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第二十八話 秋風


「お呼びと伺いました」

 思金が部屋へ入ると、司馬懿は書を読んでいた。

「来たか」

「はい」

「座れ」

「失礼いたします」

 もう何度目だろう。

 最初にここへ通された時は、座るだけで背中に汗をかいた。

 今も気は抜けない。

 ただ。

 少しだけ、この老人の扱い方が分かってきた。

 黙ったら警戒する。

 笑っても警戒する。

 質問されたら、質問の裏を考える。

 つまり。

 常に警戒していればよい。

 非常に疲れる。

「帰るそうだな」

「はい。まだ少々、こちらで探している者がおりますが」

「探している?」

 思金は一瞬迷った。

「職人です」

「何の」

「鉄の」

「名は?」

「蒲元という者です」

 司馬懿の目が、わずかに動いた。

「……蒲元」

「ご存じで?」

「名くらいはな」

 思金が身を乗り出す。

「今どこに?」

「知らぬ」

「そうですか……」

「何故、倭の使者が蜀の鍛冶師を探す?」

「必要だからです」

「倭には鉄があるのではなかったか」

「ございます」

「ならば何故だ」

「鉄があることと、良い鉄を作れることは同じではありません」

 司馬懿は少し笑った。

「それもお前の考えか?」

「これは、私でも分かります」

「そうか」

「それに」

 思金は懐へ手をやった。

「頼まれましたので」

「誰に?」

「…………」

「聞くだけ無駄か」

「助かります」

「手紙か?」

 思金の手が止まった。

「何故そう思われたのです」

「遠い土地にいる職人を呼ぶのだ。口伝だけでは心許ない」

「……ございます」

「見せろとは言わぬ」

「ありがとうございます」

「誰の字かも聞かぬ」

「もっとありがとうございます」

「だいたい分かる」

「全くありがたくありません」

 司馬懿が笑った。

「蒲元か」

 もう一度、その名を口にする。

「鉄を欲しがるようになったか」

「農具が足りませんので」

「武器ではなく?」

「本人に聞いたことがあります」

「何と?」

「鉄があるなら兵を強くできるのでは、と」

「ほう」

「鋤を作れ、と言われました」

 司馬懿は目を閉じた。

「……だろうな」

「やはり分かるのですね」

「分かりたくなくても分かる」

 思金は思わず笑った。

「お二人は、本当に敵だったのですか?」

 司馬懿が目を開いた。

「何故そう思う」

「いえ」

 思金は首を傾げた。

「随分と、その方のことをご存じなので」

「敵だからだ」

 即答だった。

「敵を知らずに戦えるか」

「なるほど」

「それに」

 司馬懿は少しだけ遠くを見る。

「長かった」

 それ以上は言わなかった。

 思金も尋ねなかった。

◇

 翌日。

 蒲元についての手掛かりが見つかった。

 南から来た職人たちの間に、その名を知る者がいたのである。

「蒲元なら、少し前までここにいたぞ」

「本当ですか!」

「ああ」

「どこへ?」

「知らん」

「…………」

「そんな顔をするな」

「ようやく見つかったと思ったのです」

「本人ではないだろ」

「その本人を探しているのです!」

 職人は笑った。

「相変わらずだな、あの男も」

 思金が止まった。

「……ご存じなのですか?」

「蒲元か? 何度か会った」

「どんな方です?」

「面倒な奴だ」

 思金は天を仰いだ。

 やはりか。

「腕はいい。口は悪い。気に入らん鉄を見ると飯も食わずに炉をいじる」

「なるほど」

「何だ?」

「いえ。紹介した方が『少々面倒な男』と」

「少々?」

 職人が笑った。

「そいつ、蒲元に甘いな」

 思金は考えた。

 孔明が他人に甘いところを、あまり見たことがない。

「で、どこへ行ったのでしょう」

「南だと思うが」

「南のどこです?」

「さあ」

 また振り出しか。

 そう思った時だった。

「ただ、数日後に職人の一団が来る」

「はい」

「蒲元と仕事をしたことのある奴が混じっているはずだ」

「本当ですか?」

「ああ。そいつなら居場所を知ってるかもしれん」

 数日。

 帰国の日程を考える。

 待てなくはない。

「分かりました」

 思金は頭を下げた。

「待ちます」

 海を渡ってまで持ってきた手紙だ。

 ここで諦めて帰れば。

