第十三話 八岐大蛇
「全員です」
諸葛亮は言った。
◇
「全員?」
タケミカヅチが聞き返す。
「はい」
「何人いるかも分からんぞ」
「分かっています」
「怪我人もいる」
「ええ」
「子供もいる」
「おりますね」
「敵は?」
「大勢おります」
「こちらは?」
タケミカヅチは、
自分を指した。
次に。
諸葛亮を指した。
「二人だ」
「そうですね」
「そうですね、ではない」
「ですが」
諸葛亮は谷を見下ろした。
「今は、二人ではありません」
◇
谷の一角。
炎が上がっている。
「水を運べ!」
「炭を離せ!」
「炉を止めろ!」
「侵入者はどこだ!」
怒号。
人が走る。
兵が走る。
荷車が動く。
見張りが持ち場を離れる。
別の場所から兵が補充される。
そして。
その中心を。
「うわああああ!」
一人の若者が走っている。
◇
「……あれも一人と数えるのか?」
「数えてください」
「敵を増やしているぞ」
「その分、他が減っています」
「何?」
「見てください」
諸葛亮が指差す。
「火へ人が集まっています」
「当たり前だ」
「溟様へ兵が集まっています」
「それも当たり前だ」
「つまり」
別の場所を指す。
「こちらは空きます」
◇
捕らわれた者たちがいる柵。
見張りが。
先ほどより少ない。
タケミカヅチが、
もう一度溟を見る。
「……あいつ」
「はい」
「囮になっているのか?」
「本人にそのつもりがあるかは分かりませんが」
「ないだろうな」
「私もそう思います」
◇
諸葛亮は立ち上がった。
「行きましょう」
「ようやくか」
「はい」
「俺が先に行く」
「お願いいたします」
「お前は後ろにいろ」
「善処します」
タケミカヅチが止まった。
「今のは守らない者の言い方ではないか?」
「……」
「違うのか?」
「誰に聞きました?」
「溟」
「いつです?」
「須佐で会った時だ」
「余計なことを」
◇
二人は山を下りた。
速い。
少なくとも。
タケミカヅチは速かった。
「孔明!」
「はい!」
「遅い!」
「歳を考えてください!」
「さっき老人扱いするなと言っただろう!」
「都合によります!」
◇
谷へ入る。
熱気。
煙。
怒号。
夜とは思えないほど明るい。
「右へ」
諸葛亮が言う。
「なぜ」
「左から兵が来ます」
「見えるのか?」
「いいえ」
「ではなぜ」
「先ほど左へ三人走りました」
「だから?」
「三人だけで火を消しには行きません」
その直後。
左の道から兵が出た。
五人。
十人。
「……」
タケミカヅチが諸葛亮を見る。
「右です」
「分かった」
◇
進む。
また止まる。
「待って」
「今度は何だ」
諸葛亮が地面を見る。
轍。
新しい。
「荷車が来ます」
「どこから」
「向こう」
「なぜ分かる」
「轍が深い。こちらへ荷を運んでいます」
「だから?」
「荷車が通る時」
諸葛亮が道を見る。
「人は避けます」
◇
少し待つ。
荷車が来た。
炭を積んでいる。
人が左右へ避ける。
「今です」
二人も紛れた。
◇
「……お前」
タケミカヅチが小声で言う。
「はい」
「こういうことに慣れているな」
「旅が長いもので」
「旅人は敵地の荷車を盾にしない」
「そうなのですか?」
「少なくとも俺の知っている旅人はしない」
◇
柵が見えた。
見張り。
二人。
「俺がやる」
「殺さないでください」
「なぜ」
「叫ばれると困ります」
「殺せば叫ばない」
「そういう意味ではありません」
◇
タケミカヅチは、
ため息をついた。
「面倒だな」
「申し訳ありません」
「何息だ」
「何がです?」
「止めればよいのだろう」
諸葛亮は少し驚いた。
そして。
笑った。
「二十」
「十分だ」
◇
タケミカヅチが消えた。
そう見えた。
一人目。
