第十九話 王の決断
「卑弥呼様を」
諸葛亮は言った。
「ここからは、王に決めていただきます」
思金は頷いた。
立ち上がる。
だが。
「待って」
溟が止めた。
「何です?」
「先生」
「はい」
「何を決めるんだよ」
「……」
「呉の兵を止めるかどうか?」
「それも含めて」
「だったら止めるだろ!」
溟が地図を叩く。
「狗奴国の奴らに剣向けるんだろ!? だったら――」
「溟様」
「何だよ!」
「これは」
諸葛亮は静かに言った。
「我々の国ではありません」
「……」
「狗奴国です」
「分かってるよ」
「いいえ」
諸葛亮は首を振った。
「分かっておられません」
「何が」
「狗奴国の民を守るためなら」
地図を見る。
「我々は、どこまでしてよいのでしょう」
「……」
「王を倒してよい?」
「それは……」
「次の王を決めてよい?」
「……」
「兵を置いてよい?」
「……」
「鉄をこちらへ運ばせてよい?」
「違うだろ!」
「何が違います?」
「それじゃ」
溟が言葉に詰まる。
「それじゃ……助けるんじゃなくて」
少し考え。
「奪ってるだけじゃん」
「はい」
諸葛亮は頷いた。
「その境目を」
溟を見る。
「誰かが決めなければなりません」
溟は。
ゆっくり座った。
「……先生じゃ駄目なの?」
「駄目です」
「何で」
「私は」
諸葛亮は微笑んだ。
「王ではありませんので」
◇
卑弥呼は。
最後まで黙って聞いた。
狗奴国の北で。
王の命令が通らなかった。
三つの一族が離れた。
ナギも王から距離を取っている。
そして。
呉から来た者たちが。
王へ兵を貸すと申し出ている。
「数は」
卑弥呼が尋ねる。
「分かりません」
思金が答えた。
「多くはない、と」
「狗奴国の兵は?」
「王のもとに残る者もいます」
「離れた者は?」
「まだ王へ剣を向けてはいません」
「ナギは」
「村を守るためなら動くでしょう」
「……」
卑弥呼は頷く。
「孔明」
「はい」
「何ができますか」
以前と同じ問いだった。
だが。
意味は違った。
何をすればいい。
ではない。
何ができる。
選ぶために。
卑弥呼は聞いている。
「四つほど」
「聞きます」
「一つ」
諸葛亮は指を立てる。
「何もしない」
「そうすれば?」
「王は呉の兵を使い、離れた者たちを抑えるでしょう」
「成功しますか」
「分かりません」
「失敗すれば?」
「内乱です」
「成功すれば?」
「呉の影響が、今より強くなる可能性があります」
卑弥呼が頷く。
「二つ」
「狗奴国へ兵を入れる」
「そうすれば?」
「呉の兵を抑えられる可能性は高い」
「代わりに」
「邪馬台国と狗奴国の戦になります」
「……」
「勝てますか」
卑弥呼が聞いた。
諸葛亮は少し黙った。
「孔明」
「はい」
「勝てますか」
「……おそらく」
溟が顔を上げる。
タケミカヅチも。
思金だけは。
諸葛亮を見ていた。
「随分簡単に言いますね」
「簡単ではありません」
「なら」
「勝つことと」
諸葛亮は卑弥呼を見る。
「良い結果になることは、別です」
「……」
「狗奴国を破れば」
地図の駒を倒す。
「その後、誰が治めます?」
「……」
「我々ですか」
卑弥呼は答えない。
「ならば兵を残さなければならない」
「はい」
「食糧も送る」
「はい」
「反発する者を抑える」
「はい」
「狗奴国が弱れば」
海を指す。
「呉との間にあった国も消えます」
卑弥呼の目が細くなった。
「勝ったのに」
「はい」
「前より危なくなる」
「その可能性があります」
「……嫌な話ですね」
「国とは」
思金が言いかける。
溟が先に言った。
「そういうもの?」
思金が溟を見る。
「覚えましたね」
「何回も聞いたからな」
「では三つ目」
卑弥呼が促した。
「王を支える」
一瞬。
誰も意味を理解しなかった。
「……狗奴国の?」
「はい」
溟が声を上げる。
「何で!?」
「現在の王が残るなら、少なくとも内乱は避けられるかもしれません」
「でも呉と繋がってんだろ!」
「ええ」
「じゃ駄目じゃん!」
「ですから選択肢です」
卑弥呼は冷静だった。
「条件は付けられますか」
「人を攫わない。呉兵を増やさない。村々への負担を減らす。こちらとの協議を受け入れる」
「王が受け入れますか」
「分かりません」
「受け入れなければ」
「四つ目です」
諸葛亮は。
最後の指を立てた。
「我々は」
少し間を置く。
「何もしない」
溟が眉を寄せた。
「一つ目と同じじゃん」
「違います」
「何が?」
「一つ目は」
諸葛亮は言った。
「見ているだけです」
