第十話 岩戸
卑弥呼が、消えた。
◇
「消えた、とは?」
諸葛亮は聞き返した。
「そのままの意味です」
思金は、珍しく疲れた顔をしていた。
「朝から誰にも会おうとなさいません」
「お部屋に?」
「いいえ」
「では?」
「岩屋です」
「……岩屋」
「祭祀に使う場所があります。奥に」
諸葛亮はしばらく黙った。
「入れないのですか?」
「入れません」
「なぜ?」
「卑弥呼様が、入るなと」
「……なるほど」
「どうします?」
「それを私に聞きますか」
「あなたなら何とかするかと」
「私は人を岩屋から出した経験はありません」
「私もありません」
二人は黙った。
困った時に相談される男が二人。
揃って困っていた。
◇
岩屋は、集落から少し離れたところにあった。
山の斜面。
大きな岩の裂け目を利用した、古い祭祀の場所。
入口は木で塞がれている。
その前には、すでに何人もの人間が集まっていた。
誰も大声を出さない。
誰も近づこうとしない。
ただ。
不安そうに、岩屋を見ている。
「卑弥呼様」
思金が呼んだ。
返事はない。
「私です」
ない。
「孔明殿もおります」
少し間があった。
それでも。
何も聞こえなかった。
「嫌われていますね」
「私ではなく、あなたがでは?」
「なぜ私なのです」
「昨日、かなり厳しいことをおっしゃったでしょう」
「……」
諸葛亮は否定できなかった。
◇
「卑弥呼様」
今度は諸葛亮が呼んだ。
「お話だけでも」
沈黙。
「溟様のことでしたら、すでに人を出しております」
反応はない。
「戦わせるつもりはありません」
ない。
「居場所を探らせます」
ない。
「その後のことは――」
そこで。
中から声がした。
「その後は?」
小さかった。
「……」
「孔明殿」
「はい」
「その後は、どうするのです?」
諸葛亮は答えなかった。
「溟が見つかったら?」
「……」
「娘が見つかったら?」
「……」
「狗奴国が渡さないと言ったら?」
「……」
「兵を出すのですか?」
「それは」
「誰が決めるのです?」
諸葛亮は目を閉じた。
「あなたです」
◇
返事がなくなった。
思金が諸葛亮を見る。
諸葛亮は首を横に振った。
今は。
続けるべきではない。
◇
「私は」
やがて声がした。
「祈りました」
「……」
「昨日から、ずっと」
岩の向こう。
姿は見えない。
「神に聞きました」
「……」
「どうすればよいのですか、と」
「……」
「答えてください、と」
卑弥呼の声が震えた。
「何も」
息を吸う音。
「何も、答えてくださらない」
◇
諸葛亮は空を見上げた。
何も言わなかった。
言えなかった。
神について、
彼が知っていることなど何もない。
だが。
答えが返らない夜なら。
知っていた。
◇
「孔明殿」
「はい」
「あなたは」
岩の向こうから尋ねられる。
「答えが分からない時、どうしていたのです?」
「考えました」
「それでも分からなければ?」
「人に聞きました」
「それでも?」
「さらに考えました」
「それでも分からなければ?」
諸葛亮は少し考えた。
「……決めました」
岩屋の中が静かになる。
「正しいか分からなくても?」
「はい」
「間違っていたら?」
「謝りました」
「それだけ?」
「直せるものは直しました」
「直せなければ?」
長い沈黙。
「忘れませんでした」
◇
思金が横目で諸葛亮を見る。
その言葉が、
どこから出たものなのか。
彼には分からない。
ただ。
聞いてはいけない気がした。
◇
「怖くなかったのですか」
「怖かったですよ」
「嘘」
「本当です」
「あなたが?」
「私を何だと思っておられるのです」
岩の向こうで。
ほんの少しだけ、
息が漏れた。
笑ったのかもしれない。
「何でも分かる人」
「それは大きな誤解ですね」
「思金もそう言っています」
「後で話があります」
思金が小声で言った。
「私は何も言っていません」
◇
だが。
戸は開かなかった。
◇
昼になった。
人が増えた。
卑弥呼が出てこない。
その噂は、
すでに周囲へ広がり始めていた。
良くない。
諸葛亮にも分かる。
この国は、
まだ一人の女王に依るところが大きい。
その女王が姿を隠した。
理由など関係ない。
人は理由のない空白を、
自分たちの想像で埋める。
「病ではないか」
