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第四話 臥龍、田を耕す



 次の雨が降った。


 諸葛亮は、まだ須佐にいた。


     ◇


「先生」


「はい」


「雨降ったぞ」


「降りましたね」


「水路もできたぞ」


「できましたね」


「帰らないの?」


 諸葛亮は答えなかった。


 目の前を水が流れていた。


 以前なら田へ溢れていた水が、新しく掘った溝へ流れ込んでいる。


 村人たちが集まり、その様子を見ていた。


 雨脚が強くなる。


 水位が上がる。


 それでも田には入らない。


「……先生?」


「少し待ってください」


「何を?」


「見ています」


「ずっと見てるじゃん」


「重要なのです」


 諸葛亮はしゃがみ込んだ。


 水の速さ。


 溝の深さ。


 崩れやすい場所。


 泥の溜まる場所。


 いくつか問題はある。


 だが。


「使えますね」


 小さく呟いた。


 隣にいた農夫が笑った。


 最初に鍬の持ち方を教えてくれた男だった。


 彼も水路を見て、何か言った。


 諸葛亮は以前より少しだけ聞き取れるようになっていた。


「……来年?」


 男が頷く。


 田を指差す。


 さらに向こうを指差す。


「増やす?」


 また頷く。


 どうやら、この水路を使えば田を増やせると言っているらしい。


 諸葛亮は向こうを見る。


 土地を見る。


 高低差を見る。


 川を見る。


 溟が嫌な顔をした。


「先生」


「はい」


「今、何考えた?」


「何も」


「嘘だ」


「失礼ですね」


「田んぼ増やそうと思っただろ」


 諸葛亮は黙った。


「思ったんだな!?」


「……少しだけ」


「帰る話してたよな!?」


「田を増やしてからでも遅くはないでしょう」


「絶対帰る気なくなってる!」


     ◇


 田を増やす。


 言葉にすれば簡単だった。


 実際には簡単ではなかった。


 水を引けばいいわけではない。


 水を引きすぎれば下流が困る。


 新しい田を作れば、誰が使うかを決めなければならない。


 山を削れば崩れる。


 木を切れば薪が減る。


 水路を通す土地にも持ち主がいる。


 そして。


「嫌だ」


 村の男が腕を組んだ。


 諸葛亮は困った。


「ここを通すのが一番よいのですが」


「嫌だ」


 覚えたばかりの倭の言葉でも、それだけは明確に分かった。


「先生、怒ってるぞ」


「見れば分かります」


「どうすんの?」


「話します」


「通じる?」


「……努力します」


     ◇


 一刻後。


「先生」


「はい」


「まだ怒ってるぞ」


「そのようですね」


 二刻後。


「先生」


「はい」


「もっと怒ってない?」


「……そのようですね」


 諸葛亮は地面に図を描いた。


 水路。


 田。


 川。


 新しく作る田。


 男の土地。


 男は首を横に振る。


 諸葛亮が説明する。


 首を横に振る。


 別の案。


 横。


 さらに別の案。


 横。


 溟は途中から寝転がっていた。


「魏より強い?」


「何がです?」


「あのおっちゃん」


「……司馬懿殿より動きませんね」


「最強じゃん」


「困りました」


     ◇


 結局、水路は男の土地を通さなかった。


 少し遠回りした。


 掘る距離も増えた。


 効率だけを考えれば悪い案だった。


 溟には不思議だった。


「先生」


「はい」


「なんで?」


「何がでしょう」


「先生の方が正しかったんだろ?」


「水の流れだけを考えれば」


「じゃあ通せばよかったじゃん」


「嫌だと言われましたので」


「偉い人だったんだろ? 先生」


「昔は」


「命令すればいいじゃん」


 諸葛亮は鍬を止めた。


「ここは蜀ではありません」


「うん」


「私は丞相でもありません」


「うん」


「そして、あの方の土地です」


 溟は首を傾げた。


「水路を作るのは、私が立派な水路を作ったと自慢するためではありません」


「じゃあ何のため?」


「皆が使うためです」


 諸葛亮は再び鍬を振った。


「作る途中で皆に嫌われてしまっては、私がいなくなった後、誰も直してくれないでしょう」


