第二十三話 気に食わない隣国
狗奴国の王が宮を去ってから、七日が経った。
国は、滅びなかった。
朝になれば畑へ出る者がいた。
炭を焼く者がいた。
炉には火が入り、漁師は海へ出た。
子供は腹を空かせ、大人は今日の仕事に文句を言った。
王がいなくなった翌日にも、朝は来た。
そのことを、諸葛亮は何より喜んでいた。
「……で」
須佐の畑の脇で、劉溟が鍬を地面へ突き立てた。
「誰が王になったんだ?」
「まだ決まっておりません」
「一週間経ったぞ?」
「一週間しか経っておりません」
「王って、そんな時間かかるのか?」
「本来は、時間をかけた方がよいのですよ」
孔明は水路の縁にしゃがみ込み、流れを確かめている。
溟は胡散臭そうにその背中を見た。
「先生、昔はそんなこと言ってた?」
「さて」
「絶対言ってねえな」
「昔の話です」
「便利だな、それ」
少し離れたところで、クシナが笑った。
その時だった。
「孔明殿!」
道の向こうから声が飛んだ。
思金だった。
その隣には、見慣れた大柄な男がいる。
ナギ。
狗奴国南部の邑を治め、王に反発する者たちをまとめていた男である。
溟が顔をしかめた。
「うわ」
「何だ、その顔は」
「別に」
「相変わらず馬鹿そうだな」
「帰れ!」
「ここまで歩いてきたんだぞ」
「じゃあ歩いて帰れ!」
「溟様」
「はい」
孔明に呼ばれた途端、溟は黙った。
ナギが鼻で笑う。
「よく躾けられている」
「うるせえ」
孔明は立ち上がった。
「それで、どうされました?」
ナギが答える。
「決まった」
「王が?」
「違う」
その返答に、孔明の眉がわずかに上がった。
「では?」
「王を、すぐには置かん」
今度こそ、孔明が目を細めた。
◇
須佐の集会所には、思金、孔明、ナギ。
そしてなぜか溟までいた。
「何であなたまでいるんです?」
「俺の国の話でもあるだろ」
「狗奴国ですよ?」
「隣だろ」
「……まあ、よいでしょう」
「いいのかよ」
思金が呆れた顔をする。
ナギは気にせず話を続けた。
「邑の長、鉄を作る者、炭を焼く者、兵を預かる者。皆で話した」
「はい」
「王を決める前に、決めることがある」
孔明は黙って続きを待った。
「鉄をどこへ売るか。炭をどれだけ焼くか。港を誰が見るか。兵を誰が動かすか。村からどれだけ集めるか」
「なるほど」
「それを決めずに王だけ置けば、また同じになる」
孔明は笑った。
「何がおかしい」
「いえ」
少しだけ嬉しそうだった。
「良い話だと思いまして」
「お前に褒められると気味が悪い」
「それは残念です」
ナギは露骨に嫌そうな顔をした。
思金が訊く。
「では、その間は誰が狗奴国を代表するのです?」
「俺になった」
「おお」
溟が声を上げた。
「王じゃん」
「違う」
「何が違うんだよ」
「王ではない。話をまとめるだけだ」
「それ王じゃね?」
「違う」
「先生」
「私に聞かないでください」
ナギは深く息を吐いた。
「それでだ」
空気が少し変わった。
「一つ、言っておく」
「何でしょう」
「邪馬台国に助けられて、俺がこの立場になったと思われるのなら――」
ナギは孔明を正面から見た。
「俺は降りる」
思金が黙る。
溟も、今度は口を挟まなかった。
「狗奴国は狗奴国だ。邪馬台国の下には入らん」
「はい」
「卑弥呼の命令も受けん」
「はい」
「お前の言うことも聞かん」
「結構です」
ナギの眉が動いた。
「……何が結構なんだ」
「安心いたしました」
「何がだ」
孔明は穏やかに答えた。
「我々の言うことを何でも聞く者が狗奴国を治める方が、私は困ります」
「なぜだ」
「それはもう、狗奴国ではありませんから」
ナギが黙った。
「狗奴国には、狗奴国の都合がある。邪馬台国には邪馬台国の都合がある。当然、ぶつかることもあるでしょう」
「あるだろうな」
「それでよいのです」
溟が首を傾げた。
「仲良くしなくていいの?」
「仲良くする必要はありません」
「え」
「争わなければよいのです」
溟が考える。
「……同じじゃね?」
「違います」
今度は思金とナギが同時に答えた。
「何で二人とも!?」
◇
問題は、呉だった。
狗奴国の王が代わった――正確には、王がいなくなった。
それを海の向こうが知らぬはずもない。
「呉との交易は続ける」
ナギが言った。
溟が反応する。
「いいのかよ」
「なぜ駄目だ」
「だって、あいつら――」
「呉の鉄の技術も、海の品も、薬も、布も、狗奴国には必要だ」
「でも兵を送ってきただろ」
「だから兵は要らん」
ナギは即答した。
「商人は来ればいい。船も来ればいい。物も買う。こちらからも売る」
そして、
「だが、兵はいらん」
