第二十一話 先生のいない須佐
諸葛亮がいなくても。
朝は来た。
当たり前のことだった。
「開けるぞー!」
声が響く。
水路の堰が上がる。
水が流れる。
最初の田へ。
次の田へ。
さらにその先へ。
「そっち多い!」
「分かってる!」
「昨日も多かったぞ!」
「じゃあお前やれ!」
「やるよ!」
朝から喧嘩している。
だが。
水は流れていた。
決められた順番で。
決められた量を。
「……」
溟は。
少し離れたところで、それを見ていた。
「何してるの」
後ろから声。
クシナだった。
「見てる」
「何を」
「水路」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くなよ」
「暇そうだったから」
「暇じゃねえよ」
「何してるの」
「だから水路を」
「見てるだけでしょ」
「……」
溟は言葉に詰まった。
「先生がいないから」
「うん」
「俺が見といた方がいいかなって」
「何を?」
「だから……」
水路を見る。
「ちゃんと動いてるか」
「動いてるね」
「……うん」
「じゃあ終わり」
「軽いな!」
クシナは笑った。
「だって」
水路を指す。
「あの人たち、自分でやってるよ」
「……」
確かに。
孔明はいない。
思金もいない。
タケミカヅチもいない。
それでも。
誰かが堰を開け。
誰かが閉め。
水量を見て。
揉めれば。
「昨日そっち多かっただろ!」
「だから今日は先にそっちへ流した!」
「ならいい!」
勝手に解決している。
「……」
溟は腕を組んだ。
「何か」
「何?」
「つまんねえ」
「何で?」
「俺がいなくても平気じゃん」
「当たり前でしょ」
「もうちょっとこう」
手を広げる。
「先生がいない! どうしよう! みたいなのないの?」
「ないね」
「ないかー」
「ない」
「……そっか」
溟は。
少し笑った。
「なら、いいか」
◇
昼前。
一人の男が。
須佐へ入った。
旅装。
腰には短い剣。
だが。
商人に見えなくもない。
旅人にも見える。
「すみません」
男が村人へ声をかける。
「はい?」
「ここが須佐ですか」
「そうだよ」
「少し聞きたいのですが」
「何だ?」
「水を」
「ああ」
村人は水場を指す。
「あっち」
「ありがとうございます」
男は頭を下げた。
歩く。
水を飲む。
そして。
見る。
水路。
田。
道。
蔵。
男の目は。
旅人のそれではなかった。
どこに水が流れ。
どこに人が集まり。
どこに食糧が置かれているか。
静かに見ている。
「……」
三年前。
この土地について聞いた話と。
違う。
ずいぶん。
違う。
「旅の方ですか?」
声。
男が振り返る。
老婆がいた。
「ええ」
「どこから?」
「南から」
「狗奴の方?」
「その辺りです」
「大変でしょう」
「何がです?」
「最近ごたごたしてるって」
「……そうですね」
老婆は。
特に警戒した様子もない。
「飯食った?」
「いえ」
「なら食っていきな」
「よいのですか」
「余ってるから」
男の目が。
ほんの少し動く。
「余っている?」
「去年はよく採れた」
「そうですか」
「蔵にもあるし」
「蔵?」
「あそこ」
老婆が。
普通に指した。
男は驚いた。
「教えてよいのですか」
「何が?」
「食糧の場所を」
「何で?」
「……」
老婆が怪訝な顔をする。
「盗むの?」
「いえ」
「ならいいじゃない」
「……そうですね」
男は。
笑った。
だが。
頭の中では。
別のことを考えていた。
蔵がある。
備蓄がある。
場所を隠していない。
つまり。
奪われることを。
日常的には想定していない。
それとも。
別に守る仕組みがある?
