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第二十九話 臥龍、秋風にあたる


 船が見えた。

 最初に気づいたのは、海辺で遊んでいた子供だった。

「船!」

 声が上がる。

「船が来た!」

 浜にいた者たちが海を見る。

 一艘ではない。

 沖から、ゆっくりと近づいてくる船。

 見慣れた形のものもある。

 だが、積んでいる荷は、出ていった時より明らかに多かった。

「帰ってきた!」

 誰かが叫んだ。

 その声は、すぐに浜から集落へ走った。

「魏へ行った人たちが帰ってきた!」

 須佐にも知らせが届いた。

 その頃、孔明は畑にいた。

「先生!」

「はい」

「船!」

 溟が走ってくる。

「船が帰ってきた!」

「どの船でしょう」

「魏だよ!」

「魏の船ではありません。倭の船です」

「どっちでもいい!」

「よくありません」

「思金たちだ!」

 孔明の手が止まった。

「……そうですか」

「行こうぜ!」

「今、この辺りを見てから」

「帰ってきたんだぞ!?」

「稲も待ってはくれませんので」

「先生!」

「はい」

「そういうとこだぞ!」

 何がでしょう。

 そう言いながら、孔明は立ち上がった。

 結局。

 溟より少しだけ遅い足で、浜へ向かった。

◇

「おかえりなさい」

 卑弥呼の言葉に、難升米が深く頭を下げた。

「ただいま戻りました」

 思金も続く。

「長い旅でした」

「無事でよかった」

「本当に」

 思金は心の底から答えた。

「本当に、無事でよかったです」

「そんなに大変だったの?」

「海も大変でした」

「うん」

「道も大変でした」

「うん」

「魏の手続きも大変でした」

「うん」

「司馬懿殿が一番大変でした」

「そこなの?」

「そこです」

 卑弥呼が笑った。

「おーい!」

 遠くから声がする。

 溟だった。

「思金!」

「溟様」

「生きてた!」

「おかげさまで」

「殴られなかった?」

「誰にです?」

「魏の偉い奴」

「何故、私が殴られる前提だったのです?」

「先生の知り合いだろ?」

「どういう認識なのですか」

 その後ろから、孔明が歩いてくる。

 思金はその姿を見て。

 少しだけ、妙な気持ちになった。

 いつもの老人だった。

 粗末な衣。

 土のついた履物。

 風に揺れる白い髪。

 魏で見た巨大な城もない。

 官人もいない。

 兵もいない。

 あの司馬懿が、たった数日の会話で正体を見抜いた男には、とても見えない。

「お帰りなさい、思金殿」

「ただいま戻りました」

「長旅、お疲れさまでした」

「誰のせいだと思っているのです?」

「さて」

「その『さて』、久しぶりに聞くと腹が立ちますね」

「お元気そうで何よりです」

「あなたも」

 思金は言った。

「相変わらずですね」

 孔明が少し首を傾げる。

「何か?」

「いえ」

 思金は笑った。

「こちらの話です」

「そうですか」

「おい」

 低い声が割り込んだ。

 孔明が見る。

 一人の男が、船から降ろした荷の前に立っていた。

 日に焼けた顔。

 太い腕。

 煤の染みついた衣。

「……まさか」

 孔明の目が見開かれる。

 男は懐から、一枚の書を取り出した。

「良い鉄」

 一歩。

「良い水」

 もう一歩。

「良い炭」

 孔明の前で止まる。

「人だけが足りねえ?」

「…………」

「よくもまあ、こんな紙切れ一枚で海の向こうまで人を呼びつけたな」

 孔明は。

 珍しく、すぐに言葉が出なかった。

「蒲元」

「おう」

「……本当に来たのですか」

「呼んだのお前だろうが!」

「そうなのですが」

「何だその反応は!」

 思金が横から言った。

「私も同じことを申し上げました」

「だろ!?」

「孔明殿は『職人の性を信用している』と」

 蒲元が孔明を見る。

「お前な」

「来ていただけたので、間違ってはいなかったかと」

「腹立つな!」

 溟が笑う。

「先生の知り合い?」

