06話 代行領主の決断
噴水から外した石板が、旧導水路の入口で止まっていた。
丸太を敷き、十二人が縄を引いても、石板の角が狭い入口へつかえて動かない。表面には広場で付けた白い番号が残り、乾いていた石肌はすでに泥で汚れていた。
「止めろ! そのまま引けば角が欠ける!」
バルドの怒声で、職人たちが縄を緩めた。
石板が低く軋み、入口の手前で沈む。
三日の猶予は、すでに二日目へ入っていた。
部材はある。工法も決まった。
だが、旧導水路の中へ運び、組み上げなければ、水は一滴も戻らない。
「入口を削れば入りますか」
レオンが尋ねると、バルドは左右の石組みを叩いた。
「上は触れん。天井を受けてる。右を半分だけ外し、石板を斜めに入れる。ただし、内側からも引く人間が要る」
「長梁は」
「噴水から取った一本は使える。もう一本は中が腐ってた。代わりがなければ、裂け目の奥側を支えられん」
領主備蓄には、城門や橋の緊急補修に使う長梁が残されている。
それを水路へ回せば、別の災害が起きたときに使える材はなくなる。
さらに、長梁を入れるには貯水槽側の古い点検口を広げる必要があった。
点検口の周囲には家が並んでいる。水を流したときに裂け目から噴き出せば、住民を巻き込む。
資材を出す権限。住民を退避させる権限。兵士、水路係、職人を一つの指揮系統で動かす権限。
どれも、レオンやバルドが勝手に決められることではなかった。
「リシア様が到着しました!」
坂道の下から、護衛を伴ったリシアが上がってきた。
乗馬服の裾には土が付き、手には領主館の記録板を持っている。
「必要な判断を聞かせてください」
挨拶より先に、リシアが言った。
レオンは入口の石板、旧導水路の奥、貯水槽側の家々を順に示した。
「領主備蓄の長梁を一本、水路へ回す必要があります。貯水槽側の点検口周辺は、通水が安定するまで退避が必要です」
「範囲は」
「点検口から水路沿いの家々です。水が噴き出す方向は絞れますが、完全には読めません」
「退避を拒む住民がいた場合は」
「作業区域へ残すことはできません」
リシアの視線が、坂の下に集まった住民へ向いた。
すでに噴水を失った。今度は家を空けろと言われる。
理解を得られるとは限らない。
「長梁を放出したあと、別の設備が壊れた場合は」
「残る材で応急対応するしかありません」
「この工事に回せば、領都の最後の備蓄です」
「はい」
レオンは成功を約束しなかった。
断脈視が見せるのは、壊れる場所と広がる方向だけだ。
旧導水路が最後まで持つか。雨が来る前に組み上がるか。水を流したとき、別の損傷が動かないか。
やってみなければ分からないことが残っている。
「もう一つあります」
レオンは続けた。
「今は、職人組合、兵士、水路係が別々の命令を待っています。判断のたびに確認へ戻れば間に合いません」
リシアがレオンをまっすぐ見た。
「あなたは、何を求めますか」
「主水路の応急復旧に限った現場指揮権です。工事順序、作業員の配置、水門操作、危険区域からの退避を、その場で決める権限を」
職人たちの手が止まっていた。
王都から左遷されてきたばかりの役人へ、領都の生命線を預ける。
噴水を壊す決断よりも、さらに重い。
失敗すれば、責任は権限を与えたリシアへ戻る。
彼女は記録板を開き、短く息を吸った。
「領主備蓄の長梁を一本、放出します」
書き付ける音がした。
「貯水槽側の点検口周辺を、応急通水が安定するまで強制退避区域に指定します。兵士は移動できない者を支援し、家財の持ち出しより人命を優先してください」
護衛がうなずく。
「そして、主水路および旧導水路の応急復旧に限り、レオン・アーデンへ現場指揮権を与えます」
リシアは記録板へ自ら署名した。
「職人、兵士、水路係は、現場の安全と復旧に関する彼の指示へ従ってください。異議と問題は作業を止めず、私へ直接報告すること」
レオンは記録板を受け取らなかった。
先に確認すべきことがある。
「期限は、応急通水が安定するまで。対象は主水路案件だけ。それでよろしいですか」
「ええ。主水路の応急通水が安定するまで。その範囲に限ります」
権限を広げない。
何でもできる許可ではなく、今の危機を止めるためだけの責任だった。
「承知しました」
レオンが答えると、リシアはわずかに顎を引いた。
「水を戻してください。必要な責任は、私が背負います」
その一言で、現場の詰まりが解けた。
「兵士は二組。第一組は貯水槽側の退避支援、第二組は長梁の運搬。水路係は上流と貯水槽へ一人ずつ配置してください」
レオンの声に、兵士たちが動く。
「ミナ、入口から裂け目までの部材順を確認。運び込む順番が変われば、奥で詰まります」
「石板一番、受け材二番と三番、長梁は貯水槽側からです!」
「バルドさん。入口側の解体と内部の組み立て、どちらを先にしますか」