「先生いなくなるの?」


 鍬が止まった。


「……いずれは」


「ふうん」


 溟はそれ以上聞かなかった。


     ◇


 新しい田ができた。


 すると別の問題が起きた。


「先生!」


「はい」


「喧嘩!」


「今度は何でしょう」


「水!」


 走っていく。


 二人の農夫が怒鳴り合っていた。


 上流の田へ水を入れすぎた。


 下流へ届かない。


 原因はすぐ分かった。


 解決も――理屈だけなら簡単だった。


 水を使う順番を決めればいい。


 諸葛亮は地面へ線を引いた。


 朝。


 昼。


 夕。


 順番。


 量。


 村人たちへ説明する。


 すると別の男が何か言った。


 さらに別の男。


 皆が喋り始めた。


「先生」


「はい」


「揉めてる」


「ええ」


「水路作る前より揉めてない?」


「……ええ」


「失敗?」


 諸葛亮は考えた。


「いえ」


「そうなの?」


「以前は、奪い合うほど水がなかったのでしょう」


「ああ」


「使える水が増えたから、使い方で揉めるようになった」


「じゃあ成功?」


「半分は」


「半分?」


「物を作るだけでは駄目なのですね」


 諸葛亮は村人たちを見る。


「使い方も作らなければ」


     ◇


 水の順番を決めた。


 水路を誰が直すか決めた。


 田を増やした。


 収穫した穀物を置く場所を考えた。


 すると。


「先生」


「はい」


「何作ってんの?」


「倉です」


「なんで?」


「収穫が増えましたので」


「田んぼだけじゃなかったの?」


「田が増えれば穀物が増えます」


「うん」


「穀物が増えれば保管する場所が必要です」


「うん」


「保管するなら鼠への対策が必要です」


「うん」


「湿気も避けなければなりません」


「うん」


「誰が管理するかも決めなければ」


「先生」


「はい」


「いつ帰るの?」


 諸葛亮は倉を見上げた。


「……これが完成したら」


「前も聞いた」


「そうでしたか?」


「水路できたらって言った」


「記憶にありませんね」


「嘘つけ!」


     ◇


 さらに日が経った。


「先生」


「はい」


「何してんの?」


「道を見ています」


「なんで!?」


「倉まで穀物を運びにくいので」


「倉作ったから!?」


「ええ」


「倉作らなきゃよかったじゃん!」


「それでは穀物が腐ります」


「じゃあ田んぼ増やさなきゃよかったじゃん!」


「それでは皆が腹いっぱい食べられません」


「じゃあ水路――」


 溟は途中で止まった。


 諸葛亮を見る。


「先生」


「はい」


「これ、終わらないだろ」


 諸葛亮は少し考えた。


「……おそらく」


「やっぱり!」


     ◇


 そのころには、溟も村の一員になりつつあった。


「メイ!」


 声がする。


「おう!」


 溟が走っていく。


 劉の姓を正しく発音できる者はほとんどいない。


 溟という名も、最初は妙な音に聞こえたらしい。


 いつの間にか子供たちは彼を「メイ」と呼ぶようになった。


「溟様」


「あとで!」


「昼餉は?」


「こいつん家で食う!」


「ご迷惑では」


「いいって!」


 そのまま行ってしまった。


 諸葛亮は取り残された。


 隣にいた農夫が笑う。


「……何でしょう」


 男は身振りで示した。


 子供はそういうものだ。


 たぶん、そんな意味だった。


「左様ですか」


 諸葛亮も笑った。


     ◇


 溟はよく働いた。


 子供だから大した力はない。


 それでも水路の泥を掻き出した。


 籠を運んだ。


 稲を運んだ。


 薪を拾った。


 魚を捕った。


 そしてよく遊んだ。


「メイ!」


「待て!」


 田の畦を走る。


 転ぶ。


 泥に落ちる。


 笑う。


「何やってんだ!」


 村の女に怒鳴られる。


 言葉もかなり分かるようになった。


「ごめん!」


「また服汚して!」


「先生が洗う!」


 遠くにいた諸葛亮が振り返った。


「なぜ私が?」


「保護者!」


「そういう言葉だけ覚えるのが早いですね」


     ◇