「ええ」

 孔明は少し懐かしそうに答えた。

「古い知人です」

「鍛冶師の蒲元だ」

 蒲元は溟を見る。

「お前は?」

「劉溟」

 蒲元の表情が止まった。

「劉?」

「ん?」

 蒲元が孔明を見る。

 孔明は、わずかに首を振った。

「……なるほどな」

 蒲元はそれ以上、何も聞かなかった。

「で」

 代わりに言った。

「鉄はどこだ」

「今ですか?」

「当たり前だろ」

「長旅の直後ですが」

「だから何だ」

「少しお休みに」

「鉄見てから休む」

 孔明は思金を見た。

「……確かに、蒲元ですね」

「私には判断できません」

「間違いありません」

「そこまでですか」

「はい」

 蒲元が怒鳴った。

「何をごちゃごちゃ言ってる! 案内しろ!」

 溟が楽しそうに笑った。

「俺、こいつ好きかも」

「溟様」

「何だよ」

「後悔しますよ」

「何で先生が言うんだよ」

◇

 魏から持ち帰ったものは、蒲元だけではなかった。

 むしろ。

 本来の目的はこちらである。

 難升米が正式な使者として、魏とのやり取りを報告する。

 卑弥呼が魏に王として認められたこと。

 その名が海の向こうの大国に記されたこと。

 与えられた品々。

 交わされた言葉。

 これから続くであろう往来。

 卑弥呼は、静かに聞いていた。

 かつて。

 人前へ出ることすら恐れていた女が。

 今は、自分の国が海の向こうからどう見られるのかを聞いている。

「これで」

 報告が終わった後、卑弥呼が孔明を見る。

「呉は来ない?」

「いいえ」

 孔明は答えた。

「来ない、とは申せません」

「そう」

「ただ」

 孔明は続ける。

「来る理由は、一つ減りました」

 卑弥呼は頷いた。

「それでいい」

 思金が横を見る。

 孔明も、わずかに笑った。

 以前なら。

 敵が来ないようにする。

 敵を退ける。

 敵を滅ぼす。

 そんな言葉を使っていたかもしれない。

 今は。

 一つずつ。

 戦う理由を減らしていく。

「魏は、私たちを利用するのよね」

 卑弥呼が言った。

「はい」

 孔明は隠さなかった。

「私たちも、魏を利用した」

「はい」

「それでいいの?」

「卑弥呼様がお決めになることです」

 卑弥呼は少し考えた。

「なら」

 笑った。

「それでいい」

「御意」

 思金が息を吐く。

「司馬懿殿も、似たようなことを申しておりました」

 孔明の目が動いた。

「仲達殿が?」

「はい」

「何と?」

「魏は倭を使う。倭は魏を使う。それで双方に利があるならよい、と」

 孔明は黙った。

「どうしました?」

「いえ」

 少しだけ笑う。

「随分、丸くなられたようで」

「あなたが言えます?」

「何故です?」

「いえ」

 思金は首を振った。

「もういいです」

◇

 報告が終わった。

 皆が動き始める。

 魏から持ち帰った品を確認する者。

 蒲元を案内する者。

 難升米と今後の往来について話す者。

 卑弥呼も立ち上がった。

 孔明も外へ向かおうとした。

「あ」

 思金が声を上げた。

「孔明殿」

「はい?」

「忘れるところでした」

「何でしょう」

「司馬懿殿から、言伝を預かっております」

 孔明の足が止まった。

「……私に?」

「正確には」

 思金は眉を寄せた。

「誰に伝えろとも言われておりません」

「では何故、私に?」

「あなた以外に意味が分かる人がいるなら、教えてください」

 孔明は振り返った。

「何と?」

 思金は。

 魏を離れる日に聞いた言葉を、そのまま伝えた。

「五丈原の秋風は、倭まで届いたか」


 孔明の表情が消えた。

 溟が首を傾げる。

「五丈原?」

 卑弥呼も思金を見る。

「何、それ?」

「私も知りません」

 思金は孔明を見る。

「どういう意味です?」

 孔明は答えなかった。

「孔明殿?」

 五丈原。

 その名を。

 この地で聞くことになるとは思わなかった。

 五年前。

 乾いた大地。

 連なる陣。

 旗。

