07話 夜の復旧作業
雨音が、旧導水路の天井を叩き始めた。
最初は遠かった。
今は石の厚みを越え、暗い水路の中まで絶え間なく響いている。
山側で増えた水がここへ到達するまで、長くはない。
「第二の石板を入れます!」
ミナの声が、水路の入口から奥へ走った。
「二番、横幅は第一と同じ! 右の角だけ一指分欠けています!」
番号を付けられた石板が、丸太の上を滑ってくる。
職人たちは入口側で押し、奥側で縄を引く。
レオンは据え終えた第一の石板、その下の受け材、運ばれてくる第二の石板を同時に見た。
赤黒い断脈が、油灯の明かりへ幾重にも重なっている。
床へ沈む線。
側壁へ逃げる線。
第一の石板から、まだ固定していない長梁へ伸びる線。
どれが先に黒くなるか。
どの負荷を、どこへ逃がすか。
答えが表示されるわけではない。
だが、石板がわずかに動くたび、断脈の太さと向きが変わる。
レオンはその変化を追い、現場で測った高低差と、バルドが決めた工法へ重ねた。
「二番はそのまま入れない。欠けた角を奥側へ。半回転させてください」
「水を受ける面が逆になるぞ」
「手前側へ置けば、欠けた部分へ荷が集まります。奥なら長梁で受けられる」
「聞いたな! 右を上げろ! 回すぞ!」
バルドの号令と同時に、六人の職人が動いた。
二人が縄を緩める。
二人が丸太を差し替える。
残る二人が石板の縁へ肩を入れた。
重い石が、狭い水路の中でゆっくり回る。
断脈が側壁へ寄った。
「止めない。そのまま二指だけ奥へ」
「奥へ二指!」
「下ろせ!」
「まだです。右だけ先に」
「右から下ろせ!」
レオンの指示が終わる前に、バルドの声が職人へ届く。
石板の右端が受け材へ触れた。
赤い線が一瞬太くなり、長梁の方向へ流れた。
「左を下ろす。今です」
「左、落とせ!」
鈍い音が響いた。
第二の石板が第一の隣へ収まる。
二枚の間には、指一本入らないほど細い隙間だけが残った。
「楔、薄い方を二本。手前から」
「もう来てます!」
ミナが後方から二本の楔を滑らせた。
職人が受け取り、継ぎ目へ当てる。
「右は打つな。左を一度」
「左、一つ!」
小槌が鳴る。
石板の下を走っていた赤い線が、左右へ均等に分かれた。
「固定。次へ」
「固定だ! 三番を運べ!」
歓声を上げる暇はなかった。
ミナの記録どおりに部材が並び、バルドが石板班、梁班、固定班を動かす。住民が資材を渡し、兵士が油灯と交代要員を運ぶ。
レオンが一つを見ている間に、次の工程はすでに準備されていた。
現場全体が、彼の視界より半歩後ろを走り続けている。
「長梁、入ります!」
領主備蓄から運び込まれた長梁が、貯水槽側の点検口から下ろされた。
濡れた木肌が油灯を反射する。
四人の肩へ渡った瞬間、床の断脈が一斉に太くなった。
「三歩送るな。一歩ずつです」
「一歩ずつ!」
「左の二人、肩を下げろ」
「左、下げる!」
「先端を壁から離して。その位置で止めて」
長梁の先が、二枚の石板の下へ入る。
だが、そのまま押せば、古い床の盛り上がりへ当たる。
レオンの目には、梁の先から床の亀裂へ伸びる黒い線が見えた。
「先端を上げる。手前は下げる」
「角度がきついぞ」
「床へ当てず、奥の受けへ先に載せます」
「腕が持たん!」
「三つ数える間だけです。バルドさん、奥の受けは」
「持つ。三つで入れるぞ!」
バルドが梁の先へ潜り込んだ。
大柄な肩で木を受け、奥の職人へ怒鳴る。
「一!」
「先端を上げて!」
「二!」
「押す!」
「三!」
全員が同時に力を掛けた。
長梁が床の盛り上がりを越え、奥の受けへ落ちた。
水路が震える。
赤い線が梁の中央へ集まり、次の瞬間、両端へ散った。
「入ったぞ!」
「固定してください。中央へ楔を入れない。両端からです」
「聞いたな! 真ん中を殺すな! 端で受けろ!」
