↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
12/29

第十二話 須佐の男


 少し、時を戻す。


     ◇


「……でかいな」


 溟は山の上から、


 谷を見下ろしていた。


 火。


 煙。


 人。


 荷車。


 そして。


 鉄。


 想像していたものとは、


 まるで違った。


     ◇


 溟は狗奴国へ来たことがない。


 境まではある。


 須佐の者と山へ入ったこともある。


 交易に来た者から、


 狗奴国の話を聞いたこともある。


 だが。


 こんな場所があるとは知らなかった。


「……何だよ、これ」


 山の中に、


 いくつもの火がある。


 一つの村ではない。


 谷ごとに建物がある。


 道がある。


 川がある。


 人が働いている。


 黒い炭を運ぶ者。


 鉄を運ぶ者。


 木を運ぶ者。


 兵もいる。


 思っていたより、


 ずっと多い。


     ◇


 溟は、


 少しだけ後悔した。


「……先生の言うこと、聞けばよかったかな」


 呟く。


 そして。


 すぐ首を振った。


「いや」


 あの母親の顔を思い出す。


 娘を返してください。


 お願いします。


 お願いします。


「待てねえよ」


     ◇


 溟は山を下りた。


 正面からではない。


 三年間。


 須佐で山へ入った。


 猪を追った。


 木を切った。


 水路を作った。


 山から水を引くため、


 何度も斜面を歩いた。


 子供のころなら。


 道しか見なかった。


 今は。


 水を見る。


 獣を見る。


 木を見る。


 人が歩いた跡を見る。


「先生なら……」


 そこで。


 溟は口を閉じた。


「……やめよう」


 先生なら。


 先生なら。


 先生なら。


 考え始めたら、


 たぶん帰りたくなる。


     ◇


 谷へ入る。


 近くで見ると、


 さらに異様だった。


 熱い。


 煙たい。


 音がする。


 鉄を打つ音。


 木を割る音。


 人の声。


 水の音。


 何より。


 匂い。


「須佐と全然違うな……」


 人が多い。


 だが。


 活気があるとは、


 少し違う。


 皆、


 急いでいる。


 誰かに追われているように働いている。


     ◇


 溟は、


 荷を運ぶ者たちへ紛れた。


 服は、


 それほど違わない。


 言葉も、


 全く通じないわけではない。


 三年で倭の言葉は覚えた。


 ただ。


 須佐とは、


 少し違う。


 聞き取れない言葉もある。


「おい」


「!」


 呼び止められた。


「それ、どこへ持っていく」


「……」


 溟は、


 男が指差した荷を見る。


 炭。


「向こう」


「向こうのどこだ」


「……」


 まずい。


     ◇


「新入りか?」


「そう」


「どこの者だ」


「……山の方」


「どの山だ」


「……でかい山」


「山は全部でかいだろ」


「そうだな」


「……」


「……」


 男が眉をひそめた。


「お前、怪しいな」


「よく言われる」


「誰にだ」


「先生」


「先生?」


「いや、何でもない」


     ◇


 溟は走った。


「待て!」


「待つか!」


 後ろから声。


「止まれ!」


「それ先生にも言われた!」


 止まらない。


     ◇


 曲がる。


 人を避ける。


 荷車を飛び越える。


 炭の山へ隠れる。


「どこだ!」


「探せ!」


 足音。


 溟は口を押さえる。


「……」


 足音が遠ざかる。


 息を吐いた。


「……危な」


     ◇


 先生なら。


 絶対に怒る。


 思金も怒る。


 卑弥呼も。


 たぶん。


 かなり怒る。


「……帰ったら謝るか」


 少し考える。


「善処する」


 自分で言って、


 笑いそうになった。


     ◇


 その時。


 声が聞こえた。


「……やめて」


 小さな声。


 溟の顔から、


 笑いが消えた。


     ◇


 炭の陰から覗く。


 女がいた。


 若い。


 二人。


 三人。


 もっと。


 兵に連れられている。


 手を縛られている者もいる。


「……」


 溟は立ち上がりかけた。


 止まる。


 兵は四人。


 他にもいる。


 ここで飛び出したら。


 どうなる。


     ◇


『何人死ぬと思っているのです!』


 先生の声が、


 頭の中に戻ってきた。


「……分かってるよ」


 小さく呟く。


 今飛び出しても、


 全員は助けられない。


 溟は、


 女たちの後を追った。


     ◇