「この蔵は」
「ん?」
「誰が管理を?」
「ああ」
老婆は。
少し考えた。
「今日は誰だっけ」
「今日は俺だよ!」
遠くから声がした。
一人の男が手を上げる。
「だってさ」
「……今日は?」
「交代だから」
「誰の命令で?」
「命令?」
老婆が首を傾げる。
「決まってるだけだよ」
「誰が決めたのです?」
「みんな」
「……」
「最初は先生がうるさかったけど」
男の目が。
止まった。
「先生?」
「ああ」
「誰です?」
「先生」
「……お名前は?」
「知らん」
「知らない?」
「みんな先生って呼んでるから」
老婆は。
何がおかしいのかという顔だった。
「どこに?」
「今いないよ」
「どちらへ」
「知らん」
「いつ戻る?」
「さあ」
「困らないのですか」
老婆が。
男を見る。
「何で?」
「……」
「水路は水路の奴が見るし」
「……」
「蔵は当番がいるし」
「……」
「畑は自分でやるだろ」
「……」
「先生いなくて困るのは」
少し考え。
「話が長いのが聞けないくらいかね」
男は。
返す言葉がなかった。
◇
「怪しい奴?」
溟が聞いた。
「うん」
クシナが答える。
「何で?」
「ずっと見てる」
「何を」
「いろいろ」
二人は。
物陰から男を見ていた。
「旅人じゃねえの?」
「旅人って蔵の入口の数を数える?」
「数えてんの?」
「さっき指動いてた」
「……」
溟が顔を出す。
男は。
今度は水路を見ている。
「水路も見てる」
「水が珍しいんじゃない?」
「川あるじゃん」
「じゃあ怪しい」
「でしょ」
「どうする」
「先生ならどうする?」
溟が止まる。
「……」
「何?」
「それ」
「何が」
「最近みんな俺に言うんだよ」
「先生ならどうするって?」
「うん」
「で?」
「分かんねえ」
「駄目じゃん」
「うるせえな!」
クシナが笑う。
「じゃあ、メイならどうするの」
「俺?」
「うん」
「……」
溟は。
男を見る。
「聞く」
「何を?」
「何しに来たって」
「そのまま?」
「そのまま」
「馬鹿っぽい」
「何でだよ!」
「でも」
クシナが笑う。
「メイっぽい」
「それ褒めてる?」
「半分」
「残り半分は!?」
「馬鹿」
「おい!」
男が。
こちらを見た。
「……」
「……」
「……」
溟が物陰から出る。
「よっ」
クシナが額を押さえた。
「それで行くんだ……」
◇
「旅人?」
溟が聞いた。
「ええ」
「どこから」
「南です」
「狗奴国?」
「その辺りから」
「ふーん」
男も。
溟を見る。
若い。
だが。
身なりが少し違う。
顔立ちも。
完全にこの地の者とは言い切れない。
「あなたは?」
「俺?」
「こちらの方ですか」
溟は。
一瞬だけ。
答えに詰まった。
「……須佐の人間だよ」
「生まれも?」
「違う」
「どちらから?」
「海の向こう」
男の目が変わる。
クシナが。
それに気づいた。
「海の向こう?」
「ああ」
「中華?」
「……」
溟も。
ようやく気づいた。
聞き方が。
変わった。
「まあ」
「いつ頃?」
「三年前」
「一人で?」
溟は黙った。
男は続ける。
「他にも?」
「……」
「大陸から来た方がいると聞きまして」
「誰に」
「旅の途中で」
「誰から聞いた」
「商人ですよ」
「名前は?」
「さて」
男が笑う。
「覚えていません」
「……」
溟は。
初めて。
この男を。
敵かもしれないと思った。
怖くはない。
戦えば。
たぶん。
どうにかなる。
だが。
先生なら。
たぶん。
戦わない。
「何で探してんの」
「興味があります」
「何に」
「この土地に」
男は水路を見る。
「三年で」
田を見る。
「随分変わったと」
蔵を見る。
「聞きました」
「みんなでやったんだよ」
「誰かが教えたのでは?」
「みんなで考えた」
「最初から?」
「……」
「違いますよね」
男が笑う。
「先生、と呼ばれている方がいるとか」
溟の顔から。
笑みが消えた。
「会いたいのですが」
「いねえよ」
「どちらへ?」
「知らねえ」
「お名前は?」
「……」
ほんの一瞬。
五丈原。
船。
海。
母。
須佐。
三年。
夜。
先生。
全部が。
頭を通った。
「知らねえよ」
溟は言った。
「知らない?」
「ああ」
「三年も一緒にいるのに?」
「ここじゃ」
