第六話 須佐に妙な老人がいる
「須佐に、妙な老人がいるそうです」
その報告を聞いたとき。
思金は、聞かなかったことにしようと思った。
◇
「それで?」
仕方なく尋ねる。
使者は困った顔をした。
「田を増やしております」
「……老人が?」
「はい」
「一人で?」
「いえ。須佐の者たちと」
「では、別に妙ではないでしょう」
「水路も作りました」
「農に詳しいのでしょう」
「倉も」
「器用なのですね」
「道も直しております」
「働き者ですね」
「水を使う順番も決めました」
「…………」
「近隣の村との揉め事も一つ収めたとか」
「…………」
「最近は橋を作る場所を測っているそうです」
思金は目を閉じた。
「妙ですね」
「はい」
◇
倭には、多くの国がある。
国といっても、その形は様々だった。
いくつもの集落を束ねる大きなもの。
一つの谷を中心とするもの。
海沿いの交易で栄えるもの。
山の恵みで生きるもの。
争いもある。
婚姻もある。
交易もある。
昨日争った相手と今日は物を交換し、明日は共に別の国と争う。
珍しいことではない。
だからこそ、思金の仕事は多かった。
貢ぎ物。
倉。
使者。
争い。
交易。
人足。
祭祀に必要な品。
どの国が誰と揉めている。
どの村で米が足りない。
どこで水を巡って争った。
どこから鉄が入った。
誰が誰の娘を娶った。
考えることはいくらでもある。
そんな中で、
**須佐に妙な老人がいる。**
普通なら放っておく。
老人など、どこにでもいる。
妙な老人も、それなりにいる。
だが。
「去年より、須佐から出てくる穀物が増えております」
部下が言った。
思金は顔を上げた。
「どれほど?」
数字を聞く。
眉が動いた。
「……多いですね」
「はい」
「人口は?」
「大きくは変わっておりません」
「新しく広い土地でも得たのですか」
「いえ」
「では?」
「その老人が来てからだと」
思金は黙った。
妙な老人。
それだけなら笑い話だ。
だが、
**数字が変わった。**
ならば話は別だった。
「行きましょう」
「須佐へ?」
「ええ」
「ご自身で?」
「数字は嘘をつきにくい」
思金は立ち上がった。
「人はよく嘘をつきますから」
◇
数日後。
思金は須佐にいた。
最初に思った。
普通の村だ。
山がある。
川がある。
田がある。
家がある。
子供が走っている。
特別なものは見当たらない。
「……?」
いや。
少し違う。
水路が妙に整っている。
自然の流れを無理に変えてはいない。
地形に沿いながら、必要なところへ水が回っている。
田の高さも考えられている。
そして水路の一部には、簡単な仕切りがある。
「これは?」
案内役に尋ねる。
説明を聞く。
水を使う順番。
上流だけで使い切らないための決まり。
壊れた場合に誰が直すかも決まっている。
「誰が決めたのです?」
案内役が笑った。
そして。
「コウメイ」
と答えた。
「……コウメイ?」
◇
倉を見る。
高い場所にある。
床も地面から離れている。
湿気と鼠を避ける工夫。
全てが大陸式というわけではない。
倭で昔から使われている方法も混じっている。
思金はそこが気になった。
大陸から来た者が、自分のやり方を押し付けた。
それなら分かる。
だがこれは違う。
元からあったものを残し、
変えた方がよいところだけ変えている。
「……面白い」
思金は呟いた。
◇
「その老人はどこに?」
案内役が指差した。
思金はそちらを見る。
田の中に人がいる。
一人。
二人。
三人。
どれだ。
老人らしい男は――。
「あれです」
「……あれ?」
泥だらけだった。
裾をまくり上げている。
手には棒。
何かを測っている。
隣には少年がいた。
「先生!」
「はい」
「こっち深い!」
「どの程度です?」
「知らん!」
「測ってください」
「先生が来いよ!」
「今そちらへ行くと測った場所が分からなくなります」
「印つけろよ!」
「なるほど」
「今気づいたの!?」
思金は立ち止まった。
「……あれが?」
「はい」
「水路を?」
「はい」
「倉も?」
「はい」
「村の決まりも?」
「はい」
思金はもう一度見る。
老人が田の中で転んだ。
「先生!」
「……大丈夫です」
「泥まみれじゃん!」
「田とはそういう場所です」
「絶対いま誤魔化しただろ!」
思金は眉間を押さえた。
「本当に、あれなのですか?」