 兵。

 届かぬ兵糧。

 何度も見た地図。

 何度も数えた日数。

 何度も計った敵との距離。

 そして。

 秋の風。

 あの地で。

 諸葛亮孔明は死んだ。

 少なくとも。

 天下には、そう残った。

「……そうですか」

 孔明は、それだけ言った。

 そして。

 外へ出た。

「先生?」

 溟が追おうとする。

 思金が腕を出した。

「待ちましょう」

「でも」

「少しだけ」

 卑弥呼も何も言わなかった。

◇

 外は、秋だった。

 須佐の田は。

 黄金色に染まっていた。

 重く実った稲穂が、頭を垂れている。

 孔明は畦を歩いた。

 一人で。

 風が吹く。

 稲穂が揺れた。

 ざあ、と。

 波のような音が広がっていく。

 孔明は立ち止まった。

 五丈原でも。

 秋には風が吹いていた。

 だが。

 あの頃。

 目の前にある穀物を見れば、考えることは決まっていた。

 何日もつ。

 何人を養える。

 どこへ運ぶ。

 どれほど失えば軍が止まる。

 兵糧。

 いつも。

 兵糧だった。

 今も。

 米の量は数える。

 倉も見る。

 水路も見る。

 来年の種籾も考える。

 だが。

 この米を食べる者は。

 戦場へ向かう兵ではない。

 須佐の民だった。

 冬を越す老人。

 腹を空かせる子供。

 畑から帰ってくる男たち。

 食事を作る女たち。

 溟。

 クシナ。

 思金。

 卑弥呼。

 自分も。

 ここで食べる。

「……仲達殿」

 孔明は呟いた。

 あの男は。

 気づいた。

 名前も聞かず。

 手紙もなく。

 海の向こうにいる自分を見つけた。

 そして。

 暴かなかった。

 死者を。

 死者のままにした。

 孔明は空を見上げた。

 雲が流れている。

 また風が吹いた。

 白くなった髪を揺らす。

 衣の袖を揺らす。

 黄金の稲穂を揺らす。

 五丈原から。

 海を越え。

 五年を越え。

 届くはずのない風。

 孔明は目を閉じた。

 抗う必要はなかった。

 策を巡らせる必要も。

 敵の動きを読む必要も。

 ただ。

 その風にあたっていた。

 そして。

 静かに答えた。

「……ええ」


 稲穂が鳴る。

「届いておりますよ、仲達殿」


 返事が届くことはない。

 それでよかった。

 あの男なら。

 返事などなくとも、分かるのだろう。

◇

「で」

 しばらくして。

 後ろから声がした。

「結局、どういう意味なのです?」

 孔明は振り返った。

 思金がいた。

「待っていてくださったのでは?」

「待ちましたよ」

「では何故」

「十分待ちました」

「そうですか」

「はい」

 思金は孔明の隣まで来た。

 同じように田を見る。

「五丈原とは?」

「昔いた場所です」

「それは何となく分かります」

「では十分では?」

「秋風は?」

「今、吹いておりますね」

「そういう話ではありません」

「難しいですね」

「難しくしているのはあなた方です」

 孔明は笑った。

「昔の話ですよ」

「またそれですか」

「はい」

「司馬懿殿も、あなたも」

 思金はため息をついた。

「どうして普通に話せないのです?」

 孔明は少し考えた。

「中華ですから」

「絶対に違うでしょう」

「そうでしょうか」

「そうです」

 思金は呆れたように言った。

 だが。

 少しして。

 二人とも黙った。

 風が吹いている。

 収穫を待つ田を渡っていく。

「良い風ですね」

 思金が言った。

 孔明は。

 少しだけ笑った。

「ええ」

 五丈原の秋風とは違う。

 誰かを死へ送る風でもない。

 戦の終わりを告げる風でもない。

 ただ。

 実った稲を揺らす、秋の風だった。

 かつて臥龍と呼ばれた男は。

 黄金の田の傍らに立ち。

 何をするでもなく。

 しばらく。

 秋風にあたっていた。

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