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第二十七話 死者の策


「死者の名を聞いて、どうする」

 司馬懿はそう言って、茶を飲んだ。

 思金は何も答えられなかった。

 名は言っていない。

 孔明とも。

 諸葛亮とも。

 蜀の丞相とも。

 一度も。

 それなのに、この老人は分かっている。

 いや。

 どこまで分かっている?

「……司馬懿殿」

「何だ」

「一つ、よろしいでしょうか」

「申せ」

「いつからです?」

 司馬懿の眉が上がった。

「何の話だ?」

「それを私に言わせるおつもりで?」

「さて」

「孔明殿から聞いておりました」

「何を?」

「あなたは性格が悪い、と」

 沈黙。

 しまった。

 思金は思った。

 今。

 思い切り名前を言った。

「…………」

「…………」

 司馬懿が俯いた。

 肩が震えた。

「……ふ」

「笑わないでください」

「いや、すまぬ」

「今のは忘れていただけますか」

「無理だな」

「でしょうね」

「それに」

 司馬懿は顔を上げた。

「安心せよ」

「何をです?」

「今ので知ったわけではない」

「全く安心できません」

 司馬懿はまた笑った。

「なるほど。孔明の友というのは本当らしい」

「どういう意味でしょう」

「苦労している」

「……否定できないのが腹立たしいですね」

 だが。

 笑いが収まると、司馬懿の顔が変わった。

「さて」

 思金も姿勢を正した。

 ここからだ。

 それが分かった。

「孔明が生きている」

「…………」

「それ自体は、もはやよい」

 思金の目が細くなる。

「よい、と?」

「死んだはずの男が海の向こうで畑を耕している。面白くはあるが、それだけなら魏には関係がない」

「随分と簡単に仰いますね」

「では、軍を出して捕らえるか?」

 思金は黙った。

「海を越え、倭へ兵を送り、五年前に死んだことになっている男を捕らえる」

 司馬懿は鼻で笑った。

「そのために、どれだけの米と船が要る」

 思金は思わず、

「孔明殿のようなことを言いますね」

「……今のは少々腹が立つな」

「失礼しました」

「まあよい」

 司馬懿は卓に指を置いた。

「問題は一つだ」

「何でしょう」

「何故、生きている?」

 思金は意味を測りかねた。

「……死ななかったからでは?」

「そういう話ではない」

「でしょうね」

「何故、生き延びて、倭にいる」

 司馬懿の声から笑みが消えた。

「何をするために」

 思金は答えなかった。

 それは。

 自分にも、最初から分かっていたわけではない。

「兵を集めているか?」

「いいえ」

「船は?」

「漁や交易に使うものなら」

「大軍を運べるものだ」

「ございません」

「兵糧を蓄えている」

「蓄えております」

「何のためだ」

「飢えないためです」

「武器を作っている」

「農具の方が多いですね」

「鉄を集めている」

「鋤にします」

「道を作る」

「人と物を運ぶために」

「倉を作る」

「食べ物を腐らせないために」

「水路を作る」

「田に水を引くために」

 司馬懿は黙った。

「…………」

「…………」

 思金は少し考えてから言った。

「どうしました?」

「いや」

「何か?」

「昔から同じことをしていたと思ってな」

「昔から?」

「あの男は戦をしていても、やることの半分は米だった」

 思金は思わず笑った。

「それは今も同じです」

「そうか」

「むしろ、今の方が楽しそうですが」

 司馬懿の表情が、ほんの少し緩んだ。

「……そうか」

 だが。

 次の問いは鋭かった。

「ならば何故、魏だ」

 思金の笑みが消えた。

「孔明がいる。呉との道もある。蜀へ戻る道を探すこともできよう」

 司馬懿の指が卓を叩く。

「なのに、倭王を魏へ送った」

「正確には使者です」

「分かっている」

「ならば――」

「誤魔化すな」

 静かな声だった。

 それだけで、思金は口を閉じた。

「孔明は魏が好きか?」

「本人にお尋ねください」

「嫌いだろうな」

