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第一話 諸葛亮、死す


 建興十二年、秋。


 五丈原に、秋風が吹いていた。


 丈高く伸びた草が、風に押されて波のように揺れる。


 遠くには渭水。


 その向こうには魏の大軍。


 そしてこちらには、蜀の軍旗が並んでいる。


 いつもと変わらぬ五丈原の夕暮れだった。


 ただ一つ。


 蜀漢丞相、諸葛亮孔明が死んだ。


     ◇


「丞相が――亡くなられた」


 その言葉が軍中を駆け巡ったとき、誰もすぐには信じなかった。


 昨日まで指示を出していた。


 軍糧を確認し、各陣の配置を確かめ、報告を聞き、文書へ目を通していた。


 病床にあってなお、諸葛亮は諸葛亮だった。


 だから明日もいる。


 誰もが、どこかでそう思っていた。


 だが丞相府の幕は閉ざされた。


 近臣たちは口を固く閉ざし、医師は俯いたまま出てこない。


 そして楊儀から命が下った。


「全軍、撤退の支度をせよ」


 北伐は終わった。


 それだけで十分だった。


 兵たちは悟った。


 本当に、丞相は死んだのだ。


     ◇


 夜。


 魏軍の陣営にも、その知らせは届いた。


「諸葛亮が死んだ?」


 司馬懿は、間者からの報告を聞いても表情を変えなかった。


「はい。蜀軍に撤退の動きがあります」


「……そうか」


 長かった。


 あの男とは、長く戦った。


 戦場で剣を交えたわけではない。


 むしろ逆だ。


 互いに相手が何を考えているのかを読み、そのさらに先を読み、動かず、待ち、時には何もしないことを選び続けた。


 奇妙な戦だった。


 司馬懿は盤上の駒を一つ摘まんだ。


「本当に死んだのか?」


「は?」


「諸葛亮だ」


「それは……」


 間者が困った顔をする。


「死体を見た者は?」


「おりません」


「棺は?」


「確認できておりません」


「ならば、まだ死んだと決めるな」


 司馬懿は駒を戻した。


 諸葛亮という男は、自分が死ぬことすら策に使いかねない。


 そういう男だ。


 だから動かない。


 翌朝。


 蜀軍が撤退を開始した。


 陣は整然としている。


 敗走ではない。


 まるで最初から撤退の日まで決めていたかのようだった。


「追撃しますか」


 将が尋ねる。


 司馬懿はしばらく蜀軍を眺めた。


「……追う」


 ただし、と続ける。


「深追いはするな」


     ◇


 蜀軍の後方。


 魏軍接近の知らせが届く。


 ざわめきが走った。


 丞相はもういない。


 今までなら、皆が同じことを考えた。


 ――丞相なら、どうする。


 だがもう、その問いに答える人はいない。


 それでも蜀軍は動いた。


 旗が翻る。


 陣が組まれる。


 兵が配置につく。


 そして。


 魏軍の前に、一台の車が現れた。


 その上にいる男を見て、魏兵たちの足が止まる。


 羽扇。


 綸巾。


 見慣れた姿。


「諸葛亮……!」


 死んだはずの男が、そこにいる。


 魏軍に動揺が走る。


 報告を受けた司馬懿は、一瞬だけ目を細めた。


「退け」


「しかし!」


「退け!」


 魏軍は距離を取った。


 蜀軍はそのまま撤退していく。


 やがて、それが木像であったと知ったころには遅かった。


 諸葛亮は死してなお、司馬懿の足を止めた。


 後に人々は言う。


 死せる孔明、生ける仲達を走らす。


 司馬懿はその言葉を聞いても怒らなかったという。


 ただ、笑った。


「私は生きている者の心を読むことはできる」


 そして呟いた。


「死んだ者の心まで読めるものか」


     ◇


 北伐は終わった。


 蜀軍は漢中へ帰還する。


 五丈原には、秋風だけが残った。


 諸葛亮の遺言により、その葬送は質素なものとなった。


 華美な副葬品はない。


 盛大な陵墓も造られない。


 ただ定軍山に葬る。


 それが丞相の望みであるとされた。


 蜀の人々は泣いた。


 成都でも。


 漢中でも。


 名も知らぬ農村でも。


 諸葛亮という男が死んだ。


 劉備玄徳に三顧の礼で迎えられ、


 天下三分の計を説き、


 蜀漢の丞相となり、


 先帝亡き後の国を支え、


 幼主を託され、


 幾度も北伐を行い、


 そして五丈原で力尽きた。


 一つの時代が終わった。


     ◇


 ――そのころ。


 五丈原から遥か南東。


 長江へ向かう名もなき支流を、小さな舟が下っていた。


