第十一話 帰る道
「兵が集まるまで、どれほどかかりますか」
諸葛亮が尋ねた。
「早くて二日」
思金が答える。
「全てを待つなら、もう少し」
「遅いですね」
「これでも急いでいます」
「分かっています」
「分かっている顔ではありませんね」
「顔は生まれつきです」
「それ、最近よく使いますね」
◇
夜が明け始めていた。
岩戸から戻った卑弥呼は、休んでいない。
思金も。
諸葛亮も。
各地へ使者が走った。
兵を集める。
食糧を集める。
境の村へ知らせる。
狗奴国へ続く道を調べる。
連れ去られた者の名を集める。
やることはいくらでもあった。
だが。
諸葛亮には一つ、
どうしても気になることがあった。
「二日」
もう一度、呟く。
「溟様は待たないでしょうね」
「待ちませんね」
「困りました」
「あなたが育てたのでしょう」
「そこについては反論があります」
「聞きません」
◇
「私が先に行きます」
思金が顔を上げた。
「駄目です」
「まだ何も説明しておりませんが」
「説明されても駄目です」
「偵察です」
「駄目です」
「戦いません」
「なおさら駄目です」
「なぜです?」
「あなた、自分が戦えないことを忘れていませんか」
「忘れてはおりません」
「狗奴国ですよ」
「存じております」
「兵もいる」
「はい」
「その中へ行く」
「はい」
「戦えない老人が」
「……」
「何か?」
「老人を強調する必要はありますか?」
◇
卑弥呼が小さく笑った。
昨夜まで泣いていた目には、
まだ腫れが残っている。
だが。
もう隠してはいなかった。
「孔明殿」
「はい」
「行く必要があるのですか」
「あります」
「なぜ?」
「昨日の報告だけでは足りません」
「何が足りないのです」
「ほぼ全てです」
思金がため息をついた。
「報告した者が聞いたら泣きますよ」
「よく見ております。ただ、見方が違うのです」
「どう違うのです?」
「私が知りたいのは」
諸葛亮は指を折った。
「入れる場所」
一つ。
「出られる場所」
二つ。
「敵が来る場所」
三つ。
「敵が来られない場所」
四つ。
「そして」
五つ目。
「人を連れて帰れる場所です」
◇
卑弥呼は少し考えた。
「兵が着く前に?」
「はい」
「戦わない?」
「できる限り」
「できる限り?」
「世の中に絶対はありませんので」
「やっぱり駄目です」
思金が言った。
「では、どうすれば許していただけますか」
「護衛をつけます」
「目立ちます」
「一人です」
「一人?」
「腕は保証します」
「隠密には?」
「……」
思金が目を逸らした。
「なぜ黙るのです」
◇
「入れ」
思金が言った。
戸が開く。
一人の若者が入ってきた。
◇
最初に目についたのは、
剣だった。
長い。
次に肩。
広い。
そして。
何より。
目つきが悪かった。
「……」
諸葛亮が見る。
「……」
若者も見る。
「思金殿」
「はい」
「護衛ですよね?」
「そうです」
「私を斬る者ではなく?」
「失礼なことを言うな」
若者が初めて口を開いた。
「頼まれなければ斬らん」
「頼まれたら斬るのですか?」
「相手による」
「思金殿」
「大丈夫です」
「どこがでしょう」
◇
「名は?」
諸葛亮が尋ねる。
「タケミカヅチ」
「タケミカヅチ殿」
「殿はいらん」
「では、タケミカヅチ」
「何だ」
「よろしくお願いいたします」
「うむ」
それだけだった。
諸葛亮は思金を見る。
「会話が終わりました」
「そういう男です」
「なるほど」
「何か不満か」
「いえ。簡潔で大変よろしいかと」
◇
出発の支度をする。
食糧。
水。
縄。
布。
火を起こす道具。
簡単な薬。
そして。
諸葛亮は木札と筆記具を入れた。
タケミカヅチが見る。
「何だ、それは」
「記録します」
「敵地で?」
「敵地だからです」
「変な老人だな」
「よく言われます」
◇
「孔明殿」
出発前。
卑弥呼が呼び止めた。
「はい」
「溟を」
「連れて帰ります」
即答だった。
「娘たちも」
「できる限り」
「できる限り、ですか」
「……はい」
卑弥呼は少しだけ黙った。
それから。
「では」
まっすぐ諸葛亮を見る。
「できる限りを、増やしてください」
諸葛亮も、
まっすぐ見返した。
「御意」
◇
歩き出す。
しばらくして。
諸葛亮が隣の男へ尋ねた。
「タケミカヅチ」
「何だ」
「一つお願いがあります」
「言え」
「溟様を見つけたら」
「うむ」
「まず殴ってください」
「承知した」
「……」