 孔明はおそらく怒らない。

 あの老人は、

 ――仕方ありませんね。

 くらいで済ませるだろう。

 だからこそ。

 見つけてやりたかった。

「……しかし」

 思金は懐の手紙を押さえた。

「本当に、これだけで海を渡るのでしょうか」

 良い鉄。

 良い水。

 良い炭。

 人だけが足りない。

「職人というものが、よく分かりませんね」

◇

 その日の夕刻。

 思金は再び司馬懿のもとを訪れた。

 今度は呼ばれたのではない。

 別れの挨拶のためだった。

「明日には発つか」

「いえ。蒲元殿の手掛かりが見つかりまして、数日延ばします」

「そうか」

「ご迷惑をおかけします」

「構わぬ」

 司馬懿は窓の外を見た。

「遠いな」

「何がでしょう」

「倭だ」

「ええ」

「どれほどかかった」

 思金が答える。

 海を渡り。

 半島を経て。

 ここまで来た。

「そうか」

 司馬懿は少し考えた。

「遠いな」

 二度言った。

「だからよいのでしょう?」

 思金が言った。

 司馬懿が振り向く。

「何?」

「近すぎない」

 思金は笑った。

「我々にとっても。魏にとっても」

「……なるほど」

 司馬懿も笑った。

「お前も性格が悪くなったな」

「誰のせいでしょう」

「孔明だろう」

「あなたも含まれております」

「俺は数日しか話しておらぬ」

「十分でした」

 しばらく。

 二人とも何も言わなかった。

 思金は、ふと思った。

 もう二度と。

 この老人と会うことはないかもしれない。

 倭と魏。

 あまりにも遠い。

「司馬懿殿」

「何だ」

「一つ、尋ねても?」

「申せ」

「孔明殿を」

 今度は、名前を隠さなかった。

「魏へ戻そうとは、思われないのですか」

 司馬懿は即答しなかった。

「戻してどうする」

「分かりません」

「魏に仕えろとでも?」

「……それは嫌がるでしょうね」

「俺も嫌だ」

「嫌なのですか」

「毎日顔を合わせたくない」

 思金が吹き出した。

「では、捕らえることは?」

「何の罪で」

「魏と戦った」

「蜀の丞相が魏と戦うのは当然だ」

「では」

 思金は少し迷った。

「生きていることを、公にすることは?」

 司馬懿は黙った。

 やがて。

「何のために?」

「……分かりません」

「本人が死んだことにしたのだろう」

「おそらく」

「ならば死なせておけ」

 あまりにも簡単に言った。

「よいのですか」

「何がだ」

「あなたの敵だったのでしょう」

「だった」

 司馬懿は言った。

「今は違う」

「何故、そう言い切れるのです」

「魏を滅ぼしたい男が」

 司馬懿は思金を見る。

「魏に倭王を認めさせようとするか?」

 思金は黙った。

「蜀へ戻りたい男が、須佐で水路を掘るか?」

「……掘るかもしれませんよ。あの方なら」

「それは否定できんな」

 二人とも少し笑った。

「だが」

 司馬懿は続けた。

「少なくとも、あの男が今見ているものは中原ではない」

 思金は、その言葉を静かに聞いた。

「ならば」

 司馬懿は窓の外へ目を向ける。

「俺がわざわざ引き戻す理由もない」

「そうですか」

「ああ」

 思金は頭を下げた。

「ありがとうございます」

「何故お前が礼を言う」

「友ですから」

 司馬懿は一瞬黙った。

 それから。

「そうだったな」

 小さく笑った。

◇

 数日後。

「蒲元殿ですか?」

 男が振り向いた。

 日に焼けた顔。

 太い腕。

 服には、落ちない煤の跡が染みついている。

「誰だ」

「倭から参りました。思金と申します」

「倭?」

 男は露骨に怪訝な顔をした。

「俺に何の用だ」

「あなたに、手紙を預かっております」

「誰から」

「まず、お読みください」

 思金は懐から、ずっと持ち歩いてきた書を取り出した。

 男――蒲元は、それを受け取る。

「……何だ、こりゃ」

 封を開く。

 紙を広げる。

 そして。

 文章を読むより先に。

 蒲元の動きが止まった。

「…………」

 思金は黙って待った。

「おい」

「はい」

「これ」

 蒲元は紙を近づけた。

 目を細める。

 もう一度見る。

「……この字」

 思金は何も言わない。

 蒲元が顔を上げた。

「孔明の字じゃねえか」


「…………」

「おい」

「はい」

「あいつ、生きてんのか?」


