第十二話 須佐の男
少し、時を戻す。
◇
「……でかいな」
溟は山の上から、
谷を見下ろしていた。
火。
煙。
人。
荷車。
そして。
鉄。
想像していたものとは、
まるで違った。
◇
溟は狗奴国へ来たことがない。
境まではある。
須佐の者と山へ入ったこともある。
交易に来た者から、
狗奴国の話を聞いたこともある。
だが。
こんな場所があるとは知らなかった。
「……何だよ、これ」
山の中に、
いくつもの火がある。
一つの村ではない。
谷ごとに建物がある。
道がある。
川がある。
人が働いている。
黒い炭を運ぶ者。
鉄を運ぶ者。
木を運ぶ者。
兵もいる。
思っていたより、
ずっと多い。
◇
溟は、
少しだけ後悔した。
「……先生の言うこと、聞けばよかったかな」
呟く。
そして。
すぐ首を振った。
「いや」
あの母親の顔を思い出す。
娘を返してください。
お願いします。
お願いします。
「待てねえよ」
◇
溟は山を下りた。
正面からではない。
三年間。
須佐で山へ入った。
猪を追った。
木を切った。
水路を作った。
山から水を引くため、
何度も斜面を歩いた。
子供のころなら。
道しか見なかった。
今は。
水を見る。
獣を見る。
木を見る。
人が歩いた跡を見る。
「先生なら……」
そこで。
溟は口を閉じた。
「……やめよう」
先生なら。
先生なら。
先生なら。
考え始めたら、
たぶん帰りたくなる。
◇
谷へ入る。
近くで見ると、
さらに異様だった。
熱い。
煙たい。
音がする。
鉄を打つ音。
木を割る音。
人の声。
水の音。
何より。
匂い。
「須佐と全然違うな……」
人が多い。
だが。
活気があるとは、
少し違う。
皆、
急いでいる。
誰かに追われているように働いている。
◇
溟は、
荷を運ぶ者たちへ紛れた。
服は、
それほど違わない。
言葉も、
全く通じないわけではない。
三年で倭の言葉は覚えた。
ただ。
須佐とは、
少し違う。
聞き取れない言葉もある。
「おい」
「!」
呼び止められた。
「それ、どこへ持っていく」
「……」
溟は、
男が指差した荷を見る。
炭。
「向こう」
「向こうのどこだ」
「……」
まずい。
◇
「新入りか?」
「そう」
「どこの者だ」
「……山の方」
「どの山だ」
「……でかい山」
「山は全部でかいだろ」
「そうだな」
「……」
「……」
男が眉をひそめた。
「お前、怪しいな」
「よく言われる」
「誰にだ」
「先生」
「先生?」
「いや、何でもない」
◇
溟は走った。
「待て!」
「待つか!」
後ろから声。
「止まれ!」
「それ先生にも言われた!」
止まらない。
◇
曲がる。
人を避ける。
荷車を飛び越える。
炭の山へ隠れる。
「どこだ!」
「探せ!」
足音。
溟は口を押さえる。
「……」
足音が遠ざかる。
息を吐いた。
「……危な」
◇
先生なら。
絶対に怒る。
思金も怒る。
卑弥呼も。
たぶん。
かなり怒る。
「……帰ったら謝るか」
少し考える。
「善処する」
自分で言って、
笑いそうになった。
◇
その時。
声が聞こえた。
「……やめて」
小さな声。
溟の顔から、
笑いが消えた。
◇
炭の陰から覗く。
女がいた。
若い。
二人。
三人。
もっと。
兵に連れられている。
手を縛られている者もいる。
「……」
溟は立ち上がりかけた。
止まる。
兵は四人。
他にもいる。
ここで飛び出したら。
どうなる。
◇
『何人死ぬと思っているのです!』
先生の声が、
頭の中に戻ってきた。
「……分かってるよ」
小さく呟く。
今飛び出しても、
全員は助けられない。
溟は、
女たちの後を追った。
◇