口を塞ぐ。
腹へ一撃。
二人目が振り返る。
腕を取る。
地面へ落とす。
剣を抜く暇もない。
十息もかからなかった。
「……」
諸葛亮が近づく。
「お見事です」
「寝ているだけだ」
「助かります」
「お前の言う通りにな」
◇
「誰かいるか」
柵の向こうへ、
小さく声をかける。
「……誰?」
女の声。
「須佐から来ました」
「須佐?」
「溟という者をご存じですか」
少し間。
「……あの馬鹿の仲間?」
タケミカヅチが諸葛亮を見る。
「間違いなさそうだな」
「否定できませんね」
◇
少女が出てきた。
クシナだった。
「あなたが先生?」
「……」
諸葛亮が目を瞬く。
「はい」
「本当に爺さん」
「溟様は私を何と説明したのです?」
「すごく頭がいいけど弱い爺さん」
「……」
タケミカヅチが横を向いた。
「笑いました?」
「いや」
「今、笑いましたよね?」
「早くしろ」
◇
「何人です?」
「女が二十三。男はもっといる」
「歩けない方は」
「二人」
「子供」
「三人」
「水は?」
「あっち」
「食べ物は?」
「少し集めた」
「縄は?」
「メイが切ってる」
「出口は?」
「裏の柵」
諸葛亮は、
一つずつ聞いた。
クシナが答える。
「よく調べましたね」
「メイが調べろって」
諸葛亮が止まった。
「溟様が?」
「うん」
「……そうですか」
ほんの少し。
口元が緩んだ。
◇
「孔明」
タケミカヅチが言う。
「嬉しそうだな」
「気のせいです」
「そうか」
「はい」
「では後で殴る」
「それはお願いします」
◇
逃げる者を分ける。
歩ける者。
怪我人。
子供。
運ぶ者。
水を持つ者。
互いを支える者。
「走らなくて結構です」
諸葛亮が言う。
「走れる者も、走らないでください」
「なぜ?」
「集団が崩れます」
皆を見る。
「一番遅い者に合わせます」
「追いつかれたら?」
「そのために」
諸葛亮は横を見る。
「この方がおります」
全員がタケミカヅチを見る。
「……」
タケミカヅチも見る。
「俺か」
「お願いします」
「簡単に言うな」
◇
その時。
「いたぞ!」
声。
「逃げるぞ!」
「柵だ!」
兵。
「来ましたね」
諸葛亮が言う。
「下がっていろ」
タケミカヅチが前へ出る。
◇
剣が抜かれた。
初めて。
諸葛亮は、
タケミカヅチの戦いを見た。
◇
速い。
力任せではない。
一歩。
一振り。
相手の武器を落とす。
腕を打つ。
足を払う。
進路を塞ぐ。
「……なるほど」
諸葛亮が呟く。
「何がなるほどだ!」
「いえ。非常に助かります」
「なら手を動かせ!」
「動かしております」
諸葛亮は縄を切っていた。
◇
「行ってください!」
裏の柵。
川へ。
一人ずつ。
急がせない。
だが。
止めない。
◇
「先生ぇぇぇ!」
◇
聞き覚えのある声。
諸葛亮の眉間に皺が寄る。
「……」
タケミカヅチが敵の剣を弾きながら聞く。
「呼ばれているぞ!」
「聞こえております!」
◇
「先生!」
溟が飛び込んできた。
子供を抱えて。
片手には、
見慣れない剣。
後ろには兵。
「先生! いた!」
「私もあなたを探しておりました!」
「助けて!」
「その前に!」
「何!?」
「後ろです!」
「知ってる!」
◇
「伏せろ!」
声が飛んだ。
狗奴国の言葉ではなかった。
◇
諸葛亮の顔が変わった。
「伏せて!」
「え?」
「今すぐ!」
◇
溟が子供を抱えて倒れ込む。
タケミカヅチも身を低くする。
次の瞬間。
矢が飛んだ。
◇
一本。
二本。
五本。
柵へ刺さる。
「……」
タケミカヅチが見る。
「なぜ分かった」
諸葛亮は、
矢ではなく。
その向こうを見ていた。
◇
兵がいる。
だが。
先ほどまでの兵とは違う。
立ち方。
武器。
隊列。
そして。