職人たちが梁の下へ薄石を噛ませる。
一本。
二本。
三本。
レオンが位置を示すたび、赤い断脈が細くなる。
先ほどまで一つの作業に何度もやり直しが必要だった。
今は、危険な位置へ荷が掛かる寸前に止め、次の置き方へ変えられる。
石を置いてから割れを探すのではない。
割れる前に、荷の逃げ道を選ぶ。
それが、一晩を三日分の工程へ変えていた。
視界を埋める断脈は、もはや数えられる量ではなかった。
常人なら、どこを見るか決めるだけで手が止まる。
レオンは、次の一動作で黒へ近づく線と、今夜は動かない線を瞬時に分けた。バルドの工法で逃がせる負荷も選別する。
油灯が揺れ、泥水が跳ねても、指示の間隔は乱れなかった。
「三番、左の受け。四番は流路の縁。五番の横材は、中央に古い穴があります」
ミナが記録板から先回りして読み上げた。
「三番を先に。五番は穴を奥へ向けない。手前で継ぎます」
「三番先行! 五番は手前継ぎ!」
ミナの声が、レオンの判断を現場へつなぐ。
レオンが見る。
ミナが番号と寸法へ変える。
バルドが職人の手で実現できる指示へ落とす。
「目はお前に任せる。石の座りは俺が見る」
バルドは次の石板へ手を掛けた。
「お願いします」
それだけで役割は決まった。
三番の石板、四番の縁材、五番の横材。
レオンが断脈を読み、ミナが寸法を伝え、バルドが石の座りを確かめる。
赤い線が太くなる前に槌が止まり、黒へ近づく前に縄の向きが変わった。
形も厚さも違う噴水の部材が、歪んだ旧導水路へ次々と噛み合っていく。
レオンの目とバルドの技術、全員の手が揃って初めて生まれる速度だった。
「リシア様!」
入口側の職人が声を上げた。
雨に濡れたリシアが、護衛とともに旧導水路へ入ってくる。
乗馬服の裾は泥にまみれ、銀髪から雫が落ちていた。
「上流の水位が急に上がったと報告を受けました。状況は――」
言葉が途中で止まった。
リシアの前で、三つの作業が一つの流れとして動いていた。
石板、長梁、固定材。ミナが寸法を叫び、バルドが槌を振るい、兵士と職人が資材を送る。
工具を持たないレオンの視線と声に、全員の手が寸分違わず従っていた。
「二番の右を上げる。長梁班は一歩待ってください。固定班、左端の楔を一本抜く」
「右を上げろ! 梁は待て!」
「左端、一本抜きます!」
三つの指示がほぼ同時に飛び、誰一人として聞き返さない。
石板が収まり、長梁が進み、別の継ぎ目へ楔が打たれる。
リシアは入口で足を止めた。
見開かれた青灰色の目が、レオンから職人たちへ、そして再びレオンへ戻る。
無理に急がせているのではない。
石が割れ、支えが崩れる直前に作業を止め、置き方と順序を変える。その積み重ねが、やり直しのない異常な速さを生んでいた。
「……これほどの工事が、こんな短時間で……」
リシアの呟きは、槌の音に半ば消えた。
レオンは振り返らない。
「リシア様。退避区域の確認をお願いします。水が来たら、入口側も閉鎖します」
「……分かりました」
一拍遅れて返った声は、すぐに領主のものへ戻った。
「護衛は入口へ。住民と非作業員を下げてください。現場の指示はレオンに従うこと」
リシアもまた、自分の持ち場へ入った。
「上流から合図!」
入口側で鐘が三度鳴った。
「水位、急上昇! 山側の逃がし水が持ちません!」
雨音の下から、別の音が近づいてくる。
地面を揺らす、低い轟き。
水だ。
予定より早い。
「残りは」
「縁材一本、魔石の固定、出口側の塞ぎです!」
ミナが答える。
「全部を順番にやる時間はない」
バルドが水路の奥を睨んだ。
「どれを捨てる」
「捨てません。同時にやります」
レオンは断脈を追った。
流路の中央。
石板の継ぎ目。
長梁の両端。
まだ水を受けていない今、危険な線は細い。