「四つ目は?」
「狗奴国の者が、自分たちで王を変えることを」
ナギを示す木片。
離れた一族。
村々。
「邪魔しない」
部屋が静かになった。
「それ」
思金が言う。
「何もしないとは言いませんよね」
「そうですか?」
「あなたが言うと特に」
「心外です」
「具体的には?」
卑弥呼が聞いた。
諸葛亮は答える。
「呉兵が、狗奴国の政争へ介入することだけを防ぐ」
「どうやって」
「海を使います」
「……」
「呉から直接、大軍が来ているわけではありません。狗奴国にいる者と、海沿いの拠点から動く者が中心でしょう」
「なら」
「彼らが王へ合流する道を塞ぐ」
タケミカヅチが言った。
「斬るのか」
「できれば斬らずに」
「またか」
「嫌ですか?」
「慣れてきた」
諸葛亮が少し笑う。
「良いことです」
「お前に言われると腹が立つ」
卑弥呼は考えていた。
「つまり」
「はい」
「狗奴国の王を、私たちは倒さない」
「はい」
「ナギを王にも据えない」
「はい」
「狗奴国の者が、今の王を選ぶなら」
「それを受け入れます」
「王を変えるなら」
「それも彼らの決断です」
「ただし」
卑弥呼が言う。
「呉の兵が、その決断を剣で変えることだけは止める」
「はい」
卑弥呼は。
しばらく黙った。
「……ずるいですね」
「何がでしょう」
「結局」
卑弥呼は諸葛亮を見る。
「狗奴国の王が不利になる」
「そうでしょうね」
「北の村には食糧を渡した」
「売りました」
「ナギとは話している」
「はい」
「離れた一族とも、思金が繋がっている」
「ええ」
「呉の兵だけを止める」
「はい」
「それで」
卑弥呼の声が少し低くなる。
「『狗奴国が自分で決めた』と言うのですか」
諸葛亮は。
答えなかった。
溟も。
タケミカヅチも黙っている。
やがて。
「はい」
諸葛亮は言った。
「その通りです」
言い訳をしなかった。
卑弥呼が目を細める。
「孔明」
「はい」
「これは」
静かに聞いた。
「戦ではないのですか」
諸葛亮は。
少しだけ考えた。
「戦です」
即答に近かった。
「剣を抜いていないのに?」
「はい」
「誰も攻めていないのに?」
「はい」
「では」
卑弥呼は聞いた。
「何と戦っているのです」
諸葛亮は。
狗奴国の地図を見る。
「理由です」
「理由?」
「人が」
ゆっくり言った。
「我々へ剣を向ける理由です」
呉。
狗奴国。
邪馬台国。
「その理由を」
諸葛亮は言う。
「一つずつ、なくしております」
卑弥呼は。
長く。
何も言わなかった。
◇
夜になった。
卑弥呼は一人で。
あの岩戸の前にいた。
中には入らない。
入口の前に座っている。
「……」
足音。
振り返らなくても。
誰か分かった。
「冷えます」
男の声。
あの。
名を呼ばれない男だった。
「また食べ物?」
「今夜は湯です」
「置いておいて」
「はい」
男は置いた。
だが。
帰らない。
「何?」
「いえ」
「何か言いたいのでしょう」
「……昔より」
「何」
「悩むことが増えましたね」
卑弥呼が少し笑った。
「昔は?」
「神に聞けばよかった」
「答えてくれなかったけど」
「それでも」
男は言った。
「聞いていればよかった」
「……」
「今は」
卑弥呼を見る。
「ご自分で答えを出さなければならない」
卑弥呼は膝を抱えた。
「王なんて」
「はい」
「なるものじゃないわね」
「そうでしょうね」
「否定してよ」
「嘘になりますので」
「孔明みたいなこと言う」
「それは嫌ですね」
卑弥呼が吹き出した。
「本人に言うわよ」
「おやめください」
少し。
沈黙。
「ねえ」
「はい」
「私は」
卑弥呼は岩戸を見る。
「狗奴国の人たちまで、守らなきゃいけないのかな」
男は。
すぐには答えなかった。
「あなたは」
やがて言う。
「どうしたいのです」
「……」
三年前。
この問いが怖かった。
何をしたい。
何を決める。
神ではなく。
自分が。
「私は」
卑弥呼は言った。
「狗奴国が欲しいわけじゃない」
「はい」
「王を決めたいわけでもない」
「はい」
「でも」
あの日。
泥だらけで。
娘を返してくれと泣いた母親を思い出す。
「誰の国だろうと」
卑弥呼は言った。
「泣いている人を、見なかったことにはしたくない」
男は。
小さく笑った。
「では」
「うん」
「もう、お決まりなのでは?」
卑弥呼は。
湯を手に取った。
「……そうね」
今度は。
岩戸へ入らなかった。
◇
翌朝。
卑弥呼は皆を集めた。
諸葛亮。
思金。
溟。
タケミカヅチ。
「決めました」
誰も口を挟まない。