号令。
「先生?」
溟も気づく。
「どうした?」
「……」
◇
「進め!」
再び。
大陸の言葉。
◇
諸葛亮は、
小さく呟いた。
「なぜ」
「何がだ」
タケミカヅチが聞く。
「なぜ、ここで」
◇
記憶。
長江。
荊州。
夷陵。
旗。
船。
炎。
そして。
かつて。
味方であり。
敵でもあった国。
◇
「孔明!」
タケミカヅチの声で戻る。
「何と言った!」
「……進め、と」
「分かるのか?」
「はい」
「狗奴の言葉ではない」
「ええ」
「では、何だ」
諸葛亮は答えなかった。
◇
「先生!」
溟が剣を構える。
「こいつら何なんだよ!」
「溟様」
「何!」
「その剣」
「これ?」
「どこで手に入れました」
「拾った!」
「拾った?」
「置いてあった!」
「どこに!」
「向こう!」
「説明が雑です!」
「今それどころじゃないだろ!」
「それどころなのです!」
◇
敵の一人が。
溟の剣を見る。
顔色を変えた。
「剣を取り返せ!」
◇
諸葛亮の目が細くなる。
「……」
「何だよ!」
「溟様」
「何!」
「絶対に」
剣を見る。
「それを捨てないでください」
「え?」
「持って帰ります」
クシナが叫ぶ。
「さっきまで捨てろって言ってたのに!」
「何で!?」
「すごく邪魔だから!」
「でもすげえ切れる!」
「命とどっちが大事なの!」
「命!」
「じゃあ捨てて!」
「先生が持って帰れって!」
「どっちなのよ!」
◇
「痴話喧嘩は後にしてください!」
「痴話喧嘩じゃねえ!」
「誰がこんなのと!」
「こんなのって何だよ!」
「前を見ろ!」
タケミカヅチが怒鳴った。
◇
敵が来る。
タケミカヅチが受ける。
「孔明!」
「三十息!」
「何?」
「あの道を三十息、止めてください!」
「倒してよいか!」
「駄目です!」
「なぜ!」
「倒せば次が来ます!」
「ではどうする!」
「止めるだけです!」
「面倒だ!」
「お願いします!」
◇
タケミカヅチが、
狭い道へ入った。
一人。
剣を横にする。
「来い」
◇
敵が来る。
一人目。
剣を弾く。
二人目。
押し返す。
三人目。
足を払う。
狭い。
前が倒れると、
後ろが進めない。
「……」
タケミカヅチは、
少し笑った。
「なるほど」
◇
倒す必要はない。
進ませなければいい。
◇
「孔明!」
「はい!」
「三十息だ!」
「十分です!」
「さっき俺が言った!」
「そうでしたね!」
◇
諸葛亮は人々を川へ送る。
「こちらです!」
浅い場所。
昼に確認した場所。
石がある。
足場になる。
「子供を先に!」
「怪我人を真ん中へ!」
「手を離さないで!」
◇
「先生!」
溟が来る。
「俺は?」
「最後です」
「何で!?」
「元気ですから」
「理由になってない!」
「クシナ殿を手伝ってください!」
「分かった!」
◇
その時。
諸葛亮が、
ふと。
顔を上げた。
◇
兵の流れ。
先ほどまで。
絶えず人が出入りしていた建物。
今。
誰もいない。
◇
「……妙ですね」
「先生?」
「溟様」
「何?」
「あの建物は?」
「知らない」
「兵が出てきた場所では?」
「あー……たぶん」
「たぶん?」
「俺、追われてたから!」
「そうでしたね」
◇
建物。
少し高い場所。
谷を見渡せる。
人の出入り。
兵。
伝令。
そして今。
混乱によって、
空いている。
◇
「……」
諸葛亮の目が変わった。
◇
「溟様」
「何?」
「皆を連れて、川を渡ってください」
「先生は?」
「少々」
建物を見る。
「見て参ります」
「どこを」
「あちらを」
「そっち逆だぞ」
「存じております」
「先生?」
◇
諸葛亮は歩き出した。
「先生!」
「すぐ戻ります!」
「それ俺が言うやつだろ!」
◇
「孔明!」
