61話 止める理由
通行を止めるには、線が見えるだけでは足りない。
レオンは、壁の奥へ伸びる赤黒い線から目を離した。
左右の標点間隔は、以前の幅へ戻っていない。
測る人を替えても、結果はほとんど同じだった。
隣の区間には、同じ変化は出ていない。
そして、この場所にだけ《断脈視》の線がある。
ここまでは確かめた。
だが、坑道そのものを止めるなら、現地側が判断できるだけの根拠が必要だった。
「補強を担当している方に見てもらえますか」
管理担当がうなずいた。
「呼びます。それまでは、重い台車を止めたままにします」
「お願いします」
管理担当は坑道の奥へ目を向けた。
「軽い台車も、今向かっている一本までにします。確認が終わるまで、新しく入れません」
まだ正式な通行停止ではない。
その指示が奥へ伝わると、向こう側で空の台車が止まった。
交代へ向かう坑夫たちも、壁際で足を止める。
この道は、荷だけが通る場所ではない。
毎日、人もここを抜けている。
坑道を行き交っていた車輪の音が、少しずつ減っていった。
◇
やって来た補強職人は、壁と標点を見たあと、ミナの帳面を開いた。
「以前は狭くなっても戻っていた。それが三回続けて戻ってない、か」
「今日、担当を替えて測り直しても同じでした」
ミナが答えた。
「隣は?」
「今までの範囲です」
職人は壁へ近づき、金具で表面を叩いた。
目立つ亀裂はない。
浮いた石もない。
音にも、はっきりした違いは出なかった。
「表だけじゃ分からんな」
管理担当が壁を見た。
「今までも、この程度なら基準内です」
「そうだろうな」
補強職人も否定しなかった。
「数字が少し戻らないだけなら、ここを止めるほどとは言えん」
その言葉に、管理担当の肩からわずかに力が抜けた。
無理もない。
一回ごとの値は基準を超えていない。
目に見える異常もない。
坑道は今日まで普通に使われてきた。
レオンは壁へ目を戻した。
赤黒い線は消えていない。
「中を確かめることはできますか」
レオンが聞いた。
「細い穴を開けて、中の状態を見る。ただ、先に支えを足す」
職人が答えた。
「何もなけりゃ、それで終わりだ」
「お願いします」
職人たちは対象区間の前後へ仮支えを追加した。
天井を受ける横材。
左右から押さえる柱。
一本入れるたびに、別の職人が壁と天井を確かめる。
異音も落石もない。
「これでいい」
レオンは、標点に近い壁を見た。
まずは、一本目の線に沿う位置を浅く確かめる。
「ここからお願いします」
職人が穴を開ける細い道具を壁へ当てた。
一打。
二打。
三打。
硬い抵抗が続く。
さらに少し進めてから抜く。
先端に付いたのは、細かな石の粉だけだった。
「普通だな」
補強職人が言った。
「この深さなら、特に崩れてる感じはない」
レオンは返事をしなかった。
最初に確かめた範囲には、決め手がない。
線が見えているからといって、手前側がそのまま弱っているとは限らない。
管理担当がレオンを見る。
責めるような視線ではない。
確認した結果を待っているだけだ。
ミナも帳面を抱えたまま、壁を見ていた。
レオンは、もう一度《断脈視》へ意識を向けた。
一本目の赤黒い線。
その先に、もう一本。
離れた二本が、どちらも壁の奥へ同じ方向に伸びている。
さっき確かめたのは、手前側だけだ。
その先は、まだ確かめていない。
「もう少し奥を見られますか」
補強職人が眉を上げた。
「同じ場所からか」
「はい。ただ、少し向きを変えてください」
レオンは、壁の奥へ伸びる二本の線を見た。
「こちらへ伸びています」
断定はしない。
見えている線の方向に合わせて、確かめる範囲を変えるだけだ。
「分かった」
職人が道具を当て直した。
一打。
二打。
三打目で、音が変わった。
硬い石を叩いていた感触が、ふっと抜ける。
「止めろ」
補強職人の声が飛んだ。
槌が止まる。
道具は、さっきより深く入っていた。
職人が慎重に引き抜く。
先端には、細かな石の粉がまとわりついていた。
指で触れる。
崩れた。
「……こっちは違うな」
もう一度。
今度は少し角度を変える。
途中までは硬い。
その先で、また抵抗が抜けた。
補強職人の顔から、さっきまでの余裕が消えた。
「表は持ってる。だが、その後ろに弱いところがある」
管理担当が壁を見る。
「これなら、止めるべきですか?」
「中を見るなら止める」
補強職人は即答した。
「台車を横で走らせながら開ける場所じゃない」
管理担当は一度、坑道の奥へ目を向けた。
止まった空の台車。
壁際で待っている坑夫たち。
ここを切れば、その分だけ仕事は遅れる。
「別の道だけで、今の量は回せますか」