「狗奴国へ」
卑弥呼は言った。
「兵は送りません」
溟が少し動く。
だが黙っている。
「狗奴国の王を」
「はい」
「私たちは倒しません」
諸葛亮が頭を下げる。
「狗奴国の次の王も」
「はい」
「私たちは決めません」
「はい」
「狗奴国が、狗奴国で決めます」
「御意」
「でも」
卑弥呼の目が変わる。
「呉の兵が」
海の方を見る。
「狗奴国の民へ剣を向けるなら」
タケミカヅチを見る。
「止めます」
「御意」
「殺さないで」
「……努力します」
「努力ではなく」
「難しいですね」
「してください」
「御意」
溟が手を挙げた。
「俺は?」
「須佐にいてください」
「何で!?」
「あなたは勝手に行くからです」
「今回は行っていいだろ!」
「駄目です」
「先生!」
「私を見ないでください」
「思金!」
「卑弥呼様がお決めになりましたので」
「タケミカヅチ!」
「留守番を頼む」
「全員ひどくない!?」
卑弥呼が少し笑った。
そして。
「孔明」
「はい」
「もう一つ」
「何でしょう」
卑弥呼は。
あの日と同じ言葉を言った。
「狗奴国の民を」
諸葛亮を見る。
「飢えさせないこと」
諸葛亮の表情が。
少しだけ柔らかくなった。
「御意」
「田を焼かない」
「はい」
「水を止めない」
「はい」
「鉄を作る人も」
「はい」
「王の側にいる人も」
卑弥呼は言った。
「従わないというだけで殺さない」
「はい」
「それで」
卑弥呼は一度息を吸った。
「できますか」
諸葛亮は。
頭を下げた。
「できます」
今度は。
できる限り。
とは言わなかった。
◇
狗奴国。
王の館。
呉から来た男が言った。
「兵を貸そう」
「どれほど」
「まず五十」
「少ない」
「十分だ」
「何が」
「最初に」
男は笑った。
「一つの村を潰す」
王の側近が黙る。
「逆らえばどうなるか」
「……」
「見せればいい」
「だが」
「何だ」
「村には」
側近が言う。
「狗奴の民がいる」
「だから?」
男は不思議そうな顔をした。
「王に逆らったのだろう」
「……」
「ならば敵だ」
その言葉を。
廊下の向こうで。
一人の若い兵が聞いていた。
狗奴国の兵だった。
父は。
北の村の出身だった。
母も。
そこにいる。
妹も。
「……」
若い兵は。
その夜。
館から消えた。
◇
翌朝。
ナギのもとへ。
一人の若者が駆け込んだ。
「呉の兵が動く!」
「どこへ」
「北だ!」
「数は!」
「五十!」
「狗奴の兵は?」
「百ほど!」
「……」
ナギが立ち上がる。
「どの道だ」
若者が答える。
ナギの顔が変わった。
「どうした」
「その道は」
地図を見る。
「邪馬台国との境に近い」
そして。
ほぼ同じ頃。
思金のもとにも。
報せが届いた。
「来ました」
タケミカヅチが剣を取る。
「数は」
「呉が五十。狗奴国が百ほど」
「こちらは」
「三十」
タケミカヅチが思金を見る。
「少ないな」
「戦わないのでしょう?」
「そうだったな」
「忘れていました?」
「少し」
「忘れないでください」
タケミカヅチは笑った。
「で」
「はい」
「孔明は」
思金が横を見る。
誰もいない。
「……」
「……」
二人とも。
黙った。
「思金」
「はい」
「あの老人は」
「はい」
「どこだ」
「……」
遠く。
道の先。
一人の老人が。
杖をついて歩いていた。
「孔明殿!」
思金の声が響く。
老人が振り返る。
「おや」
「おや、ではありません!」
「どうされました?」
「なぜ先に行っているのです!」
「少し地形を」
「待ちなさい!」
「善処いたします」
「それは待たないやつでしょう!」
タケミカヅチが。
剣を担いだ。
「追うぞ」
「ええ!」
「……」
「何です?」
「溟が言っていた」
「何を」
「善処する、は」
タケミカヅチは走り出した。
「絶対に言うことを聞かない時の言葉だと」
思金は。
額を押さえた。
「余計なことだけ受け継がれていく……!」
◇
戦は。
まだ始まっていなかった。
呉の兵。
狗奴国の兵。
ナギたち。
邪馬台国。
四つの力が。
一つの道へ集まりつつある。
誰もが。
自分は戦うためではないと思っている。
王命を果たすため。
村を守るため。
外からの兵を止めるため。
人を守るため。
だが。
剣は。
理由を選ばない。
抜かれれば。
人を斬る。
だから。
諸葛亮は。
戦が始まる前に。
戦場へ向かっていた。
勝つためではない。
戦わずに済ませるために。
それが。
五丈原で一度死んだ軍師にとって。
かつてより遥かに難しい戦だった。




