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第二十六話 遠い国の知者


「その水路は――誰が作った?」

 司馬懿の問いに、思金はすぐには答えなかった。

 答えられなかったわけではない。

 むしろ、いくつもの顔が浮かんだからだ。

 川辺にしゃがみ込み、棒で地面に線を引いていた老人。

 泥まみれになって土を運んだ須佐の男たち。

 石を拾った子供たち。

 水の取り分を巡って怒鳴り合った村人たち。

 そして今では、孔明がいなくても壊れた水路を直している者たち。

「誰、と申し上げればよいのでしょう」

「ほう?」

 司馬懿の目が細くなる。

「最初に水の道を考えた者はおります」

「その者の名は?」

「ですが、掘ったのは須佐の者たちです。水を分ける決まりを作った者もおります。壊れれば直す者もおります」

「では、その最初の者は?」

 思金は少し考えた。

「水路を作ったのは、須佐の者たちです」

 司馬懿は何も言わなかった。

 笑ってもいない。

 ――孔明殿。

 黙った時も気をつけろと仰いましたね。

 思金は茶に手を伸ばした。

 ここで怯えても仕方がない。

「なるほど」

 ようやく司馬懿が言った。

「よい国造りをしている」

「まだ、国造りの途中です」

「国など、いつまで経っても途中だ」

 思金の手が止まった。

 それは少しだけ。

 須佐にいる老人が言いそうな言葉だった。

「何か?」

「いえ」

「そうか」

 司馬懿は茶を口に含んだ。

 そして、何でもないことのように尋ねる。

「倭王は、魏に何を求めている?」

「すでに申し上げました」

「もう一度聞こう」

「王として、お認めいただくことを」

「兵はいらぬか」

「今は」

 司馬懿の目が動いた。

「今は?」

 しまった。

 思金は思った。

 だが、言ったものは戻らない。

「未来のことまで不要と言い切るのは、外交ではないでしょう」

 司馬懿は、しばらく思金を見ていた。

 やがて口元が緩む。

「なるほど」

 笑った。

 ――これも駄目な方だ。

 思金は孔明を少し恨んだ。

「武器は?」

「求めておりません」

「鉄は?」

「我々にもございます」

「馬は?」

「今のところは」

「銭は?」

「それよりも、王としてのお認めを」

 司馬懿はそこで問いを止めた。

「妙だな」

「何がでしょう」

「遠い海を越えてきたというのに、欲がない」

「ございますよ」

「何を欲している」

「申し上げております」

「名か」

「はい」

 司馬懿の指が、卓を一度叩いた。

「名だけでよいと?」

「名だからこそ、いただきたいのです」

 沈黙。

 長い。

 思金は茶を飲んだ。

 この男は何を考えている。

 何を探している。

 やがて司馬懿が言った。

「呉とは交易があるそうだな」

 来た。

「ございます」

「ならば、なぜ呉へ行かぬ?」

「行っております」

「ほう」

「商いをする者はおります」

「では何故、王の名を求めるために魏へ来た?」

 孔明の言葉が浮かんだ。

 ――遠いからよいのです。

 思金は、それを口にしなかった。

 孔明ならどう答えるか、考えるな。

 自分で見て。

 自分で考えて。

 自分の言葉で答えろ。

「近い国とは」

 思金は言った。

「話す機会が多くございます」

「それが?」

「ゆえに、遠い国とも話しておくべきかと」

 司馬懿の目が細くなった。

「近い国だけを見ていてはならぬと?」

「海は、一つの国にだけ続いているわけではありませんので」

「…………」

 また黙った。

 思金も黙った。

 先に口を開いたのは司馬懿だった。

「お前が考えたのか?」

「何をでしょう」

「今の答えだ」

「はい」

「誰かに、そう答えろと言われたのではない?」

「いいえ」

「そうか」

 司馬懿は、今度ははっきり笑った。

「それはよい」

 思金には、その笑みの意味が分からなかった。

「何がでしょう」

「倭には、頭を使う者がいる」

「私以外にも大勢おります」

「だろうな」

 その言い方が妙に引っかかった。

 まるで。