「同時だ。俺が中へ入る。入口は弟子に任せる」
「では、内部班はバルドさんの指示を優先。断脈が動いた場合だけ、俺が止めます」
「それでいい」
誰に何を任せるかが決まると、現場は一気に動き始めた。
◇
旧導水路の中は、外よりも早く夜が来た。
入口から差す光は、運び込まれる石板に遮られて細くなる。油灯の明かりが、濡れた壁と黒い泥を揺らしていた。
職人たちは腰まで泥に入り、噴水から外した石板を丸太の上で滑らせる。
「押すな! 前の縄が張ってからだ!」
「右を上げろ! 壁へ当てるな!」
入口側が押し、奥側が縄で引く。
石板は指一本分ずつ進んだ。
泥が靴を吸い、縄が掌へ食い込む。誰かが滑れば後ろの者が肩で支え、油灯が傾けばミナがすぐに直した。
レオンは石板の周囲を走る断脈を追った。
運ぶ向きが変わるたび、床や壁へ伸びる線も変わる。
「止めて。左の床へ荷が寄っています」
職人たちが動きを止めた。
バルドが泥へ手を突き、石板の下を探る。
「丸太が一本、沈んでる。二本重ねろ。今度は右から引く」
レオンの目が危険を拾い、バルドの手が運べる形へ直す。
石板は壁を擦らず、最初の裂け目まで運び込まれた。
「受け材を先に立てる! 石板はまだ下ろすな!」
バルドが泥だらけの顔で叫ぶ。
職人たちは短い横材を左右へ渡し、その下へ支柱を噛ませた。
高さが合わない。
一本を立てれば、反対側が浮く。
「奥が二指高い!」
「削るな。手前へ薄石を入れろ!」
ミナが記録板で寸法を確かめ、必要な厚さの石を後ろへ伝える。
人から人へ声が渡り、入口から薄石が送られてきた。
差し込む。叩く。測る。
合わなければ抜き、別の石を入れる。
一度で決まる作業はなかった。
それでも、支えは一本ずつ形になっていく。
貯水槽側では、退避を終えた兵士たちが点検口を広げ、領主備蓄の長梁を縄で下ろし始めていた。
暗い水路の奥から、合図の鐘が二度鳴る。
「長梁が入ります!」
ミナの声が響いた。
長梁は点検口を斜めに抜け、職人たちの肩へ渡された。
全員の背が一斉に沈む。
「持ち上げるな! 肩で受けて、三歩ずつ送れ!」
バルドの号令で、梁が暗闇を進む。
三歩。止まる。足場を確かめる。
また三歩。
誰も急いで走らない。
だが、止まっている者もいなかった。
レオンは入口と奥を往復し、作業順、人数、水門の状態を更新し続けた。
復興局の肩書を見せても、人は動かなかった。
今は違う。
リシアが与えた権限があり、バルドが工法を支え、ミナが経路と寸法をつなぎ、兵士と職人がそれぞれの役目を果たしている。
レオンは一人で水路を直しているのではない。
現場全体を、一つの目的へ向けて動かしていた。
「第一の石板、下ろすぞ!」
縄が軋む。
噴水だった石板が、ずれた水路の上へゆっくり降りていく。
左右の受けへ触れた瞬間、赤い断脈が細く震えた。
「その位置で止めて!」
レオンは床と側壁を見比べた。
黒へ近づく線はない。荷は、動いていない床へ逃げている。
「固定してください。第一段階は成功です」
職人たちから、押し殺した息が一斉に漏れた。
完成ではない。
それでも、旧導水路の裂け目へ最初の流路が一本つながった。
そのとき、外から駆け込んできた兵士が声を上げた。
「山側で雨です! 上流の水位が上がり始めています!」
遠くで雷が鳴った。
水路の奥から、まだ流していないはずの水音が低く響く。
職人たちの間に緊張が走った。
雨水が到達すれば、組みかけの支えへ予定外の負荷が掛かる。慎重に一工程ずつ進めていた時間は、もう残されていない。
レオンは旧導水路を見渡した。
床、側壁、据えた石板、運び込まれた長梁。
赤い断脈は無数に残っている。
だが、どの線が先に太くなり、どこへ負荷が逃げようとしているかは見える。
必要な部材は揃った。
工法はバルドが作った。
リシアが権限を与え、ミナが経路と記録をつなぎ、職人と兵士がすでに持ち場へ立っている。
あとは、誰より早く危険を読み、現場を止めずに動かし続ければいい。
「三日もいりません」
バルドが振り向いた。
ミナも、泥の付いた記録板から顔を上げる。
レオンは赤黒い線が走る暗闇を、まっすぐ見据えた。
「俺が壊れる順番を読み続けます。全員、俺の目に合わせてください」
雨音が、入口の外で急速に強くなっていく。
「今夜中に――この水路を、すべて組み上げます」
一瞬の静寂のあと、バルドが太い槌を担ぎ直した。
「聞いたな、お前ら! 復旧官殿が三日を一晩に縮めるそうだ!」
疲れ切っていた職人たちが、泥の中で工具を握り直す。
「なら、俺たちはその目より先に手を止めるな!」
怒号が暗い水路を駆け抜けた。
入口側と貯水槽側から、次の部材を求める声が同時に上がる。
王都で何も直せないと笑われた目が、今、領都のすべての現場を一つに動かそうとしていた。