「私には分かりません」

「では、俺は?」

「それこそ本人に」

「嫌いだろう」

「随分と自信がありますね」

「ある」

 司馬懿は即答した。

 思金は少し笑った。

「ならば、何故だ」

 再び問われる。

「何故、魏を選んだ」

 思金は考えた。

 孔明の言葉をそのまま使うな。

 自分の言葉で。

「……呉は近い」

「そうだ」

「魏は遠い」

「そうだ」

「だからです」

 司馬懿の目が細くなった。

「続けろ」

「近い国は、助けにもなります」

「うむ」

「ですが」

 思金は言った。

「近いということは、こちらへ手を伸ばせるということでもあります」

「…………」

「魏は遠い」

「だから、名だけを借りる?」

 思金は答えなかった。

 司馬懿が笑う。

「なるほど」

「私は何も」

「言わなくてよい」

 司馬懿は目を閉じた。

「そういうことか」

 倭は魏の兵を欲しがらない。

 武器も。

 金も。

 領土も。

 ただ、王の名を求めている。

 遠い魏の権威だけを。

 近い呉に見せるために。

「……あの男」

 司馬懿が呟いた。

「戦をやめても、戦の仕方だけは忘れておらぬな」

「戦なのでしょうか」

 思金が訊いた。

 司馬懿が目を開く。

「何?」

「剣を抜いておりません」

「剣を抜かぬ戦もある」

「孔明殿も、似たようなことを申しておりました」

「だろうな」

「ですが」

 思金は少し考えた。

「以前とは、違うように思います」

「何がだ」

「勝とうとしていません」

 司馬懿の表情が変わった。

「どういう意味だ」

「狗奴国とのことでも、そうでした」

 思金は続ける。

「国を奪わなかった。王を選ばなかった。兵を滅ぼさなかった。呉との交易すら止めなかった」

「何故だ」

「争う理由を減らすためです」

「…………」

「魏とのことも」

 思金は司馬懿を見る。

「魏に勝ちたいわけではないのでしょう」

「当たり前だ」

「魏に従いたいわけでもありません」

「それも分かっている」

「ただ」

 思金は言った。

「倭で戦が起きなければ、それでよいのだと思います」

 司馬懿は長い間、何も言わなかった。

 五丈原。

 何度も陣を出て。

 何度も挑発を受け。

 それでも動かなかった日々。

 敵陣の向こうにいた男。

 勝つために。

 漢を復すために。

 命を削っていた男。

「……そうか」

 司馬懿が小さく言った。

「ようやく、負けてもよくなったか」

「何のお話です?」

「こちらの話だ」

◇

「倭王を認めるべきでしょうか」

 その夜。

 官人の問いに、司馬懿は書を眺めながら答えた。

「認めぬ理由は?」

「呉との交易がございます」

「だからこそだ」

「しかし、魏に忠実とは限りません」

「遠い倭に忠義など求めてどうする」

 官人が黙った。

「倭は魏を使おうとしている」

「はい」

「ならば魏も倭を使えばよい」

「どのように?」

「遠方の国が魏を大国と認め、その王が魏より名を受ける」

 司馬懿は書を置いた。

「それで十分だ」

「ですが、もし」

 官人は声を落とした。

「その背後に、蜀の者がいるのであれば」

 司馬懿の目が上がった。

「何故そう思う」

「司馬懿様が、あの使者に随分と――」

「余計なところまで見るようになったな」

「申し訳ございません」

「よい」

 司馬懿は少し考えた。

「仮に」

 そう前置きした。

「仮に、魏と長く戦った男が倭にいるとしよう」

「はい」

「その男が魏を滅ぼしたいなら、何をする?」

「兵を集めます」

「他には」

「蜀へ戻るか、呉と結ぶか」

「そうだ」

 司馬懿は頷いた。

「では、その男が倭王へ、魏から名を得るよう勧めたなら?」

 官人は答えなかった。

「自ら魏の権威を倭へ入れる。魏と倭の間に道を作る」

「……魏と争う意図は薄い」

「少なくとも、今はな」

 司馬懿は窓の外を見る。

「ならば、寝た龍を起こす必要はない」

「龍?」

「例えだ」

「はあ」

「それに」

 司馬懿の口元がわずかに上がった。

「呉が海の向こうへ手を伸ばすなら」

