第十五話 すでに割れている国
狗奴国を調べる。
そう決めてから七日。
諸葛亮は、須佐から一歩も出なかった。
「先生」
「はい」
「調べるんじゃなかったの?」
「調べておりますよ」
「ずっとここにいるじゃん」
「おりますね」
「狗奴国、向こうだぞ」
「存じております」
溟が指差す。
山の向こう。
先日まで、自分が捕らわれた者たちと走り回っていた場所だ。
「行かなくていいの?」
「私が?」
「うん」
「なぜ?」
「この前、勝手に指揮所まで入ったじゃん」
「……」
諸葛亮の筆が止まった。
「溟様」
「何?」
「あれは忘れてください」
「無理」
「では、他言しないでください」
「もうみんな知ってる」
「なぜです?」
「タケミカヅチが喋ってる」
「……あの方は意外と口が軽いですね」
「お前が勝手に行ったからだろ」
低い声がした。
諸葛亮が振り返る。
タケミカヅチがいた。
「おはようございます」
「今は昼だ」
「そうでしたか」
「孔明」
「はい」
「俺は口が軽いのか」
「聞いておられましたか」
「聞こえるように言っただろう」
「これは失礼を」
「で」
タケミカヅチが地面へ腰を下ろす。
「何をしている」
「調べ物です」
「だから、何をだ」
諸葛亮は、目の前に並べた木片を指した。
いくつもある。
それぞれに、人の名や村の名、品物、数が書かれている。
「狗奴国を」
「これで?」
「はい」
「行かずに?」
「はい」
タケミカヅチは、しばらく木片を見た。
「分からん」
「私もです」
「分からないのか」
「ですから調べているのです」
「面倒な爺だな」
「最近よく言われます」
溟が横から覗き込んだ。
「これ何?」
「先日救出した方々から聞いた話です」
「こっちは?」
「狗奴国から来る商人」
「これ」
「炭焼きの者」
「これは?」
「以前、狗奴国へ嫁いだ方の親族です」
「……先生」
「はい」
「めちゃくちゃ聞いてるじゃん」
「だから調べていると申し上げたでしょう」
「もっとこう……」
溟が手を動かす。
「忍び込むとか」
「なぜです?」
「軍師っぽい」
「軍師ではありません」
「指揮所漁ったくせに」
「その話はもう結構です」
諸葛亮は、また筆を動かした。
狗奴国へ行かなくとも、狗奴国から来る者はいる。
塩を持ってくる者。
鉄を売る者。
炭を買う者。
親族を訪ねる者。
逃げてくる者。
そして今回、連れ戻された者たち。
人が動けば、話も動く。
話が動けば、国が見える。
「国境とは、便利な言葉です」
諸葛亮が言った。
「何が?」
「線を一本引けば、こちらと向こうに分けられる」
「うん」
「ですが、人は線の上で暮らしているわけではありません」
木片を一つ動かす。
「こちらの村の娘が、向こうへ嫁ぐ」
もう一つ。
「向こうの炭が、こちらへ来る」
もう一つ。
「こちらの塩が、向こうへ行く」
「……」
「国を調べたいなら」
諸葛亮は木片を見る。
「王だけを見てはいけません」
そこへ、思金がやって来た。
「ちょうどよかった」
「何がです?」
「新しい話があります」
手にしていた木簡を置く。
「狗奴国から?」
「ええ」
諸葛亮が読む。
「……なるほど」
「何?」
溟が覗く。
「読めるのですか?」
「読めない」
「ではなぜ覗くのです」
「気になるだろ」
思金が座った。
「先日の件について、狗奴国の中でも揉めているようです」
「揉めてる?」
「女たちを連れ去ったことです」
溟の顔から笑いが消えた。
「……」
「狗奴国の決まりだったわけではない?」
諸葛亮が尋ねる。
「少なくとも、全土で行われているものではないようです」
「では」
「一部の者が始めた」
思金は狗奴国の地図へ指を置く。
「鉄を作る者を増やすために」
「誰が?」
「王に近い者たち」
「王自身は?」
「分かりません」
諸葛亮が頷く。
「分からないことを分からないまま持って帰ってくる。大切なことです」
「褒められている気がしませんね」
「褒めておりますよ」
「あなたの場合は分かりにくい」
思金が別の木片を置いた。
「それから、もう一つ」
「はい」
「先日の製鉄場にいた兵についてです」
諸葛亮の目が変わった。
「大陸の言葉を使った者ですか」
「それも含めて」
思金は続ける。
「狗奴国の兵ではない、という話があります」
「……」
溟が身を乗り出した。
「やっぱ呉なのか?」
