59話 戻らない幅
山を越えた先に広がる鉱山都市グラニスでは、朝から石を打つ音が響いていた。
荷車には切り出された鉱石と石材が積まれ、坑口へ向かう作業員の列も途切れない。
街路の脇には切り分けられた石材が積まれ、その向こうでは空になった荷箱が再び坑口へ運ばれていく。
石を掘る。運ぶ。選り分ける。削る。
街の仕事が、朝から途切れずにつながっていた。
少なくとも、大きな事故で操業が止まっている様子はない。
「大きな崩落や、坑道を閉じるような事故は?」
「最近はありません」
案内された詰所で、鉱山の管理担当が答えた。
机の上には、分厚い帳面が何冊も積まれている。
「小さな落石や、補強材の交換まで含めればあります。ただ、操業を止めた場所はありません」
「今も全部使っていますか?」
「採掘を終えた枝坑は別ですが、主要な搬出路と採掘中の坑道は動いています」
レオンは帳面へ目を落とした。
それなら、条件の一つは満たしている。
フェルデン盆地では、直接原因の違う問題が場所を変えて続いた。
ヴァレインでも同じだった。
一件ずつ見れば、それぞれに直接原因がある。
必要な対処をすれば、その場所の危険も収まる。
それでも、別の場所で次が出た。
そのヴァレインから山を越えた先にあるグラニスでは、今のところ大きな事故は起きていない。
だからこそ、来る意味がある。
坑道は、崩れてから異常に気づいても遅い。
バルドの話では、鉱山では普段から坑道の状態を見ているという。
ただ、レオンたちが必要としている形で記録が残っているかは、まだ分からない。
もし、同じ場所を継続して測った記録が残っているなら。
事故が起きていない今だからこそ、その記録を使える。
フェルデン盆地とヴァレインで問題が続いていることが、それぞれの土地だけの事情ではないのなら。
ヴァレインから山を越えた先にあるグラニスにも、事故になる前の変化が出ている可能性がある。
記録から先に怪しい場所を絞る。
そして、まだ壊れていないうちに現場で確かめる。
本当に異常が見つかるなら、フェルデン盆地とヴァレインで続いていた問題が、それぞれの土地だけのものではない可能性を一つ前へ進められる。
逆に、何も見つからなければ、それも結果だ。
まだ事故は起きていない。
その状態で試せること自体が重要だった。
「日常的に残している記録を見せてもらえますか」
「どの記録です?」
「異常報告ではなく、異常がなくても測っているものです」
管理担当が少し考え、棚の奥から別の帳面を出した。
「それなら、坑道の定期測定があります」
レオンは開かれた頁へ目を落とした。
左右の壁に打った標点の間隔。
天井側の基準位置。
排水溝を流れる水の量。
補強枠を締め直した箇所。
同じ場所について、同じ項目が繰り返し残されている。
欲しかった形だった。
「これは、いつも測っているんですか?」
「主要な坑道は定期的に見ています」
管理担当が答えた。
「採掘の進んでいる場所は数字も動きやすいですから。同じ場所を同じ方法で見て、変化が大きければ先に確認します」
「崩れそうになってから測るんじゃないんですね」
ミナが帳面を覗き込む。
「坑道は、それじゃ遅いです」
管理担当は当然のように答えた。
「基準を超えれば、補強班を先に入れるか、通行を止めます。何もなければ、そのまま記録だけ残します」
レオンは頁をめくった。
何もなかった日にも、同じ欄へ数字が並んでいる。
測った者の名前も残っていた。
事故が起きた場所だけの記録ではない。
何も起きていない場所にも、同じ項目が残っている。
「どのくらい前までありますか?」
「主要坑道なら、過去の帳面も残っています」
ミナの手が止まった。
「……これ、全部見るんですか?」
「最初から全部は見ません」
レオンは一冊を取った。
「まず最近の分から見ます」
◇
昼を過ぎても、机の上には帳面が積まれていた。
レオンとミナは、変化して当然の場所から外した。
採掘中の最前部。
最近補強工事をした区間。
排水溝を掘り直した直後の場所。
数字が動いていても、理由が最初から分かっている場所を拾えば、何でも兆候に見えてしまう。
「怪しい数字を探す、じゃ駄目なんですね」
ミナが言った。
「はい。何もしていないのに変わっている場所を探します」
残ったのは、長く同じ使い方をしている主要な搬出路だった。
鉱石を積んだ台車と作業員が毎日通る。
最近、大きく掘り直した記録もない。
