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第二話 海の名を持つ少年



 劉溟は、海が嫌いだった。


     ◇


「先生」


「はい」


「まだ?」


「まだです」


「昨日もそう言った」


「昨日もまだでしたから」


「じゃあ明日は?」


「おそらく、まだでしょう」


「……帰っていい?」


「どちらへ?」


「…………」


 劉溟は黙った。


 諸葛亮は書簡から目を上げた。


「申し訳ありません」


「先生の馬鹿」


「それは申し訳ありません」


「そういうとこだぞ」


 小さな舟は長江を下っていた。


 五丈原を離れてから、幾日経っただろう。


 溟は途中から数えるのをやめた。


 山が変わった。


 川が変わった。


 話す言葉の訛りも変わった。


 それでも舟は東へ進んだ。


 夜明け前に動き、時には葦の中に隠れ、人目の多い船着場を避ける。


 丞相の旅ではない。


 死んだ男の逃避行だった。


 それでも諸葛亮は、毎朝同じ時刻に起きた。


 書を読む。


 記録を取る。


 川幅を見る。


 流れを見る。


 船頭に土地のことを尋ねる。


 食糧の残りを確かめる。


 溟は三日目くらいで呆れた。


「先生」


「はい」


「死んだんだよな?」


「その予定です」


「死んだ奴って、そんなに働くの?」


 諸葛亮の筆が止まった。


「……なるほど」


「何だよ」


「考えたことがありませんでした」


「休めよ」


「そうですね」


 諸葛亮は書簡へ視線を戻した。


「休んでねえじゃん」


     ◇


 長江を下りながら、舟を何度も替えた。


 行商人の舟。


 漁師の舟。


 荷を運ぶ小舟。


 名を尋ねられれば偽名を使った。


 どこから来たと尋ねられれば、諸葛亮は土地に合わせて答えを変えた。


 溟には、それが面白くなかった。


「俺の名前も変えるの?」


「必要であれば」


「嫌だ」


 即答だった。


 諸葛亮は少年を見る。


「劉の姓を名乗れば、危険が及ぶかもしれません」


「じゃあ劉は言わない」


「では――」


「でも溟は変えない」


 そこだけは譲らなかった。


 諸葛亮は少し黙った。


「母上がつけてくれたから」


「……そうでしたね」


 溟は舟の縁に顎を乗せた。


「先生」


「はい」


「俺の名前って、海って意味なんだろ?」


「ええ」


「でっかい海?」


「果ての見えぬ大海、といった意味でしょうか」


「ふうん」


 水面を見つめる。


 長江はすでに、溟が知る川とは別物のように大きくなっていた。


「母上、海を見たことあるかな」


「どうでしょう」


「俺より先に見てたりして」


「そうかもしれません」


「だったら帰ったら自慢できないな」


 諸葛亮は何も言わなかった。


 帰ったら。


 溟は何度も、その言葉を使う。


 帰ったら母に話す。


 帰ったら母と食べる。


 帰ったら母に叱られる。


 帰ったら。


 帰ったら。


 帰ったら。


 諸葛亮は、そのたびに否定しなかった。


 肯定もしなかった。


     ◇


 やがて長江の水に、潮の匂いが混じり始めた。


 船頭が言った。


「もうすぐ海だ」


 溟は立ち上がった。


「海!?」


「落ちますよ」


「分かってる!」


「昨日も落ちかけました」


「あれは船が揺れたんだよ!」


「舟は揺れるものです」


「先生うるさい!」


 それまで退屈そうにしていた少年が、急に落ち着かなくなった。


 舟の前へ行き。


 戻り。


 また前へ行く。


 船頭が笑っていた。


 そして。


 川の両岸が、遠ざかっていった。


「……え」


 溟が立ち止まる。


 水が広がっている。


 どこまでも。


 山もない。


 対岸もない。


 空と水だけが、遥か遠くで一つになっていた。


「これが……」


 声が小さくなる。


「海?」


「ええ」


 諸葛亮も隣へ立った。


 彼自身、これほど広い海を間近に見る機会は多くなかった。


 波が舟を持ち上げる。


 潮風が衣を揺らす。


 溟はしばらく何も言わなかった。


 諸葛亮は、その横顔を見た。


 驚いている。


 怖がってもいる。


 けれど、少しだけ笑っていた。


「すげえ……」


「ええ」


「これ、全部水?」


「そうですね」


「向こうに陸あるの?」


「あります」


「見えないぞ」


「遠いですから」


「どれくらい?」


「さて」


「先生、それ便利だな」


「最近気に入っております」


 溟が笑った。


 諸葛亮も笑った。


 その日の昼までは。


     ◇


 夜。


 舟は沿岸の小さな入り江に入っていた。


 翌日から乗る船を待つためだった。


 海を渡るには、これまでの小舟では心許ない。


 諸葛亮は船頭と話し込み、必要な水と食糧を確認した。


 干した穀物。


 塩。


 水。


 薬。


 縄。


 予備の帆。


 そして海路。


「東へ行く船はある」


 船頭が言った。


「だが、どこまで行くつもりだ?」


「行けるところまで」


「変な客だな」


「よく言われます」


「どこで?」


「昔の職場で」


 船頭は首を傾げた。


 諸葛亮は笑って誤魔化した。


