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第十四話 海の向こう


「中華に」


 諸葛亮は、そう言った。


 灯火が揺れている。


 机の上には、狗奴国から持ち帰った木簡が並べられていた。


 思金は、その文字を見る。


 読めないわけではない。大陸から伝わった文字は、倭でも使われ始めている。


 だが、そこに記された地名も、人の名も、官の名も、思金には馴染みのないものだった。


「……呉」


 思金が読む。


「これが、その国の名ですか」


「はい」


「大きな国なのですか」


「大きいですよ」


「狗奴国より?」


「比べるものではありません」


「邪馬台国より?」


「ですから」


 諸葛亮は困ったように笑った。


「比べるものではないのです」


 思金は黙った。


 その意味が、まだよく分からなかった。


「思金殿」


「はい」


「地図を」


「狗奴国の?」


「いいえ」


 諸葛亮は顔を上げた。


「もっと大きなものを」


 持ってこられたのは、倭の地図だった。


 邪馬台国。須佐。狗奴国。


 山があり、川があり、その先に海がある。


 諸葛亮がこの三年、何度も書き足し、思金たちも直してきた地図だ。


 諸葛亮はその横へ、新しい板を置いた。


「何を?」


「海の向こうを」


 筆が動く。


 倭から海を越え、その向こうへ。


 島があり、半島があり、さらに西へ線が伸びていく。


 思金は、いつしか何も言わなくなっていた。


 諸葛亮はさらに描く。


 北――魏。


 南東――呉。


 そして西へ筆を運んだところで、その手が止まった。


 ほんの一瞬だった。


 諸葛亮はそこにも線を引いた。


 蜀。


「ここが、あなたの国ですか」


 思金が尋ねる。


 諸葛亮は少し考えた。


「……私のいた国です」


 思金は、それ以上聞かなかった。


 再び筆が動く。


 やがて大きな大陸が、倭の横に現れた。


「……これが中華ですか」


「その一部です」


「……一部?」


「はい」


 思金はもう一度、自分たちの国を見る。


 小さい。


 あまりにも、小さい。


 海の向こう、大陸の端に浮かぶ島々。


「……面倒ですね」


 諸葛亮が思金を見る。


 そして、少しだけ笑った。


「中華ですから」


「以前、私が言ったことを返しましたね」


「覚えておられましたか」


「忘れませんよ」


 少しだけ空気が緩んだ。


 だが、狗奴国から持ち帰った木簡を地図の上へ置いた瞬間、再び張り詰める。


「呉は、敵なのですか」


 思金が聞いた。


 諸葛亮はすぐには答えなかった。


「孔明殿?」


「難しい質問ですね」


「難しい?」


「敵であったこともあります」


「では敵なのでは」


「味方であったこともあります」


「……同じ国が?」


「はい」


「敵になったり、味方になったりする?」


「なります」


「なぜ」


 諸葛亮は、ほんの少し遠い目をした。


「国とは、そういうものです」


 同盟。


 荊州。


 関羽。


 夷陵。


 そして再び結ばれた盟。


 敵と味方。


 そんな二つの言葉だけでは語れないものを、諸葛亮はあまりにも多く見てきた。


「では、呉が狗奴国を動かしているのですね」


「それは分かりません」


「……何?」


「分からないのです」


「ですが、この木簡は」


「呉と狗奴国の間に、何らかの繋がりがある。それは間違いないでしょう。ですが、それが何を意味するのかは別です」


 諸葛亮は指を一本立てる。


「商人かもしれない」


 二本目。


「地方の官かもしれない」


 三本目。


「軍人かもしれない」


 そこで手を下ろした。


「あるいは――呉という国そのものが、こちらを見ているのかもしれない」


「違うのですか」


「全く違います」


 思金は木簡を見る。


「国が繋がっているのか」


「はい」


「国の中の誰かが繋がっているのか」


「はい」


「それを知る必要がある」


「その通りです」


「……面倒ですね」


「中華ですから」


「二度は結構です」


「先生!」


 突然の大声に、思金が目を閉じた。


 諸葛亮はため息をつく。


「入りなさい」


 戸が開いた。


「聞いたぞ!」


 溟だった。


「静かにしてください」


「呉なんだって!?」


「誰から聞きました」


「思金」


 二人が同時に思金を見る。


「私は『大陸の国らしい』としか申し上げておりません」


「同じじゃん」


「全く違います」


「さっきも同じこと聞いたな」


 溟が地図を見る。


 そして、顔が変わった。


「……先生。これ」


 指した先には、蜀があった。


「はい」


 溟は、しばらくそこを見ていた。


「母上……」


 小さな声だった。


 諸葛亮は何も言えなかった。


 生きているのか。


 死んでいるのか。


 今、どこにいるのか。


 何一つ分からない。


 やがて溟は指を離した。


「で」


 いつもの声に戻る。


「呉なんだろ?」


「切り替えが早いですね」


「考えても分かんねえこと考えても仕方ねえだろ」