男を見る。
「みんな先生って呼んでる」
「あなたも?」
「俺は」
一瞬。
迷った。
「昔からそう呼んでるだけだ」
「昔から?」
「そう」
「では」
男が。
一歩。
近づく。
「海を渡る前から?」
クシナの目が。
溟へ向く。
「……」
しまった。
溟自身にも分かった。
男は。
穏やかに笑った。
「その先生は」
「……」
「中華の方ですね?」
「さあな」
「名前くらい」
「知らねえって言ってんだろ」
「本当に?」
「しつこいぞ」
男は。
しばらく溟を見る。
「分かりました」
引いた。
あっさりと。
「失礼しました」
「……」
「水をいただきました。礼を」
「いらねえ」
「そうですか」
男は。
頭を下げる。
歩いていく。
溟は。
その背中を。
ずっと見ていた。
◇
「嘘ついたね」
クシナが言った。
「……うん」
「名前」
「うん」
「知ってるんでしょ」
「知ってる」
「誰なの?」
「……」
溟は。
少し考えた。
「先生」
「それ名前じゃない」
「俺にとっては、それでいいんだよ」
「……」
「昔は」
溟は言った。
「すげえ偉い人だった」
「王様?」
「違う」
「将軍?」
「違う……いや、似たようなこともしてたけど」
「何それ」
「俺もよく分かんねえ」
溟は笑う。
「いろんな奴が先生のこと知ってた」
「うん」
「すげえ奴だって」
「うん」
「敵も」
少しだけ。
笑みが消える。
「先生の名前、知ってた」
「……」
「だから」
溟は。
男が消えた道を見る。
「ここじゃ」
静かに言った。
「知らなくていい」
クシナは。
それ以上聞かなかった。
◇
その日の夕方。
問題が起きた。
「水が止まった!」
声。
溟が走る。
「どこ!」
「東の田!」
「何で!」
「分からん!」
水路へ行く。
確かに。
水が減っている。
「上は?」
「流れてる!」
「じゃあ途中だ!」
村の者たちが。
すでに動いている。
「石か!」
「見てくる!」
「二人こっち!」
「堰閉めるぞ!」
「待て! 西に流してから!」
「分かった!」
溟は。
立ち尽くした。
「……」
「メイ!」
「何!」
「そっち見て!」
「何を!」
「水!」
「分かった!」
走る。
途中。
泥が崩れ。
水路の一部を塞いでいた。
「ここだ!」
人が集まる。
土を掻く。
石をどける。
「鍬!」
「持ってきた!」
「鉄のやつ!」
「こっち!」
誰かが。
指示をしているわけではない。
いや。
皆が。
少しずつ指示している。
「そこ掘るな!」
「何で!」
「崩れる!」
「じゃあこっち!」
「水逃がせ!」
「西開けるぞ!」
水が。
別の水路へ逃げる。
崩れた場所が直される。
やがて。
再び。
水が流れた。
「……」
皆が。
泥だらけだった。
「直った?」
「直った!」
「よし!」
「飯!」
「その前に洗え!」
笑い声。
溟は。
水路の横へ座った。
「……先生いなくても」
呟く。
「直るんだな」
少し。
寂しかった。
でも。
嬉しかった。
「メイ」
クシナが来る。
「何」
「顔」
「何?」
「泥」
「お前もだろ」
「私は少し」
「俺も少し」
「顔全部」
「嘘つけ!」
水面を見る。
「……」
本当だった。
「うわ!」
クシナが笑う。
「先生みたい」
「どこが!?」
「いつも泥だらけじゃん」
「……」
溟は。
少し考え。
「確かに」
二人で笑った。
◇
須佐を離れた男は。
その夜。
火のそばで。
木簡に記していた。
須佐。
三年前より耕地増加。
水路多数。
共同の穀倉あり。
管理は複数。
特定の長による直接命令は確認できず。
鉄製農具あり。
量、不明。
大陸より来た若者一名。
三年前に渡来。
同行者あり。
村では。
先生。
と呼ばれる老人。
氏名不明。
現在不在。
男は。
筆を止める。
思い出す。
『困らないのですか』
『何で?』
奇妙だった。
これだけ変わった土地。
ならば。
それを成した者は。
王のように振る舞っていると思っていた。
大きな家。
多くの従者。
命令。
権威。
だが。
何もない。
本人さえ。
いない。
なのに。
水は流れた。
蔵は開いた。
人は動いた。
そして。
崩れた水路は。
老人なしで直った。
「……何を作った」
男は呟いた。
水路ではない。
田でもない。
蔵でもない。
