第十六話 敵の目
「呉と交易を続けてください」
そう言った老人を。
狗奴国の男は、まだ信用していなかった。
当然だった。
「一つ聞いていいか」
「どうぞ」
「お前は」
男は諸葛亮を見る。
「狗奴国をどうしたい」
「どう、とは?」
「邪馬台国へ従わせたいのか」
「いいえ」
「では、呉から引き離したい?」
「それも少し違います」
「……」
男の眉間に皺が寄る。
「さっきから、そればかりだな」
「何がです?」
「違う。違う。違う」
「違いますので」
「では何がしたい」
諸葛亮は少し考えた。
「あなた方には」
地図の上にある狗奴国を指す。
「狗奴国でいていただきたい」
「……意味が分からん」
「でしょうね」
「殴っていいか?」
男が言った。
「先生相手だとそうなるよな」
溟が頷いた。
「溟様?」
「俺も最初そうだった」
「あなたは今でもでしょう」
「最近は減ったよ!」
タケミカヅチが口を挟む。
「俺は昨日殴りたくなった」
「なぜ皆さん私を殴りたがるのです?」
「自覚がないのが一番悪い」
思金がため息をついた。
「話を戻しましょう」
「そうですね」
諸葛亮は男を見る。
「あなた方が突然、邪馬台国と親しくなったら」
「……」
「呉はどう思うでしょう」
男の顔が変わった。
「裏切ったと思う」
「はい」
「交易を切るかもしれない」
「それだけなら、まだよい」
「何?」
「なぜ裏切ったのかを調べるでしょう」
男は黙った。
「邪馬台国が何をしたのか。狗奴国に誰が入ったのか。何が変わったのか」
諸葛亮は、自分自身を指した。
「余計なものまで探し始めるかもしれません」
思金が諸葛亮を見る。
男は気づかなかった。
だが思金には、その言葉の意味が分かった。
この老人自身こそ。
最も見つかってはならないものなのだ。
「だから」
諸葛亮は続けた。
「何も変えない?」
男が尋ねる。
「いいえ」
「また違うのか!」
「変えるものと、変えないものを分けます」
男が額を押さえた。
「面倒だな、お前」
「よく言われます」
諸葛亮は地図へ二つの木片を置いた。
一つは邪馬台国。
一つは狗奴国。
少し離す。
「表では、今まで通りです」
「敵対したまま?」
「少なくとも、仲良くする必要はありません」
「裏では?」
「話をする」
「……」
「呉との交易も続ける」
「はい」
「呉から人が来れば?」
「迎えてください」
「兵も?」
「増やすのは困ります」
「ではどうする」
「断る理由を考えましょう」
「簡単に言うな」
「難しいから一緒に考えるのです」
男は長く息を吐いた。
「つまり」
思金が整理する。
「呉から見れば、狗奴国はこれまで通り邪馬台国と争う国」
「はい」
「しかし実際には」
「争わない?」
溟が言う。
「できれば」
「できれば?」
「喧嘩くらいはするでしょう」
「国同士で喧嘩って何だよ」
「水、山、交易、婚姻、土地。喧嘩の種などいくらでもあります」
思金が真顔で頷いた。
「倭国ですから」
「またそれかよ」
男が地図を見る。
「では、呉を騙すのか」
諸葛亮は首を振った。
「何もかも嘘にする必要はありません」
「どういうことだ」
「狗奴国と邪馬台国は仲が悪い」
「悪いな」
「ならば本当です」
「……」
「領地を巡って揉める」
「揉める」
「交易でも争う」
「争うな」
「ならば、それも本当です」
諸葛亮は微笑む。
「真実というものは」
木片を一つ摘まむ。
「全部見せる必要はないのです」
男の顔が引きつった。
「やはりお前、信用できん」
「ありがとうございます」
「褒めてない」
「存じております」
思金は腕を組んだ。
「ですが、孔明殿」
「はい」
「相手が呉なら、いずれ気づくのでは?」
「もちろん」
即答だった。
「……もちろん?」
「永遠に騙せる相手などおりません」
「では意味がないのでは」
「いいえ」
諸葛亮は呉を示す木片を見る。
「必要なのは、永遠ではありません」
「では?」
「時間です」
その言葉だけ。
少し重かった。
「時間?」
溟が聞く。
「はい」
「何の」