タケミカヅチが戻ってきた。
「どこへ行く!」
「少々、指揮所へ」
「帰るのではなかったのか!」
「帰りますよ」
「方向が逆だ!」
「少々曲がります」
「それを寄り道と言うんだ!」
◇
「敵が戻ってきますよ」
「分かっているなら行くな!」
「だから今行くのです」
「……」
タケミカヅチが、
心の底から嫌そうな顔をした。
「お前」
「はい」
「溟より面倒ではないか?」
「それは心外です」
◇
指揮所。
人はいない。
机。
木簡。
地図。
荷の記録。
鉄。
炭。
食糧。
人。
諸葛亮は、
次々と見る。
◇
「これは不要」
置く。
「これも」
置く。
「鉄の量……」
見る。
「多いですね」
「孔明」
「はい」
「早くしろ」
「もう少し」
「敵が戻る」
「あと少し」
「何を探している」
「分かりません」
「……何?」
「何があるか分からないので」
木簡をめくる。
「探しているのです」
「面倒な爺だな!」
◇
船。
塩。
鉄。
布。
人。
港。
見覚えのない名。
だが。
文字は読める。
当然だ。
中華の文字だった。
◇
「……」
諸葛亮の手が止まる。
「どうした」
「静かに」
◇
一枚。
読む。
もう一枚。
読む。
そして。
その下。
◇
「……まさか」
◇
見覚えがあった。
形式。
言葉。
そして。
記された地名。
◇
諸葛亮の顔から、
完全に表情が消えた。
「孔明?」
「……」
「何だ」
答えない。
「おい」
「持って帰ります」
「何を」
「これを」
数枚だけ取る。
「他は?」
「要りません」
「さっきまで全部見ていたではないか」
「これで十分です」
◇
外から声。
「先生ぇぇぇ!」
◇
「呼ばれているぞ」
「聞こえております」
「随分切羽詰まっているぞ」
「いつものことです」
「いつもなのか」
◇
二人は走った。
◇
川。
最後の者たちが渡っている。
溟。
クシナ。
子供。
「先生!」
「無事ですね」
「遅い!」
「申し訳ありません」
「何してた!」
「調べ物です」
「今!?」
「今しかありませんでしたので」
「俺のこと怒れないだろ!」
「それとこれとは別です」
◇
敵兵が来る。
だが。
遠くから。
別の音。
◇
角笛。
◇
狗奴国側が止まる。
諸葛亮も見る。
◇
山道。
火。
人。
旗。
◇
「来た」
クシナが呟く。
「何が?」
溟が聞く。
◇
諸葛亮は、
小さく笑った。
「迎えです」
◇
先頭にいたのは、
思金だった。
その後ろ。
兵。
さらに。
各地から集まった者たち。
◇
そして。
その中央。
卑弥呼。
◇
「……来たのかよ」
溟が呟く。
◇
卑弥呼は、
溟を見た。
生きている。
その隣。
娘たち。
男たち。
子供。
怪我人。
◇
卑弥呼が命じる。
「道を開けなさい」
◇
兵が動く。
だが。
前へ攻めない。
川のこちら側。
人々が帰るための道を作る。
◇
狗奴国の兵も。
動けなかった。
追えば。
戦になる。
だが。
邪馬台国側も、
攻めてこない。
◇
互いに。
川を挟む。
◇
諸葛亮が、
卑弥呼の隣へ来た。
「討ちますか」
小さく尋ねる。
◇
卑弥呼は。
対岸を見る。
狗奴国の兵。
その後ろ。
燃える炉。
煙。
山。
◇
「いいえ」
答えた。
「帰ります」
◇
諸葛亮が頭を下げる。
「御意」
◇
誰も追わなかった。
◇
いや。
追えなかった。
◇
その夜。
八つにも。
十にも。
それ以上にも見えた炎は。
山の中で、
いつまでも燃えていた。
◇
後の世。
人々は。
この夜のことを、
一匹の怪物として語った。
◇
幾つもの谷。
幾つもの炉。
幾筋もの川。
幾本もの煙。
◇
山を這い。
火を吐き。
人を呑み込む、
巨大な大蛇。
◇
そして。
須佐から来た男が。
その大蛇へ挑み。
