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第二十四話 花の下


 春が来た。


 須佐の山々から雪の名残が消え、川の水が少しずつ温み始める。


 田では春の支度が始まり、冬の間に傷んだ水路には人が入り、畑では土を起こす音が響いていた。


 そして、その日の朝。


「今日は何もしないでください」


 思金が言った。


 諸葛亮は手にしていた木簡から顔を上げた。


「……何故です?」


「花が咲いたからです」


「はい」


「ですから、休みます」


「話が繋がっておりませんが」


「繋がっています」


 思金は孔明の手から木簡を取り上げた。


「あ」


「今日は駄目です」


「しかし、水路の――」


「今日は駄目です」


「狗奴国との――」


「明日です」


 横からナギが言った。


「鉄の――」


「先生」


 溟が孔明の肩を掴んだ。


「座れ」


「……はい」


 孔明は座った。


 思金が目を丸くする。


「私が何年言っても聞かなかったのに」


「溟様に言われましたので」


「何で俺なら聞くんだよ」


「殴られそうですから」


「殴らねえよ!」


 少し離れたところで、クシナが笑った。


 その向こうでは、卑弥呼まで笑っていた。


 今日は祭祀ではない。


 国の会議でもない。


 狗奴国との交渉でもない。


 ただ、花が咲いたから集まった。


 それだけだった。


 須佐の川沿いには、薄い色の花をつけた木々が並んでいる。


 風が吹くたびに、花びらが舞った。


 孔明はそれを見上げた。


「……本当に、何もしないのですか」


「しません」


 卑弥呼が答えた。


「女王命令です」


「それを使われると弱いですね」


「便利でしょう?」


「誰に教わったのです?」


「あなたです」


「……そうでしたか」


 思金が酒を注いだ。


「諦めてください」


「仕方ありませんね」


 孔明は杯を受け取った。


 北伐をしていないのだから休んでいる。


 そう言い続けてきた。


 どうやら倭では、それを休みとは呼ばないらしい。


◇


 昼を過ぎるころには、誰がどこの国の人間なのかも分からなくなっていた。


 須佐の者。


 邪馬台国から来た者。


 狗奴国から来た者。


 炭を焼く者。


 鉄を打つ者。


 畑を耕す者。


 兵だった者。


 助け出された者。


 皆、同じ場所で飯を食っていた。


 ナギは須佐の酒を飲みながら顔をしかめた。


「薄い」


「なら飲むなよ」


 溟が言う。


「酒に罪はない」


「気に食わない隣国の酒だぞ」


「酒は別だ」


「都合いいな!」


「国とはそういうものだ」


「先生みたいなこと言うな!」


「やめろ」


 ナギが本気で嫌そうな顔をした。


 孔明は聞こえないふりをした。


 その隣で、クシナが魚を焼いている。


「メイ」


「ん?」


「焦げる」


「うわ!」


「何見てたの?」


「別に」


 溟は慌てて魚をひっくり返した。


 見ていたのは、少し離れた場所だった。


 母親と娘が並んで座っている。


 狗奴国から救い出された娘と、その母。


 三年前。


 夜になるたび、海を見て泣いていた少年は、その姿から目を逸らした。


「……よかったな」


「何が?」


「何でもねえよ」


 クシナは何も聞かなかった。


 しばらくして、溟がぽつりと言った。


「俺さ」


「うん」


「母上、生きてるかな」


 クシナの手が止まった。


「分かんねえんだ」


 溟は笑った。


「先生も、分かんねえって」


「……そう」


「最初はさ」


 花びらが一枚、溟の肩に落ちた。


「帰りたかった」


 孔明の耳にも、その言葉は届いていた。


 けれど振り向かなかった。


「海渡ってる間も、須佐に着いてからも」


 溟は焼けた魚を見ながら続ける。


「何で俺がこんなところにいるんだって、ずっと思ってた」


「今は?」


「今?」


 溟は顔を上げた。


 子供たちが走っている。


 水路の向こうで、老人たちが酒を飲んでいる。


 誰かが孔明に何かを尋ねようとして、思金に止められている。


 卑弥呼が笑っている。


 ナギは須佐の酒に文句を言いながら三杯目を飲んでいる。


「……帰ってきた感じするんだよな」


 クシナが溟を見る。


「ここに?」


「うん」


 少し照れたように頭を掻いた。


「劉の名なんて、ここじゃ誰も知らない」


 孔明の指が、わずかに止まった。


「それでいいんだ」


 溟は言った。


「俺はここの奴らが腹いっぱい食えて、笑って暮らせりゃ、それでいい」


 孔明は目を閉じた。


 ずっと昔。


 別の男の背中が浮かんだ。


 草鞋を売っていた男。


 民が苦しむ姿を見れば放っておけず。


 何度負けても立ち上がり。


 ついには皇帝となった男。


 劉備玄徳。


 孔明は、その遺志を継いだ。


 漢を復興する。


 そのために戦った。


 そのために国を支えた。


 そのために幾度も祁山へ向かった。


 そして――死んだ。


 少なくとも、一度は。


 だが。


 劉備は、本当に何を望んでいたのだろう。


 漢という名を残すことだったのか。


 それとも。


 乱れた世で。


 ただ、人が生きられる国を作ることだったのか。


 孔明は、目を開いた。


 花が舞っていた。


 桃ではない。


 けれど何故か、あの遠い日の話を思い出した。


 三人の男が花の下で誓ったという、あの話を。


 自分は、そこにはいなかった。


 けれど、その誓いの続きを背負った。


 長い間。


 あまりにも長い間。


 ――漢を復興するために、民を救うのではない。


 孔明は、静かに思った。


 順序が、逆だったのだ。


 "民を救うために、漢を復興しようとしたのではなかったか。"