だが、水が来れば最初に動く場所は読める。
「バルドさんは出口側。水が抜ける道を先に作ってください」
「固定より先に抜くのか」
「閉じたまま受ければ、水圧が全部ここへ来ます」
「分かった。出口班、来い!」
「ミナ、魔石の固定位置を一つ上流へ。噴水のときに付けた二番の印です」
「二番の印、上流側!」
「残る職人は縁材。左から入れ、右を最後に落とす」
「左から! 右は待て!」
三つの作業が同時に始まった。
レオンは中央に立ち、視線を左右へ走らせる。
出口側で石が外される。
断脈が一本、床へ伸びる。
「下は抜かない! 上の小石だけ!」
バルドの手が止まり、別の石へ移る。
上流側で魔石が据えられる。
赤い線が側壁へ寄る。
「壁へ固定しない。床の受けへ縄を回して!」
ミナと兵士が縄を掛け直す。
中央で縁材が入る。
右端の断脈が太くなる。
「右を落とすな! 左をもう一つ押す!」
「左、押せ!」
槌が一度だけ鳴った。
縁材が継ぎ目へ噛み合う。
赤い線が左右へ分かれた。
「右、今です!」
最後の端が落ちた。
直後、上流から轟音が押し寄せた。
油灯の炎が揺れる。
水路の奥で、何かが砕ける音がした。
「来るぞ!」
バルドの怒号。
濁った水が、暗闇の向こうから壁のように現れた。
石片と泥を巻き込み、旧導水路へなだれ込む。
最初の石板へ激突した。
水路全体が跳ねた。
長梁が低く軋み、楔が一つ飛ぶ。
レオンの視界を、赤黒い断脈が埋め尽くした。
第一の石板から第二へ。
第二から長梁へ。
長梁から奥の受けへ。
無数の線が一斉に脈打ち、黒へ近づく。
「全員、持ち場を離れるな!」
レオンは濁流の中でも視線を逸らさなかった。
水圧がどこへ逃げるか。
どの支えが先に負けるか。
一本の黒い線が、長梁の右端へ集まった。
「右端、楔を二本! 下ではなく横から!」
「二本、横だ!」
職人が水を浴びながら楔を打つ。
黒い線が細くなる。
次は第二の石板の継ぎ目。
「中央の縄を切って! 石板を動かせ!」
「固定を切るのか!」
「半指だけ逃がします。今すぐ!」
バルドが迷わず縄を断った。
石板が水に押され、わずかにずれる。
継ぎ目へ集まっていた黒い断脈が、左右の受けへ分散した。
「そこで固定!」
「縄を回せ!」
職人たちが新しい縄を掛ける。
濁流は止まらない。
石板を叩き、梁を震わせ、出口へ殺到する。
だが、組み上げた流路は崩れなかった。
水は裂け目へ落ちず、横へずれた水路を渡り、開かれた出口へ抜けていく。
太く脈打っていた断脈が、一本ずつ暗赤色へ薄まった。
黒い線が消える。
枝分かれしていた赤い線も、流れの安定とともに細くなる。
山側の取水路から旧導水路へ。
旧導水路から貯水槽へ。
街の水を断ち切るように走っていた致命的な断脈が、夜の景色からすっと消えた。
レオンの視界に、濡れた石と、泥だらけの職人たちが戻ってくる。
長梁は軋んでいる。
石板の隙間から、細い水も漏れている。
完璧ではない。
それでも、水路は水圧を受け止めていた。
壊れなかった。
水は、貯水槽の方向へ流れている。
「……通った」
ミナの声が震えた。
バルドは長梁へ手を当て、振動を確かめる。
やがて、泥と水にまみれた顔で笑った。
「一晩だ。本当に、三日分を一晩で組みやがった」
誰かが槌を掲げた。
次の瞬間、暗い水路を歓声が満たした。
住民も、兵士も、職人も、入口と点検口の両側から声を上げる。
レオンは石壁へ手を置いた。
無数に重なっていた断脈は消え、視界には濡れた石と、流れ続ける水だけが残っている。
死んでいた水路が、再び街へ向かって息をしていた。
入口に立つリシアは、歓声の中心にいるレオンを見つめたまま動かなかった。
王都では役に立たないと笑われた目が、今夜、誰にもできなかった速さで領都の水をつないだ。