 諸葛亮は少し驚いた。


「何だよ」


「いえ」


 三年前。


 海の上で母を想い、毎夜泣いていた少年。


 今も忘れたわけではない。


 それでも、立っている。


「成長されましたね」


「何が?」


「何でもありません」


 溟が呉を見る。


「じゃあ敵じゃん」


「誰がです?」


「呉」


「なぜ?」


「なぜって……呉だぞ」


「理由になっておりません」


「だって! 関羽将軍だって――」


「溟様」


 静かな声だった。


 溟が止まる。


 思金は二人を見た。


 自分には分からない。


 だが今、この二人の間には、自分の知らない多くの死者がいる。


「呉は、敵にもなりました」


「ほら」


「味方にもなりました」


「……」


「国に、永遠の敵も味方もありません」


「じゃあ信用すんのかよ」


「いいえ」


「どっちだよ!」


「信用する必要がない、と申し上げているのです」


「余計分かんねえよ!」


 思金が少し笑った。


「何だよ」


「いえ」


「今笑っただろ」


「気のせいです」


 溟は地図に両手をついた。


「じゃあさ。狗奴国を潰せばいいんじゃねえの?」


 思金も諸葛亮を見る。


「呉と繋がってるなら、そこを切っちまえばいいだろ」


「それが一番してはいけないことです」


「何でだよ」


 諸葛亮は狗奴国を示す駒を持ち上げた。


「狗奴国がなくなれば――」


 駒を退ける。


「次に呉と向き合うのは、誰です?」


 溟が邪馬台国を見る。


 須佐を見る。


「……俺たち」


「はい」


 諸葛亮は駒を元へ戻した。


「敵であれば、滅ぼせばよい。昔の私なら、そう考えたかもしれません」


 魏。


 北伐。


 祁山。


 陳倉。


 五丈原。


 何度、敵を倒せば戦が終わると考えただろう。


「ですが、敵がいることと、敵が必要ないことは同じではありません」


「敵が必要?」


 溟が眉を寄せる。


「狗奴国は……」


 先に気づいたのは思金だった。


「壁になる」


 諸葛亮が思金を見る。


「ええ」


「我々と、呉との間の」


「はい」


 溟は露骨に嫌そうな顔をした。


「昨日俺を殺そうとした奴らを?」


「狗奴国の全員が、あなたを殺そうとしましたか?」


「……」


 溟が黙る。


 鉄を作っていた者。


 炭を運んでいた者。


 捕らわれていた者。


 普通の兵。


 そして、大陸の言葉を使った兵。


 同じではなかった。


「昨日、私は妙なものを見ました」


 諸葛亮は木簡へ目を落とす。


「狗奴国の中に、狗奴国ではないものが混ざっていた」


 思金の目が細くなる。


「ならば、狗奴国と呉を一つとして考えてはいけない」


「その通りです」


「でも繋がってるんだろ?」


「だからこそです」


 諸葛亮は狗奴国の駒を指で押さえた。


「どこが繋がっているのか。誰が繋がっているのか。なぜ繋がっているのか。それを知らずに国を一つ滅ぼすほど――」


 少し笑う。


「私はもう、若くありません」


「歳関係ある?」


「ありますよ」


「絶対ないだろ」


「それに」


 思金が口を挟む。


「昨日、敵の指揮所へ勝手に入った者が慎重さを語っても、説得力がありませんね」


 諸葛亮が思金を見る。


「……誰から?」


「タケミカヅチ」


「先生、何したの?」


「少々」


「指揮所に入ったそうです」


「先生!?」


「帰り道にありましたので」


「なかったってタケミカヅチ言ってたぞ」


「もうそこまで話したのですか」


「俺より酷くね?」


「それとこれとは別です」


「便利だなそれ!」


「孔明」


 低い声がした。


 三人が振り返る。


 タケミカヅチが立っていた。


「おはようございます」


「思金」


「はい」


「聞いていた話と違う」


 諸葛亮が嫌そうな顔をした。


「何と聞きました?」


「農業に詳しい老人」


「詳しいですよ」


「そこではない」


 思金がとうとう笑った。


 タケミカヅチは諸葛亮を見る。


「では、何者だ」


 少しの間。


 諸葛亮は答えた。


「今は、ただの旅人ですよ」


「旅人は敵の指揮所を漁らん」


「昨日も似たようなことを言われましたね」


「俺が言った」


「そうでしたか」


「忘れるな」


 タケミカヅチは出ていった。


「……怒っています?」


「気に入られたのでは?」


「どこがです」


 溟が笑う。


「先生、友達できたじゃん」


「あなたは少し黙っていてください」


◇


 昼。


 救い出された者たちの名が、一人ずつ確認された。


 家族のもとへ帰る者。


 帰る場所のない者。


 怪我をした者。


 まだ狗奴国に家族を残す者。


 諸葛亮は、その一人一人を記録した。


 ほんの少し前まで、魏、呉、蜀という巨大な国々を地図に描いていた男が、今は一人ずつの名を書いている。


 思金は、その姿を見ていた。


「何です?」


「いえ」


「何か?」


「あなたにとって、国とは何なのだろうと」


 筆が止まった。


「……」


 諸葛亮は答えなかった。


 まだ。


 答えられなかった。


◇