「神がお怒りになったのでは」
「狗奴国が攻めてくるのでは」
「女王は我々を見捨てたのでは」
声が増える。
不安は、
火より速く広がる。
◇
「まずいですね」
諸葛亮が言った。
「ええ」
「人を散らせますか」
「散らせば、余計に何かあったと思われます」
「では、何か仕事を」
「もう皆、手につかないでしょう」
「……面倒ですね」
「倭国ですから」
いつもの答えだった。
だが。
今日は思金も笑わなかった。
◇
そこへ。
一人の男が来た。
卑弥呼の奥へ出入りしている、
あの男だった。
手に食事を持っている。
「食べられましたか?」
思金が尋ねる。
「いいえ」
「昨日から?」
「水だけです」
男は岩屋を見る。
表情は変わらない。
だが。
器を持つ指に、
わずかに力が入っていた。
「私が持っていきます」
「入れるのですか?」
「入口までなら」
◇
男は戸の前へ座った。
「卑弥呼様」
返事はない。
「食事を置きます」
「……要りません」
「そうおっしゃると思いました」
「なら持って帰って」
「置いておきます」
「……」
「冷めますので、できれば早めに」
「要りません」
「では、私が後で食べます」
「……」
諸葛亮が男を見る。
思金も見る。
男は平然としていた。
「何です?」
「いえ」
諸葛亮は首を振った。
「随分と、慣れておられるなと」
「長いですから」
「何が?」
男は少し考えた。
「この方が、こうして意地を張るのを見るのが」
◇
岩屋の中から声がした。
「聞こえています」
「聞こえるように申しました」
「……帰って」
「承知しました」
男は立った。
本当に帰ろうとする。
「……食事は」
「置いております」
「そう」
「食べてください」
「……」
「あなたは昔から、腹が減ると余計に考え込む」
「帰って!」
「はい」
男は帰った。
諸葛亮はその背中を見送った。
「思金殿」
「何でしょう」
「あの方は?」
「……長く卑弥呼様のおそばにいる方です」
「それだけですか?」
「私から申し上げることではありません」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
◇
夕刻。
まだ。
卑弥呼は出てこなかった。
だが。
食事は少し減っていた。
「食べましたね」
「食べましたね」
「よかった」
二人は少しだけ安心した。
◇
「孔明殿」
思金が言った。
「はい」
「このままでは、まずいです」
「分かっています」
「何か策は?」
「考えております」
「ありますか」
「……」
「ないのですね」
「急かさないでください」
諸葛亮は腕を組む。
説得。
駄目。
命令。
論外。
危機を誇張する。
逆効果。
溟のことを伝える。
まだ情報がない。
民を連れてくる。
責任をさらに負わせるだけ。
時間を置く。
国が待たない。
「……困りましたね」
「ええ」
思金も腕を組んだ。
そして。
ふと、
周囲を見た。
◇
「孔明殿」
「はい」
「宴を開きましょう」
「……はい?」
「宴です」
「聞こえております」
「では」
「なぜ?」
「皆、不安がっています」
「だから宴を?」
「はい」
「卑弥呼様が閉じこもっているのですよ?」
「だからです」
「思金殿」
「はい」
「私は倭へ来て三年になります」
「ええ」
「まだ、あなた方が分からない時があります」
「私もあなたが分からない時がありますので、お互い様です」
◇
「酒を」
思金が命じる。
「食べ物も」
人々が戸惑う。
「それから、ウズメを呼んでください」
「ウズメ?」
諸葛亮が聞く。
「踊りが上手い者です」
「踊るのですか?」
「はい」
「今?」
「今です」
「……」
「何か?」
「いえ」
諸葛亮は真剣に考えた。
「それが……策なのですか?」
「卑弥呼様には、これが一番効きます」
◇
日が落ちる。
火が焚かれた。
最初は。
誰も笑わなかった。
当然だった。
女王が岩屋へ閉じこもっている。
狗奴国との境では人が消えている。
溟もいない。
そんな時に宴と言われても、
楽しめるはずがない。
だが。
ウズメという女は、
それを気にしなかった。
「暗い!」
第一声がそれだった。
「顔が暗い!」
誰かを指差す。
「特に思金!」
「私ですか?」
「そう!」
「生まれつきです」