 すでに誰か一人を探しているような。

◇

「司馬懿様」

 思金が退出した後。

 控えていた官人が声をかけた。

「いかがでしたか」

「何がだ」

「倭の使者です」

「面白い男だ」

「それほどに?」

「自分の言葉で話している」

 司馬懿は茶碗を見た。

「ならば、あれを操っている者はいないということでしょうか」

「逆だ」

 官人が首を傾げる。

「自分で考える者を使者に選ぶ程度には、倭の王は考えている」

「なるほど」

「だが」

 司馬懿は目を伏せた。

「妙だ」

「何がでしょう」

「倭の求め方だ」

 金ではない。

 武器でもない。

 兵でもない。

 魏の名。

 遠方の王としての承認。

「魏から何かを得たいのではない」

「では?」

 司馬懿は笑った。

「魏を使いたいのだ」

 官人の顔が強張った。

「無礼な」

「何故だ?」

「何故、と申されましても」

「魏も使えばよい」

「……倭を?」

「遠い海の向こうから魏を慕って使者が来た。その事実は、魏にとって不都合か?」

「いえ」

「ならばよい」

 司馬懿は立ち上がった。

「互いに使えばよいのだ」

「しかし」

「国とは、そういうものだ」

 そこまで言って。

 司馬懿は、ふと止まった。

 何か。

 遠い昔にも、似たようなことを言った男がいた気がした。

 いや。

 あの男なら、もう少し回りくどく言うか。

「……まさかな」

「何か?」

「いや」

 死んだ男だ。

 五年前に。

 五丈原で。

◇

 翌日。

 思金は再び呼ばれた。

「またですか」

 迎えに来た官人が苦笑した。

「何か問題でも?」

「いえ。光栄なことなのでしょう」

「もちろんです」

「そうですか」

 全く嬉しくない。

 今日は難升米も同行するものと思っていたが、呼ばれたのは思金だけだった。

 昨日と同じ部屋。

 昨日と同じ老人。

 昨日と同じ茶。

「座れ」

「失礼いたします」

「昨日はよく眠れたか?」

「おかげさまで」

「嘘だな」

「外交ですから」

 司馬懿が笑った。

「やはり面白い」

「ありがとうございます」

「褒めてはおらぬ」

「では返してください」

 司馬懿が一瞬きょとんとして。

 それから声を立てて笑った。

 思金は思った。

 孔明殿。

 少しだけ分かりました。

 あなたがこの方を嫌いではない理由が。

「さて」

 司馬懿は笑いを収めた。

「今日は倭の話を聞きたい」

「昨日もそうだったと思いますが」

「今日は、もう少し細かく」

 嫌な予感がした。

「倭王の都から須佐までは?」

「道によります」

「また土地によるのか?」

「今回は道です」

「そうか」

 司馬懿は笑った。

「須佐では米が採れる?」

「採れます」

「昔からか」

「昔からです。ただ、増えました」

「何故?」

「水の扱いが変わりました」

「誰が変えた」

「須佐の者たちです」

「その答えは昨日聞いた」

「では、何をお聞きになりたいのでしょう」

 司馬懿が思金を見る。

「最初に水の道を考えた者だ」

「…………」

「いるのだろう?」

 思金は答えなかった。

「名は聞かぬ」

「では?」

「どのような男だ」

「何故、男だと?」

「女か?」

「いえ、男です」

「そうか」

 やられた。

 思金は眉間を押さえたくなった。

 司馬懿は何事もなかったように茶を飲んでいる。

「軍人か?」

「違います」

「官人か?」

 思金は少し迷った。

「今は違います」

 司馬懿の指が止まった。

 ほんの一瞬。

「今は?」

「……言葉の綾です」

「そうか」

 絶対にそう思っていない。

「では何をしている?」

「何、と申されましても」

「日々だ。普段、何をしている」

 思金は考えた。

 孔明は普段、何をしている。

 会議。

 記録。

 川。

 畑。

 倉。

 道。

 最近は鉄のことまで考えている。

「畑を作っております」

 司馬懿の表情が止まった。

「……畑?」

「はい」

「水路も?」

「作ります」

「倉は?」

「作りましたね」

「道は?」

「作ります」

「記録は?」