それらだけなら。
分かる。
だが。
あの老人は。
それ以上の何かを。
あの小さな土地に残している。
男は。
最後に一行を加えた。
――老人本人より。
筆が止まる。
少し考え。
書き直す。
――老人の作った仕組みに、注意を要す。
◇
三日後。
諸葛亮たちが。
須佐へ戻った。
「先生!」
最初に走ってきたのは。
やはり溟だった。
「お帰り!」
「ただいま戻りました」
「遅えよ!」
「申し訳ありません」
「大変だったんだぞ!」
「何が?」
「水路が壊れた!」
諸葛亮の顔が変わる。
「どこです」
「東」
「被害は」
「ない」
「田は?」
「平気」
「水は」
「もう流れてる」
「……」
「直した」
諸葛亮が止まる。
「誰が?」
「みんな」
「……」
「俺もやった」
「そうですか」
それだけだった。
「何だよ」
「何がです?」
「もっと褒めろよ」
「よくできました」
「子供扱いすんな!」
「難しいですね」
溟は笑った。
だが。
すぐに。
笑みを消した。
「先生」
「はい」
「変な奴が来た」
諸葛亮の目が変わる。
「どのような?」
「南から来たって」
「はい」
「水路とか蔵とか見てた」
「……」
「大陸の人間がいないか聞いてた」
思金も。
足を止めた。
「名前は?」
「知らない」
「何と答えました?」
諸葛亮が聞く。
「先生の名前?」
「はい」
「……」
溟は。
少し笑った。
「知らねえって言っといた」
諸葛亮は。
何も言わなかった。
「先生?」
「……いえ」
「怒った?」
「なぜ?」
「嘘ついたから」
「いいえ」
諸葛亮は。
溟を見る。
海を渡った時。
夜になるたび。
母を呼んで泣いていた少年。
今は。
自分の名を。
守った。
「ありがとうございます」
「……」
溟が。
少し照れた。
「別に」
「助かりました」
「だから別に!」
「はい」
「何笑ってんだよ!」
「笑っておりませんよ」
「笑ってる!」
思金が。
その横で。
小さく笑った。
「何です?」
諸葛亮が聞く。
「いえ」
「最近そればかりですね」
「あなたが」
思金は。
水路を見る。
「嬉しそうでしたので」
「そうですか?」
「ええ」
諸葛亮も。
水路を見る。
自分がいない間に。
壊れ。
自分がいないまま。
直った。
「……」
昔。
自分が倒れれば。
止まる国があった。
自分がいなければ。
決められない軍があった。
だから。
休めなかった。
倒れるまで。
働いた。
だが。
ここは。
違った。
「先生」
「はい」
「何してんの」
「見ております」
「何を」
「水路を」
「見れば分かる」
「では、なぜ聞くのです?」
「暇そうだったから」
「……」
諸葛亮は。
少し笑った。
水は。
彼がいなくても。
流れていた。
それでいい。
国とは。
一人の天才が。
永遠に支え続けるものではない。
人が。
自分たちで。
流し続けるものなのだから。
◇
だが。
その夜。
諸葛亮は。
一人で地図を見ていた。
呉。
狗奴国。
邪馬台国。
須佐。
指が。
須佐で止まる。
「……見つかりましたか」
呟く。
名までは。
まだ。
知られていない。
だが。
存在は。
知られた。
思っていたより。
早い。
外から足音。
「先生」
溟だった。
「まだ起きてんの?」
「ええ」
「寝ろよ」
「もう少し」
「またそれかよ」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃねえから言ってんの」
「……」
諸葛亮が顔を上げる。
「何?」
「いえ」
少し笑う。
「何だよ」
「立場が逆になったようで」
「何が?」
「昔は」
諸葛亮は言った。
「私があなたを寝かせていました」
「子供だったからだろ」
「今も大して」
「寝ろ爺!」
「はいはい」
「はいは一回!」
「はい」
溟が出ていく。
諸葛亮は。
もう一度。
地図を見る。
そして。
灯りを消した。
敵は。
須佐を見つけた。
だが。
まだ知らない。
この土地で。
最も重要なものが。
老人ではないことを。
水路でも。
鉄でも。
蔵でもない。
老人がいなくても。
それらを使い。
直し。
次へ残す。
人がいることを。
それこそが。
諸葛亮が。
二度目の人生で初めて作った。
自分がいなくても生きていける国だった。