「分かりません」
「またそれ?」
「分からないものは分からないのです」
諸葛亮が言う。
「ですが」
思金を見る。
「狗奴国の兵ではない、と狗奴国の者が言っている」
「ええ」
「面白いですね」
「面白い?」
溟が嫌そうな顔をした。
「先生の面白い、最近怖いんだけど」
「失礼ですね」
「だって悪い顔するじゃん」
「しておりません」
タケミカヅチが口を挟んだ。
「しているぞ」
「……」
「二対一」
「多数決で顔は決まりません」
思金が話を戻す。
「さらに、鉄を作る者たちの中にも不満があるようです」
「なぜ?」
「作った鉄の行き先です」
諸葛亮が地図を見る。
「外へ?」
「はい」
「どこへ」
「海へ」
沈黙。
「……呉?」
溟が言った。
思金は首を振る。
「そこまでは」
「分からない」
「ええ」
諸葛亮だけが、小さく笑った。
「それでよいのです」
「何が?」
「少しずつ見えてきました」
木片を並べ直す。
王に近い者。
大陸と繋がる者。
鉄を作る者。
炭を焼く者。
村々。
兵。
そして、先日のやり方に反発する者。
「これ」
溟が言った。
「同じ国なの?」
「はい」
「全然まとまってないじゃん」
「倭の国々など、大抵そんなものでは?」
思金が言う。
「邪馬台国だって三年前は似たようなものでした」
「今は?」
「今も面倒です」
「そこは変わんねえんだ」
「倭国ですから」
「それ好きだな」
諸葛亮は笑いながら、木片を眺めていた。
だが。
一つだけ。
気になるものがある。
「思金殿」
「はい」
「先日の製鉄場」
「ええ」
「捕らわれた方々を連れていた者について、何か話は?」
「一人、妙な男がいたそうです」
「妙?」
「狗奴国の者ですが、連れ去りには反対していたと」
溟が顔を上げた。
「もしかして」
「知っていますか?」
「……たぶん」
あの夜。
製鉄場へ入り込んだ時。
一度だけ、溟の前へ立った男がいた。
剣を持っていた。
狗奴国の兵を率いていた。
だが。
溟を見つけた時、真っ先に聞いた。
――娘たちを逃がしたのは、お前か。
溟は剣を構えた。
――だったら何だよ。
男も剣を抜いた。
だが。
その次に言った言葉が妙だった。
――全員、連れていけるのか。
「……いた」
「どのような者でした?」
「怖い奴」
「他には?」
「強そう」
「他には?」
「……」
「溟様」
「説明難しいんだよ!」
タケミカヅチが呆れた。
「お前は人を見る目が雑だな」
「じゃあお前ならどう言うんだよ!」
「会っていない」
「ずるい!」
思金がため息をつく。
「その者は、狗奴国の南側に土地を持つ一族の者らしいです」
「王に近い?」
「むしろ逆です」
「逆?」
「最近、王の周囲と折り合いが悪い」
諸葛亮の指が止まった。
「理由は?」
「呉です」
今度は誰も笑わなかった。
「大陸から鉄の技を学ぶことには賛成している。しかし、兵まで受け入れるのは違う、と」
「なるほど」
「それに、人を攫って鉄を作らせれば、周辺の村が離れるとも主張しているそうです」
諸葛亮の口元が、わずかに動いた。
「まともじゃん」
溟が言う。
「まともだから味方、とは限りませんよ」
「分かってるよ」
「本当に?」
「最近先生、俺のこと馬鹿だと思ってない?」
「最近?」
「前から!?」
思金が咳払いした。
「続けますよ」
「はい……」
「その一族だけではありません。北の村々は、鉄を作るために炭を出しすぎていることへ不満を持っている。海沿いの者は、大陸との交易で利益を得ているので現状を変えたくない。逆に内陸では、交易の利益が回ってこないと不満がある」
木片が増えていく。
一つの国。
だが。
思惑は一つではない。
「王の周囲」
思金が置く。
「大陸との交易を続けたい者」
置く。
「鉄を作る者」
置く。
「炭を出す村」
置く。
「連れ去りに反発する者」
置く。
「大陸の兵を嫌う者」
置く。
「……」
溟が眺める。
「ぐちゃぐちゃじゃん」
「国とは、そういうものですよ」
諸葛亮が言った。
思金が、その横顔を見る。
「嬉しそうですね」
「そう見えますか?」
「ええ」
「困りましたね」
「何が?」
「こういうものを見ると」
諸葛亮は木片を一つ手に取った。
「昔の癖が出ます」
思金の目が細くなる。
「何を考えました?」
「まだ何も」
「嘘ですね」
「信用がありませんね」