◇
「お客様です」
そう言われて。
諸葛亮は顔を上げた。
田の畦に、見慣れない男が立っている。
衣服。
立ち方。
周囲の者の態度。
一目で分かった。
ただの旅人ではない。
諸葛亮は棒を溟へ渡した。
「お願いします」
「どこ行くの?」
「少々」
「逃げる?」
「何故です?」
「偉そうな人来たから」
「溟様」
「何?」
「そういうことは本人の聞こえない場所で言いなさい」
「聞こえております」
思金が言った。
「……」
「……」
諸葛亮は溟を見る。
「申し訳ありません」
「先生が謝るの!?」
◇
二人は向かい合った。
思金は男を見る。
年は五十を越えているだろう。
痩せている。
農夫の身体ではない。
手にも、まだ鍬仕事に慣れきっていない痕がある。
しかし。
目だけが違った。
先ほどまで泥の中で転んでいた老人とは思えない。
「名は?」
「孔明と申します」
「孔明」
「はい」
「それだけですか」
「今は」
思金の目が細くなる。
「大陸から来た」
「ええ」
「何者です?」
「旅人です」
「旅人が水路を作るのですか」
「暇でしたので」
「倉も?」
「必要でしたので」
「道も?」
「運びにくかったので」
「村の決まりまで?」
「揉めておりましたので」
「橋も作るつもりだとか」
「まだ測っているところです」
思金は黙った。
諸葛亮も黙った。
溟だけが二人を交互に見ている。
「先生」
「はい」
「この人、先生嫌い?」
「まだ分かりません」
「私は少し嫌いになり始めています」
「早くない?」
◇
「何のためです?」
思金が尋ねた。
「何がでしょう」
「これら全て」
田を指す。
水路を指す。
倉を指す。
「須佐を豊かにして、何をするつもりです?」
諸葛亮は少し考えた。
「何もしません」
「信じろと?」
「難しいでしょうね」
「では、なぜ?」
諸葛亮は川を見る。
「水が溢れておりました」
「……はい」
「田が少なかった」
「はい」
「収穫した穀物を保管する場所が足りなかった」
「はい」
「道が悪かった」
「それで?」
「直しました」
思金は眉をひそめた。
「だから、何のために」
「必要だったからです」
「それは目的ではない」
諸葛亮は思金を見る。
少しだけ。
嬉しそうな顔をした。
「なるほど」
「何がです」
「あなたは、そこを尋ねるのですね」
「……?」
◇
二人は川沿いを歩いた。
溟は途中で子供たちに呼ばれ、消えた。
「メイ!」
「今行く!」
走っていく少年を思金が見る。
「あの子も大陸の?」
「ええ」
「あなたの子ではない」
「違います」
「では?」
諸葛亮は答えなかった。
思金も追及しなかった。
代わりに水路を見る。
「ここ」
思金が言った。
「はい?」
「次の大雨で崩れますよ」
諸葛亮の足が止まった。
「……何故です?」
「この山は雨が続くと水を含みます。あなたは川だけを見ている」
思金は斜面を指差した。
「こちらからも来ます」
諸葛亮が見る。
地形を見る。
土を見る。
木を見る。
「この辺りでは?」
「春に崩れたことがあります」
「どの程度?」
「人が一人、埋まる程度には」
「……」
諸葛亮はしゃがみ込んだ。
土を触る。
しばらく考える。
「なるほど」
「大陸では違うのですか」
「私がよく知る土地とは」
「なら、大陸のやり方をそのまま使わない方がいい」
諸葛亮は顔を上げた。
「ごもっともです」
思金が少し驚いた。
「怒らないのですか」
「何故?」
「あなたが作ったのでしょう」
「間違っているのであれば、直すべきです」
「……」
「教えていただけますか。この山について」
思金は初めて。
目の前の老人に、少し興味を持った。
◇
それから二人は、日が暮れるまで話した。
川。
雨。
田。
山。
村。
隣の村。
そのまた隣。
水だけではない。
「この道を広げれば、荷を多く運べます」
「無理です」
「何故?」
「隣の村が嫌がります」
「道なのに?」
「この先はあちらの土地です」
「では話を」
「三年前に喧嘩しています」
「原因は?」
「婚姻です」
「……道と関係がありませんね」
「倭国ですから」
諸葛亮は黙った。
「面倒ですね」
「倭国ですから」
◇
「ならばこちらへ迂回を」
「そこは祭りに使います」
「……ではこちら」
「墓があります」
「…………こちらは?」
「猪が出ます」
「猪なら追い払えば」
「三人死んでいます」