連れていかれた先は、
谷の奥だった。
柵。
小屋。
見張り。
女だけではない。
男もいる。
若い者が多い。
働かされている者。
閉じ込められている者。
怪我をしている者。
「……こんなに」
一人ではない。
あの母親の娘だけではない。
◇
溟は、
柵の外を回った。
入口。
見張り。
裏。
川。
斜面。
「……」
無意識に、
地面を見ていた。
水はどこへ流れる。
道はどこへ続く。
人はどこを通る。
柵の弱い場所は。
「……先生みたいだな」
嫌そうに言った。
だが。
やめなかった。
◇
日が暮れる。
見張りが交代する。
その瞬間。
溟は動いた。
◇
裏手。
川側。
柵の下。
雨で土が削れている。
隙間。
子供なら簡単に通れた。
今の溟には、
少し狭い。
「……でかくなるのも不便だな」
腹ばいになる。
土まみれ。
服が引っかかる。
「くそ……」
何とか抜ける。
◇
「誰?」
声。
溟が固まった。
目の前。
一人の少女がいた。
◇
歳は、
溟とそれほど変わらない。
少し下かもしれない。
髪は乱れている。
頬が汚れている。
だが。
目は強かった。
手には、
木の棒。
溟へ向けている。
「待って」
「誰」
「助けに来た」
「嘘」
「嘘じゃない」
「狗奴の人?」
「違う」
「じゃあ誰」
「……」
溟は少し考えた。
「須佐」
「何?」
「須佐から来た」
「一人で?」
「……うん」
少女の顔が、
ものすごく怪しくなった。
「馬鹿なの?」
「今日二回目くらいだな、それ言われそうなの」
◇
「名前は?」
少女が聞いた。
「溟」
「メイ?」
「そう」
「変な名前」
「よく言われ……いや、それは初めて言われた」
「私はクシナ」
「クシナ?」
「何」
「いや」
溟は笑った。
「よろしく」
「よろしくじゃない」
「何で」
「助けに来たんでしょう」
「そうだった」
◇
「何人いる?」
「ここ?」
「全部」
「分からない」
「分かるだけ」
「女が二十三」
「……」
「男はもっと」
「怪我人は?」
「いる」
「歩けない?」
「二人」
「子供は?」
「三人」
溟は黙った。
◇
一人では。
無理だ。
初めて。
はっきりそう思った。
◇
「どうしたの」
「……何でもない」
「助けられる?」
クシナが聞いた。
溟は、
すぐに答えられなかった。
助ける。
そう言いたかった。
だが。
先生なら。
たぶん。
できない約束はするなと言う。
「……俺一人じゃ」
クシナの顔が曇る。
「でも」
溟は続けた。
「俺一人じゃなければ、できる」
「誰か来るの?」
「来る」
「本当に?」
「絶対」
「どうして分かるの」
溟は、
少し笑った。
「先生が来るから」
◇
「先生?」
「すげえ頭のいい爺さん」
「強い?」
「弱い」
「駄目じゃない」
「でも」
溟は言った。
「先生が来たら、何とかなる」
何の根拠もなかった。
いや。
溟にとっては。
それ以上の根拠はなかった。
◇
「じゃあ」
クシナが言った。
「待つの?」
その一言で。
溟の顔が止まった。
◇
待つ。
◇
母上。
◇
海。
◇
夜。
◇
『俺は待った!』
◇
溟は目を閉じた。
「……違う」
「何が?」
「待たせない」
「でも先生が来るんでしょう?」
「来る」
「じゃあ」
「先生が来るまでに」
溟は立ち上がった。
「できることをする」
◇
まず。
縄を切るもの。
食べ物。
水。
逃げる時に必要な布。
歩けない者を運ぶもの。
そして。
外へ知らせる方法。
「火」
溟が言った。
「何?」
「火なら見える」
「見つかるよ」
「そうだな」
「馬鹿なの?」
「三回目」
◇
「でも」
溟は考える。
「全部燃やす必要はない」
「当たり前でしょ」