「敵の指揮所へ勝手に入る方ですので」
「まだ言いますか」
「しばらく言います」
溟が地図を見る。
「でもさ」
「はい」
「これだけバラバラなら」
木片を指す。
「割れるんじゃねえの?」
思金も頷いた。
「私も同じことを考えていました」
「ほら」
「珍しく意見が合いましたね」
「珍しくは余計だろ」
思金は諸葛亮を見る。
「孔明殿」
「はい」
「割りますか」
諸葛亮は答えなかった。
木片を見る。
王。
豪族。
鉄。
炭。
海。
村。
呉。
それぞれを結ぶ線。
そして。
線と線の間にある、亀裂。
「いいえ」
諸葛亮が言った。
「割りません」
「なぜ?」
溟が聞く。
「割る必要がないからです」
「……?」
諸葛亮は、狗奴国を示す木片を一つ持ち上げた。
「国というものは」
その下には、いくつもの小さな木片がある。
「外から見れば、一つに見えます」
王。
豪族。
村。
兵。
職人。
商人。
「ですが、中へ入れば」
一つずつ、離していく。
「誰もが同じものを望んでいるわけではありません」
最後に。
呉と書かれた木片を置いた。
「狗奴国は」
諸葛亮が言う。
「我々が割るまでもありません」
思金が目を細めた。
「では?」
諸葛亮は、静かに答えた。
「すでに割れております」
◇
その日の夕方。
卑弥呼は、話を聞き終えるまで何も言わなかった。
諸葛亮も急かさなかった。
思金が集めた話を一つずつ説明する。
狗奴国の王に近い者。
呉との交易を重視する者。
大陸から来た者。
鉄を作る者。
そのやり方へ反発する者。
そして、連れ去られた者たち。
「それで」
卑弥呼が尋ねた。
「あなたは、どうするつもりですか」
「私が決めることではありません」
「またそれを言う」
「大切なことですので」
卑弥呼は、少しだけ不満そうな顔をした。
三年前なら。
ここで諸葛亮へ答えを求めていただろう。
だが今は違う。
「では、聞き方を変えます」
「はい」
「何が、できますか」
諸葛亮は少し笑った。
「いくつか」
「聞きましょう」
「一つ。狗奴国を攻める」
「それは?」
「最も分かりやすく、最も多くの血が流れます」
卑弥呼の顔が曇る。
「二つ。何もしない」
「それは?」
「呉との繋がりが深くなる可能性があります」
「三つは?」
「狗奴国の中で、我々と話のできる者を探します」
思金が続ける。
「先ほどの男ですか」
「候補の一人です」
「信用できますか?」
「できません」
即答だった。
溟が吹き出す。
「じゃあ駄目じゃん!」
「なぜです?」
「信用できないんだろ?」
「信用できない相手とは話せないのですか?」
「……先生それ好きだな」
「信用と交渉は別です」
卑弥呼が聞く。
「その者と話して、何をするのです」
諸葛亮は少し考えた。
「まず、聞きます」
「何を?」
「彼らが、何を望んでいるのか」
「こちらの望みを伝えるのではなく?」
「それは後です」
「なぜ?」
「こちらが欲しいものを先に言えば」
諸葛亮は狗奴国の地図を見る。
「その値段が上がります」
思金が額を押さえた。
「やはり悪い顔をしていますね」
「しておりませんよ」
「しています」
卑弥呼が、ほんの少し笑った。
だが。
すぐに真顔へ戻る。
「孔明」
「はい」
「一つ、約束してください」
「何でしょう」
「狗奴国の王を変えるために」
卑弥呼は地図を見る。
「狗奴国の民を、飢えさせないこと」
諸葛亮の顔から笑みが消えた。
「……」
「田を焼かない」
「はい」
「水を止めない」
「はい」
「鉄を作る者も、炭を焼く者も、私たちに従わないというだけで殺さない」
「はい」
「私が欲しいのは」
卑弥呼は言った。
「狗奴国ではありません」
諸葛亮が顔を上げる。
「これ以上、泣きながら娘を返してくれと言う母親を増やしたくない」
しばらく。
誰も話さなかった。
やがて。
諸葛亮は深く頭を下げた。
「御意」
思金が、その姿を見る。
三年前。
この男は。
王になりきれない女へ、
国の造り方を教えた。
今は。
その女王から、
戦のやり方に条件をつけられている。
思金は少しだけ笑った。
「何です?」
諸葛亮が気づく。
「いえ」
「何か?」
「良いことだと思いまして」
「何がです?」
「あなたが」
思金は卑弥呼を見る。
「止められる側になったことが」
「……」
溟が笑った。
「先生、昔から止まんねえもんな」