 思金は孔明から言われたことを思い返した。

 蒲元へ手紙を渡せ。

 それだけだった。

 正体を明かしてよいとも。

 隠せとも。

 言われていない。

 非常に困る。

「私は」

「おう」

「その名の方を存じません」

「嘘つけ」

「存じません」

「じゃあ誰から預かった」

 思金は少し考えた。

「須佐で畑を作っている、少々面倒な老人からです」

「…………」

 蒲元は手紙を見る。

 そして、ようやく本文を読んだ。

良い鉄があります。

良い水があります。

良い炭があります。

人だけが足りません。


「…………」

 もう一度読む。

 思金を見る。

 また読む。

「……あいつじゃねえか」

「私は何も申し上げておりません」

「孔明だろ!」

「存じません」

「この字で!」

「はい」

「この文で!」

「はい」

「鉄と水と炭だけ書いて!」

「はい」

「海の向こうまで俺を呼びつける奴が!」

 蒲元は手紙を振った。

「他にいるか!」

 思金は考えた。

「……いないのでしょうね」

「だろうが!」

 思金は、少しだけ笑った。

「では」

「何だ」

「来ていただけますか?」

 蒲元は黙った。

 手紙を見る。

「良い鉄か」

「あるそうです」

「どんな鉄だ」

「私には分かりません」

「砂か。鉱石か」

「詳しくは」

「炭は?」

「ございます」

「木は?」

「山ほど」

「水は?」

「豊富です」

「炉は?」

「これからです」

 蒲元の目が変わった。

 思金は思った。

 なるほど。

 孔明の言っていた意味が、ようやく分かった。

 職人の性。

「……面白そうじゃねえか」

 蒲元が呟いた。

「では?」

「行く」

「即答ですね」

「こんな手紙寄越されて行かねえ鍛冶師がいるか」

「普通はいると思います」

「そいつは鍛冶師じゃねえ」

「そういうものですか」

「そういうもんだ」

 蒲元は手紙を丁寧に畳んだ。

 先ほどまでの乱暴な扱いとは違った。

「それに」

「はい」

「一度、あの馬鹿に聞きたいことがある」

「何でしょう」

「どうやって死んだ奴が手紙を書いたのか」

「それは私も聞きたいですね」

 蒲元が笑った。

「気が合いそうだな、倭の人」

「不本意です」

◇

 出立の日。

 今度こそ、本当に魏を離れる。

 難升米たちはすでに準備を終えていた。

 蒲元も荷をまとめている。

「多くありませんか」

 思金が訊く。

「道具だ」

「全部?」

「当たり前だ」

「海を渡るのですよ」

「だから何だ」

「……孔明殿の知人ですね」

「何だそりゃ」

「こちらの話です」

 その時。

「思金殿」

 声をかけられた。

 振り向く。

 司馬懿の使いだった。

「司馬懿様より、言伝がございます」

「私に?」

「はい」

 思金は少し身構えた。

「何でしょう」

 使いは言った。

「倭へ戻られたら」

 一拍。

「五丈原の秋風は、倭まで届いたか」


「…………」

「そう伝えてほしい、と」

 思金は待った。

 だが。

 それだけだった。

「……他には?」

「ございません」

「誰に伝えろと?」

「それも申されておりません」

「…………」

 思金は額を押さえた。

「本当に、それだけですか」

「はい」

「五丈原の」

「秋風は」

「倭まで」

「届いたか」

「…………」

「その通りです」

 意味が分からない。

 全く分からない。

 だが。

 誰に伝えればよいのかだけは、分かった。

「承知しました」

 思金は頭を下げた。

 使いが去る。

 蒲元が横から顔を出した。

「何だ今の」

「知りません」

「五丈原?」

「知りません」

「秋風?」

「知りません」

「お前、本当に何も知らねえな」

「今回の旅で、それを痛感しております」

 船へ向かう。

 思金は一度だけ振り返った。

 巨大な国。

 魏。

 そこにいる、一人の老人。

 そして。

 海の向こうにいる、もう一人の老人。

「……あなた方は」

 思金は小さく呟いた。

「どうして普通に話せないのです?」


 答える者はいなかった。

 船が出る。

 海の向こう。

 倭へ。

 五年前。

 五丈原で止んだはずの風を。

 一言だけ。

 持ち帰るために。

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