「煙だけでも」
「昼なら」
「今は夜」
「じゃあ火」
「見つかる」
「だから駄目って言ってる」
「……」
「……」
二人で黙る。
◇
「先生ならどうするかな」
「その先生、本当に来るの?」
「来るって」
「遅くない?」
「爺さんだから」
「役に立たないじゃない」
「先生の悪口言うなよ」
「あなたが言ったんでしょ」
◇
その時。
外から声。
「交代だ!」
溟が顔を上げる。
見張り。
交代。
その間だけ、
入口の兵が減る。
「……クシナ」
「何」
「毎日同じ?」
「だいたい」
「何人?」
「二人減る」
「どれくらい?」
「少し」
「少しって?」
「少し」
「分かんねえよ」
「私だって時間なんか測ってない!」
「そりゃそうか」
◇
溟は考える。
交代。
飯。
水。
労働。
見張り。
人の動き。
須佐で。
毎日見てきた。
田も。
倉も。
水路も。
決まった時に、
人は動く。
人が動けば。
空く場所ができる。
「……先生」
溟は呟く。
「何?」
「いや」
少しだけ。
分かった気がした。
先生が、
いつも人の流れを見る理由。
◇
「今夜は逃げない」
クシナが睨む。
「待つの?」
「違う」
「何が違うの」
「逃げる準備をする」
「……」
「歩けない奴を運ぶものを探す」
「……」
「食えるものを集める」
「……」
「縄を切る」
「……」
「外に出られる場所も探す」
「それから?」
「先生が来たら」
溟は笑った。
「怒られる」
「何で?」
「勝手に来たから」
◇
クシナは、
初めて少し笑った。
◇
その後。
溟は動いた。
見張りの交代に紛れる。
食糧を盗む。
水を運ぶ。
刃物を探す。
見つからない。
代わりに。
鉄の欠片を拾った。
縄へ当てる。
「切れる」
少しずつ。
一本。
二本。
「メイ」
「何」
「それ、時間かかりすぎ」
「分かってる!」
◇
そして。
問題が起きた。
◇
「おい」
背後。
声。
溟の手が止まる。
「そこで何してる」
「……」
振り返る。
昼間。
最初に声をかけてきた男だった。
「お前」
「……どうも」
「やっぱり怪しい奴じゃねえか!」
◇
男が叫ぶ。
「侵入者だ!」
「待て!」
「誰か来い!」
「待てって!」
「何で俺が待つんだ!」
「それはそうだけど!」
◇
兵が来る。
一人。
二人。
三人。
「クシナ!」
溟が叫ぶ。
「下がってろ!」
「何するの!」
「分かんない!」
「馬鹿!」
「四回目!」
◇
一人目。
避ける。
殴る。
二人目。
掴まれる。
振りほどく。
三人目。
剣。
「うわ!」
ぎりぎり。
逃げる。
◇
強いわけではない。
須佐で喧嘩はした。
狩りもした。
鍬も振った。
身体は強くなった。
だが。
兵と戦う訓練など、
ほとんどしていない。
「先生!」
思わず叫ぶ。
「早く来いよ!」
◇
当然。
来ない。
「くそ!」
◇
逃げる。
追われる。
曲がる。
行き止まり。
「……まずい」
横。
炭。
木。
火。
炉。
溟が見る。
◇
「……」
◇
「やるしかねえか」
◇
火のついた木を取る。
「おい!」
兵の顔が変わる。
「やめろ!」
「来るな!」
「それを置け!」
「来たら!」
溟も、
その先を考えていなかった。
「……燃やす!」
「何を!」
「これ!」
「それ炭置き場だぞ!」
「知ってる!」
「全部燃えるぞ!」
「……え?」
◇
一瞬。
全員が止まった。
◇
「お前、知らなかったのか?」
「……」
「馬鹿!」
「今日五回目!」
◇
火が落ちた。
「あ」
炭の近く。
「……」
「……」
「……」
溟が言った。
「消せば?」
「お前がやったんだろ!」
◇
火が広がった。
◇
「水!」
