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第五話 泣かなかった夜



 その夜。


 川辺に、溟はいなかった。


     ◇


 諸葛亮は足を止めた。


 いつもの岩。


 いつもの川。


 月明かりに、水面だけが白く光っている。


 だが。


 少年の姿がない。


「……溟様?」


 返事はない。


 諸葛亮は周囲を見回した。


 川上。


 川下。


 対岸。


 どこにもいない。


「溟様」


 もう一度。


 少し声を大きくする。


 返事はなかった。


 胸の奥に、嫌な感覚が走った。


     ◇


 溟は毎晩、ここへ来るわけではない。


 疲れて眠る日もある。


 雨の日もある。


 それでも。


 夕方、誰かが母親に呼ばれて帰っていった日。


 家族が食卓を囲んでいるのを見た日。


 母親と子供が笑っているのを見た日。


 そういう夜には、たいていここにいた。


 今日はいたはずだ。


 夕方。


 田吾が母親に呼ばれて帰っていくのを、溟は見ていた。


 諸葛亮はそれを覚えている。


 だから今夜も来ると思った。


 少し離れた場所に座るつもりだった。


 何も言わず。


 ただ、そこにいるつもりだった。


 だが。


 いない。


「……」


 諸葛亮は川を見る。


 昼間、雨が降った。


 水量は多い。


 流れも速い。


 まさか。


 その考えを、すぐに打ち消す。


 いや。


 打ち消せなかった。


 諸葛亮は川岸へ降りた。


 足跡。


 暗くて見えない。


 しゃがむ。


 泥へ触れる。


「溟様!」


 声が大きくなった。


 返事はない。


     ◇


「メイ?」


 村人が首を傾げた。


「はい。溟です。見ませんでしたか」


 諸葛亮は覚えたばかりの倭の言葉を並べた。


 通じたらしい。


 男は少し考える。


 そして指を差した。


「あっち?」


 頷く。


 田吾の家の方だった。


 諸葛亮は歩き出す。


 途中で走りそうになった。


 やめた。


 また歩く。


 数歩。


 やはり走った。


     ◇


 田吾の家には灯りが残っていた。


「失礼します」


 返事を待つ余裕もなく、入口から中を見る。


 田吾の母親がいた。


 諸葛亮を見る。


 少し驚く。


「溟は?」


 諸葛亮が尋ねる。


 女は笑った。


 そして奥を指差した。


 諸葛亮は見る。


「……」


 そこにいた。


     ◇


 子供が三人。


 並んで寝ていた。


 田吾。


 その妹。


 そして溟。


 遊び疲れたのだろう。


 溟は仰向けになって、口を少し開けている。


 片手には、何故か木の枝を握ったままだった。


 顔には泥。


 服にも泥。


 足も汚れている。


 ひどい姿だった。


 だが。


 眠っていた。


 ただ、眠っていた。


 泣いた跡はなかった。


「……」


 諸葛亮は、しばらく動けなかった。


     ◇


 田吾の母親が何か言った。


 まだ全部は分からない。


 だが身振りで分かった。


 夕飯を食べた。


 遊んだ。


 そのまま寝た。


 たぶん、そんなところだ。


「……ご迷惑を」


 頭を下げる。


 女は笑った。


 気にするな、というように手を振る。


 そして。


 溟へ薄い布を掛けた。


 何気ない動作だった。


 自分の子供へするのと同じように。


 溟の肩まで布を掛ける。


 少しずれていた頭を直す。


 それだけ。


 諸葛亮は何も言えなかった。


     ◇


「連れて帰る?」


 そう尋ねられたのだと思う。


 諸葛亮は首を横に振った。


「いえ」


 小さく答える。


「ここで」


 女が頷いた。


 諸葛亮はもう一度、少年を見る。


 昼間は笑う。


 泥だらけになる。


 友達と喧嘩する。


 飯を食う。


 怒られる。


 また笑う。


 そして夜になると。


 母を思い出す。


 海の向こうを思い出す。


 帰りたいと泣く。


 ずっとそうだった。


 けれど今夜。


 溟は川へ行かなかった。


 母を忘れたわけではない。


 忘れるはずがない。


 ただ。


 ここで眠れた。


 誰かの隣で。


 安心して。


     ◇


 諸葛亮は家を出た。


 外には月が出ていた。


 少し歩く。


 気づけば、いつもの川へ来ていた。


 今夜は一人だった。


