第三話 須佐
桃源郷は、臭かった。
◇
「先生」
「はい」
「臭い」
「ええ」
「すっごい臭い」
「先ほどから聞こえております」
「何の臭い?」
「魚でしょう」
「腐ってる?」
「おそらく」
「桃源郷って魚腐ってるの?」
「……その可能性については考えておりませんでした」
船が着いたのは、小さな入り江だった。
長い航海だった。
途中、いくつもの島に寄った。
水を補給し、食糧を買い、風を待った。
海が荒れれば停まり、凪げば進んだ。
溟は三度吐いた。
四度目から数えるのをやめた。
諸葛亮は一度も吐かなかった。
それが腹立たしいと溟は言った。
そんな旅の末に辿り着いた場所は、中華とはまるで違っていた。
海岸には小さな舟が並ぶ。
半裸の男たちが網を引き、女たちが魚を運んでいる。
見慣れぬ衣。
聞き慣れぬ言葉。
潮と魚と煙の匂い。
遠くには深い山々。
そして。
「先生」
「はい」
「言葉、分かる?」
「ほとんど分かりません」
「……大丈夫?」
「困りましたね」
「だから困りましたねじゃねえって!」
◇
最初の問題は、言葉だった。
これは諸葛亮にもどうしようもなかった。
「水」
諸葛亮が言った。
目の前の男が首を傾げる。
諸葛亮は水筒を見せた。
「水」
男は何か言った。
「先生、通じてる?」
「通じていないことだけは分かります」
「すげえ。何の役にも立たねえ」
「溟様は厳しいですね」
身振り。
指差し。
絵。
物々交換。
あらゆる手段を使った。
銭はほとんど役に立たなかった。
代わりに布が役立った。
針が役立った。
塩が役立った。
そして何より、笑顔が役立った。
それを最初に発見したのは溟だった。
現地の少年が遠巻きにこちらを見ている。
溟も見る。
少年も見る。
溟が手を上げた。
少年が逃げた。
「……」
「嫌われましたね」
「先生うるさい」
翌日。
また同じ少年がいた。
溟が魚を一匹見せた。
少年が近づいた。
二人で魚を焼いた。
言葉は一つも通じなかった。
それでも夕方には一緒に笑っていた。
「先生!」
「はい」
「こいつ、たぶん俺と同じくらい!」
「そうですか」
「名前は……分かんねえ!」
「でしょうね」
「でも友達!」
諸葛亮は少し驚いた。
「もうですか?」
「うん」
子供とは恐ろしい。
自分が一日かけても突破できなかった言語の壁を、魚一匹で越えてしまった。
諸葛亮は竹簡へ何かを書きつけた。
「何書いた?」
「外交について」
「魚食っただけだぞ?」
「重要な発見です」
◇
しばらく海辺の集落に滞在した。
諸葛亮は言葉を覚えた。
溟はもっと早く覚えた。
子供たちと走り回っているうちに、いつの間にか単語が増えている。
「先生、遅い」
「……否定できませんね」
少し悔しかった。
やがて、この土地についても分かってきた。
海沿いに集落がある。
山を越えれば別の集落がある。
さらに西へ、東へ、南へ、人々の暮らす土地が続く。
そして内陸へ向かう川があるという。
その川を遡った先にも、人が住んでいる。
諸葛亮は興味を持った。
「行くの?」
「ええ」
「また?」
「嫌ですか?」
溟は海を見る。
少し考えた。
「……船じゃなきゃいい」
「残念ながら途中までは舟です」
「先生嫌い」
「申し訳ありません」
◇
川を遡った。
海とは違う。
流れがある。
浅瀬では舟を引いた。
場所によっては荷を降ろし、人が歩いた。
川沿いには田があった。
畑があった。
小さな集落が点々と続いている。
諸葛亮は、いつの間にか景色ばかり見ていた。
「先生」
「はい」
「何見てんの?」
「川です」
「ずっと川じゃん」
「ええ」
「面白い?」
「非常に」
溟には理解できなかった。
諸葛亮は岸へ目を向ける。
水田。
水路。
低地。
山。
森。
川幅。
流れ。
土の色。
「先生」
「はい」
「顔怖い」
「そうですか?」
「魏の陣見てる時みたい」
「魏軍より川の方が面白いですよ」
「……先生って変だな」
諸葛亮は答えなかった。
川を見ていた。
ここへ来てから、初めてだった。
敵のいない地形を見るのは。
山を見ても、伏兵を置く場所を探さなくていい。
川を見ても、敵軍を阻む方法を考えなくていい。
道を見ても、何日で兵を運べるか計算しなくていい。
ただ。
水がある。
田がある。
人がいる。
それだけだった。
不思議だった。
◇
さらに川を遡った。
やがて舟では進みにくくなり、二人は歩いた。
そして山間の小さな集落へ辿り着いた。
名を、
須佐といった。
「スサ?」
溟が聞き返した。
案内してくれた男が、もう一度言う。
「スサ」
「スサ」
溟が真似る。
男が笑った。
「言えた?」
「たぶん」
諸葛亮は集落を見渡した。
決して豊かな村ではない。
家々は質素だ。