「持ってこい!」
「炉を止めろ!」
「炭を離せ!」
「侵入者は!?」
「後だ!」
◇
人が走る。
兵が走る。
見張りが減る。
溟は。
火を見る。
兵を見る。
柵を見る。
そして。
「……あれ?」
気づいた。
「今なら」
◇
走った。
◇
「クシナ!」
「何したの!?」
「失敗した!」
「見れば分かる!」
「でも今なら出られる!」
「みんなは!?」
溟が止まる。
◇
そうだ。
全員。
◇
「……」
柵の中。
何十人。
怪我人。
子供。
歩けない者。
自分一人なら。
逃げられる。
クシナ一人なら。
たぶん。
でも。
◇
『あの子まで、俺と同じにするのかよ!』
◇
「……しない」
「何?」
「誰も置いてかない」
◇
溟は、
柵へ戻った。
「メイ!」
「縄切れ!」
「でも!」
「今なら見張り少ない!」
「あなたは!?」
「俺は」
外を見る。
兵が戻ってくる。
「もうちょっと騒いでくる!」
「馬鹿!」
「六回目!」
◇
溟は走った。
近くにあった桶を蹴る。
倒れる。
音。
「いたぞ!」
「こっちだ!」
「捕まえろ!」
「ほら来い!」
◇
追われる。
走る。
曲がる。
何かを飛び越える。
その時。
溟の目に、
一本の剣が入った。
◇
普通の場所ではなかった。
建物の奥。
布に包まれ、
他の鉄器とは別に置かれている。
長い。
見たことのない形。
「……」
兵が迫る。
「借りる!」
誰に言ったのか分からない。
溟は剣を掴んだ。
◇
重い。
だが。
よく切れた。
◇
振る。
兵の槍の柄が、
途中から落ちた。
「……え」
溟も驚いた。
兵も驚いた。
「何だこれ」
◇
「それを置け!」
「嫌だ!」
「それは――」
兵が言いかける。
溟は走った。
◇
外。
火は、
さらに大きくなっていた。
谷が赤い。
煙。
人。
叫び声。
その中を。
溟は走る。
◇
腕には、
さっき転んだ子供を抱えていた。
「しっかり掴まってろ!」
「怖い!」
「俺も怖い!」
「ええ!?」
「大丈夫!」
「どっち!?」
「分かんねえ!」
◇
後ろ。
兵。
前。
火。
「……先生」
溟は呟いた。
「そろそろ来てくれよ」
◇
山の上。
二つの影が、
こちらを見ていることなど。
溟は知らない。
◇
「おい」
タケミカヅチが言った。
「あれか?」
諸葛亮は額を押さえた。
「……おそらく」
「随分元気だな」
「元気で何よりです」
「声が死んでいるぞ」
◇
眼下。
溟が走る。
子供を抱えて。
妙な剣を持って。
後ろから兵を引き連れて。
さらに。
炭置き場が燃えている。
◇
「何をしたんだ」
「私が知りたいです」
「殴ってよいのだな?」
「……」
「一発」
「承知した」
「加減を」
「努力する」
◇
諸葛亮は、
溟の先を見る。
道。
敵。
火。
柵。
川。
そして。
逃げようとしている人々。
目が変わる。
「タケミカヅチ」
「何だ」
「殴るのは後です」
「なぜ」
「先に」
諸葛亮は、
谷へ下りる道を指した。
「帰りますよ」
◇
「誰が」
タケミカヅチが尋ねる。
諸葛亮は答えた。
「全員です」
◇
後の世。
この夜のことを、
人々は長く語った。
山の奥。
幾つもの火と煙がうねる場所へ、
一人の若者が踏み入り。
囚われた娘を見つけ。
恐ろしい敵へ立ち向かい。
そして。
一本の剣を持ち帰った、と。
◇
話は、
人から人へ渡った。
父から子へ。
子から孫へ。
何代も。
何代も。
語られるたびに、
少しずつ姿を変えた。
◇
ただ。
この夜の本人は。
神でも。
英雄でもなく。
◇
「うわああああ! 来た来た来た!」
兵に追われながら、
全力で逃げていた。
◇
須佐から来た、
ただの男だった。