 連れていかれた先は、


 谷の奥だった。


 柵。


 小屋。


 見張り。


 女だけではない。


 男もいる。


 若い者が多い。


 働かされている者。


 閉じ込められている者。


 怪我をしている者。


「……こんなに」


 一人ではない。


 あの母親の娘だけではない。


     ◇


 溟は、


 柵の外を回った。


 入口。


 見張り。


 裏。


 川。


 斜面。


「……」


 無意識に、


 地面を見ていた。


 水はどこへ流れる。


 道はどこへ続く。


 人はどこを通る。


 柵の弱い場所は。


「……先生みたいだな」


 嫌そうに言った。


 だが。


 やめなかった。


     ◇


 日が暮れる。


 見張りが交代する。


 その瞬間。


 溟は動いた。


     ◇


 裏手。


 川側。


 柵の下。


 雨で土が削れている。


 隙間。


 子供なら簡単に通れた。


 今の溟には、


 少し狭い。


「……でかくなるのも不便だな」


 腹ばいになる。


 土まみれ。


 服が引っかかる。


「くそ……」


 何とか抜ける。


     ◇


「誰?」


 声。


 溟が固まった。


 目の前。


 一人の少女がいた。


     ◇


 歳は、


 溟とそれほど変わらない。


 少し下かもしれない。


 髪は乱れている。


 頬が汚れている。


 だが。


 目は強かった。


 手には、


 木の棒。


 溟へ向けている。


「待って」


「誰」


「助けに来た」


「嘘」


「嘘じゃない」


「狗奴の人?」


「違う」


「じゃあ誰」


「……」


 溟は少し考えた。


「須佐」


「何?」


「須佐から来た」


「一人で?」


「……うん」


 少女の顔が、


 ものすごく怪しくなった。


「馬鹿なの?」


「今日二回目くらいだな、それ言われそうなの」


     ◇


「名前は?」


 少女が聞いた。


「溟」


「メイ?」


「そう」


「変な名前」


「よく言われ……いや、それは初めて言われた」


「私はクシナ」


「クシナ?」


「何」


「いや」


 溟は笑った。


「よろしく」


「よろしくじゃない」


「何で」


「助けに来たんでしょう」


「そうだった」


     ◇


「何人いる?」


「ここ?」


「全部」


「分からない」


「分かるだけ」


「女が二十三」


「……」


「男はもっと」


「怪我人は?」


「いる」


「歩けない?」


「二人」


「子供は?」


「三人」


 溟は黙った。


     ◇


 一人では。


 無理だ。


 初めて。


 はっきりそう思った。


     ◇


「どうしたの」


「……何でもない」


「助けられる?」


 クシナが聞いた。


 溟は、


 すぐに答えられなかった。


 助ける。


 そう言いたかった。


 だが。


 先生なら。


 たぶん。


 できない約束はするなと言う。


「……俺一人じゃ」


 クシナの顔が曇る。


「でも」


 溟は続けた。


「俺一人じゃなければ、できる」


「誰か来るの?」


「来る」


「本当に?」


「絶対」


「どうして分かるの」


 溟は、


 少し笑った。


「先生が来るから」


     ◇


「先生?」


「すげえ頭のいい爺さん」


「強い?」


「弱い」


「駄目じゃない」


「でも」


 溟は言った。


「先生が来たら、何とかなる」


 何の根拠もなかった。


 いや。


 溟にとっては。


 それ以上の根拠はなかった。


     ◇


「じゃあ」


 クシナが言った。


「待つの?」


 その一言で。


 溟の顔が止まった。


     ◇


 待つ。


     ◇


 母上。


     ◇


 海。


     ◇


 夜。


     ◇


『俺は待った!』


     ◇


 溟は目を閉じた。


「……違う」


「何が?」


「待たせない」


「でも先生が来るんでしょう?」


「来る」


「じゃあ」


「先生が来るまでに」


 溟は立ち上がった。


「できることをする」


     ◇


 まず。


 縄を切るもの。


 食べ物。


 水。


 逃げる時に必要な布。


 歩けない者を運ぶもの。


 そして。


 外へ知らせる方法。


「火」


 溟が言った。


「何?」


「火なら見える」


「見つかるよ」


「そうだな」


「馬鹿なの?」


「三回目」


     ◇


「でも」


 溟は考える。


「全部燃やす必要はない」


「当たり前でしょ」


「煙だけでも」


「昼なら」


「今は夜」


「じゃあ火」


「見つかる」


