走る?」
「……」
「先生?」
「溟様」
「何?」
「お願いします」
「年寄り!」
「否定はいたしません」
「しょうがねえな!」
溟が走っていく。
「思金のおっちゃーーん!」
諸葛亮はその背を見送った。
そして、ふと思った。
第二の人生というものは。
案外。
最初の人生とよく似た形で、
始まるものらしい。