「なら仕方ない!」
笑いが一つ漏れた。
「孔明!」
「私もですか」
「誰!?」
「……」
思金が吹き出した。
「あなたが呼んだのではないのですか」
「名前しか言ってません」
「そうでしたか」
◇
ウズメが踊る。
上手い。
だが。
途中から、
明らかにおかしくなった。
「……あれは踊りなのですか」
「たぶん」
「たぶん?」
「私にも分かりません」
転ぶ。
起きる。
また踊る。
誰かの真似をする。
思金の歩き方を真似る。
「私はあんな歩き方をしていません」
今度は諸葛亮。
腕を後ろに組み、
難しい顔で地面を見る。
「水が……」
ウズメが呟く。
「こちらへ流れ……」
諸葛亮の眉が動いた。
「似てる!」
誰かが叫んだ。
「似てません」
「似てる!」
「似ておりません」
笑いが広がった。
◇
岩屋の中。
卑弥呼は膝を抱えていた。
外がうるさい。
「……何をしているの」
笑い声。
また。
笑い声。
自分が閉じこもっているのに。
どうして。
少し。
腹が立った。
◇
外では、
ウズメがさらに調子に乗っていた。
今度は溟の真似を始める。
「先生!」
「それは似ていますね」
「先生うるさい!」
「……そこまで言いますか?」
笑いが起きる。
諸葛亮も、
少しだけ笑った。
そして。
その笑いが消える。
溟。
今どこにいる。
無事なのか。
◇
「孔明殿」
思金が小声で言った。
「笑ってください」
「今ですか?」
「卑弥呼様に聞こえます」
「だから?」
「皆がまだここにいると、分かります」
諸葛亮は思金を見る。
ようやく。
この策の意味を理解した。
◇
岩屋の中で。
卑弥呼は聞いていた。
人の声。
笑い声。
歌。
火の爆ぜる音。
自分がいなくても。
世界は終わらない。
そのことが。
少し寂しくて。
そして。
少しだけ、
安心した。
◇
「卑弥呼様!」
ウズメが突然叫んだ。
岩屋の中で、
卑弥呼が顔を上げる。
「出てこなくてもいいですよ!」
外が静かになった。
思金も驚いた。
「ウズメ?」
「だって!」
ウズメは続ける。
「出てきたくないんでしょう!」
返事はない。
「だったら今日は、私たちだけで飲みます!」
「……」
「酒も全部飲みます!」
「……」
「卑弥呼様の分も!」
中から。
「それは駄目」
声がした。
一瞬。
静寂。
そして。
大きな笑いが起きた。
「卑弥呼様!」
「聞こえてるじゃないですか!」
「酒は残しておけ!」
「嫌です!」
「ウズメ!」
◇
卑弥呼は、
自分でも気づかないうちに笑っていた。
ほんの少し。
そして。
涙が出た。
◇
入口のそばに、
鏡が置かれていた。
祭祀に使うものだった。
火の光が、
わずかに中へ届く。
鏡に。
女が映っていた。
髪は乱れている。
目は腫れている。
頬には涙。
とても。
神には見えなかった。
「……これが」
卑弥呼は呟く。
「女王?」
ただの女だった。
怖くて。
逃げて。
泣いて。
腹が減れば食べて。
外の笑い声が気になって。
酒を取られるのが嫌で。
そんな。
ただの人間。
◇
三年前。
須佐で、
一人の老人に尋ねた。
神に祈るだけで、
それを王と呼んでよいのでしょうか。
老人は答えをくれなかった。
代わりに。
国を見せた。
水をどう分けるか。
米をどう蓄えるか。
争いをどう止めるか。
人の話をどう聞くか。
決めたことを、
どう残すか。
そして昨日。
一人の母親が来た。
娘を返してほしいと。
自分に頼んだ。
神ではなく。
自分に。
◇
「……そうか」
卑弥呼は、
ようやく気づいた。
神が答えてくれないのではない。
これは。
神に尋ねることではない。
◇
外。
笑い声が止んだ。
音がした。
思金が振り返る。
諸葛亮も。
ウズメも。
人々も。
岩屋を見る。
◇
戸が、
動いた。
誰も触れていない。
中から。
少しずつ。
開いていく。
◇
火の光が、
暗闇へ差し込んだ。
卑弥呼は眩しそうに目を細めた。
それでも。
手を止めなかった。
自分で。
戸を開いた。
◇
誰も声を出さなかった。
卑弥呼が外へ出る。
泣いた顔。
乱れた髪。
祭祀の装束でもない。
神秘的な女王の姿とは、
ほど遠かった。
それでも。
皆が頭を下げた。
◇
「思金」
「はい」
「溟を追った者は?」
「まだ戻っておりません」
「戻ったら、すぐ知らせて」