「だから駄目って言ってる」


「……」


「……」


 二人で黙る。


     ◇


「先生ならどうするかな」


「その先生、本当に来るの?」


「来るって」


「遅くない?」


「爺さんだから」


「役に立たないじゃない」


「先生の悪口言うなよ」


「あなたが言ったんでしょ」


     ◇


 その時。


 外から声。


「交代だ!」


 溟が顔を上げる。


 見張り。


 交代。


 その間だけ、


 入口の兵が減る。


「……クシナ」


「何」


「毎日同じ?」


「だいたい」


「何人?」


「二人減る」


「どれくらい?」


「少し」


「少しって?」


「少し」


「分かんねえよ」


「私だって時間なんか測ってない!」


「そりゃそうか」


     ◇


 溟は考える。


 交代。


 飯。


 水。


 労働。


 見張り。


 人の動き。


 須佐で。


 毎日見てきた。


 田も。


 倉も。


 水路も。


 決まった時に、


 人は動く。


 人が動けば。


 空く場所ができる。


「……先生」


 溟は呟く。


「何?」


「いや」


 少しだけ。


 分かった気がした。


 先生が、


 いつも人の流れを見る理由。


     ◇


「今夜は逃げない」


 クシナが睨む。


「待つの?」


「違う」


「何が違うの」


「逃げる準備をする」


「……」


「歩けない奴を運ぶものを探す」


「……」


「食えるものを集める」


「……」


「縄を切る」


「……」


「外に出られる場所も探す」


「それから?」


「先生が来たら」


 溟は笑った。


「怒られる」


「何で?」


「勝手に来たから」


     ◇


 クシナは、


 初めて少し笑った。


     ◇


 その後。


 溟は動いた。


 見張りの交代に紛れる。


 食糧を盗む。


 水を運ぶ。


 刃物を探す。


 見つからない。


 代わりに。


 鉄の欠片を拾った。


 縄へ当てる。


「切れる」


 少しずつ。


 一本。


 二本。


「メイ」


「何」


「それ、時間かかりすぎ」


「分かってる!」


     ◇


 そして。


 問題が起きた。


     ◇


「おい」


 背後。


 声。


 溟の手が止まる。


「そこで何してる」


「……」


 振り返る。


 昼間。


 最初に声をかけてきた男だった。


「お前」


「……どうも」


「やっぱり怪しい奴じゃねえか!」


     ◇


 男が叫ぶ。


「侵入者だ!」


「待て!」


「誰か来い!」


「待てって!」


「何で俺が待つんだ!」


「それはそうだけど!」


     ◇


 兵が来る。


 一人。


 二人。


 三人。


「クシナ!」


 溟が叫ぶ。


「下がってろ!」


「何するの!」


「分かんない!」


「馬鹿!」


「四回目!」


     ◇


 一人目。


 避ける。


 殴る。


 二人目。


 掴まれる。


 振りほどく。


 三人目。


 剣。


「うわ!」


 ぎりぎり。


 逃げる。


     ◇


 強いわけではない。


 須佐で喧嘩はした。


 狩りもした。


 鍬も振った。


 身体は強くなった。


 だが。


 兵と戦う訓練など、


 ほとんどしていない。


「先生!」


 思わず叫ぶ。


「早く来いよ!」


     ◇


 当然。


 来ない。


「くそ!」


     ◇


 逃げる。


 追われる。


 曲がる。


 行き止まり。


「……まずい」


 横。


 炭。


 木。


 火。


 炉。


 溟が見る。


     ◇


「……」


     ◇


「やるしかねえか」


     ◇


 火のついた木を取る。


「おい!」


 兵の顔が変わる。


「やめろ!」


「来るな!」


「それを置け!」


「来たら!」


 溟も、


 その先を考えていなかった。


「……燃やす!」


「何を!」


「これ!」


「それ炭置き場だぞ!」


「知ってる!」


「全部燃えるぞ!」


「……え?」


     ◇


 一瞬。


 全員が止まった。


     ◇


「お前、知らなかったのか?」


「……」


「馬鹿!」


「今日五回目!」


     ◇


 火が落ちた。


「あ」


 炭の近く。


「……」


「……」


「……」


 溟が言った。


「消せば?」


「お前がやったんだろ!」


     ◇


 火が広がった。


     ◇


「水!」


「持ってこい!」


「炉を止めろ!」


「炭を離せ!」


「侵入者は!?」


「後だ!」


     ◇


 人が走る。


 兵が走る。