「やたらと残します」

「収穫量を数えるか?」

「数えます」

「倉に入った量も?」

「数えます」

「人の数は?」

「数えます」

「牛馬は?」

「数えたがります」

「炭は?」

「数えています」

「鉄は?」

「最近、特に気にしております」

 司馬懿は黙った。

 思金も黙った。

 長い。

 本当に長い。

 ――孔明殿。

 これですか。

 これが「黙った時も気をつけろ」ですか。

 やがて司馬懿が訊いた。

「休むか?」

「…………」

「その男だ」

「休みません」

「やはりか」

「本人は休んでいると言います」

 司馬懿の口元が動いた。

「何をもって?」

「北伐をしていないから、と」

 司馬懿の動きが。

 完全に止まった。

 思金も止まった。

 ――あ。

 今のは。

 言ってはいけないやつだったかもしれない。

「…………」

「…………」

「そう言ったのか?」

 司馬懿の声が低くなった。

「……冗談として」

「誰が?」

「その男が」

「北伐をしていないから、休んでいると?」

「はい」

 沈黙。

 やがて。

 司馬懿は額に手を当てた。

「……馬鹿が」

 思金は目を瞬いた。

 怒っているのではない。

 笑っていた。

「何が可笑しいのでしょう」

「いや」

 司馬懿は首を振った。

「そうか」

 もう一度。

「そうか」

 そして、小さく呟いた。

「相変わらずだな」


 思金の背筋に冷たいものが走った。

「……今」

「何だ?」

「何と仰いました?」

「何も」

「相変わらず、と」

「言ったか?」

「言いました」

「年を取ると独り言が増える」

「便利ですね、その年!」

 言ってから、思金は口を閉じた。

 司馬懿がこちらを見る。

「……何だ?」

「いえ」

 思金は目を逸らした。

「倭にも、似たようなことを言う老人がおりまして」

 司馬懿は、また笑った。

「そうか」

 その笑い方が。

 今までで一番、楽しそうだった。

◇

 それからも質問は続いた。

 狗奴国。

 鉄。

 港。

 呉との交易。

 倭の兵。

 卑弥呼。

 思金は答えられるものには答えた。

 答えるべきでないものには、答えなかった。

 そして気づいた。

 司馬懿は、答えだけを聞いているのではない。

 どこで迷ったか。

 何を言い換えたか。

 何を答えなかったか。

 それを見ている。

 孔明の言った通りだった。

「一つ」

 司馬懿が言った。

「最後に聞こう」

「はい」

「その男は、お前の師か?」

「違います」

 即答した。

「では、主か?」

「違います」

「倭王の臣か?」

「それも違います」

「では」

 司馬懿は首を傾けた。

「何なのだ?」

 思金は少し考えた。

 孔明は何だ。

 倭の臣ではない。

 卑弥呼の臣でもない。

 思金の師でもない。

 須佐では先生と呼ばれている。

 溟にとっては、本当に先生なのだろう。

 だが、自分にとっては。

「友です」

 司馬懿の目が、わずかに見開かれた。

「友?」

「はい」

「年が離れているだろう」

「腹の立つことに」

「よく意見が合うのか?」

「全く」

「では何故、友なのだ」

「意見が合わなければ友になれないのですか?」

 司馬懿は黙った。

 そして。

「いや」

 小さく笑った。

「そうだな」

 その声だけは。

 それまでとは少し違っていた。

「ならば」

 司馬懿は茶碗を持ち上げた。

「あの男は、良い土地へ行ったようだ」


 思金は何も答えなかった。

 あの男。

 司馬懿は一度も名を聞いていない。

 思金も、一度も名を言っていない。

 なのに。

「司馬懿殿」

「何だ?」

「その者の名を、お尋ねにならないのですか」

 司馬懿は茶を飲んだ。

 しばらくして。

 何でもないことのように答えた。

「死者の名を聞いて、どうする」


 思金は。

 今度こそ。

 何も言えなかった。

 ――孔明殿。

 これ。

 もう。

 ばれているのでは?

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