↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/29

第二十五話 魏へ


「嫌です」

 思金は、即答した。

「まだ何も申し上げておりませんが」

「魏へ行け、と言うのでしょう」

「正確には、魏へ向かう使節に同行していただきたい、と」

「同じです」

「少し違います」

「違いません」

 諸葛亮は困ったように笑った。

 その前には、大きな地図が広げられている。

 倭。

 海。

 半島。

 そして大陸。

 数日前、海の向こうから届いた知らせ。

 遼東の公孫淵が魏に討たれた。

 その軍を率いた男の名は、司馬懿。

 五丈原で孔明と対峙した男だった。

 思金には、それが孔明にとってどれほど大きな意味を持つのか、まだ分からない。

 ただ一つ分かることがある。

 この老人が久しぶりに中華の地図を広げている時は、大抵ろくなことにならない。

「そもそも」

 思金は地図を指した。

「なぜ魏なのです?」

「はい?」

「呉の方が近いのでしょう」

「海の道だけを見れば、そうですね」

「ならば、呉と話をすればよいではありませんか。狗奴国との道も残っています」

「それでは意味がありません」

「何故です」

 孔明は地図の上へ、小さな石を置いた。

 倭。

 その西に海。

 さらに向こうに大陸。

 南に呉。

 北に魏。

「我々が欲しいものは、魏の兵ではありません」

「武器ですか?」

「いいえ」

「鉄?」

「それも違います」

「では何を?」

 孔明は答えた。

「名です」

 思金は眉をひそめた。

「名?」

「魏が、卑弥呼様を倭の王として認めたという事実です」

「……それに、どれほどの意味が?」

「我々が言うより、魏に言わせた方が重い」

 孔明の指が、呉から海を渡り、狗奴国へ向かう。

「呉に対して?」

「はい」

「ですが、呉の方が近い」

「だからこそです」

 孔明は指を止めた。

「呉は近い」

「話しやすいということでは?」

「手も届きやすいということです」

 思金は黙った。

 狗奴国で起きたことが脳裏をよぎる。

 港。

 鉄。

 炭。

 兵。

 そして、須佐についての情報。

「近い国から兵を借りれば、次に何を求められると思います?」

「……返礼」

「ええ。それが物で済むとは限りません」

 孔明は今度は魏を指した。

「魏は遠い」

「それは不利なのでは?」

「我々が魏の兵を必要としているならば」

 孔明は笑った。

「ですが、必要なのは兵ではありません」

「……名」

「はい」

 遠い魏から、その権威だけを借りる。

 近い呉には、倭へ手を伸ばす理由を一つ減らさせる。

 思金はしばらく地図を眺めた。

「性格が悪い」

「何がです?」

「あなたがです」

「心外ですね」

「遠い国から名前だけ借りて、近い国を牽制するのでしょう?」

「簡単に申せば」

「十分悪いですよ」

 孔明は穏やかに笑った。

「国ですから」

「その言葉、そろそろ返していただけませんか」

◇

 使節を送る。

 それを決めるのは孔明ではなかった。

 数日後。

 卑弥呼の前に、孔明と思金が座っていた。

 正式な使者として海を渡る者の名は、すでに挙がっている。

 難升米。

 海の道を知り、諸国との往来にも慣れた男だった。

 孔明は策を述べた。

 魏へ使者を送る。

 魏に、卑弥呼を倭の王として認めさせる。

 その名をもって、海の向こうとの距離を保つ。

 すべてを聞いた後、卑弥呼が訊いた。

「魏は、私を王と認めるでしょうか」

「おそらく」

「何故?」

「魏にも利があるからです」

「どんな?」

「遠方の国が、自ら魏を大国として認めて使者を送ってくる」

 孔明は言った。

「魏にとっても、悪い話ではありません」

「つまり」

 思金が口を挟む。

「我々は魏の名を利用する。魏は我々が来たという事実を利用する」

「その通りです」

「どちらも相手を利用しているのですね」

「外交とは、そういうものです」

「嫌な言葉ですね」

「便利な言葉でもあります」

 卑弥呼は地図を見つめた。

 三年前なら。

 どうすればよいのか、と孔明に尋ねていただろう。

 今は違う。

「行きましょう」

 孔明は黙って頭を下げた。

「魏へ使者を送ります」

「御意」

「難升米を使者とします」

「はい」

「思金」

「……はい」

「あなたも行って」

「やはりですか」

「嫌なの?」

「嫌というより」

 思金は隣を見る。

「この方が何か企んでいる気がして」

「企んでなど」

「では、孔明殿が行けばよいでしょう」

「私は行けません」

「何故です?」

「死んでおりますので」

「生きているでしょう!」

「倭では」

「便利ですね、その死!」

 卑弥呼が吹き出した。

 孔明は小さく咳払いをした。

「魏では、諸葛亮は死者です」

 その声だけが、少し真面目になった。

「私を知る者もおります。顔を知る者も、声を知る者も」

「……そうですね」

「私が行けば、倭と魏の外交ではなくなります」

 卑弥呼が頷いた。

「なら、行って。思金」

「分かりました」

 思金は諦めた。