 話を終え、舟へ戻る。


 溟がいなかった。


「……溟様?」


 返事がない。


 諸葛亮は周囲を見た。


 荷の陰。


 舟の後ろ。


 岸。


 いない。


 少し歩く。


 波の音がする。


 そして。


 岩場の向こうから、小さな声が聞こえた。


 諸葛亮は足を止めた。


 泣いていた。


     ◇


 昼間とは違った。


 声を上げて泣いているわけではない。


 岩の上に座り、膝を抱え、必死に声を殺していた。


「溟様」


「……来るな」


 諸葛亮は止まった。


「承知しました」


「そっち行け」


「それは困ります」


「なんでだよ」


「あなたを一人にしないと、お母上に約束しましたので」


 返事がなくなった。


 しばらくして。


「……先生」


「はい」


「俺の名前って、海って意味なんだろ?」


「ええ」


「母上がつけてくれた」


「左様でございます」


 波が岩へぶつかった。


「なのに俺、海嫌いだ」


 諸葛亮は少年を見る。


「何故です?」


 溟は顔を上げなかった。


「母上から、どんどん遠くなるから」


 諸葛亮は答えられなかった。


 天下三分の計を考えた男だった。


 国を治めた。


 軍を動かした。


 何万という兵の食糧を計算した。


 敵将の思惑を読み、季節を読み、地形を読み、人の心を読んだ。


 それでも。


 母を恋しがる少年に、何と言えばいいのか分からなかった。


 だから、少し離れた岩へ腰を下ろした。


「来るなって言った」


「ですので、隣には座っておりません」


「そういう問題じゃない」


「難しいものですね」


 また少し、沈黙。


「母上……生きてるかな」


 諸葛亮は目を閉じた。


 嘘なら言える。


 きっと生きています。


 必ず会えます。


 私がお会わせします。


 どれも簡単だった。


 だが、言えなかった。


「……分かりません」


「またそれかよ」


「申し訳ありません」


「先生のくせに」


「ええ」


 波が寄せる。


 波が引く。


「ですが」


 諸葛亮は海を見た。


「お母上は、あなたが生きていることを願っておられるでしょう」


 溟は何も言わない。


「少なくとも、私はそう思います」


「……先生が?」


「はい」


「間違ってたら?」


「その時は、私が謝ります」


「誰に?」


「お母上に」


 溟がようやく顔を上げた。


「会えたら?」


「ええ」


「……じゃあ先生も一緒に帰るんだぞ」


 諸葛亮は、ほんの一瞬だけ答えに詰まった。


「……そうですね」


「約束だからな」


「はい」


「絶対だからな」


「善処いたします」


「それ守らない奴の言い方じゃねえか!」


 諸葛亮は目を瞬いた。


「よくご存じで」


「先生がいつも使うからだよ!」


 泣きながら怒っていた。


 だが、それでいい。


 その方がいい。


 諸葛亮は小さく笑った。


     ◇


 翌朝。


 東へ向かう船が出た。


 昨日までの舟より、ずっと大きい。


 帆が上がる。


 風を受ける。


 陸が少しずつ遠ざかっていく。


 溟は船尾に立っていた。


 ずっと西を見ていた。


 諸葛亮は何も言わなかった。


 やがて陸が霞む。


 山が消える。


 中華が、水平線の向こうへ沈んでいく。


「先生」


「はい」


「見えなくなった」


「……ええ」


「母上のいるところ、見えなくなった」


 溟は泣かなかった。


 昼だから。


 諸葛亮は、なんとなくそう思った。


「溟様」


「何?」


「東を見てみませんか」


「なんで」


「昨日は西をご覧になったでしょう」


「だから?」


「今日は東を見る日です」


「意味分かんない」


「私も今考えました」


「適当じゃねえか」


 それでも溟は振り返った。


 東。


 何もない。


 海しかない。


「桃源郷、あるかな」


「さて」


「なかったら?」


「探しましょう」


「それでもなかったら?」


 諸葛亮は少し考えた。


「……その時に考えます」


「先生、ほんと変わったな」


「そうでしょうか」


「前だったら絶対、全部考えてた」


 諸葛亮は黙った。


 少年の方が、自分よりよく見ているのかもしれない。


 五丈原で死ぬ前の自分なら。


 目的地を定め。


 航路を調べ。


 必要な日数を計算し。


 失敗した場合の策を三つは用意してから船に乗っただろう。


 だが今は。


 海の向こうに何があるのかさえ知らない。


 不思議なことに。


 それを恐ろしいとは思わなかった。


「溟様」


「ん?」


「旅というのは、案外こういうものなのかもしれませんね」


「どういうの?」


「行ってみなければ分からない」


「……先生、今まで旅したことなかったの?」


「ありますよ」


「じゃあ何してたの」


「主に兵糧の計算を」


「それ旅じゃねえよ」


「そうなのですか?」


「知らねえけど」


 海風が吹いた。


 帆が大きく膨らむ。


 船は東へ進んでいく。


 海の名を持つ少年は、


 まだ海が嫌いだった。


 それでも。


 ほんの少しだけ、


 東を見るようになった。


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