55話 帰還
半年は空けるつもりだった。
それが、一か月半ほどで戻ってきた。
馬車の窓の向こうに、領都リューデンの防壁が見える。
レオンはしばらく、その景色を見ていた。
街道を行き交う荷車は途切れていない。
街道橋が止まっていた頃には滞っていた荷の流れも、今は途切れていない。
防壁の上では兵士が巡回し、術式の光も一定の間隔で続いていた。
「ちゃんと、動いてますね」
向かいに座っていたミナが、窓の外を見たまま言った。
「はい」
馬車が領都へ入る。
最初に聞こえたのは、水の音だった。
共同水場では桶へ水が落ち、軒下では洗った布が風に揺れている。
少し先では水車が回り、工房の奥から槌の音が響いていた。
食堂の軒先からは湯気が上がっている。
水を戻した頃には、その水が流れるだけで人が集まった。
今は違う。
水がある。
荷が動く。
仕事が続く。
それが日常になっていた。
もう誰も、流れる水そのものを見て立ち止まってはいない。
レオンは、その方がよかった。
◇
領主館へ向かう途中、大柄な男が道の向こうで足を止めた。
片目の古傷。
使い込まれた工具袋。
バルドだった。
「……半年じゃなかったのか」
「その予定でした」
「まだ一か月半そこそこだぞ」
「一度、戻る必要ができました」
バルドはレオンをしばらく見たあと、鼻を鳴らした。
「まあいい。戻ったなら、先にリシア様へ顔を見せろ」
視線がミナへ移る。
「お前もな」
「ちゃんと戻ってきましたよ」
「見りゃ分かる」
そう言いながら、バルドは二人と並んで領主館へ歩き始めた。
それだけだった。
だが、王都へ向かう前と何も変わらない歩幅が、妙に懐かしかった。
◇
執務室の扉が開いた。
机の向こうで書類を見ていたリシアが顔を上げる。
一瞬、その手が止まった。
「……レオン?」
「予定より早く戻りました」
リシアは立ち上がった。
青灰色の瞳がレオンを見て、それからミナへ移る。
ほんの少しだけ、張っていたものが緩んだように見えた。
「お帰りなさい、レオン」
「ただいま戻りました」
短いやり取りだった。
それでも、ようやく帰ってきたのだと実感した。
「ミナも。お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
ミナが笑う。
壁際へ寄ったバルドが腕を組んだ。
「で、こんなに早く戻ってきた理由は何だ」
いつもの調子だった。
レオンは持ってきた記録束を机へ置いた。
「フェルデン盆地で二件、現場を見ました。どちらも直接原因までは追えました」
「それでも、終わらなかったのですか」
リシアが聞く。
「はい。場所も設備も、直接原因も違います。それでも、一件が終わったあとに別の場所で次が出る」
バルドが眉を寄せた。
「……それ、ここと似てねえか」
「はい」
ヴァレインでも、一つの場所や一つの原因だけを追って終わる状況ではなかった。
その都度、現れた問題を調べ、必要な対処をしてきた。
「同じ原因だと決めるつもりはありません」
レオンは続けた。
「ただ、一件ごとの対処が成立しても、地域全体では終わらない。その点が同じなのか、もう一度確認したいんです」
リシアは頷いた。
そして、机の端に積んであった記録束をレオンの前へ置いた。
「なら、ちょうどいいでしょう。あなたが離れてからの記録です」
レオンは束を開いた。
旧市街の測定。
防壁の日常確認。
街道橋の定期点検。
主水路の監視。
離れる前に決めた項目が、同じ形で記録され続けている。
「旧市街はどうですか」
「観測を続けています」
リシアが答える。
「連鎖する沈下は確認されていません。ただし、立入制限はそのままです」
「主水路はどうですか」
「停止したままです」
そこも変えていない。
街が動いているからといって、危険なものまで無理に動かしてはいなかった。
「お前がいねえ間も、測る奴は測る。止めるときは止める」
バルドが言った。
「そういう形にしてから出たんだろうが」
「はい」
レオンは記録を閉じた。
自分がいなくても、決めた仕組みは動いていた。
そして街も動いている。
王都へ向かう前に作った形が、きちんと残っていた。
それだけでも、戻ってきた意味はあった。
「ただし」
リシアが別の薄い記録束へ手を置いた。
「確認してほしいものがあります」
レオンは顔を上げた。
「数日前から、別の場所で新しい問題が出ています」
ミナの表情が変わった。
「主水路ですか?」
「違います」
「旧市街でも?」
「はい」
リシアは薄い束を、レオンの前へ滑らせた。
レオンは一枚目を開く。
少なくとも、以前レオンたちが対処した現場ではない。
「街道橋でも、防壁でもない」
「ええ」
リシアが頷いた。
「以前の成果が崩れたわけではありません。別の場所です」
レオンは記録へ目を落とした。
帰ってきた街では、水が流れている。
橋を荷車が渡り、防壁は働き、旧市街では観測が続いている。
以前に対処した場所は、その状態を保っていた。
「現場を見せてください」
「もちろんです」
リシアが答えた。
フェルデン盆地で見た構造が、本当にここにもあるのか。
まだ分からない。
だが、フェルデンだけの話ではないのかもしれない。
帰ってきたヴァレインでも、すでに次が始まっていた。