「ただし、孔明殿」

「はい」

「魏で何を言えばよいのか、全部教えてください」

「それはできません」

「…………」

「思金殿?」

「今から断っても?」

「できればおやめください」

「なぜ教えられないのです」

 孔明は少し考えてから答えた。

「私ならどう答えるかを、考えないでいただきたいからです」

「どういう意味です?」

「魏で、もし司馬懿という男に会うことがあれば」

 孔明の指が、地図の上の魏に触れた。

「私の言葉を使ってはいけません」

「その方が、あなたの言葉を知っている?」

「よく」

「では、あなたが答えを考えた方が安全なのでは?」

「逆です」

 孔明は首を振った。

「仲達殿は、用意された答えを聞けば、その答えを用意した者を探します」

「…………」

「あなたが見て、あなたが考え、あなたの言葉で答えてください」

「難しいことを言いますね」

「あなたならできます」

「褒めても駄目です」

「褒めたつもりでは」

「もっと駄目です」

 卑弥呼が笑った。

 孔明も少し笑う。

 だが、思金は見逃さなかった。

 司馬懿。

 その名を口にした時だけ。

 孔明の目が、ほんの少し楽しそうだったことを。

◇

 出立の日。

 港には多くの者が集まっていた。

 難升米をはじめとする使節。

 船を扱う者。

 海路に詳しい者。

 そして思金。

「土産よろしく!」

 溟が言った。

「遊びに行くのではありません」

「魏って何がうまいんだ?」

「知りません」

「先生は?」

「私に聞かないでください」

「中華にいたんだろ?」

「魏には住んでおりません」

「同じようなもんじゃねえの?」

「中華を一つの村のように言わないでください」

 クシナが溟の後頭部を軽く叩いた。

「邪魔」

「痛え!」

 卑弥呼は難升米に正式な言葉を託した。

 そして思金を見る。

「見てきて」

「何をでしょう」

「中華を」

 思金は少し驚いた。

「孔明殿が見ていたものを、私たちは知らないから」

 孔明は黙っていた。

「どれほど大きいのか。どんな人がいるのか。何を欲しがっているのか」

 卑弥呼は続ける。

「そして、私たちをどう見るのか」

「承知しました」

 思金は頭を下げた。

 その時だった。

「思金殿」

 孔明が一歩前へ出た。

「はい」

「一つ、お願いがあります」

「司馬懿殿についてですか?」

「いいえ」

 孔明は懐から、細く畳んだ書を取り出した。

「これを」

 思金は受け取る。

「手紙?」

「はい」

「誰に?」

 孔明はほんの少し、懐かしそうに目を細めた。

「蒲元という男です」

「ほげん?」

「ええ」

「魏の方ですか?」

「いえ」

 孔明は答えた。

「蜀におりました」

 思金が手元の書を見る。

「……蜀」

「私のいた国です」

 その言い方に、思金は何も返さなかった。

「その方は今、魏に?」

「分かりません」

「…………」

「生きているかどうかも、分かりません」

「…………」

「思金殿?」

「どうやって渡せと?」

「探していただければ」

「中華がどれだけ大きいか、あなた自身が説明したでしょう!」

「ですので、難しいお願いであることは承知しております」

「承知しているなら、もう少し手掛かりをください!」

 孔明は少し考えた。

「鍛冶師です」

 思金の顔が変わった。

「鉄の?」

「はい」

「腕は?」

「良いですよ」

「孔明殿がそう言うほど?」

「ええ」

 孔明は少し考え、

「少々、面倒な男ですが」

「あなたの知人、そんな方ばかりですね」

「否定はいたしません」

「他には?」

「蜀から移った者、商人、職人。そのあたりを辿れば、何か分かるかもしれません」

「……やってみましょう」

「お願いいたします」

 思金は手紙を裏返した。

「中を見ても?」

「構いませんよ」

「いいのですか?」

「秘密ではありません」

 思金は書を開いた。

 孔明の筆で書かれていたのは、驚くほど短い文章だった。

良い鉄があります。

良い水があります。

良い炭があります。

人だけが足りません。


 思金は二度読んだ。

「……これだけ?」

「十分です」

「これで海を渡って来ますか?」

「蒲元なら」

 孔明は微笑んだ。

「来るでしょう」


「ずいぶん信用しているのですね」

「いえ」

「違うのですか?」

「職人の性を、信用しております」


 思金は手紙を丁寧に畳んだ。

「分かりました。蒲元殿を探して、これを渡します」

「ありがとうございます」

「他には?」

「ございません」

「本当に?」

「はい」

 思金は少し考えた。

「……司馬懿殿への手紙は?」

「ありません」

「何故?」

 孔明は首を振った。

「必要ありません」

「蒲元殿には必要で、司馬懿殿には必要ない?」

「はい」

「どうしてです?」

 孔明は海の向こうを見た。

 そして少しだけ笑った。

「あの方なら、手紙などなくとも十分でしょう」


 思金は、心底嫌そうな顔をした。

「やはり行きたくなくなってきました」

「お気をつけて」

「それだけですか?」

「では、もう一つ」

「はい」