「承知しました」
「境の村へ使いを」
「はい」
「連れていかれた者の名を、全て調べてください」
「はい」
「家族も」
「はい」
「狗奴国へ続く道を知る者を集めて」
思金が顔を上げる。
「卑弥呼様」
「それから」
卑弥呼は息を吸った。
「兵を集めなさい」
◇
空気が変わった。
諸葛亮が尋ねる。
「狗奴国を、討たれますか?」
「いいえ」
卑弥呼は首を振った。
迷いは、
まだあった。
怖さも。
消えてはいない。
それでも。
言った。
「私の民を」
一度、
声が震えた。
卑弥呼は、
もう一度言った。
「私の民を、迎えに行きます」
◇
諸葛亮は、
深く頭を下げた。
「御意」
◇
その時だった。
「思金様!」
遠くから声。
一人。
走ってくる。
溟を追わせた者だった。
泥だらけ。
息を切らしている。
「見つけました!」
「溟を?」
「はい!」
「無事ですか!」
「生きています!」
諸葛亮の肩から、
ほんの少しだけ力が抜けた。
だが。
男の顔は青ざめていた。
「何がありました」
「……火です」
「火?」
「山の向こうに」
男は息を整える。
「いくつも」
「いくつ?」
「分かりません」
「煙は?」
「たくさん」
「川は?」
「あります」
「道は?」
「荷車が通っています」
「何を運んでいる?」
「木です。黒い木を」
「炭ですね」
諸葛亮の目が細くなる。
「他には?」
「石のようなものと……鉄」
「人は?」
「多いです」
「兵は?」
「います」
「娘たちは?」
卑弥呼が尋ねた。
「……いました」
誰も息をしなかった。
「何人?」
「分かりません。ただ」
男が言う。
「一人ではありません」
◇
「溟様は?」
諸葛亮が尋ねる。
「近くまで入っています」
「一人で?」
「はい」
諸葛亮が額を押さえた。
「……あの馬鹿者」
「先生に似たのでは?」
思金が言った。
「どこがです」
「止めても行くところが」
「私はもっと慎重でした」
「五丈原まで何回行ったんです?」
「……」
「何回?」
「今は関係ありません」
◇
卑弥呼が、
ほんの少し笑った。
岩屋から出て、
初めての笑顔だった。
そして。
諸葛亮を見る。
「孔明殿」
「はい」
「どうします」
三年前なら。
彼女は、
そう尋ねただろう。
どうすればよいのですか、と。
だが。
今は違った。
「私は迎えに行きます」
「はい」
「そのために」
卑弥呼は言った。
「あなたの知恵を貸してください」
諸葛亮も、
少しだけ笑った。
「承知いたしました」
◇
諸葛亮は、
報告に来た男を見る。
「もう一度、最初から聞かせてください」
「はい」
「川の幅」
「はい」
「流れの向き」
「はい」
「道の数」
「はい」
「荷車が何台すれ違えるか」
「はい」
「煙の位置」
「はい」
「火の数」
「はい」
「見張り」
「はい」
「娘たちの場所」
「はい」
「そして」
諸葛亮は言った。
「溟様が、どこから入ったのか」
◇
思金には分かった。
三年間。
田を耕していた老人が。
水路を引いていた老人が。
村の橋を直していた老人が。
今。
別の何かに戻ろうとしている。
いや。
違う。
戻るのではない。
同じ知恵を、
別の目的に使おうとしている。
◇
敵を倒すためではない。
土地を奪うためでもない。
国を滅ぼすためでもない。
連れて帰る。
ただ。
そのために。
◇
諸葛亮は、
暗い山の向こうを見た。
夜空に。
赤い光が見えていた。
一つではない。
幾つもの火。
幾筋もの煙。
山々の間を縫うように、
長く。
うねるように。
続いている。
「孔明殿」
思金が隣に立つ。
「あれは……何でしょう」
諸葛亮は答えなかった。
ただ。
その異様な光景を見つめていた。
川。
谷。
火。
煙。
鉄。
そして。
その中へ消えた、
一人の少年。
◇
後の世。
人々は、
この夜を違う形で語ることになる。
日の光が、
岩戸の向こうへ消えた夜。
知恵ある神々が集まり、
女が踊り、
人々が笑い、
そして。
再び、
光が世界へ戻った夜として。
けれど。
この夜。
岩戸の中にいたのは、
神ではなかった。
怖くて。
泣いて。
迷って。
それでも最後には、
自分の手で戸を開いた。
一人の女だった。
そしてその女は。
この夜初めて、
自らの意思で、
王になった。