諸葛亮が歩みを止めた。
「どうした」
「いえ」
少し考える。
「やはり訂正します」
「なぜだ」
「本当に殴りそうですので」
「殴れと言ったのはお前だ」
「言葉の綾です」
「分からん」
「でしょうね」
◇
「どんな奴だ」
歩きながらタケミカヅチが聞く。
「溟様ですか?」
「そうだ」
「困った方です」
「弱いのか」
「いえ」
「強い?」
「そういう意味でもなく」
「では何だ」
諸葛亮は考えた。
「人が泣いていると、放っておけない方です」
「良い奴ではないか」
「良い方ですよ」
「なら何が困る」
「自分が泣くことになるかどうかを考えないのです」
タケミカヅチが黙った。
「なるほど」
「分かりますか」
「馬鹿なのだな」
「そこまでは申しておりません」
◇
境へ近づく。
諸葛亮の歩みが遅くなった。
「疲れたか」
「いえ」
「老人だから無理をするな」
「思金殿といい、なぜ皆そこを強調するのでしょう」
「では何だ」
「見ています」
「何を」
「道を」
◇
地面にしゃがむ。
轍。
車輪の跡。
深い。
「荷車ですね」
「見れば分かる」
「重いものを運んでいます」
「鉄だろう」
「それだけではありません」
指で土を触る。
「同じ道を、かなり頻繁に通っています」
「だから?」
「これだけの量を運ぶなら、人も必要です」
「当然だ」
「人がいれば食糧が必要です」
「……」
「炉を使うなら炭が必要」
「……」
「鉄を運ぶなら道が必要」
「……」
「水も必要」
諸葛亮が立つ。
「大きな場所は」
道の先を見る。
「大きいというだけで、腹が減るのですよ」
◇
タケミカヅチは、
しばらく老人を見る。
「お前」
「はい」
「本当に農民か?」
「誰がそのようなことを?」
「思金」
「……後で話がありますね」
◇
さらに進む。
川。
諸葛亮はまた止まった。
「今度は何だ」
「川です」
「見れば分かる」
「先ほども聞きましたね」
「川がどうした」
諸葛亮は流れを見る。
幅。
深さ。
岸。
石。
草。
「渡れますね」
「渡れる」
「雨が降れば?」
「増える」
「どれほど?」
「知らん」
「調べましょう」
「どうやって」
「地元の者に聞きます」
「狗奴国だぞ」
「では跡を見ます」
岸へ近づく。
「ここまで」
「何が」
「水が来ています」
草に絡んだ枝。
泥の跡。
タケミカヅチも見る。
「……なるほど」
「帰りに雨が降った場合、この道は使えません」
「帰り?」
「はい」
「まだ入ってもいないぞ」
「だから考えるのです」
◇
タケミカヅチが笑った。
「変な奴だな」
「本日二度目です」
「敵地へ入る前から帰ることを考える奴は初めて見た」
「それは」
諸葛亮が立ち上がる。
「帰るために入るからです」
「……」
「人を助けるのでしょう?」
「ああ」
「ならば」
川の向こうを見る。
「入ることより、帰ることの方が大切です」
◇
日が傾くころ。
煙が見え始めた。
一つ。
二つ。
そして。
数えられなくなった。
「多いな」
「ええ」
「思ったより」
「ええ」
諸葛亮の表情から、
少しずつ柔らかさが消えていく。
◇
炭を運ぶ者。
木を運ぶ者。
荷車。
鉄。
兵。
村人。
川沿いに道。
谷へ分かれる道。
また合流する。
諸葛亮は、
ほとんど喋らなくなった。
時々止まり、
木札へ何かを書く。
「何を書いている」
「道です」
「地図か」
「大まかなものですが」
「見せろ」
「どうぞ」
タケミカヅチが見る。
「……」
「何か?」
「分からん」
「そうですか」
「線ばかりだ」
「道ですから」
「これは?」
「川」
「これは?」
「煙」
「これは?」
「荷車を見た場所」
「これは?」
「兵」
「これは?」
「帰りに使えそうな道」
「……帰りばかりだな」
「重要ですので」
◇
夜。
二人は山へ登った。
獣道に近い。
途中。
タケミカヅチが何度か、
諸葛亮の腕を引いた。
「足元」
「ありがとうございます」
「遅い」
「申し訳ありません」
「やはり老人ではないか」
「否定はしておりません」
◇
やがて。
尾根へ出た。
「……」
タケミカヅチが息を呑む。
眼下。
谷が、
赤かった。
◇
火。
火。
火。
幾つもの炉。
山の斜面。
谷底。
川沿い。
煙が上がる。
赤い光が、
暗闇の中を点々と続いている。
その間を、
人が動く。
荷車が動く。
炭が運ばれる。
鉄が運ばれる。
遠くから見ると。
まるで。
山そのものが、
息をしているようだった。
◇
「一つではないな」
タケミカヅチが言った。