「先生?」


 いつの間にか、溟がこちらを見ていた。


「何です?」


「また難しいこと考えてるだろ」


「いいえ」


「嘘だ」


「花を見ておりました」


「ほんとか?」


「本当です」


「じゃあいいけど」


 溟は孔明の隣へ座った。


 しばらく二人で花を見た。


「なあ、先生」


「はい」


「俺、王にならなくてもいいよな」


 孔明はすぐには答えなかった。


「劉の血があるからってさ」


 溟は自分の手を見る。


「ここじゃ、そんなの誰も知らねえし」


「はい」


「姉ちゃんがいるし」


 少し離れたところから卑弥呼が振り向いた。


「誰が姉ちゃんですって?」


「聞こえてんのかよ!」


「聞こえます」


「地獄耳!」


「溟」


「はい」


 反射的に姿勢を正す。


 卑弥呼は笑った。


「王になりたくないの?」


「……分かんねえ」


「なら、それでいいでしょう」


「いいの?」


「今、決めなくても」


 卑弥呼は杯を置いた。


「それに」


 少しだけ悪戯っぽく笑う。


「王でなくても、家族にはなれるでしょう?」


 溟が黙った。


「……家族?」


「嫌?」


「いや」


 少し考えてから、


「でも血、繋がってねえぞ」


「今さら?」


 卑弥呼が呆れる。


「私はあなたの姉ではありませんし、思金もあなたの親戚ではありません」


「俺を巻き込まないでください」


「クシナも、ナギも」


「俺までか」


「孔明殿だって」


 そこで溟が笑った。


「先生は先生だろ」


「それは何なのです?」


「知らねえ」


 溟は笑ったまま言った。


「血なんざ関係ねえよ。家族ってのは、一緒に生きようと決めた奴のことだろ」


 孔明は、何も言えなかった。


 劉の血。


 漢の血。


 王朝。


 正統。


 自分は、それらを守るために生きてきた。


 それが間違いだったとは思わない。


 劉備と歩んだ日々を否定するつもりもない。


 蜀で戦った者たちを。


 北伐で倒れた者たちを。


 無意味だったことには、決してしない。


 けれど。


 血は、人を生かすためにあるのではない。


 王朝も。


 国も。


 同じなのだ。


 孔明は杯を置いた。


「溟様」


「ん?」


「一つだけ」


「何?」


「王になるな、と申し上げているのではありません」


「うん」


「王になることを、目的にしてはならない、と申し上げているのです」


 溟は少し考えた。


「……難しい」


「そうでしょうね」


「もっと簡単に言って」


「そうですね」


 孔明は花を見上げた。


「国を、造りなさい」


「国?」


「はい」


「王じゃなくて?」


「王であるかどうかは、その後でよいのです」


 溟はしばらく黙っていた。


 やがて、


「分かった」


 と言った。


 たぶん、半分も分かっていない。


 それでよかった。


 いつか分かればよい。


 あるいは、その子が。


 そのまた子が。


 孔明の知らぬ時代に、その言葉の続きを見つければよい。


◇


 夕方。


 宴が終わっても、孔明は一人で川沿いに残っていた。


 花びらが水面を流れていく。


 旅を始めた日のことを思い出す。


 五丈原。


 長江。


 海。


 名も知らぬ港。


 須佐。


 自分は、何を探していたのだろう。


 争いのない土地。


 誰にも追われない土地。


 何も背負わなくてよい場所。