 見張りが減る。


 溟は。


 火を見る。


 兵を見る。


 柵を見る。


 そして。


「……あれ?」


 気づいた。


「今なら」


     ◇


 走った。


     ◇


「クシナ!」


「何したの!?」


「失敗した!」


「見れば分かる!」


「でも今なら出られる!」


「みんなは!?」


 溟が止まる。


     ◇


 そうだ。


 全員。


     ◇


「……」


 柵の中。


 何十人。


 怪我人。


 子供。


 歩けない者。


 自分一人なら。


 逃げられる。


 クシナ一人なら。


 たぶん。


 でも。


     ◇


『あの子まで、俺と同じにするのかよ!』


     ◇


「……しない」


「何?」


「誰も置いてかない」


     ◇


 溟は、


 柵へ戻った。


「メイ!」


「縄切れ!」


「でも!」


「今なら見張り少ない!」


「あなたは!?」


「俺は」


 外を見る。


 兵が戻ってくる。


「もうちょっと騒いでくる!」


「馬鹿!」


「六回目!」


     ◇


 溟は走った。


 近くにあった桶を蹴る。


 倒れる。


 音。


「いたぞ!」


「こっちだ!」


「捕まえろ!」


「ほら来い!」


     ◇


 追われる。


 走る。


 曲がる。


 何かを飛び越える。


 その時。


 溟の目に、


 一本の剣が入った。


     ◇


 普通の場所ではなかった。


 建物の奥。


 布に包まれ、


 他の鉄器とは別に置かれている。


 長い。


 見たことのない形。


「……」


 兵が迫る。


「借りる!」


 誰に言ったのか分からない。


 溟は剣を掴んだ。


     ◇


 重い。


 だが。


 よく切れた。


     ◇


 振る。


 兵の槍の柄が、


 途中から落ちた。


「……え」


 溟も驚いた。


 兵も驚いた。


「何だこれ」


     ◇


「それを置け!」


「嫌だ!」


「それは――」


 兵が言いかける。


 溟は走った。


     ◇


 外。


 火は、


 さらに大きくなっていた。


 谷が赤い。


 煙。


 人。


 叫び声。


 その中を。


 溟は走る。


     ◇


 腕には、


 さっき転んだ子供を抱えていた。


「しっかり掴まってろ!」


「怖い!」


「俺も怖い!」


「ええ!?」


「大丈夫!」


「どっち!?」


「分かんねえ!」


     ◇


 後ろ。


 兵。


 前。


 火。


「……先生」


 溟は呟いた。


「そろそろ来てくれよ」


     ◇


 山の上。


 二つの影が、


 こちらを見ていることなど。


 溟は知らない。


     ◇


「おい」


 タケミカヅチが言った。


「あれか?」


 諸葛亮は額を押さえた。


「……おそらく」


「随分元気だな」


「元気で何よりです」


「声が死んでいるぞ」


     ◇


 眼下。


 溟が走る。


 子供を抱えて。


 妙な剣を持って。


 後ろから兵を引き連れて。


 さらに。


 炭置き場が燃えている。


     ◇


「何をしたんだ」


「私が知りたいです」


「殴ってよいのだな?」


「……」


「一発」


「承知した」


「加減を」


「努力する」


     ◇


 諸葛亮は、


 溟の先を見る。


 道。


 敵。


 火。


 柵。


 川。


 そして。


 逃げようとしている人々。


 目が変わる。


「タケミカヅチ」


「何だ」


「殴るのは後です」


「なぜ」


「先に」


 諸葛亮は、


 谷へ下りる道を指した。


「帰りますよ」


     ◇


「誰が」


 タケミカヅチが尋ねる。


 諸葛亮は答えた。


「全員です」


     ◇


 後の世。


 この夜のことを、


 人々は長く語った。


 山の奥。


 幾つもの火と煙がうねる場所へ、


 一人の若者が踏み入り。


 囚われた娘を見つけ。


 恐ろしい敵へ立ち向かい。


 そして。


 一本の剣を持ち帰った、と。


     ◇


 話は、


 人から人へ渡った。


 父から子へ。


 子から孫へ。


 何代も。


 何代も。


 語られるたびに、


 少しずつ姿を変えた。


     ◇


 ただ。


 この夜の本人は。


 神でも。


 英雄でもなく。


     ◇


「うわああああ! 来た来た来た!」


 兵に追われながら、


 全力で逃げていた。


     ◇


 須佐から来た、


 ただの男だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。