「ええ」
「八つ……いや、もっとある」
「数そのものは重要ではありません」
「何?」
諸葛亮は目を細める。
「炉は分かれています」
「そうだな」
「谷も分かれている」
「ああ」
「ですが」
指を動かす。
「道が繋いでいる」
別の場所。
「水が繋いでいる」
さらに。
「炭を運ぶ道も」
「……」
「鉄を運び出す道も」
「……」
「別々に見えて」
諸葛亮は、
谷全体を見る。
「一つです」
◇
煙が風に流れる。
幾筋にも分かれた煙。
赤い火。
谷を這う道。
川。
山。
それらが、
巨大な何かの身体のように見えた。
「頭は幾つもある」
諸葛亮が呟く。
「だが」
「身体は一つ、か」
タケミカヅチが続けた。
「……ええ」
◇
しばらく二人は、
何も言わなかった。
「娘たちは?」
タケミカヅチが聞く。
「報告では、川の近く」
「あれか」
指差す。
柵。
建物。
見張り。
「可能性はあります」
「兵は」
「多いですね」
「正面からなら抜ける」
諸葛亮が横を見る。
「一人で?」
「ああ」
「何人ほど倒せます?」
「数えたことはない」
「……頼もしいですね」
「任せろ」
「ですが」
諸葛亮は再び谷を見る。
「抜けた後は?」
「何?」
「娘たちを連れて」
「……」
「同じ道を戻れますか?」
タケミカヅチは答えなかった。
◇
「戦える者だけなら」
諸葛亮が言う。
「敵陣を突破することはできるでしょう」
「……」
「ですが、我々が連れて帰るのは兵ではありません」
娘。
怪我人。
歩けない者がいるかもしれない。
衰弱している者。
恐怖で動けない者。
「敵を倒して」
諸葛亮は続ける。
「その場に残された者が死んだのであれば」
タケミカヅチを見る。
「それを勝ちと呼べますか?」
◇
「なら」
タケミカヅチが尋ねた。
「どうする」
「道を作ります」
「道?」
「はい」
「ここに?」
「正確には」
諸葛亮は谷を見下ろす。
「帰る道を」
◇
風向き。
川。
橋。
斜面。
荷車。
炭置き場。
兵舎。
柵。
見張り。
諸葛亮の目が、
一つずつ拾っていく。
「敵を破ればよいのだな」
タケミカヅチが言った。
「いいえ」
即答だった。
「では?」
「一人でも多く」
諸葛亮は答えた。
「連れて帰ることです」
◇
タケミカヅチは、
何も言わなかった。
ただ。
その言葉を覚えた。
◇
「まず溟様を探します」
「どこにいると思う」
「捕まっていなければよいのですが」
「捕まっていたら?」
「助けます」
「娘たちは?」
「助けます」
「両方か」
「そのために来ました」
「欲張りだな」
「よく言われます」
◇
その時。
谷の一角が、
明るくなった。
「……」
二人が見る。
火。
さっきまでなかった場所。
人が走る。
声。
何かが倒れる音。
さらに火。
「何だ?」
タケミカヅチが立つ。
諸葛亮は、
じっと見ていた。
「……まさか」
嫌な予感がした。
非常に。
嫌な予感だった。
◇
遠く。
火の向こう。
一人の若者が走った。
追われている。
何かを抱えている。
転ぶ。
起きる。
また走る。
そして。
「おい!」
タケミカヅチが目を凝らす。
「あれか?」
「……」
「劉溟というのは」
諸葛亮は額に手を当てた。
「おそらく」
「随分元気だな」
「元気で何よりです」
声に全く喜びがなかった。
◇
また何かが燃えた。
「……何をしているんだ、あいつは」
「私が知りたいです」
「殴ってよいのだな?」
「……」
諸葛亮は、
燃え始めた施設を見た。
走る兵を見る。
その中心で、
さらに何かを倒した溟を見る。
長く。
深く。
息を吐いた。
「一発だけ」
「承知した」
「加減してください」
「努力する」
「不安しかありませんね」
◇
タケミカヅチが立ち上がる。
「行くぞ」
「待ってください」
「何だ」
諸葛亮は、
もう一度谷を見る。
騒ぎ。
火。
敵兵の動き。
人の流れ。
そして。
今まで動かなかった場所から、
兵が出てくる。
「……なるほど」
「何がだ」
「溟様のおかげで」
諸葛亮は木札へ線を引いた。
「敵がどこから出てくるのか、分かりました」
「助けないのか?」
「助けますよ」
「いつ」
諸葛亮は立ち上がった。
「今です」
◇
三年間。
臥龍は、
田を見ていた。
川を見ていた。
人が生きるための道を、
作っていた。
今夜。
久しぶりに、
戦場を見る。
だが。
彼が探していたのは、
敵を倒す道ではなかった。
誰もが。
生きて帰るための道だった。