囚われた娘を救い。
腹の中から、
一振りの剣を得たのだと。
◇
だが。
この夜。
大蛇など、
どこにもいなかった。
◇
あったのは。
鉄。
火。
人。
欲。
国。
そして。
海の向こうから伸びてきた、
一本の糸だった。
◇
須佐へ戻る。
朝。
◇
「母上!」
声がした。
◇
昨日。
卑弥呼の前で泣いていた女が。
走る。
◇
「母さん!」
娘が走る。
◇
二人が、
抱き合った。
◇
溟は。
少し離れたところで、
それを見ていた。
◇
「……」
◇
笑った。
◇
それから。
ほんの少しだけ。
泣いた。
◇
諸葛亮は。
何も言わなかった。
ただ。
隣に立った。
◇
「先生」
「はい」
「俺」
「はい」
「行ってよかった」
◇
諸葛亮は、
母と娘を見る。
◇
「……そうですね」
◇
「でも」
「はい」
「勝手に行ったことは?」
「それとこれとは別です」
「やっぱり?」
「はい」
◇
後ろから。
足音。
◇
溟が振り返る。
卑弥呼がいた。
◇
「……」
「……」
◇
「姉ちゃん」
◇
卑弥呼が。
溟を抱きしめた。
◇
「……え」
◇
強く。
◇
「生きていて」
声が震える。
「よかった」
◇
溟は。
しばらく動かなかった。
◇
「……うん」
◇
それから。
恐る恐る。
背中へ手を回した。
◇
「ごめん」
◇
「……」
◇
卑弥呼が離れる。
◇
ぱん。
◇
「痛っ!?」
◇
「勝手なことをして!」
「でも助けただろ!」
「それとこれとは別です!」
「先生と同じこと言ってる!」
「当たり前です!」
「先生ぇ!」
◇
諸葛亮が目を逸らした。
「私も一発くらいは許可しましたので」
「裏切った!?」
◇
少し離れたところ。
タケミカヅチが腕を組んでいる。
「俺の分は?」
「いらねえよ!」
「許可は出ている」
「取り消し! 先生、取り消して!」
「善処します」
「それ守らない奴の言い方だろ!」
◇
笑い声が起きた。
◇
長い夜が。
ようやく終わった。
◇
その夜。
◇
皆が眠った後。
諸葛亮だけが、
起きていた。
◇
灯火。
机。
そして。
狗奴国から持ち帰った、
数枚の木簡。
◇
一枚目。
読む。
◇
二枚目。
◇
三枚目。
◇
何度読んでも。
意味は変わらない。
◇
手が。
わずかに震えた。
◇
「孔明殿?」
◇
思金だった。
「まだ起きていたのですか」
「あなたに言われたくありません」
◇
思金が入る。
「それは?」
「狗奴国で」
「例の寄り道ですか」
「……もう聞いたのですか」
「タケミカヅチから」
「話が早いですね」
「『農業に詳しい老人だと聞いていた』と怒っていましたよ」
「私は農業には詳しいですよ」
「そこではないでしょう」
◇
思金が、
諸葛亮の手を見る。
◇
「孔明殿」
「はい」
「手が」
◇
諸葛亮は。
初めて気づいたように、
自分の手を見た。
◇
震えている。
◇
「……」
◇
「何が書いてあるのです」
◇
諸葛亮は答えない。
◇
「あなたが」
思金が言う。
「そこまで恐れる国なのですか」
◇
「……」
◇
長い沈黙。
◇
やがて。
諸葛亮は、
首を横に振った。
◇
「恐れているのではありません」
◇
「では?」
◇
「知っているのです」
◇
灯火が揺れる。
◇
「この国を?」
◇
「ええ」
◇
諸葛亮は。
木簡に記された文字を、
もう一度見た。
◇
**呉。**
◇
五丈原で。
死んだはずの男が。
◇
海を渡り。
名を捨て。
ようやく見つけた、
小さな土地。
◇
そこへ。
中華の手が。
すでに届いていた。
◇
「思金殿」
「はい」
◇
「我々は」
◇
諸葛亮は、
静かに言った。
◇
「見つかったのです」
◇
「誰に?」
◇
諸葛亮は。
西を見た。
◇
「中華に」