「はい」

「あの男にとっても、面白くはあるまい」

 官人が目を瞬いた。

「つまり……」

「何もせぬ」

「何も?」

「それが一番安い」

 司馬懿は即答した。

「兵もいらぬ。船もいらぬ。米もいらぬ」

 そして笑う。

「魏は名を与えるだけだ」

◇

 数日後。

 思金は再び司馬懿の前にいた。

「認められることになった」

「……何を?」

「お前たちの王だ」

 思金の目が大きくなる。

「卑弥呼様を?」

「そうだ」

 思金は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「俺に礼を言うな」

「では、どなたに?」

「魏に言え」

「では、魏に感謝いたします」

「そうしておけ」

 司馬懿は笑った。

 思金は顔を上げる。

「一つ、お尋ねしても?」

「何だ」

「何故です?」

「何故、とは?」

「あなたは」

 少し言葉を選ぶ。

「我々が、魏の名を利用しようとしていると分かっている」

「そうだな」

「それでも?」

「何か問題があるか?」

「普通は嫌がるものでは?」

「倭が魏の名を使う」

 司馬懿は指を一本立てた。

「魏は、倭が魏の名を使ったという事実を使う」

 思金はしばらく黙った。

「……性格が悪いですね」

「誰がだ」

「あなたがです」

「孔明よりはましだ」

「それは」

 思金は真剣に考えた。

「どうでしょう」

「おい」

「申し訳ありません」

 司馬懿が笑った。

 思金も少し笑う。

「では」

 思金は言った。

「結局、どちらが勝ったのでしょう」

「誰と誰がだ」

「魏と倭です」

 司馬懿は少し考えた。

「魏は得をした」

「はい」

「倭も得をした」

「はい」

「ならば」

 司馬懿は茶を飲む。

「それでよいのではないか」

 思金は目を細めた。

「……昔から、そのようなことを仰る方でした?」

「何だ、その聞き方は」

「いえ」

 思金は笑った。

「似たようなことを言いそうな老人を、一人知っておりますので」

「…………」

「どうしました?」

「腹が立つな」

「何故です?」

「分からぬならよい」

◇

 帰国の日が近づいた。

 難升米たちは、魏から与えられる品々や書を確認するため忙しく動いていた。

 思金にも仕事は山ほどある。

 だが。

 一つだけ、まだ終わっていない。

「蒲元?」

 商人が首を傾げた。

「はい。鍛冶師です」

「知らんな」

「蜀にいたことがあるそうです」

「蜀の職人なんぞ山ほどいる」

「ですよね」

 三人目。

 知らない。

 五人目。

 知らない。

 七人目。

「蒲元……?」

 老人が少し考えた。

「聞いたことはある」

 思金の顔が上がった。

「本当ですか?」

「刀を打つ男だったか」

「おそらく」

「蜀の者なら、こちらにはおらんぞ」

「では、どこに?」

「さあな。ただ」

 老人は顎を撫でた。

「南から来る職人なら、あの辺りの商人に聞いた方が早い」

 ようやく。

 糸が一本、見えた。

 思金は懐に触れる。

 そこには、まだ孔明の手紙がある。

 良い鉄があります。

 良い水があります。

 良い炭があります。

 人だけが足りません。

「……本当に、これで来るのでしょうね」

 返事はない。

 当然だ。

 書いた本人は、海の向こうで畑でも見ている頃だろう。

「思金殿」

 難升米が呼びに来た。

「何でしょう」

「司馬懿殿から、お呼びです」

 思金は空を見上げた。

「……まだあるのですか」

「何がです?」

「いえ」

 思金は歩き出した。

 蒲元を探さなければならない。

 帰国の準備もしなければならない。

 それなのに。

 あの老人は、まだ自分に用があるらしい。

「今度こそ何でしょうね」

 その時の思金は、まだ知らなかった。

 司馬懿が最後に託す言葉が。

 魏への旅で聞いたどの言葉よりも短く。

 そして。

 海の向こうにいる一人の老人にしか意味の分からない言葉になることを。

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