レオンが聞いた。
「全部は無理です」
管理担当が答えた。
「搬出を減らします。奥も、出せない分は一部待たせることになります」
それでも。
管理担当は壁へ目を戻した。
「この区間は通行停止にします」
短く言った。
「搬出は他の搬出路へ回せる分だけ回します。残りは止めます」
現地側の判断だった。
レオンは隣の区間を見る。
「止めるのは、ここだけでいいですか」
「今の材料ならな」
補強職人が答えた。
「隣の測定値は戻ってる。最初に探った範囲も硬かった。まず、この区間だけ切る」
必要以上に止めない。
だが、必要な場所は止める。
仕事を遅らせるなら、なおさら範囲を広げすぎるわけにはいかない。
その判断にも、理由があった。
◇
通行を止めたあと、職人たちは仮支えをさらに増やした。
そのうえで、壁面を一気に崩さず、小さな範囲から少しずつ外していく。
最初の石は硬かった。
その奥へ槌の先が入る。
ざら、と音がした。
細かな石が流れ落ちる。
続いて、拳ほどの石片が二つ、転がり出た。
そのうち一つが、仮支えの横材へ当たった。
ご、と鈍い音が響く。
横材が、わずかに震えた。
誰も声を出さなかった。
補強職人が手を止める。
開いた穴の奥は、ひと続きの岩ではなかった。
薄く割れた石。
粉のように砕けた部分。
その向こうに、斜めへ走る割れ目が見える。
表面からは隠れていた。
「……支え、先に入れといて正解だったな」
職人の一人が小さく言った。
補強職人は答えず、細い金具で奥を確かめた。
深くは入れない。
向きを見て、すぐに抜く。
「この割れ目に沿って、手前側が少しずつ押されていた可能性はある」
左右の標点間隔が狭くなった方向とは合う。
だが、それだけで原因を決めることはできない。
レオンは開いた部分へ手を当てた。
赤黒い線は、露出した割れ目へ重なっていた。
線が答えを教えたわけではない。
記録で場所を拾った。
測り直した。
隣と比べた。
最初に確かめた範囲では、決め手が出なかった。
そこで、線の伸びる方向へ確かめる範囲を変えた。
そして、職人が中を開いた。
そこまで重ねて、ようやく現物へたどり着いた。
「このまま台車を通していたら、危なかったんですか?」
ミナが仮支えの前に落ちた石を見る。
「崩れたとは言い切れん」
補強職人が答えた。
「だが、試す理由もない」
管理担当も、落ちた石から目を離さなかった。
少し前まで、ここを人も台車も通っていた。
「止めてよかった」
短い言葉だった。
それで十分だった。
まだ崩れてはいない。
誰も巻き込まれていない。
台車も潰れていない。
事故の跡は、どこにもない。
あるのは、止められた道と、仮支えの前へ落ちた石だけだった。
「この区間は、どう戻しますか」
レオンが聞く。
「潰れたところを全部一度には取らない」
補強職人が答えた。
「仮支えを残して短く区切る。奥の割れ方を見ながら必要なところまで落として、補強枠を足す。壁側にも受けを入れる」
「今日中には?」
「無理だ」
即答だった。
「急いで戻す場所じゃない。今夜は止める。明日も確認してからだ」
管理担当が続ける。
「搬出量は落ちます。奥も待たせます。それでも、ここは使いません」
レオンはうなずいた。
早く戻すために、別の危険を作らない。
そこも、今までと同じだった。
◇
坑道を出た頃には、外は夕方になっていた。
主要搬出路の一つを止めたぶん、坑口へ向かう台車の列は少なくなっている。
他の搬出路へ回された台車が、いつもより間を空けて出てくる。
出せずに止まっている荷もある。
仕事は遅くなった。
それでも、坑口に救助の人だかりはない。
担架もない。
崩れた台車もない。
壁際で待っていた坑夫たちも、別の道へ回されていた。
誰かを掘り出すために、人が集まっているわけではない。
レオンは、その何も起きていない光景を見た。
フェルデン盆地では、壊れたものを一件ずつ直した。
ヴァレインでは、壊れる前の変化を見る方法を掴んだ。
グラニスでは、その変化から先に場所を絞った。
そして今日。
まだ壊れていない道を、壊れる前に止めた。
「レオンさん」
ミナが帳面を抱えたまま、坑口を振り返った。
「次は、どうしますか」
レオンは少し考えた。
今回、最初に拾ったのは、壊れた設備の症状ではなかった。
異常と呼ばれる前から、戻らなくなっていた変化だった。
「フェルデン盆地へ戻ります」
ミナが目を上げる。
「また、記録を見るんですか?」
「はい」
レオンは、持ってきた記録束へ目を落とした。
「ただ、今度は比べるものを変えます」
一件ずつ違うものが壊れていた。
なら。
今まで比べていたものが、違ったのかもしれない。