「この国が」
諸葛亮は倭の地図を見る。
「自分の足で立てるようになるまでの」
思金が黙った。
須佐では水路が増えた。
田が増えた。
蔵ができた。
道も少しずつ繋がっている。
だが。
倭全体を見れば。
まだ脆い。
国と国は争い。
鉄は限られ。
海の向こうに何があるのかさえ、多くの者は知らない。
「三年」
諸葛亮が言った。
「三年で須佐は随分変わりました」
溟が笑う。
「先生が休まなかったからな」
「休んでおりますよ」
「どこが?」
「北伐をしておりません」
「それ休みなの!?」
思金が額を押さえた。
「やはり休暇の定義がおかしい」
「そうでしょうか」
「そうです」
狗奴国の男だけが、何の話か分からない顔をしていた。
「北伐とは何だ」
「知らなくて結構です」
思金と溟の声が重なった。
「……?」
諸葛亮は咳払いした。
「ともかく」
話を戻す。
「必要なのは時間です」
呉。
狗奴国。
邪馬台国。
三つの木片。
「そのためには」
狗奴国の木片へ指を置く。
「呉に、急ぐ理由を与えてはいけません」
「急ぐ理由?」
「倭が急速にまとまっている」
一つ。
「鉄が増えている」
二つ。
「大きな軍を作っている」
三つ。
「海を渡る準備をしている」
四つ。
「そう見えれば、向こうも考えます」
「なら」
男が言う。
「弱く見せるのか」
諸葛亮は、少し考えた。
「弱く」
そして首を振る。
「というより」
「何だ」
「面倒に見せましょう」
「……面倒?」
「取っても得をしない」
地図を見る。
「遠い」
「はい」
「海を渡らねばならない」
「はい」
「国々はまとまっていない」
「はい」
「道も悪い」
「悪いですね」
「食糧を運ぶのも難しい」
「難しい」
「そのうえ」
狗奴国の男を見る。
「現地で協力してくれるはずの狗奴国も、それほど頼りにならない」
「おい」
「そう見せるのです」
「分かっていても腹が立つな」
「申し訳ありません」
溟が笑った。
「先生そういうとこあるよな」
「溟様?」
「何でもない」
思金が地図を見ながら言った。
「呉に、倭を攻める価値がないと思わせる」
「正確には」
諸葛亮が答える。
「今すぐ大きく関わる価値がない、と」
「なるほど」
「交易で十分」
「兵を送るほどではない」
「はい」
「それなら」
思金の目が細くなる。
「呉との道を切らない方がいい」
「そういうことです」
狗奴国の男が、ようやく理解したようだった。
「だから俺たちに交易を続けろと言ったのか」
「それも理由の一つです」
「一つ?」
「あなた方が鉄を作れなくなって困れば、結局争いになりますので」
「……」
男が諸葛亮をじっと見る。
「何です?」
「いや」
首を振った。
「もっと冷たい奴かと思った」
「そうですか?」
「俺たちを使うだけかと」
「使いますよ」
「おい」
「ですが」
諸葛亮は静かに言った。
「使い潰すつもりはありません」
男は、何も言わなかった。
◇
男が帰った後。
思金は、しばらく地図の前に残っていた。
諸葛亮もいる。
「孔明殿」
「はい」
「一つ、気になることがあります」
「何でしょう」
「呉は」
思金が狗奴国を指す。
「ここから何を知っているのでしょう」
「良い質問ですね」
「また悪い顔をしています」
「しておりません」
「しています」
諸葛亮は木簡を取り出した。
狗奴国の指揮所から持ち帰ったもの。
「ここに書かれていたものは、鉄、炭、人、食糧、道」
「はい」
「つまり」
「呉が欲しいのは、それらの情報?」
「少なくとも、関心はあるでしょう」
「ならば今後も聞く」
「でしょうね」
「狗奴国へ」
「はい」
思金は少し考えた。
「こちらも、その情報を知ることができる」
「ええ」
「呉が何を聞いてきたかを知れば」
「呉が何を欲しがっているかが分かる」
思金が頷く。
「敵の目を残す」
「はい」
「敵が何を見ているのかを見るために」
「はい」
「……」
思金は地図を見る。
「やはり悪いですね」
「何がです?」
「性格が」
「それは心外です」
「褒めています」