孔明が頷いた。
「それでよいでしょう」
溟が孔明を見る。
「先生も?」
「はい」
「敵じゃないの?」
「溟様」
「何だよ」
「三年前にも申し上げたでしょう」
「何を?」
「国に、永遠の敵も味方もありません」
「……面倒くせえ」
「国ですから」
思金が吹き出した。
「それ、私の言葉では?」
「お借りしました」
「返してください」
「善処いたします」
「返す気がない時の言葉ですね、それ」
「よくお分かりで」
ナギが頭を抱えた。
「お前たちはいつもこうなのか」
「大体」
溟が答えた。
「そうか……」
少しだけ、ナギが狗奴国へ帰りたそうな顔をした。
◇
十日後。
狗奴国の港へ、一隻の船が入った。
海の向こうから来た商船だった。
積まれていたのは布、薬、酒、いくつかの金属製品。
そして、質問だった。
「王は?」
男が訊いた。
ナギは答えた。
「いない」
「死んだのか?」
「生きている」
「では、なぜお前がここにいる」
「皆に頼まれた」
男はナギの顔をじっと見る。
「邪馬台国と和したのか?」
「誰がそんなことを言った」
「では、敵か?」
ナギは少し考えた。
「……気に食わん隣国だ」
「敵ではない?」
「気に食わんと言った」
「味方か?」
「話を聞いていたか?」
男はそれ以上訊かなかった。
代わりに別の問いを出した。
「須佐という土地があるそうだな」
ナギの目が、ほんの少しだけ細くなった。
「ある」
「最近、豊かになったと聞く」
「そうらしいな」
「水路が増えた」
「らしい」
「鉄の道具も」
「知らん」
「大陸から来た者がいるという話もある」
ナギは男を見た。
「狗奴国の話をしに来たのではないのか?」
男は笑った。
「ただの噂だ」
「なら、噂のままにしておけ」
その日の夜。
ナギは紙ではなく、木片に問いを書き留めさせた。
答えではない。
問われたことだけを。
王。
邪馬台国。
兵。
鉄。
須佐。
水路。
大陸から来た者。
それは数日後、思金の手へ渡った。
◇
「須佐について、随分訊いていますね」
思金が木片を置いた。
孔明はそれを読む。
「はい」
「あなたを探しているのでしょうか」
「まだ分かりません」
「ですが、大陸の者まで」
「大陸から流れ着く者など、私だけではありません」
孔明は一つ一つの問いを見ていった。
順番まで確かめる。
「それに」
「それに?」
「私が生きていると思う者など、中華にはおりません」
思金は黙った。
その言葉だけは、少し寂しく聞こえた。
「なら、呉は何を見ているのでしょう」
「須佐です」
「あなたではなく?」
「今のところは」
孔明は木片を指した。
「水路。鉄。穀物。人。そして大陸の知識」
「……なるほど」
「誰か一人を探しているのではない。なぜ須佐だけが、これほど短い間に変わったのかを知りたいのでしょう」
思金は少し考えた。
「では、どうします?」
「何もしません」
「……またですか」
「はい」
「あなたの『何もしない』は信用できません」
「心外ですね」
「この数年で学びました」
孔明は笑った。
「では、一つだけ」
「何でしょう」
「狗奴国には、今まで通り呉と話していただきましょう」
「我々との関係は?」
「今まで通りです」
「今まで通り?」
「気に食わない隣国です」
思金が笑った。
「随分、本気で嫌そうでしたね。ナギ殿」
「ええ」
「演技では?」
「まさか」
ちょうどそこへ、ナギが入ってきた。
「本気で気に食わん」
「聞いていたのですか」
「聞こえた」
ナギは孔明を指差した。
「特にお前が一番気に食わん」
「それは何よりです」
「何がだ!」
孔明は楽しそうに茶を飲んだ。
敵である必要はない。
味方である必要もない。
まして、従わせる必要などない。
国と国とは、本来そういうものなのかもしれない。
利が合えば手を結ぶ。
合わなければ争う。
それでも、明日も隣にいる。
だからこそ。
互いに、相手を滅ぼさずに済む道を探す。
それが、国と国との付き合いなのだ。
「ところで」
ナギが言った。
「何でしょう」
「呉の者が、もう一つ聞いていた」
「何を?」
「魏についてだ」
孔明の手が止まった。
ほんの一瞬だった。
「……魏?」
「ああ」
「何と?」
「最近、北で大きな戦があったらしい」
思金が孔明を見る。
「ご存じですか」
「いえ」
孔明は静かに茶碗を置いた。
「詳しく聞きましょう」
海の向こうでは、また国が動いていた。
倭とは比べものにならぬほど大きな国が。
そしてその中心には――
孔明が、よく知る男がいた。
五丈原から、四年。
臥龍が死んだことになった中華で。
司馬仲達は、まだ生きていた。