「あなたにだけは言われたくありません」
◇
三日後。
狗奴国との境に近い、小さな村。
一人の男がやって来た。
護衛は二人だけ。
武器は持っている。
だが、抜いてはいない。
男は小屋へ入る。
中にいたのは、思金。
タケミカヅチ。
そして。
「……お前」
男の目が見開いた。
溟だった。
「あ」
溟も指を差す。
「やっぱお前じゃん」
思金が眉間を押さえた。
「知り合いなのですか」
「ちょっと斬り合った」
「先に言ってください」
「今思い出した」
「あなたは……」
男も溟を見る。
「須佐の馬鹿」
「誰が馬鹿だ!」
「一人で入ってきた奴が他にいるのか」
「結果的に助けただろ!」
「結果の話をしているのではない!」
「先生と同じこと言いやがった!」
タケミカヅチが腕を組む。
「気が合いそうだな」
「どこがだよ!」
「うるさい」
思金が二人を黙らせる。
男は室内を見た。
「……もう一人いると聞いた」
「おりますよ」
声。
奥から諸葛亮が出てくる。
男の目が変わる。
「お前が」
「はい」
「狗奴国を調べている老人か」
「そのようですね」
「何者だ」
「最近よく聞かれます」
「答えは?」
「須佐で畑を作っております」
「……」
男が溟を見る。
「本当だぞ」
「余計怪しい」
「だよな」
「溟様?」
「何でもないです」
男は座った。
「話があると聞いた」
「はい」
「邪馬台国は何を望む」
諸葛亮は答えなかった。
代わりに尋ねる。
「あなたは?」
「何?」
「あなたは何を望んでおられるのです」
「質問しているのは俺だ」
「ですから、こちらも質問しております」
男の眉が動く。
「俺たちを従わせたいのではないのか」
「誰がです?」
「邪馬台国が」
「なぜ?」
「なぜって……」
「狗奴国を滅ぼすつもりなら」
諸葛亮は穏やかに言う。
「あなたをここへ呼びません」
沈黙。
「では何が欲しい」
「まだ申し上げません」
「ふざけているのか」
「いいえ」
諸葛亮は男を見る。
「先に、あなたの望みを聞きたい」
男は黙った。
思金も黙っている。
長い沈黙の後。
男が口を開いた。
「……俺たちは」
拳を握る。
「呉の犬になりたいわけではない」
諸葛亮の目が細くなる。
「ですが、呉の技は欲しい」
「……」
「鉄を作る技も。海を渡ってくる品も。向こうの知識も」
「ええ」
「それを捨てろと言われても、できない」
「当然でしょう」
男が顔を上げた。
「……当然?」
「良いものを捨てる必要はありません」
「では何を」
「呉と交易を続けてください」
全員が諸葛亮を見る。
男まで固まった。
「……何?」
「聞こえませんでしたか」
「聞こえた」
「ならば」
「待て」
思金が止める。
「孔明殿」
「はい」
「それは、まだ私も聞いていません」
「今申し上げました」
「そういう意味ではありません」
溟が笑いを堪えている。
諸葛亮は男へ向き直った。
「呉と交易を続けてください」
「なぜ」
「あなた方には必要なのでしょう?」
「……ああ」
「ならば続ければよい」
「代わりに何を求める」
諸葛亮は少し笑った。
「ようやく」
「何?」
「話ができますね」
男の顔が険しくなる。
諸葛亮は気にしない。
「三つ」
指を一本立てる。
「人を攫わない」
二本目。
「呉の兵を、これ以上増やさない」
三本目。
「そして」
そこで。
諸葛亮は少し間を置いた。
「呉から何を聞かれたか」
男を見る。
「我々にも教えてください」
「……」
「こちらから何を伝えろとは、まだ申しません」
「まだ?」
「はい」
「いずれ言うのか」
「さて」
「……やはり信用できんな」
諸葛亮が笑った。
「結構です」
「何?」
「私も、あなたを信用しておりません」
男の護衛が動く。
タケミカヅチの手が剣へ伸びる。
だが。
男が止めた。
しばらく。
諸葛亮と男が互いを見る。
そして男が。
初めて。
ほんの少しだけ笑った。
「……なるほど」
諸葛亮も笑う。
「信用せずとも」
男が言う。
「話はできる、か」
「はい」
外では。
風が吹いていた。
邪馬台国と狗奴国。
二つの国の境。
まだ。
何一つ決まってはいない。
味方でもない。
敵でなくなったわけでもない。
だが。
一本だけ。
道ができた。
そして諸葛亮は知っていた。
国と国を繋ぐ道は。
兵が通るためだけにあるのではない。