 夕方。


 仕事が終わる。


 村人たちは家へ帰る。


「メイ、帰るぞ」


「うん」


 友人が母親に呼ばれて走っていく。


 別の子も。


 また別の子も。


「母ちゃん!」


 その言葉を聞いた瞬間。


 溟の足が止まった。


 誰にも気づかれない程度だった。


 少しだけ。


 そして笑う。


「また明日!」


 手を振る。


 皆がいなくなる。


 溟は一人になる。


 諸葛亮は遠くから見ていた。


 声はかけなかった。


     ◇


 夜。


 川のそば。


 溟は膝を抱えていた。


 もう、声を殺すのが上手くなっていた。


 それが諸葛亮には悲しかった。


 少し離れた場所へ腰を下ろす。


「……来たの」


「ええ」


「別に泣いてない」


「何も申しておりません」


「先生、そういうところ嫌い」


「よく言われます」


「誰に」


「最近は主に溟様に」


 少しだけ笑った。


 また静かになる。


「先生」


「はい」


「今日な」


「はい」


「田吾の母ちゃんに飯もらった」


「それはよかったですね」


「いっぱい食えって」


「ええ」


「細いって」


「事実ですね」


「先生よりマシだよ」


「それは否定しません」


 溟は小石を拾って川へ投げた。


「……うまかった」


「そうですか」


「母上の飯と、全然違った」


「そうでしょうね」


「でも、うまかった」


「ええ」


 また石を投げる。


「母上にも食わせたいな」


 諸葛亮は答えなかった。


「ここの米」


「……ええ」


「あと魚」


「ええ」


「先生が作った水路も見せたい」


「私は少し手伝っただけです」


「嘘つけ。毎日川見てるじゃん」


「川を見ることは仕事ではありません」


「先生の場合は仕事だろ」


 諸葛亮は笑った。


 溟は鼻をすすった。


「母上、ここ好きかな」


 諸葛亮は川を見る。


 田がある。


 家々から煙が上がっている。


 人々の笑い声が、まだ少し聞こえる。


「……好きになっていただけると、よいですね」


「うん」


     ◇


 翌朝。


「先生!」


「はい」


「起きろ!」


「起きております」


「田吾んとこの水路詰まった!」


 溟が飛び込んできた。


「それは大変ですね」


「行くぞ!」


「朝餉は?」


「あと!」


「昨日もそうでした」


「早く!」


 溟はもう外へ走っている。


 諸葛亮は羽扇を手に取った。


 少し考える。


 置いた。


 代わりに鍬を持った。


 外へ出る。


 朝日が田を照らしていた。


 水路には、すでに村人たちが集まっている。


「先生!」


「今参ります」


 諸葛亮は歩き出した。


 五丈原にいたころ。


 朝、彼を待っていたのは軍議だった。


 魏軍の動き。


 兵糧。


 陣形。


 死者。


 負傷者。


 次の戦。


 今。


 彼を待っているのは、


 詰まった水路だった。


「先生、早く!」


「はいはい」


 諸葛亮は笑った。


 悪くない。


 いや。


 思っていたより、ずっといい。


     ◇


 その日の夕方。


 村の老人が、諸葛亮へ尋ねた。


 たどたどしい中華の言葉だった。


 交易商からでも覚えたのだろう。


「お前……いつまで、いる?」


 諸葛亮は驚いた。


 少し考える。


 水路はできた。


 田も増えた。


 倉もできた。


 道は――まだ途中だ。


 だが道ができれば、次は橋が欲しくなるだろう。


 橋ができれば、別の村との行き来が増える。


 人が増えれば、決め事も増える。


 きっと終わらない。


 最初から分かっていたのかもしれない。


「……ご迷惑でなければ」


 諸葛亮は答えた。


「もう少し」


 老人が笑った。


 諸葛亮も笑った。


 その後ろを、泥だらけの溟が友人たちと走っていった。


「メイ!」


「待てって!」


 笑い声が響く。


 諸葛亮はそれを眺めた。


 桃源郷は、まだ見つからない。


 けれど。


 旅を急ぐ理由も、


 いつの間にか、なくなっていた。


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