「もし仲達殿にお会いしたら」

 思金は待った。

「笑っている時ほど、お気をつけください」

「…………」

「それから、黙った時も」

「いつ気を抜けばよいのです?」

「さて」

「今から船を降りても?」

「お気をつけて」

「誤魔化しましたね?」

◇

 船が岸を離れた。

 溟が大きく手を振っている。

 卑弥呼も手を上げた。

 クシナもいる。

 そして孔明は、ただ静かに立っていた。

 思金は船上からその姿を見る。

 だんだん小さくなる。

 やがて、顔も分からなくなった。

 思金は懐へ手をやった。

 そこには一通の手紙がある。

 蒲元という、顔も知らぬ鍛冶師へ宛てた手紙。

 そして。

 司馬懿という男には――何もない。

 孔明は言った。

 必要ない、と。

「……難升米殿」

「はい?」

「今なら、まだ戻れますかね」

「何を言っているのです?」

「いえ」

 思金は遠ざかる倭を見る。

「孔明殿が『手紙などなくても分かる』と言う相手に、これから会う可能性があると思いまして」

「……よく分かりませんが」

「私も分かりません」

 それが一番怖かった。

◇

 海を渡った。

 半島を経た。

 帯方へ至った。

 そして、さらに魏へ。

 思金は、旅の間ずっと驚いていた。

 人が多い。

 道が長い。

 城が大きい。

 倉が大きい。

 畑が、どこまでも続いている。

 国というものの大きさが違った。

「……これと」

 思金は城壁を見上げた。

「戦っていたのですか」

 孔明が。

 蜀という国が。

 何年も。

 何度も。

 勝ち。

 負け。

 兵を集め。

 山を越え。

 また戦った。

 須佐で畑に泥をつけている老人が、かつて背負っていたものの大きさを。

 思金は、初めて少しだけ理解した。

「どうされました?」

 難升米が訊いた。

「いえ」

 思金は首を振った。

「孔明殿が休まない理由が、少し分かった気がしまして」

「休まない?」

「本人は休んでいるつもりなのです」

「はあ」

「北伐をしていないから、と」

「……それは休んでいるのですか?」

「やはりそう思いますよね」

 思金は安心した。

 自分の感覚は間違っていないらしい。

◇

 やがて使節は、魏の官人たちの前へ通された。

 倭の女王からの使者として。

 遠方より来た者として。

 国はどこにある。

 どれほどの日数がかかる。

 王は女か。

 どのように国を治める。

 何を産する。

 何を求める。

 難升米が正式な使者として答え。

 必要に応じて、思金が補った。

 思っていたより、順調だった。

 ――最初のうちは。

 三日目。

 宿舎に、一人の官人が訪れた。

「思金殿」

「はい」

「明日、少々お時間をいただきたい」

「何でしょう」

「お会いになりたい方がおられます」

「どなたです?」

 官人は答えた。

「司馬懿様です」

 思金は黙った。

 孔明の言葉が蘇る。

 笑っている時ほど気をつけろ。

 黙った時も気をつけろ。

「あの」

「はい」

「その方は、よく笑われますか?」

 官人が怪訝な顔をした。

「さて……」

「では、よく黙ります?」

「……何を心配されているのです?」

「こちらの話です」

 その夜。

 思金は、なかなか眠れなかった。

 懐には蒲元への手紙がある。

 明日は司馬懿に会う。

 片方には、孔明の字がある。

 片方には、何もない。

 なのに。

 何故だろう。

 何も持っていない方が、ずっと危険な気がした。

◇

 翌日。

 思金は、一室へ通された。

 想像していたより静かな部屋だった。

 武器もない。

 兵もいない。

 地図すらない。

 ただ。

 一人の老人が座っていた。

 思金が入ると、その男は顔を上げた。

 そして――笑った。

「遠いところを、よく来られた」

 思金の背中に、嫌な汗が流れた。

 ――孔明殿。

 いきなりです。

「倭の思金と申します」

「司馬懿だ」

 男は穏やかに言った。

「まあ、座られよ」

「失礼いたします」

 思金が座る。

 司馬懿は茶を勧めた。

 そして最初に訊いた。

「倭の米は、美味いか?」

「…………」

「どうした?」

 思金は孔明の顔を思い浮かべた。

 それから。

 孔明ならどう答えるかを、頭から追い出した。

「土地によります」

 司馬懿の眉が、わずかに動いた。

「ほう」

「水の多い土地もあれば、少ない土地もございます。土も違いますので」

「なるほど」

 司馬懿は茶を飲んだ。

「では、水は?」

「土地によります」

「洪水は?」

「土地によります」

「水路は?」

「……土地によります」

 司馬懿が笑った。

「よい答えだ」

 思金は笑わなかった。

 孔明殿。

 この方。

 ものすごく面倒です。

 司馬懿は茶碗を置いた。

「では」

 穏やかな声のまま。

 次の問いを投げた。

「その水路は――」

 一拍。

「誰が作った?」


 思金は、ようやく理解した。

 ここからが。

 本当の外交だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。