57話 異常のない日
翌朝。
故障した石臼は吊り具で持ち上げられ、水車からの伝達も外されていた。
稼働を続けたもう一基は、昨夜も交代で監視され、音にも回転にも異常は出ていない。
バルドと職人たちが、昨日白い線を引いた歯車と縦軸の接合部を開いた。
そこから抜き出された硬木の噛ませ材は、片側の角が潰れ、表面が長く擦られて薄く光っていた。
反対側には細い亀裂も入っている。
「これだな」
バルドが木片を掌で返した。
「噛ませが痩せてる。しかも片側だけ潰れてやがる」
職人が縦軸側の差し込み口を覗き込んだ。
バルドも横から覗く。
「受けの方は?」
職人が指先で縁を確かめた。
「少し擦れてるくらいです。こっちまで作り直す必要はなさそうです」
レオンは外した木片と接合部を見比べた。
空で回すだけなら、残った噛み合いでも回転は伝わる。
だが、麦を挽くために大きな力が掛かれば、潰れた側がわずかに逃げる。
昨日、負荷を掛けたときだけ白い線がずれた現象とも合う。
「負荷が掛かるたび、ここで少しずつ動いていたんですね」
ミナが木片を覗き込んだ。
「たぶんな」
バルドが答えた。
「昨日今日で急にこうなった跡じゃねえ」
レオンは接合部へ目を凝らした。
赤黒い線は、開かれた部分へ重なっている。
だが、潰れた木片を見たから原因が分かったのであって、線が答えを示したわけではない。
昨日の負荷試験。
今日の現物。
二つがつながった。
「交換できますか?」
「できる。ただ、同じ寸法の材を突っ込んで終わりじゃねえ」
バルドが外した木片を職人へ渡した。
「受けの擦れを落として、今の差し込みに合わせて削る。きつすぎても軸を傷める。緩けりゃ同じことになる」
「分かりました」
職人が新しい材を選びに向かった。
施工は任せられる。
レオンはミナとともに、製粉所の裏手にある記録机へ移った。
◇
机の上には、二週間分の運転帳が開かれていた。
ミナが故障した側について、だいたい同じ量の麦を挽いた日を抜き出している。
麦の量。
開始時刻。
終了時刻。
出来上がった粉の量。
異常の記載はない。
止まる前日まで、どの日もそうだった。
「二週間前のこの辺りは、ほとんど同じ時間で終わってます」
ミナの指が日付を追った。
「でも、十日くらい前から少し長い日が混じってます。次の日は戻ってることもありますけど、そのあとまた長くなってる」
さらに頁をめくる。
ミナの指が止まった。
「……レオンさん」
声が変わった。
レオンが顔を上げる。
「これ、三日前からじゃありません」
ミナが五日前の記録を指した。
「ここから先、一度も前の時間に戻ってません」
レオンは記録を追った。
確かに、急に大きく変わった日はない。
異常として余白へ書くほどの差でもなかった。
だが、同じくらいの麦を挽き終えるまでの時間だけが、少しずつ伸びている。
粉の量は、ほとんど変わっていない。
「麦が違った可能性は?」
レオンが聞くと、管理人が帳面を覗き込んだ。
「あります。同じ麦でも、乾き方で挽きやすさは変わります」
それだけなら、まだ決められない。
「もう一基の帳面も見せてください」
「あります」
管理人が別の棚から帳面を持ってきた。
ミナが同じ日付を開く。
「同じ日に入った麦は、二基へ分けてるんですよね?」
「はい。量は違っても、同じ倉から出した分です」
二つの帳面を並べる。
正常な側にも日ごとの差はあった。
長い日もある。
短い日もある。
だが、故障した側のように、終了までの時間が何日も続けて後ろへずれてはいない。
「麦だけが原因なら、こっちにも同じように出てもおかしくないですよね」
ミナが言った。
「はい」
レオンは故障側へ戻った。
十日ほど前。
その頃から、小さな遅れが混じり始めている。
五日前には、それが続くようになった。
それでも粉は出来ていた。
石臼は止まっていない。
だから、異常とは扱われなかった。
「この噛ませ材が、少しずつ逃げ始めていたなら」
ミナが帳面と作業場を見比べる。
「止まる前から、力がちゃんと伝わらなくなってたってことですか?」
「可能性は高いです」
レオンは答えた。
「ただ、この時間の伸びが、そのまま他の設備にも出るわけではありません」
石臼なら、回転が逃げれば挽く時間に出る。
導水路なら、同じ形では残らない。
橋でも、防壁でも違う。
比べるべきなのは、この数字そのものではない。
壊れたあとに現れた症状でもない。
壊れる前。
まだ正常として使われていた時期に、何が少しずつ変わっていたか。
「事故の前を見るんですね」
ミナが言った。
「はい」
フェルデン盆地で横に並べて比べていたのは、異常が表に出たあとの時期や場所、設備、直接原因だった。
◇
昼を回る頃、新しい噛ませ材が仕上がった。
バルドと職人たちは、一度入れては抜き、当たり方を見ながら少しずつ削っていった。
固定を終えると、吊り上げていた石臼を戻す。
昨日と同じように、軸と歯車へ白い線を引いた。
「まず空だ」
バルドの合図で歯車が回る。
縦軸。
石臼。
引っ掛かりはない。
「昨日と同じだけ麦を入れてください」
管理人が少量の麦を落とした。
ごう、と石臼の音が低くなる。
だが、回転は落ちなかった。
粉が石臼の下から細く落ち始める。
しばらく回してから止める。
バルドが白い線を確認した。
「ずれてねえ」
一本のままだった。
レオンも目を凝らす。
昨日、歯車の中心から縦軸へ重なっていた赤黒い線は、薄くなっている。
少なくとも、昨日確認した危険は後退していた。
「本運転は、もう一段ずつ負荷を上げてからですね」
「そうだな。今日いっぱい確認して、問題がなけりゃ明日から戻せる」
管理人が、落ちてきた粉を手ですくった。
指先で確かめ、それから大きく息を吐く。
壁際では職人が、止まっていた麦袋を少しずつ石臼の近くへ戻し始めていた。
まだ通常運転ではない。
それでも、止まっていた流れは動き始めた。
レオンは再び、机の上の運転帳へ目を向けた。
直接原因は追えた。
修理も進んだ。
だが、この一件から持ち帰るべきものは、それだけではない。
「ミナ。ヴァレインで残っている以前の記録も集めましょう」
ミナが振り向いた。
「故障した案件のですか?」
「はい。ただし、壊れた日からではありません」
レオンは、異常なしと書かれた頁を指で押さえた。
「その前からです」
異常が記録された日では遅い。
何も起きていないと思われていた日々に、何が変わり始めていたのか。
次に見る場所は、そこだった。