 その夜。


 海には月が浮かんでいた。


 諸葛亮は、一人で波を見ていた。


 三年前、この海を渡った。


 中華から離れるために。


 追われぬため。


 見つからぬため。


 何より、劉溟という少年を「天下」というものから遠ざけるために。


 海は壁だと思っていた。


 だが、違った。


 海は道でもあった。


 自分たちが渡れたのなら、他の者も渡れる。


「先生」


 振り返らなくても分かった。


「……溟様」


「やっぱここにいた」


「なぜ?」


「先生、考え事すると一人になるから」


「そうでしたか?」


「そうだよ」


 溟が隣へ立った。


 二人で海を見る。


「先生」


「はい」


「怖い?」


 諸葛亮は答えなかった。


「呉が」


 波の音だけが続いた。


「……怖いですよ」


 溟が少し驚いた。


「先生が?」


「私でも怖いものくらいあります」


「何でも知ってるくせに」


「知っているからです」


 昨夜、思金へ言った。


 恐れているのではない。知っているのだと。


 あれは嘘ではない。


 だが、知っているからこそ、恐ろしいものもある。


「呉だけではありません」


「じゃあ何が?」


「中華が」


「……先生が、中華を怖がるの?」


「ええ」


 諸葛亮は海を見る。


「私は一度、中華で死にました」


「……うん」


「もう一度死ぬことは、さほど怖くありません」


「そういうこと言うなよ」


「ですが――」


 諸葛亮は振り返った。


 遠くに須佐の灯が見える。


 小さな灯だった。


 あそこには田がある。


 水路がある。


 蔵がある。


 家がある。


 今日、娘を抱きしめた母がいる。


 泥だらけになって、一緒に水路を掘った者たちがいる。


 そして隣には、もう夜ごと泣かなくなった少年がいる。


「ここまで、中華の戦を連れてくることは……」


 言葉が一度止まった。


「怖い」


 溟は何も言わなかった。


 しばらく、波の音だけが続いた。


「じゃあ」


 溟が言った。


「連れてこなきゃいい」


 諸葛亮が隣を見る。


「……簡単におっしゃいますね」


「だってそうだろ」


「大変なのですよ?」


「先生ならできるだろ」


「随分と無茶を言いますね」


「俺が一人で狗奴国行くよりマシだろ」


 諸葛亮は黙った。


「それを言われると……弱いですね」


 溟が笑った。


「先生」


「はい」


「俺もやるよ」


「何を?」


「分かんねえ」


「……」


「でも」


 溟は須佐を見る。


 少し照れたように言った。


「ここ、俺の国でもあるから」


 諸葛亮は何も言わなかった。


 三年前。


 母から離れていく海を嫌っていた少年。


 その少年が今、海のこちら側を自分の国と呼んだ。


「……そうですか」


 それだけだった。


◇


 翌朝。


 卑弥呼、思金、諸葛亮、溟の四人が地図を囲んでいた。


 その脇には、昨夜まで溟が持っていた剣が置かれている。


 長い。


 倭で普段見るものとは、少し違う。


 諸葛亮はその剣を一度見てから、卑弥呼へ向き直った。


「まず、一つお願いがございます」


「何です?」


「狗奴国を、滅ぼしてはなりません」


 溟が見る。


 思金も見る。


 卑弥呼は静かに尋ねた。


「昨日、私たちの民を捕らえていた国です」


「はい」


「溟を殺そうとした国です」


「はい」


「呉という国とも、繋がっている」


「その可能性は高いでしょう」


「それでも?」


「それでもです」


「なぜ?」


 諸葛亮は地図を見る。


 邪馬台国。


 狗奴国。


 海。


 そして、その向こうの呉。


「敵の目がどこにあるか分かっているなら、その目を潰してはいけません」


 思金が諸葛亮を見る。


「見られ続けるのですか」


「はい」


「危険では?」


「危険です」


「では、なぜ」


「こちらも、見られますから」


「……」


「敵が何を知っているのか。何を知らないのか。何を知りたがっているのか」


 諸葛亮は、狗奴国から持ち帰った木簡を一枚ずつ地図の上へ置いた。


 そして最後の一枚を、裏返す。


「そして――何を、知ったと思わせるのか」


 思金の目が細くなった。


「……孔明殿」


「はい」


「あなた、悪い顔をしていますよ」


「そうですか?」


「ええ」


 溟が横から覗き込む。


「あ、本当だ」


「溟様」


「何?」


「後でお話があります」


「何で!?」


 卑弥呼だけは笑わなかった。


「孔明」


「はい」


「私は、何を決めればいいのですか」


 三年前なら。


 諸葛亮は、答えを言ったかもしれない。


 だが今は違う。


「まだ、何も」


「……?」


「まず知りましょう」


「何を?」


 諸葛亮の指が狗奴国で止まった。


「狗奴国の中で、誰が――」


 その向こうには海がある。


「呉と繋がっているのかを」


 海はもう、世界の果てではなかった。


 こちらと向こうを繋ぐ、道になっていた。

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