「それなら結構です」
思金が笑った。
だが、すぐに表情を戻した。
「しかし」
「はい」
「こちらが呉の目を見ることができるなら」
少し間。
「呉も、狗奴国の目でこちらを見ることができる」
「もちろん」
「ならば」
思金が諸葛亮を見る。
「何を見せます?」
諸葛亮は答えなかった。
地図を見る。
須佐。
邪馬台国。
狗奴国。
そして。
海の向こうの呉。
「まだ」
ようやく言った。
「決めません」
「珍しいですね」
「何がです?」
「あなたなら、もう考えているのかと」
「考えてはおりますよ」
「では?」
「思金殿」
「はい」
「嘘というものは」
諸葛亮は木簡を一枚持ち上げた。
「作るのが大変なのです」
「……」
「覚えていなければならない」
「はい」
「辻褄も合わせなければならない」
「はい」
「何より、見破られれば終わる」
「では、どうするのです」
諸葛亮は木簡を戻した。
「本当のものを」
「本当の?」
「違う意味に見えるようにします」
思金の目が細くなる。
「例えば?」
「そうですね」
諸葛亮は外を見る。
ちょうど。
何人かの男が、古い青銅の矛を運んでいた。
祭祀に使うためのものだ。
鉄の道具が少しずつ増え。
実用品としての役割を失いつつある武器。
だが。
古い家々にとっては。
権威そのものでもある。
「……」
諸葛亮の目が止まった。
「孔明殿?」
「思金殿」
「はい」
「以前お聞きしましたね」
「何を?」
「あの古い武器」
青銅の矛を見る。
「使わなくなったものを、神へ返すことがあると」
「ええ」
「武器も?」
「ありますが」
思金が諸葛亮を見る。
「……何を考えています?」
諸葛亮は。
少しだけ笑った。
「まだ」
「嘘ですね」
「最近、信用がありませんね」
「あなたのせいです」
外では。
古い青銅の矛が、
日の光を受けていた。
◇
数日後。
狗奴国。
海沿いの集落。
男は、一人の商人と向かい合っていた。
大陸から来た男だった。
「先日の騒ぎは?」
「収まった」
「邪馬台国は?」
「相変わらずだ」
「攻めてこない?」
「来ない」
「なぜ」
「知らん」
商人は酒を飲む。
「女王は?」
「祈っているそうだ」
「兵は?」
「集めたが、帰した」
「鉄は?」
「大したことはない」
「須佐という地は」
男の指が。
ほんの少し止まった。
「田舎だ」
「何か変わったと聞いた」
「水路が増えた程度だ」
「誰が作った」
「村の連中だろう」
「大陸の者はいない?」
「知らん」
嘘ではない。
孔明は。
少なくとも今。
大陸の名を名乗ってはいない。
「そうか」
商人は。
それ以上聞かなかった。
だが。
男は気づいた。
質問の順番。
女王。
兵。
鉄。
須佐。
水路。
そして。
大陸の者。
その夜。
男は。
それを全て書き留めさせた。
邪馬台国へ送るために。
呉が何を見ているのかを。
見るために。
◇
須佐。
届いた報せを読んだ思金は。
最後の一行で手を止めた。
「孔明殿」
「はい」
「大陸の者はいないか、と」
諸葛亮の筆が止まる。
「……そうですか」
「あなたを探している?」
「まだ分かりません」
「ですが」
「大陸から来た者など、私以外にもおります」
「では偶然?」
「それも分かりません」
思金は黙った。
「怖くは?」
諸葛亮は。
ほんの少し笑った。
「怖いですよ」
そして。
筆を置いた。
「ですから」
報せを見る。
「急ぎましょう」
「何を?」
諸葛亮は。
外へ出る。
田がある。
水路がある。
鉄の鍬がある。
その向こうでは。
古い青銅の矛が、
祭りの準備のために運ばれている。
「思金殿」
「はい」
「倭では」
諸葛亮は尋ねた。
「使わなくなった武器を神へ返す時」
少し間を置く。
「どれほど盛大に行うものです?」
思金は。
嫌な予感がした。
「……何をするつもりです?」
諸葛亮は答えない。
ただ。
青銅の武器を見ていた。
敵の目が。
こちらを見ている。
ならば。
目を閉じさせる必要はない。
見せればいい。
こちらが。
見せたいものを。