レオンたちは、その区間について残っている項目を順に並べた。
天井側の基準位置。
排水量。
補強枠の確認記録。
左右の壁に打った標点の間隔。
大きく動いている数字はない。
どれも基準の範囲内だった。
だが、数週間分を古い方から追っていたミナの指が、一か所で止まった。
「レオンさん。これ」
左右の壁の間隔だった。
広がった日もある。
少し狭くなった日もある。
測る人が違えば、わずかな誤差も出る。
帳面には、基準を外れた場合だけ印を付ける欄もあった。
だが、この区間には一つもない。
「これ、正常なんですよね?」
ミナが欄外を指した。
「基準を超えていませんから」
管理担当が答えた。
「この程度なら、測る人や測定具の当て方でも動きます。次の測定で元に近い値へ戻ることも珍しくありません」
レオンの指が止まった。
「戻らなかった場合は?」
「基準内なら、それだけで異常にはしません」
もう一度、古い方から追う。
狭くなる。
次の測定では戻る。
また少し狭くなる。
戻る。
その繰り返しだった。
だが、途中から違う。
狭くなったあと、以前の幅まで戻っていない。
次も同じだった。
さらに次も、わずかに狭い側へ残っている。
どの一回も基準内だ。
だから異常にはならない。
それでも、前の状態へ戻らなくなっている。
「ミナ。ここから先だけ、別に並べてください」
「この日からですか?」
「はい。測定者も見たいです」
ミナが記録の名前を追った。
「複数人います。同じ人だけじゃありません」
「補強作業は?」
「この区間は入ってません」
管理担当も別の帳面を開いた。
「採掘もしていません。ここは通すための道なので」
レオンはほかの項目も見直した。
天井側に大きな変化はない。
排水量も、目立って増えた日はない。
補強枠の異常報告もない。
「この幅の変化は、これまで問題にはならなかったんですか?」
管理担当は、並べられた頁を見た。
「一回ごとの値は確認しています。ただ、どれも基準内です」
少し間を置いて続ける。
「基準を超えれば異常として報告します。でも、基準内の値が何回続けて戻らなかったかまで並べる決まりはありません」
レオンはうなずいた。
確認を怠っていたわけではない。
見ているものが違っただけだ。
一回の測定で、安全基準を越えたか。
それに対して、レオンたちが今見ているのは、正常とされる範囲の中で以前の状態へ戻っているかどうかだった。
レオンは製粉所の運転帳を思い出した。
石臼も、最初から大きく遅れたわけではない。
少し長い日と元へ戻る日が混じっていた。
それが、途中から戻らなくなった。
数字は違う。
設備も違う。
ここは石臼ではなく、岩の中だ。
だが。
正常と異常の境目を越える前に、以前の状態へ戻らなくなる。
その形だけは似ていた。
「レオンさん」
ミナも並んだ数字を見ていた。
「製粉所と、ちょっと似てませんか」
「はい。ただし、同じ原因とは限りません」
レオンは帳面を閉じなかった。
「この幅が狭くなった理由も、まだ分かりません。測定の癖かもしれない。岩盤の普通の動きかもしれない」
「でも、見る場所は決められますね」
「はい」
レオンは管理担当を見る。
「この区間、今日も使っていますか?」
「使っています。今も台車が通ってます」
「今から見せてもらえますか」
管理担当の表情がわずかに引き締まった。
「分かりました」
立ち上がりかけたところで、レオンが続ける。
「現場を見るまでは、危険だとは決められません。ただ、この記録が気になります」
管理担当は一度、並べられた数字へ目を落とした。
「なら、確認が終わるまでは積載を増やさないようにします。いつもより重い台車も止めます」
「お願いします。変な音や落石、補強枠のずれがあれば、その時点で通行も止めてください」
「そうします」
管理担当が近くにいた職員へ声を掛けた。
短い指示が詰所の外へ伝わっていく。
その間にも、外から車輪が石を踏む音が響いた。
ごろごろと重い音が近づき、やがて遠ざかっていく。
鉱石を積んだ台車だ。
レオンが今見ている区間も、ああして今日まで使われている。
帳面へ目を戻した。
最後の欄にも、異常を示す印はない。
書かれているのは、いつもと同じ一言だった。
――異常なし。
それでも数字は、前の幅へ戻っていなかった。
レオンは帳面を閉じた。
「案内してください」
まだ壊れていないその場所へ向かう。