 岩へ腰を下ろす。


 水が流れている。


「……先帝」


 口から出た。


 自分でも、なぜその名を呼んだのか分からなかった。


 劉備玄徳。


 自分を三度訪ねた人。


 天下を語った人。


 漢を取り戻そうとした人。


 そして。


 この少年へと続く血の、遠い源。


 諸葛亮は月を見る。


「この御方を、私はどこへお連れするべきなのでしょうな」


 返事はない。


 当然だった。


 五丈原にいたころも。


 白帝城で先帝が亡くなってから、何度問いかけただろう。


 この策でよいでしょうか。


 この戦でよいでしょうか。


 私は、御志に背いておりませんか。


 答えは一度もなかった。


 それでも問い続けた。


 漢を復興する。


 そのために劉氏を守る。


 そのために戦う。


 それが自分の役目だと思っていた。


 今も。


 そう思っている。


 はずだった。


     ◇


 翌朝。


「先生!」


 諸葛亮が振り返る。


 溟が走ってきた。


「おはようございます」


「なんで起こしてくれなかったんだよ!」


「よく眠っておられましたので」


「田吾ん家で寝てた!」


「存じております」


「来たの!?」


「ええ」


「起こせよ!」


「嫌です」


「なんで!?」


「気持ちよさそうでしたので」


「先生のくせに!」


「それは理由になっておりません」


 溟は怒っている。


 だが顔色はいい。


「朝飯は?」


「食った!」


「どちらで?」


「田吾ん家!」


「昨日の夕餉も?」


「うん!」


「……食費をお渡しした方がよさそうですね」


「いらないって!」


「そういうわけには」


「先生!」


「はい」


「今日な!」


 溟の顔が輝いた。


「山行く!」


「何をしに?」


「知らん!」


「……危険では?」


「田吾も行く!」


「それは安全の根拠にはなりません」


「昼までに帰る!」


「待ちなさい。せめて――」


「行ってきます!」


 走っていった。


「溟様!」


 返事だけが遠くから返ってくる。


「善処するー!」


「それは守らない者の返答です!」


 姿が見えなくなった。


 諸葛亮はため息をついた。


 そして。


 笑った。


     ◇


 その夜。


 諸葛亮は川へ行かなかった。


 行く必要がなかったからではない。


 溟がもう泣かないと思ったわけでもない。


 きっと、また泣く。


 母を思い出す夜は来る。


 海の向こうを見たくなる日も来る。


 それでいい。


 故郷を忘れる必要などない。


 母を忘れる必要もない。


 ただ。


 人には、帰る場所が一つしかあってはならないという決まりもない。


 海の向こうに、一つ。


 そして。


 ここにも、一つ。


 そうなればいい。


     ◇


 諸葛亮は自分の寝床へ戻った。


 机の上には、途中まで描いた図がある。


 須佐の川。


 水路。


 田。


 倉。


 道。


 橋を架けられそうな場所。


 昨日までは、それをただの仕事だと思っていた。


 目の前に問題がある。


 だから直す。


 それだけだった。


 だが。


 筆を取る。


 少し考える。


 線を一本引く。


 この道を延ばせば、田吾の家から新しい田まで近くなる。


 ここへ小さな橋を架ければ、子供たちも川を渡りやすい。


 水路をもう一本。


 倉は高い場所へ。


 次の洪水にも耐えられるように。


「……」


 諸葛亮は筆を止めた。


 自分は何をしているのだろう。


 旅の途中だったはずだ。


 桃源郷を探す。


 東の果てへ行く。


 そう言って中華を出た。


 なのに。


 この村の来年を考えている。


 再来年を考えている。


 自分がいなくなった後のことまで考えている。


「困りましたね」


 誰もいない部屋で呟いた。


 だが。


 少しも困った顔はしていなかった。


     ◇


 夜が更ける。


 須佐の家々から灯りが消えていく。


 その一つで。


 海の名を持つ少年が眠っている。


 海の向こうには、


 今も彼が帰りたい場所がある。


 けれど。


 帰りたい場所が増えることは、


 最初の場所を失うことではない。


 その夜。


 劉溟は泣かなかった。


 そして諸葛亮は初めて、


 旅の終わりというものを、


 少しだけ考えた。


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