田は狭い。
山が近い。
川も近い。
子供たちは裸足で走っている。
桃源郷。
そんな言葉からは、ほど遠い。
「先生」
「はい」
「ここが桃源郷?」
「さて」
「またそれ」
「少なくとも、桃は見当たりませんね」
「じゃあ違うじゃん」
「そうかもしれません」
溟は笑った。
◇
その夜。
雨が降った。
激しい雨だった。
山から水が落ちてくる。
川が膨らむ。
村人たちが慌ただしく動き始めた。
諸葛亮も外へ出た。
「先生!」
「溟様は中に」
「何してんの?」
「川を見ています」
「雨だぞ!」
「だからです」
諸葛亮は濡れながら川岸に立った。
水位が上がっている。
流れが速い。
土が削られている。
村人たちが土嚢代わりの籠を運ぶ。
水が田へ入り始めた。
「先生!」
「はい」
「田んぼ、水入ってる!」
「見えております」
「どうすんの!?」
諸葛亮は周囲を見た。
高低差。
田。
川。
山から流れ込む水。
排水の道。
村人が築いた小さな堤。
そして。
「……なるほど」
溟が嫌な顔をした。
「その顔知ってる」
「どの顔でしょう」
「先生が何か思いついた顔」
諸葛亮は答えなかった。
近くにいた村人を呼ぶ。
まだ覚えたばかりの言葉と、身振りと、地面に描いた線。
村人が首を傾げる。
諸葛亮はもう一度描く。
水の流れ。
溝。
田。
逃がす場所。
一人が理解した。
別の男を呼ぶ。
話が広がる。
鍬が集まった。
「溟様」
「何?」
「手伝っていただけますか」
「何すればいい?」
「掘ります」
「どこ?」
諸葛亮が指差す。
「ここから、あちらまで」
溟は距離を見る。
もう一度見る。
「長くない?」
「急ぎましょう」
「先生もやるんだよな?」
「もちろんです」
「……え?」
溟が固まった。
「先生、鍬使えるの?」
「失礼ですね」
「使えるの!?」
「農事について上奏したことは何度もあります」
「聞いてるのはそこじゃねえよ!」
◇
諸葛亮は鍬を持った。
そして。
「……」
土へ振り下ろした。
浅かった。
もう一度。
今度は石に当たった。
「先生」
「何でしょう」
「下手」
「……知識と実践には差がありますね」
隣にいた農夫が笑った。
諸葛亮も笑った。
鍬の持ち方を直される。
足の置き方を教えられる。
言葉は半分しか分からない。
それでも分かった。
こう持て。
こう踏め。
腰を使え。
「先生、教えられてる」
「そのようですね」
「天下の軍師が」
「今の私は、ただの旅人ですよ」
諸葛亮はもう一度、鍬を振った。
今度は深く入った。
「お」
溟が笑う。
「上手くなった」
「当然です」
「調子乗んな」
◇
夜明け前。
雨が弱くなった。
掘った溝を水が流れていた。
すべてを救えたわけではない。
いくつかの田は水に浸かった。
それでも、被害は最初に考えたより小さかった。
村人たちは泥だらけだった。
溟も泥だらけ。
諸葛亮も泥だらけだった。
「先生」
「はい」
「丞相って、泥だらけになる仕事なの?」
「さあ。もう丞相ではありませんので」
「あ、そっか」
「ええ」
溟が笑った。
諸葛亮は川を見る。
雨で濁った水が流れている。
その向こうに、田がある。
昨日までは知らなかった人々がいる。
名も知らぬ農夫が、諸葛亮の肩を叩いた。
何か言った。
まだすべては聞き取れない。
だが。
礼を言われたのだということくらいは分かった。
諸葛亮は頭を下げた。
◇
昼。
諸葛亮は再び川へ来ていた。
手には紐。
木の棒。
簡単な測量の道具。
溟が後ろからついてくる。
「先生」
「はい」
「何してんの?」
「測っています」
「何を?」
「川を」
「なんで?」
「昨夜のような雨が、また降ります」
「うん」
「ならば、次はもう少し上手くやれます」
溟が首を傾げた。
「また水路掘るの?」
「ええ」
「どれくらい?」
「まず、この辺りから――」
諸葛亮は川沿いを歩き始めた。
溟はその背中を見る。
「先生」
「はい」
「いつまでここにいるの?」
諸葛亮は足を止めた。
いつまで。
考えていなかった。
旅の途中だ。
東の果てに桃源郷を探す。
ならば、また進むべきなのだろう。
けれど。
川を見る。
田を見る。
昨日一緒に泥まみれになった人々を見る。
直せるところがある。
作れるものがある。
次の雨までに、できることがある。
「……そうですね」
諸葛亮は少し考えた。
「次の雨が降るまで、というのはいかがでしょう」
「長くない?」
「では、水路ができるまで」
「もっと長くなってない?」
「そうですか?」
「絶対そうだよ」
諸葛亮は笑った。
秋風が山から降りてくる。
五丈原とは違う風だった。
その風の中。
五丈原で死んだ軍師は、
初めて、戦のためではない地図を描き始めた。