「……」
諸葛亮は図を見た。
思金を見る。
「道一本作るのが、北伐より難しい気がしてきました」
「ホクバツ?」
「いえ。昔の仕事です」
「何をしていたのです?」
「似たようなことを、少々」
「道を?」
「……道も作りました」
嘘ではない。
◇
日が暮れた。
二人は川辺に座っていた。
「孔明殿」
「はい」
「あなたの考えは、面白い」
「ありがとうございます」
「ですが、この土地を知らない」
「ええ」
「人も知らない」
「ええ」
「祭りも、争いも、誰と誰が親戚なのかも知らない」
「おっしゃる通りです」
「それなのに、よくこれだけ弄りましたね」
「……反省しております」
「本当に?」
「少し」
「少しですか」
「結果は悪くありませんでしたので」
思金が笑った。
初めてだった。
「あなた、意外と厚かましいですね」
「よく言われます」
「誰に?」
諸葛亮は少し考えた。
「昔の同僚に」
◇
「思金殿」
「はい」
「あなたなら、どうします?」
「何を?」
「須佐を」
思金は村を見る。
田。
川。
倉。
人。
「豊かにしたいのですか」
「できるのであれば」
「何のために?」
先ほどと同じ問いだった。
諸葛亮は今度は、すぐ答えた。
「腹が減っているより、満ちている方がよいでしょう」
思金は待った。
続きがあると思った。
が、その続きがない。
「……それだけ?」
「今のところは」
「王になるつもりは?」
諸葛亮は目を瞬いた。
そして。
笑った。
「まさか」
「では富を得たい?」
「特には」
「名を残したい?」
「むしろ困ります」
「……」
「できれば忘れていただきたい」
思金は老人を見る。
冗談を言っているようには見えなかった。
「妙な人ですね」
「最近よく言われます」
「須佐で?」
「主に溟様から」
◇
翌朝。
思金は帰る支度をした。
「もう帰るの?」
溟が尋ねる。
「仕事がありますので」
「偉い人なんだ」
「一応」
「先生より?」
「溟様」
諸葛亮が止める。
思金は少し考えた。
「今の孔明殿よりは」
「おお」
「昔の先生は?」
「知りません」
「先生、負けたぞ」
「何の勝負ですか」
◇
思金は須佐を出る前に、振り返った。
老人がいる。
少年がいる。
村人がいる。
皆、泥だらけだ。
それだけなら、どこにでもある村だ。
だが。
水が流れている。
田が増えている。
倉がある。
決まりがある。
そして。
それらが、あの老人がいなくなった後も残るように作られ始めている。
思金は考えた。
これは少し。
女王へ報告しておいた方がいいかもしれない。
◇
数日後。
「須佐の件は、どうでした?」
そう尋ねられ。
思金は少し考えた。
「報告通りでした」
「妙な老人が?」
「ええ」
「危険でしょうか」
思金は即答できなかった。
武器を集めているわけではない。
兵を鍛えているわけでもない。
人々へ自分を崇めさせているわけでもない。
むしろ本人は泥だらけで働いている。
危険ではない。
そう言ってしまってもいい。
だが。
思金は、数字を思い出した。
あの老人が来てから、
須佐は変わった。
「……分かりません」
「分からない?」
「ただ」
思金は言った。
「兵を率いず、命令もせず、王にもならず――それでも一つの村を変えられる人間を」
少しだけ笑う。
「私は、初めて見ました」
「名は?」
「孔明」
思金は答えた。
「ただ、そう名乗っております」
◇
そのころ須佐では。
「先生!」
「はい」
「思金のおっちゃんが言ってたところ、崩れた!」
「……本当ですか」
「ちょっとだけ!」
諸葛亮は走った。
現場を見る。
水路の一部が崩れている。
「……」
「先生?」
「はい」
「悔しい?」
「非常に」
「直す?」
「もちろんです」
「どうやって?」
諸葛亮は斜面を見る。
そして。
少し笑った。
「次に思金殿が来られたら、教えていただきましょう」
「先生が?」
「ええ」
「教えてもらうの?」
「何か問題が?」
溟は首を横に振った。
「別に」
鍬を一本取る。
「じゃあ、それまで直すか」
「お願いします」
「先生も!」
「もちろんです」
二人は水路へ降りた。
倭のことを知らない大陸の老人と、
大陸のことを知らない倭の知者。
二人はまだ、
互いが何者なのかを知らない。
ただ一つ。
次に会えば、
きっとまた話すことになる。
それだけは、
二人とも分かっていた。