 桃源郷。


 そんなものが、海の向こうにあると思っていた。


 だが。


 須佐にも洪水はあった。


 争いもあった。


 飢えもあった。


 狗奴国とも争った。


 呉の影も来た。


 桃源郷など、どこにもなかった。


「……そういうことでしたか」


 孔明は、小さく笑った。


 桃源郷は、探す場所ではなかった。


 水を引き。


 田を拓き。


 飯を蓄え。


 争いを減らし。


 人が笑える場所を。


 少しずつ。


 作るものだったのだ。


 背後から足音がした。


「また一人で難しい顔をしていますね」


 思金だった。


「花を見ていただけです」


「昼にも聞きました」


「本当ですよ」


 思金は隣に立った。


「旅は、終わりましたか」


 孔明は少し考えた。


 そして首を振った。


「いいえ」


「まだどこかへ?」


「さて」


 孔明は川を見る。


「目的地がなくなっただけかもしれません」


「それは旅なのですか?」


「おそらく」


 風が吹いた。


 春の花びらが舞う。


 孔明は、それをただ見ていた。


 天下を取るためではない。


 漢を復興するためでもない。


 誰かの遺志に追われているわけでもない。


 五丈原で一度終わった人生を。


 ただ、生きている。


 それでよいのだと、ようやく思えた。


◇


 数日後。


 海の向こうから、知らせが届いた。


 最初にそれを読んだ思金は、意味が分からなかった。


 だから、そのまま孔明のところへ持っていった。


「孔明殿」


「はい」


「中華のことです」


 孔明の手が止まった。


「何がありました?」


「遼東という土地で、大きな戦があったと」


 孔明の表情が変わる。


「……遼東」


「公孫淵という者が、魏に討たれたそうです」


 孔明は立ち上がった。


「誰が兵を率いました?」


 思金は木簡へ目を落とした。


「名があります」


「誰です?」


「司馬――」


 その先を聞く前に。


 孔明は目を閉じた。


「仲達殿……」


「知っているのですか?」


「ええ」


 孔明は地図を広げた。


 倭。


 海。


 半島。


 帯方。


 遼東。


 魏。


 指が、その道をなぞる。


 思金が覗き込む。


「何を?」


 孔明は答えなかった。


 もう一度。


 道を見る。


 長い間、中華と倭の間に横たわっていたもの。


 海だけではない。


 国があり。


 戦があり。


 公孫氏がいた。


 それが今、動いた。


「……なるほど」


「何がです?」


 孔明は顔を上げた。


 先ほどまで花を見ていた老人の顔ではなかった。


 だが。


 北伐へ向かっていた頃の顔とも、少し違った。


 戦うためではない。


 守るために。


 海の向こうを見ている。


「今です」


 思金が嫌な顔をした。


「何がです?」


 孔明は微笑んだ。


「魏へ、使者を送りましょう」


 思金はしばらく黙った。


「……また面倒なことを考えましたね」


「ええ」


「誰が行くのです?」


 孔明は、にこやかに思金を見た。


「…………」


 思金も孔明を見た。


「…………」


「思金殿」


「嫌です」


「まだ何も申し上げておりませんが」


「絶対に嫌です」


 須佐の春が、終わろうとしていた。

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