 月もない夜だった。


 舟には三人。


 船頭が一人。


 少年が一人。


 そして、もう一人。


 少年は舟の端に座り、真っ暗な水面を見つめていた。


 十を少し過ぎたほどだろうか。


 上等だったはずの衣は旅で汚れている。


 眠れないらしい。


「先生」


 少年が言った。


「はい」


 後ろから声が返ってきた。


「寒い」


「秋ですから」


「そういう意味じゃねえよ」


「では、どういう意味でしょう」


「……もういい」


 少年――劉溟は頬を膨らませた。


 しばらく水の音だけが続いた。


 やがて溟が、また口を開く。


「先生」


「はい」


「本当に死んだことになってるの?」


「おそらく」


「おそらくって……見つかったら?」


「困りますね」


「困りますね、じゃねえだろ」


 闇の中。


 男が小さく笑った。


 月明かりすらないというのに、その手には一本の羽扇がある。


 溟が振り返った。


「なあ、先生」


「はい」


「俺たち、どこへ行くんだ?」


 男は答えなかった。


 これまでなら、答えられた。


 益州へ。


 漢中へ。


 祁山へ。


 長安へ。


 洛陽へ。


 いつだって目的地があった。


 その先には、漢室復興という果てしなく遠い目的があった。


 だが今は。


 主君も。


 官職も。


 軍も。


 北伐も。


 明日までに裁可しなければならない山のような文書すらない。


 あるのは小さな舟。


 秋の川。


 劉氏の少年。


 そして、東へ流れる水だけだった。


「先生?」


「……そうですね」


 諸葛亮は目を閉じた。


 そして、ふと思い出した。


 まだ若かったころに目を通した、古い記録。


 東方。


 海の彼方。


 中華の果て。


 そこには、争いから遠く離れた神仙の住まう地があるという。


 始皇帝の時代にも、東の海へ仙境を求めた者たちがいた。


 無論、伝承にすぎない。


 かつての自分なら、政に益なしと読み流していただろう。


「溟様」


「ん?」


「東の海の果てには、人の争いから遠く離れた地があるそうです」


 溟が振り返る。


「……本当に?」


「さて」


「またそれかよ」


「何分、古い伝承ですから」


「どんなところなんだ?」


 諸葛亮は少し考えた。


 争いがない。


 権力を巡る諍いもない。


 戦に田畑を焼かれることもない。


 王朝が興り、滅び、そのたびに人々が巻き込まれることもない。


 もし、そんな場所が本当にあるのなら。


 それはきっと――。


「桃源郷、とでも呼ぶのでしょうか」


「とうげんきょう?」


「ええ。世の争いから離れ、人が穏やかに暮らす場所です」


 溟はしばらく考えた。


 やがて、暗い水面の先を見る。


「そこなら……」


 小さな声だった。


「母上も、来られるかな」


 諸葛亮は答えられなかった。


 この少年の母が、今も無事でいるのか。


 再び会わせてやることができるのか。


 天下についてなら、いくらでも策を立てられた男にも分からない。


「……分かりません」


「先生にも?」


「ええ」


 溟は膝を抱えた。


「先生って、意外と分からないこと多いな」


「最近、私も気づきました」


「大丈夫なのかよ……」


 諸葛亮は小さく笑った。


 そして少年と同じ方向を見る。


 東。


 まだ見ぬ海の、その向こう。


 漢もない。


 魏もない。


 呉もない。


 蜀もない。


 自分を丞相と呼ぶ者すらいない場所。


 そんな土地が、本当にあるのなら。


「……桃源郷、ですか」


 五丈原で死んだ男は呟いた。


「行ってみても、よいかもしれませんね」


「遠い?」


「おそらく」


「どれくらい?」


「分かりません」


「また!?」


「私にも分からないことくらいあります」


「さっき知ったよ!」


 少年の声が、夜の川に響いた。


 諸葛亮は羽扇を膝へ置いた。


 もう果たさなければならない北伐はない。


 もう取り戻さなければならない長安もない。


 初めて、行き先さえ決まっていない。


 それでも。


 舟は東へ流れていく。


 五丈原で死んだ男と、


 海の名を持つ少年を乗せて。


 その先に何があるのか、二人はまだ知らない。


 秋風が吹いた。


 今度は抗う必要もなかった。


 諸葛亮は、ただその風にあたっていた。


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